さっぽろ地下鉄のなかでマルクスを呼吸する、世界を呼吸する

剰余人口Surpluspopulation(3)

宮沢章夫『東京大学[ノイズ文化論]』白夜書房・2007年7月)を読んでいたら、「3人デモ」という動画が講義の素材としてとりあげられていました(313頁)。

You Tubeで確認したら、えれえ面白い作品。若者3人が届け出てデモをするんですけど、公安に監視されちゃってる。YouTube - WE ARE THE THREE (ONLY!)

映画としても発表されるようです。
イルコモンズのふた。 : ▼映画「素人の乱」公式上映会

「3人デモ」を扱った評論をみつけましたが、ちょっとむずかしい。
I Get Around The Media 楠見清のメディア回游 - YouTube as a Guerrila Television

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(続き)

集積された生産へ

交換が集合するだけでも生きたシステムにはなりません。交換が引っぱってくるのは、労働能力です。

資本は、買い集めた労働能力を、労働者の人格から切り離して、集積します。労働者にとって他人の力として、労働能力の集合体が作用します。

「ここではもはや、一つの資本が彼らに対立して、交換の行為における社会的集合力として現れ、その結果この資本において多くの交換が一体化されている、というだけでなく、一つの資本が労働者たちを、一つの場所で自己の指揮のもとに、つまり一つのマニュファクチュアに集めるのである。」(S.478)


交換は自己労働にもとづく私有を前提していますが、交換の実現は、等価交換を止揚し、剰余価値の無償の取得を交換の土台にすることでした。この労働収奪は個々の労働者にとどまらず、組織された集合的な労働者からの収奪です。

交換は、社会が孤立しあう諸個人に分解することを前提しています。この前提に敵対して、諸個人は集合的労働力の一分肢として活動します。社会的分業は孤立しあう労働者の分業ではなく、資本の分業です。この意味でも市場は市場の前提を解体することでしか市場でありえない。もちろん、集合力は収奪として実現するから、この意味でも自由な市場は解体。

協業を立てることで、資本は集合的労働力の産物を無償で取得します。諸個人の孤立は生産のなかで強制的に止揚され、1つの指揮のもとに計画的に協働します。

資本が内部に社会をもった存在として、自分のなかに、労働者を結合する生産様式をつくりだします。労働能力の結合がもたらす働きを無償で資本はわがものにします。

「すなわち、資本はもはや、その眼前に見いだされる生産様式のなかに労働者を置いたままで、この基礎のうえに自己の力〔Macht〕をうちたてるのではなく、自己にふさわしい生産様式を、土台として自分のためにつくりだすのである。資本は、生産における労働者の一体化をつくりだすが、この一体化とは、さしあたりはただ、共通の場所で監督者たちのもとで〔生じる〕、一元的支配、規律の強化、〔労働の〕恒常性、生産そのもののなかで措定された資本への従属、にすぎないであろう。」(Gr.,S.478.補足〔〕は訳文のもの)
「労働者の協同〔Association〕-労働の生産性の基礎的条件としての協業および分業-は、いっさいの労働生産力がそうであるように、……資本の生産力として現われる。だからこそ、労働の集合力〔Collectivkraft〕が、労働の社会的労働としての性格が、資本の集合力なのである」(S.476)。
「労働諸力の結合(規則正しい労働様式をもっての)と科学力〔wissenchaftliche Power〕の適用が優勢であり、ここでは、労働の結合およびいわば労働の共同的な精神が機械等々のなかに移されている」(S.477)。


労働の相互のつながり、労働の社会的紐帯が、労働者に対して、直接他者の力として向かっています。機械システムを中心とする協業の全体が、労働者にとって他人の領域として、他人の私有物の力として、他人と富として、対立しています。労働者自身の一体性が、労働者によって社会的に制御されることなく、労働者の外部の威力として、つくりだされています。

労働する諸個人にとって、およそ労働の生み出す連関のすべてが、自分自身のなかに根拠をもたないような、彼自身の統一性・有機的諸条件ではないような、外からやってくる威力です。

市場は、労働者を社会を失った解体された個人として想定しつつ、労働者自身の社会的集合力をつくらざるをえない。社会的集合力は、労働によってつくられながらも労働者を排除する社会的力です。社会的力が労働者を排除。(続く)
# by kamiyam_y | 2007-09-06 01:50 | 資本主義System(資本論) | Trackback | Comments(0)

剰余人口Surpluspopulation(2)

(続き)

孤立的交換から集積された交換へ

資本というのは集積された交換です。連続した交換だし、交換を一身に集めたものです。個人のバラバラな交換じゃないです。

交換を孤立してとりあげるとたしかに同じ価値物の交換だし、同じ過去の労働の交換です。

しかし、交換価値は、持続することで交換価値として私たちの眼前にみえている。

持続するにはそれは、貨幣という目に見える交換価値から、生産手段(原料・機械)と労働能力に、そして商品に形を変えて、再び貨幣に戻らねばならない。

起点と終点はどちらも貨幣です。同じ物だから、量でしか区別されません。つまり、交換価値は、より多くの交換価値を目指す運動として生きています。

これが資本ですが、資本は労働能力との交換という独自の交換を経なければなりません。

「資本家が交換で手に入れるのは労働能力であって、これは彼が支払いをする交換価値である。生きた労働は、資本家にとってこの交換価値がもっている使用価値であり、そしてこの使用価値から剰余価値が生じ、また交換一般の止揚が生じるのである。」(『マルクス 資本論草稿集②』S.456)


