さっぽろ地下鉄のなかでマルクスを呼吸する、世界を呼吸する

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理解のヒント(3) 架空資本

架空資本

あなたがたとえば、奇特なお方から、「この紙をもってる人に毎年500円あげる」と書いた紙をもらって、毎年500円もらうとしますね。

あなたのサイフには毎年毎年きっちり500円が入ってきます。

同じ時期に、利息の率が5%だとしましょう(あくまでも例)。利息はお金に対する需要供給で上がったり下がったりするんですが、それはさておき。

もしもこのばあい、あなたが企業に10000円を年利5%で貸すなら、毎年500円が手に入ります。

ということはです。

奇特なお方の紙切れは、この貸したカネと同じ働きをするってことですね。

そこで、この紙切れがもたらす500円は、x円の結果と思われてきます。x円×0.05というように。

x=10000円なんてもちろん存在していません。それなのに、10000円があたかも存在しているかのようにみえてきます。紙切れに10000円が働いているかのようなお約束が成立します。ちなみにこのように、規則的な収入を利子率で割ることを資本還元といいます。

この奇特な方の紙切れはあなた以外ももっていて、ほしがる人が出てきます。と、あなたは、お約束にのっとって、500円を生む紙を10000円で売ってもうけることができますし、力関係ではもっと高く売ったりもできるかもしれません。

ただの紙切れですよ。

ここで、奇特なお方が、じつは労働者が生んだ剰余価値を手に入れて、その一部をあなたにあげていたとしましょう。

とすると、この紙切れは、剰余価値を請求する権限という世にも怪しい紙切れです。マネーとは、いってみればこういうものの蓄積をさすのですね。

こういう紙切れを発行してカネを集めたり配ったりすることもまた、産業資本の蓄積の梃子(テコ)であって、生産の拡大に付随していることです。ということは、資本蓄積に不労所得批判はつきものだってことです。カネを集めたり配ったりすることに乗じて、この共有財産を特定の人が使いまわして懐に入れることも明らかですし、剰余労働の請求権の取引で私財を溜め込む人も出てきます。私有の発展は私有の解体であるとこういう点からもいえましょう。
by kamiyam_y | 2008-01-24 18:31

理解のヒント(2) 株式会社

株式会社

むかしむかしあるところに、これはよう働き者らしいおっさんがおりました。

このおっさんはどこかで戦闘があったりしたおかげも利用したりして、とっても儲け、人を10人雇うようになったそうな。

事業は神風が吹いて拡大し、いまや1万人の従業員を雇う会社になりおおせた。

おっさんが引退すると、息子が会社の株をたくさんもって、自分を社長に選びました。

その息子が引退すると、その息子も社長になりました。

こうして代々長子相続がなされていたところが、この業界も設備が末期の恐竜みたいに巨大になっていき、最初の働き者らしいおっさんの時代はありえないむかしとなり、資金を集めるためには、株をどんどん発行していかなくてはならなくなってしまいました。

そのおかげでいまや株主総会に集まるのは、創業者一族以外の人ばかりです。アメリカの年金基金とかいう人もやってきました。

巨大な設備と原材料と10万人の人々を集めて生産するには、他方、経営や開発の大組織がないと無理になってしまいました。経営にも、開発にも、一般の業務にも、専門性がないとやっていけなくなりました。

そのおかげで、経営陣に創業者一族は誰もいなくなってしまいました。社長の息子は経営のことが全くわからなかったけど、社長の息子だからという理由で、会社をまとめる象徴になってましたけれど、こんな象徴社長制もじゃまになってしまいました。そんな古い会社とは取引しない、と言い出す人が増えたからです。

海を越えた会社に食べられてしまわないようにするためには、古い会社の衣は邪魔なだけ。

とうとう社長も取締役もみんな、中の従業員や、労働市場から来た人になってしまいました。

会社のなかは20万人の働く人たちの成果であふれ、彼等の組織がぜ~んぶの仕事をしています。でも、過労死や労災もいっぱいです。

こうして、資本蓄積は資本家さえも追い出し、労働者の組織が労働者の首を絞めるすごい時代になったとさ。
by kamiyam_y | 2008-01-24 18:30 | 資本主義System(資本論)

