さっぽろ地下鉄のなかでマルクスを呼吸する、世界を呼吸する

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Nonchalant Snapshots in Sapporo: GR -Cross Processing Mode

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Ricoh GR (Cross Processing Effect)
by kamiyam_y | 2014-05-29 23:13

Nonchalant Snapshots in Sapporo: GR -Bleach Bypass Mode

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Ricoh GR (Bleach Bypass Effect)
by kamiyam_y | 2014-05-26 00:01

外食産業労働者のレジスタンス

パート・アルバイトの雇用形態で働く1労働者へのインタビュー(秋山理央氏制作)。外食産業でのある企業の業務・店舗運営が語られています。

牛丼チェーン店で働いてる方のお話「君の牛丼は食べれない」 - YouTube

「社員」が流動化しているため、店舗を運営するパート・アルバイトにとって仕事が困難となり、店舗による提供商品の品質にもばらつきが出てしまうこと、マニュアル頼みどころか、マニュアルも守られない店があることなど興味深いですね。過度労働が、社会的に有用なよき労働を成し遂げるために必要な教育を労働者が受ける権利を阻害し(「教育不足」)、労働過程における作業管理、品質管理の正常な進行を妨げてしまう不合理。

もちろん「やめちゃえばいいじゃん」というのは「短絡的」(9:24~)ですわ。ある雇用主のもとに労働力を売ることを(おまえが悪い的に「自己責任論」的に)非難しても根本的な解決にはまったくつながりませんよね。労働の滴を余すことなく搾り取ろうとする価値増殖の無際限な衝動にとって、搾り取るための人間素材は枯渇することなくその貯蔵庫に流入してくるので、一人辞めても、法外な搾取工場はなくなりませんし、労働者諸個人は生産手段をもたないために労働力を売ることを強制されているのであり、今自分を直接搾取している企業を離れ、次の搾取主を見つけることさえ、たやすい話ではありません。批判されるべきは個人ではなく、人間損耗競争・人間圧殺競争に邁進する企業です。死んだ労働・価値の自己目的化、蓄積のための蓄積において人権蹂躙競争・労働力消費競争に走り、商品を貨幣に転化さえすれば「後は野となれ山となれ」とする企業の排他的=利己的な行動様式です。解消すべきは、特定雇用主に労働力を売っていることではなく資本の搾取衝動の暴力的発現であって、人間のための社会組織という本質を実現できない現代企業の実態こそが止揚されるべき仮の現実なのです。

現場の前線の労働者の健全な労働を保証できないことも、消費者に誠実な商品提供をできないこととも、どちらも、資本の価値増殖の、生きた労働に対する激しい渇望がもたらしています。労働者使い捨て、労働力乱費と消費者だまし、詐欺的販売はまったく同根なのだ!

ちなみに言わずもがなですけど、人手不足とは、生産手段に結合すべき労働者が絶対的に少ないなんていうことではまったくなく、今すぐにでも働かざるを得ない人々でもこの企業での労働を絶対に行いたくないということ、ある企業が次の搾取主を待っている労働者にすら忌避されて労働力が入手しがたいということ、企業が内部で労働力の配分を法外に節約しているために、企業が労働力を使い捨てているために自らつけが回ってとうとう労働力が枯渇したということを意味するだけのことですよね。

毎日新聞東海林智先生の記事。The Service Employees International Union(SEIU)の呼びかけに呼応し、ファストフード労働者が職場の労働条件/労働環境の改善を訴え集ったとのことですが、国境を越えた連帯こそが未来を切り開く力であることをあらためて自覚させてくれるニュースです。