一方の側は貨幣。他方は労働能力。2種の物象が登場し、私的所有者は、この所有物の内容によって、一方は資本家(会社)、他方は労働者です。

この交換では、対象化された労働(過去の労働の集積)である資本に対して、労働能力が交換されるべきものとして現れます。

この労働能力は、時間決めで買われます。奴隷じゃないので丸ごとじゃなく。

この労働能力の有益な働き、独自の使用価値が生きた労働です。生きた労働がこの労働能力がはたす働きであり、それは、交換価値を生み出すという働きです。

より多くの生きた労働からより多くの剰余価値を資本が獲得する。労働能力が買われるのも、この運動に役だつかぎりでのこと。

労働者は、労働能力を買われなければ、生活できず、剰余価値を生産しなければ、生活できない。資本主義システムにおいて労働者の生活はそのまま、労働能力を売れる状態にキープするという意味を帯びる。

このキープは、生活必需品を消費することによってなりたちます。労働能力に対して交換される紙や金属は、生活必需品の代表であり、労働能力の維持費です。

労働者は自分たちが生み出した生活必需品を、この代表と交換して、自分たちがつくった物を、資本家(会社)によって売りつけられないと、取り戻せないわけです。

労働者は、この自分たちが消費する必需品を越えて、剰余価値を体現した生産物を生み出しています。この剰余価値を生むかぎりで、労働能力を売ることができます。

労働者に対して交換に登場する貨幣(資本)は、社会的労働の集積です。労働者は孤立した売り手であるのに対して、買い手は社会的な力です。

「彼らは多くの人々と交換するかわりに、一人の資本家と交換する。だからそれは、資本による交換の集積である。資本は個別者として交換するのではなく、多くの人々の消費と必要を代表するものとして交換する。資本はもはや個別的な交換者として交換するのではなく、交換行為において社会を代表するのである。」(S.478)


資本が交換に現れるや、それは孤立した交換主体一般ではない。自由平等な個人の交換ではなく、資本において登場するのは社会です。(続く)
# by kamiyam_y | 2007-09-06 01:48 | 資本主義System(資本論) | Trackback | Comments(0)

剰余人口Surpluspopulation(1)

▽農相を辞任させた補助金不正受給って、人の名前を勝手に使ったんですよね。加入者105戸分の水増し請求というのは、文書偽造によってしたのですよね。

▽年金も、官僚・支配的政治家たちが、国民から取れるだけ取って返すことは考えていなかった、ということが、ますます明らかとなってきてるようです。

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剰余人口Surpluspopulation

孤立的交換の平等主義


「ネットカフェ難民」という言葉が一人歩きしてしまうことは、たしかにマンガ喫茶・ネットカフェにとっては、ありがたくはない。

《私ども複合カフェにとっては皆さん大事なお客様なのです。私たちはそのようなお客様を決して「難民」とは考えておりませんし、絶対呼びません。》


JCCA-日本複合カフェ協会《 いわゆる「ネットカフェ難民」について》(7月17日)

若い女性も、終電をのがして「マンキツ」に入ることもあります。それ自体は、安全で快適な空間を提供してるビジネスです。

ここで注目したいのは、「皆さん大事なお客様」という表現。どの客に対しても差別しないという宣言です。

この宣言にみることができるのは、貨幣の平等主義、交換の平等主義ともいうべき関係です。ネットカフェ難民ではなく、交換の平等にまず注目してみます。

交換においては、個人の性格や、帰属する共同体、共同体における政治的配列(身分)ではなく、交換価値がものをいいます。あたしの1000円もあなたの1000円も、無差別に1000円。

交換とは物が主体という転倒なので、こうもいえましょう。あたしもあなたも、1000円の化身としては無差別なのだ、と。

物は物を呼びよせて巨大化しますから、できるうかぎり多くの1000円を。誰からでもいいから1000円を。こうなると資本(企業のカネ)の、交換を介した平等主義でしょうか。

ところがです。

個々の交換は等価どうしの交換です。1000円を内部に隠している物(商品)を、1000円と書いてある商品価値の代表と交換するだけ、みたいに。

にもかかわらず、交換は、資本として集積され、資本として集積された交換は、等価なしに労働から価値を吸い上げます。

個々の交換にふくまれている転倒は、多くの交換をまとめている資本において、資本が生きた労働を等価なしにわがものとするという転倒として実現します。交換は、等価交換を解体することによって発生している。

ネットカフェ難民ではなく、資本主義システム一般をテーマとして、「経済学批判要綱」の文章をちょこっと紹介してみます。以前のエントリーと重複してますけど。交換から、資本主義という生産が生み出す過剰人口まで簡単にみてみます。(続く)
# by kamiyam_y | 2007-09-06 01:46 | 資本主義System(資本論) | Trackback | Comments(0)