理解のヒント(1) 社会的総資本の再生産と流通



資本論第2部第3部のキーワード3つについてだけですけど、メモってみました。


社会的資本の再生産と流通


資本の蓄積とか循環・回転を前提して、こんどは、産業資本全体がどう繰り返し生まれているか、です。

生産そのものは、個々の資本(資本家・企業)が勝手に利潤を目指して行います。この個々の資本の生産はもうみました。

産業資本全体の再生産は、個々の資本どうしのからみあいによってなりたっています。このからみあいってなにかというと、企業資本家のつくった商品の売り買いです。ていねいにいえば、生産物の形にある資本、要するに商品W’の取引(流通)のことです。

といっても、単に流通そのものをみるのではなくて、みるのは産業資本全体の再生産であって、この全体は、生産のために資本が配分されている編成があるはず。

式A
Ⅰ 6000c + 1500v + 1500m
Ⅱ 3000c + 750v + 750m

こういう式が出てくるわけですが、何を意味しているのかつかんでみます。

社会全体の資本は2つに分けられます。こんなふう。

生産手段生産部門(Ⅰ) 生産手段と労働力→生産物(生産手段)
消費手段生産部門(Ⅱ) 生産手段と労働力→生産物(消費手段)

生産手段は、人がじかに消費しないで生産で使われる道具や原料などで、消費手段は人がじかに消費するものです。

Ⅰの生産物は、Ⅰの生産手段とⅡの生産手段をふくみます。たとえば、小麦をつくるための肥料はⅠ用で、パンのための小麦粉はⅡ用というように。

Ⅱの生産物は、Ⅰの労働者と資本家向けのものと、Ⅱの労働者と資本家向けのものとをふくみます。

式はこんなふうにみます。

式A
Ⅰ 9000の生産手段=6000c + 1500v + 1500m
Ⅱ 4500の消費手段=3000c + 750v + 750m

生産物の形の資本が、成分としては、こうなっているわけです。で、この状態は、

式B
Ⅰ 生産手段6000cと労働力1500v
Ⅱ 生産手段3000cと労働力750v

の結果です。

式Aで、Ⅰの生産物9000は、生産手段6000分(単位は億円でも何でもいいです)の価値をふくむとともに、労働者の必須労働が生んだ1500vと、剰余労働が生んだ1500mをふくんでいます。Ⅱの生産物も同様です。

式Aは、生産の段階の式Bの結果。

課題は、生産物の段階の式Aから、売買を通じてどのように、式Bに戻るかです。戻れれば、単純再生産が成立です(剰余価値の分は資本家が全部消費してしまう)。

さて、

生産手段生産部門(Ⅰ) 生産手段と労働力→生産物(生産手段)
消費手段生産部門(Ⅱ) 生産手段と労働力→生産物(消費手段)

をおもいだして、式ABをみてください。

式A
Ⅰ 9000の生産手段=6000c + 1500v + 1500m
Ⅱ 4500の消費手段=3000c + 750v + 750m

式B
Ⅰ 生産手段6000cと労働力1500v
Ⅱ 生産手段3000cと労働力750v

式Bをみると、生産手段はⅠ6000c+Ⅱ3000c、つまり9000必要です。生産手段に対する需要ですね。これは式AⅠの9000の生産手段が売られて満たされます。供給されます。

労働力Ⅰ1500v+Ⅱ750v、2250は、Ⅱの消費手段を消費することで再生産されます。また、式Aの剰余価値Ⅰ1500m+Ⅱ750、2250は、Ⅱの消費手段と交換されて、資本家に消費されます。式Aの4500の消費手段は、Ⅰ1500v+Ⅱ750v、Ⅰ1500m+Ⅱ750mに等しい。

数値を省いてみると、
Ⅰc+Ⅱc=Ⅰc +Ⅰv +Ⅰm
Ⅰv+Ⅱv+Ⅰm+Ⅱm=Ⅱc + Ⅱv + Ⅱm

どちらも共通項を消去すると、
Ⅱc=Ⅰv +Ⅰm
という単純再生産の条件になります。Ⅰ(1500v + 1500m)=Ⅱ3000c ですね。

式A状態から、式B状態に移るには、取引は無数にあっても、大きな流れは3つです。

1)Ⅰc。6000の生産手段は、生産手段生産部門のなかで売買されます。

2)Ⅱv。750の消費手段は、部門内の労働者に買われます。貨幣は、Ⅱの資本家・会社から、Ⅱの労働者にわたり、Ⅱの資本家・労働者の手に戻ります。Ⅱmも内部の取引。

3)Ⅰ(1500v + 1500m)=Ⅱ3000cという部門間の取引。
1500の生産手段をⅠの資本家・会社が、Ⅱに売ります。Ⅰの資本家・会社は得た貨幣を労働者に渡し、労働者はⅡから消費手段1500を買います。のこりの1500も、資本家ⅠがⅡに売り、Ⅱから消費手段1500を買う。