ファストフード労働者:賃上げ求め各国で運動 日本でも- 毎日新聞
ファストフード店員:「時給1500円に」待遇改善訴え - 毎日新聞

日本中で突如「すき家」が閉店する現象の謎は、「ワンオペ」を強いられる労働者たちの「鍋」を契機とした反乱にありました。

すき家「鍋の乱」で大量閉店の真相:日経ビジネスオンライン

生産手段を休止することなく24時間労働を吸収しつづけようとする衝動に突き動かされる資本は、労働者がその縮小された再生産に要する睡眠などの最低限の肉体的必要にあてる時間さえ掠めとろうとします。とはいえ、この最小限の時間そのものをなくすことはできないので、資本は交代労働制を導入します。記事によれば、この牛丼チェーンでは、この交代すら許さないことがあるわけです。できうるかぎり労働を搾り取るために過酷な1人作業を労働者に押しつけるのみならず、労働日の純粋に肉体的な制限すら踏み越えて作業を続けさせることさえあると記事は生々しく伝えています。

SNS・Twitterを介してデモやカウンターをする時代、労働者の権利であるストの実行もネット経由で遂行できたらSweat Shopに対する若者の抵抗戦線の快挙ですね(分らない方は調べてください)。私たち倫理的な消費者も29に消費者として連帯できると思います。
by kamiyam_y | 2014-05-25 00:22 | 企業の力と労働する諸個人

商品・貨幣(価値形態) Commodities and Money: The Form of Value or Exchange-Value

(司会)それでは今日の発表をどうぞ。
(発表者)今日の箇所は「商品」です。『資本論』第1部第1章(大月書店他)の内容をヨハン・モストのダイジェスト版(ヨハン・モスト原著/カール・マルクス加筆訂正/大谷禎之介訳『マルクス自身の手による資本論入門』大月書店、2009年)で補ってまとめてみました。
---(以下発表)-----

現代社会総体は資本主義であって、資本主義とは資本、つまり、姿態転換しつつ価値増殖する貨幣が社会的労働を実現してなりたつ生きた有機的な総体です。貨幣は商品の社会的性格の自立化であり、商品をつかむことが学習の基礎になります。諸個人の孤立と相互排除は、その社会的性格を諸個人から分離してつくりだし、それが神や国家だったわけですが、それは貨幣という社会的労働の疎外に帰ることによって完成します(1)。「市民社会の神」の存在を解き明かす商品という出発点は難しいかもしれませんが、極めて重要なものです。

資本は大量の商品を原材料や機械として吸いこみ、大量の商品生産物を吐きだしては貨幣に戻し生きています。貨幣の生きた運動である個別諸資本同士はまた商品流通によって絡みあい、それだけではなく、社会的総資本が利子生み資本や土地所有といった関係を自己の形態に捉えて、資本の環境をもつくりだし1つのシステムを生みだしています。私たちの労働力もまた、自分たちの生産物を商品として買い戻し消費することによって再生産され、商品として日々販売されます。諸個人は自己の生産手段から疎外され、自己の対象的世界全体が諸個人に対立する他人の富となっています。労働する諸個人が客体的諸条件から分離し、あらゆる労働生産物が商品形態をとることが、資本の運動をもたらす基本的な前提であり、資本の運動そのものがもたらして恒久化する条件なのでした。

資本主義における富の形態である「膨大な商品の集り」を構成するのは、1つ1つの商品にほかなりません。

商品はまず何よりも外的な対象として存在します。この物は、その幾何学的・物理的・化学的など自然的諸属性によって、諸個人の特定の欲求を充足します。この有用性が生産物を使用価値にします。鉄、小麦、綿布といった商品を構成する肉体が有用なのですから、商品のそのままの姿が使用価値なのです。使用価値という価値をもつというようにイメージしないで下さい。商品とはまず第1に使用価値なのです。

特定の種類の使用価値の生産には特定の種類の具体的に行われる労働が必要です。例えば、刃物の生産に鍛冶が必要なように。目的、対象、手段、作業の形態、生産物に規定される特定の合目的的な活動が、自然素材を加工・組織し特定の使用価値に転成させます。労働の具体的に規定された有用な形態、これが商品の特定の使用価値に反映しています。

孤島の「ロビンソン」を思い浮かべてみましょう。自給自足する個人、ロビンソンによる生産総体において、ロビンソンの同じ労働力が、代る代る、漁猟、建築など異なる労働の種類に、異なる有用な形態に、支出され、魚介や倉庫といった生産物に結果します。