これで式B状態に移り、単純再生産です。

要するに、生産手段9000のうち、6000が生産手段を生産する資本家・企業のなかで交換され、消費手段4500のうち、3000が消費手段を生産する資本か・企業のあいだで取引され、生産手段3000と、消費手段3000とが交換される、ということです。

こういう条件をはずれたら恐慌になるというバランスのお話ではないのですけれど、こういう再生産の運動は、結果的に貫かれるとはいえ、計画的に共同して遂行してるわけじゃないので、うまくいきませんから、再生産がうまくできない法則でもあります。うまくできないからうまくやることが暴力的になります。バラバラになった生産を社会的総資本の再生産として統一することが暴力的になります。再生産の条件は恐慌の条件でもあります。

単純流通の売りと買いの分離は、恐慌の可能性だったわけですが、それは、この資本の流通という内容を得て、恐慌の可能性としてより具体的になります。再生産の条件を貫くことが、分離した諸契機の暴力的な統一として、恐慌において実現するといえましょう。再生産は恐慌として実現する。売りと買いの一致は恐慌として実現する、ってわけです。
by kamiyam_y | 2008-01-24 18:29 | 資本主義System(資本論)

高校講座のロシア革命

さいきんはテレビは寝る前にやることがなくなったときに、つけてもうるさく感じないのものをつけるだけで、NHKの「世界ふれあい街歩き」とか、プレミアリーグ(ちょっとうるさい)とか、「ごはんリレー」とか、「明石家電視台」とか「探偵ナイトスクープ」とか、たま~にですけどつけることあります。

きのうはNHK教育で「ドイツ語会話」をまず観ました。出演しているモデルのLIZAさんがかわいいです。そのあと、「高校講座世界史」を、これはけっこう真剣に観てしまいました。

「社会主義国家の登場~第一次世界大戦とロシア革命~」という題で、講師は首都大学東京准教授の中嶋毅氏。

「ロシア革命」(1917)の背景と流れ、その意義について、明快かつ簡潔にまとめられていました。

背景としては、後発資本主義国であったロシアの近代化にとって帝政が重荷となり、労働者に対して「過酷」に「資本主義の矛盾」が現れていたこと、兵士が労働者とともに代表機関ソヴェトを構成し、労働者の組織が権力として登場したこと、などが説明されてました。

革命後の流れも、ドイツとの単独講和、内戦と干渉戦争、戦時共産主義から新経済政策へと、映像をもちいてわかりやすい感じでした。

「戦争反対」と「労働者農民の権力への平等参加」が理念として紹介され、ロシア革命が20世紀世界に与えた巨大な影響として、《「民族解放運動」を刺激したこと》と《「資本主義世界の内部改革」を促したこと》とが挙げられていました。途上国の発展と先進資本主義国の発展とを促す契機になったことを歴史的な意義として冷静に評価していて、興味深くおもえました。

高校の教科書って、現代の定説化された、あるいは共同化された知の集約といえますから、この程度にまっとうな内容だったら、なかなか世の中捨てたもんじゃないととおもいます。この番組の内容が学ぶ主体の共通の知識として、大学に入ってくる学生がおさえておいてくれたら、私にとってはいっそう教えやすくなってすばらしい、、、かも(笑)。

ちなみに、ロシア革命とは、帝政を倒す市民革命を労働者階級がやりとげただけではなく、それをこえて、資本主義を超える労働者の社会をつくるという輝かしい使命を受け取り遂行しようとした歴史的大事件だったわけですが、いま振り返ると、革命後に変容し成長していった社会は、資本主義がその発展のために必要とした社会主義の、外部のヴァーションとして作用したのではないか、なんて。