これに対して、資本主義では、異なる有用な労働は社会的分業を成立させ、労働諸種の有用性は諸商品の異なる諸使用価値に反映しています。多様な使用価値がじつは多様な有用な労働を示しています。社会的労働が直接には私的に排除しあう諸分枝に分解しているため、社会的分業を実現する媒体はここでは商品の交換(諸個人に疎遠な経済法則)です。ロビンソンの生産がロビンソンの目的意識に統御されているのとは異なり、商品生産は全体として無政府的です。

耕作という種類の有用な労働が、麦という有用物をもたらすということ自体は、社会的形態からはフリーです。麦は、古代の王が消費しようが、現代の労働者が消費しようが、麦であることに変りありません。

そこで商品のもう1つの要因です。生産物を商品にしているのは、使用価値であるだけではなく、交換価値であることです。

布1巻=刃物2丁

布という使用価値と、刃物という使用価値との交換比率ですが、商品はここで交換価値であり、使用価値が交換価値の素材的担い手になっています。

布と刃物という使用価値は全く異なる欲求を充たす異質なものであって、比較不可能です。布への欲求に対して刃物は代用になりません。比較が成立するのは、比較において現れる共通なもの、同質でなものがあるからです。布と刃物に対する第3のもの、共通性、これが価値です。布と刃物に共通する無差別な同一性、量的なちがいとして現れる質的同一性、これが商品の価値です。商品とは相対立する使用価値と価値という2要因の統一としてつかまねばなりません。

諸商品から使用価値を捨象すれば商品に残るのは、労働生産物だということそれ自体ですが、この残ったものとは使用価値を捨象した無差別な単なる労働の凝固物です。ですから、この凝固物になる労働も、有用な形態を捨象された人間的労働です。価値とは対象化した人間的労働です。布を織る、刃物をつくるという具体的な有用労働が労働の種類であり「どのような」労働かを示すのに対して、価値に反映する抽象的労働は、織布や鍛冶といった支出の形態に関わらない支出そのもの、「どのくらい」の労働か、量から見た労働です。

価値において示されているのは、織布と、鍛冶は質的に異なるけれども、それぞれそこに同一の人間的労働の一部分が提供されているということです。布生産・織布と刃物生産・鍛冶における労働需要に対して、社会的労働力の一部分が提供されねばなりません。どの生産も、筋肉や神経の生理学的意味での生産的支出、人間の労働力の支出なしでは遂行できません。商品の価値は、社会的労働の投下・供給という必要を反映しています。

このばあい、価値の量を規定するのは、社会的な平均的な労働の量です。社会の労働力が、社会に必要な生産活動に供給され、支出されているのです。個人の労働力は、あくまでも社会の労働力の分枝として、同一の人間労働力として作用します。商品の価値量を規定するのは、その商品の生産に要費される社会的労働の量です。社会的に必要な労働時間なのです。ていねいにいえば、「社会的に正常な生産条件と労働の熟練および強度の社会的平均度をもって、何らかの使用価値を生産するのに、必要な労働時間」が価値の大きさを規定します。

ここまでは、交換価値から価値を発見したわけですが、つぎに、交換の展開での、交換価値に戻りましょう。交換価値は価値の表現の仕方ですから、これを価値形態ともいいます。貨幣という価値形態は知られていますが、困難かつ重要なことは、最も単純な価値形態から神々しい貨幣の姿がどう誕生するかを想い出すことです。貨幣という価値形態にどういたるのか、貨幣の発生という人類にとっての謎の解明です。現代社会の最も抽象的な形態から解明することが課題です。

そもそも商品価値は労働の社会的性格の客体化であって、1つの商品それ自体には価値は現象せず、表現されず、それが現象するのは、商品の社会的関係においてです。1つの商品はどんなに投げても食べても壊しても単なるあるがままの現物形態にすぎませんが、他の異種の商品への関係において価値形態をもち、その価値存在を露出します。

まず、共同体内部で生産を共同的に行い、生産物を共同的に分配するような、自家需要に限られた生産を行っている部族がいるとしましょう(2)。この部族が、他の部族と接触するなかで、毛皮という生産物の余剰を、他の部族の余剰な布と偶然交換するとします。この交換が繰り返されるなかで、毛皮の価値が布によって示されます。

毛皮1枚=布3巻

交換が行われるのははじめは極めてまれにであり、交換比率は一定しませんが、やがて、交換の絶えざる反復が、比率を一定水準に落ち着かせます。毛皮を交換する部族の側から見れば、相手の生産物布はその現物形態で、毛皮の価値を示す等価物になります。

毛皮は、自分の価値をこの関係において示すので、相対的価値形態です。塩は毛皮の等価物、等価形態、直接的交換可能性の形態にあります。毛皮の価値が、布の現物形態によって表現されています。毛皮=布という関係では、毛皮が、布を自分の等価物にし、布のなかに毛皮価値を見いだすわけです。(やや細かくいえば、少し大雑把に付け足しますけど、毛皮は、布に私の等価物だよとしてかかわり、布をつくった有用な労働を毛皮をつくった労働と同じ人間的労働にします、それだけではなく、布はこのかかわりのなかで現物形態で価値の代表ですから、毛皮をつくった労働が人間的労働として価値に結晶する、その価値を布という使用価値・現物形態が示すわけです。布という使用価値の量で毛皮の価値量も示されるのは、まず毛皮が布を等置するという質的関係があってのことですね)。

そして、この部族は、毛皮を交換向けに生産するようになり、布だけでなく、酒や、皿、塩、など多様な生産物と交換するようになります。そうなると、毛皮にとって、毛皮と交換されるすべての物が、毛皮の等価物として機能するようになります。毛皮の価値が毛皮の使用価値からはっきりと独立して形態化していきます。生産物はますます商品性格を高めます。とはいえ、毛皮の価値は際限ない他の商品の系列で示されるだけであり、統一性を欠いています。

しかし、反対の諸商品の側から事態を把握すれば、統一的な等価物が現れます。毛皮以外の商品所持者にとって彼等の財貨の価値が毛皮によって統一的に出現しています。毛皮が一般的等価物になるのです。毛皮は、毛皮以外の全商品の共通の価値表現の材料であり、毛皮以外の全商品と交換可能なものになります。毛皮以外のすべての商品が価値を比較・計量する材料の位置を毛皮が占めます。

この一般的等価物の役割が、交換の圏域の展開において、時間的空間的に様々の商品に付着するのを繰り返しながら、最終的にある商品に独占的に担われることになります。それが貨幣形態の誕生です。

一般的等価物は、一般的ゆえ1つの商品に定着します。価値という質的同一性を表現するにふさわしい素材に癒着します。すなわち金銀です。

こうして、価値形態は偶然的、個別的な形態から、全体的で開展した形態へ、そして一般的形態に発展し、貨幣形態にいたるのです。秘密は個別的な価値形態にあったのです。

単純な価値形態において見られた等価形態の神秘化も完成します。金銀という現物形態が価値を示すこととなり、金銀は眩く光るというその自然属性と同じように、すべての商品と交換可能であるという力を、社会的労働の力を、生まれながらにしてもつかのように見えます。

細かい点は省きましたが、商品による貨幣の発生についてでした。

---(以上発表)-----

(司会)ありがとうございました。(終り)

(1)モスト『入門』加筆箇所でマルクスが価値形態の展開を交換関係の発展においてつかんでいる点については訳者による「まえがき」参照。
(2)神・国家・貨幣としてマルクスは諸個人の疎外されたGemeinwesenを批判的につかみ、資本としての貨幣にその完成を見た。有井行夫『マルクスはいかに考えたか』桜井書店、2010年、参照。

by kamiyam_y | 2014-05-17 23:51 | 資本主義System(資本論)