産業革命とともに確立した資本主義は、その内部に科学にもとづく労働者の協業を備え、生産過程を労働法という形で社会的自覚的に制御するしくみがなかったら、動いていかないでしょう。資本主義ははじめから裏返された社会主義にほかならず、資本主義の発展は社会主義の発展であり、資本主義の限界は社会主義の限界であり、社会主義のタテマエと実態の分離は資本主義のタテマエと実態の分離であり、社会主義の挫折は資本主義の敵対性であり、社会主義の矛盾は資本主義の矛盾なのでした。資本主義が発展するほど社会主義が発展するのであり、資本主義の成長は社会主義の陶冶なのでした。資本主義の成長は社会主義を必要とするのです。

工場立法にくわえてさらに雇用政策や社会保障制度、経済成長の管理、賃銀労働者の社会的政治的組織化など、さまざまの自覚的制御や社会参加の工夫を資本主義は蓄えていくことで成長してきたのであり、これを資本主義の発展を促す社会主義の内部ヴァージョンと考えれば、労働者階級による革命とその社会建設とは、資本主義の発展を条件づける社会主義の外部ヴァージョンであったのかな、なんて。

もっと拡げれば、20世紀に現れた社会主義国家なるものは資本主義らしい資本主義への過渡期であり、資本が自己同化運動を繰り広げる世界に取り込まれていた内部ヴァージョンであったなんていってもよさそうです。

いまや、地球規模での資本主義の発展が社会主義を発展させる世紀に突入した、なんていうのもありです。
by kamiyam_y | 2008-01-17 23:22 | 資本主義System(資本論)

「政治資金」なるもの 物神崇拝による物神崇拝の解体

▽ 人間嫌いのパスタ好き、という概念は成立するだろうか。

パスタは人間の手の産物であり、伝統といわれるような共同精神に乗って制作者の個性を発揮した、魂の対象化である。パスタ好きは人間を前提している。

とすれば、真の人間嫌いは、どぶのなかの窒素分子や、酸化鉄や、鶏と恋愛していればよい。いな、恋愛という概念すら人間的すぎるから、真の人間嫌いは自らを否定する以外存在できない、つまり人間嫌いは崩壊する概念である。

単に一人でいるとほっとするという人間嫌いという言葉の含意に対してわざわざこんなこと考えるのもどうかと思うが。

なんてことをパルコの上で食事をしているときに考えました。

▽ 北海道新聞の第2社会面に今日まで掲載されていた「ぼくらに、希望を 第1部それぞれの場所で-挫折-」という連載に毎日目を通してました。

仕事を通じた自己実現=社会的承認の夢と、労働現場の疎外された現実とのギャップに焦点をあて、面白い記事の1つだったかな、と。

地球規模での連関の力は、個人の身近な生活の運動に入り込みます。非正規雇用から抜け出せないワーキングプアの生きた生活の取材など、巨大な力が個人的生活を左右する場面がじつに生き生きと感性的につかめるようにおもいました。

仕事がそれをする人にもその活動と成果を受け取る人にも有意義である、と同時に、人(労働力)がモノとして売買される現実を、保育士やアパレル販売員の仕事の裏事情をとおして記事は伝えていました。目線がやさしくて低いこういう記事も新聞には重要なのでしょうね。


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「政治資金」なるもの 物神崇拝による物神崇拝の解体

日々《物神崇拝の崩壊》。現システムの実態を隠す覆いは繕われては破られ、破られては繕われてます。

朝日新聞1月6日(日)14版1面「補助金受け自民に献金」(江口悟、四倉幹木)

国から補助金の交付決定を受けた109の企業・団体が06年、自民党の政治資金団体「国民協会」に、計7億8千万円を献金していたことが朝日新聞の調べでわかった。…[略]…


記事によると、政治資金規正法は、補助金の交付決定を受けた法人に1年間は政治献金を禁止している、補助金交付でも「利益を伴わないもの」は例外とし、この献金禁止の適用対象も「法人格を持つ組織に限定している」そうです。記事は、規制が形骸化している点について問題提起しています。たとえば、石油業界。

…[略]…大手石油関連団体でつくる業界団体「石油連盟」は、経産省から06年度上半期で計40億円の補助金の交付決定を受ける一方、協会に計8千万円を寄付していた。…[略]…


公共的資源が迂回して自民党の懐に掻き集められているといえますね。

適法的でも正当とは認めがたいような事例を生むような法律そのものの中途半端さと、適法的だがその例外規定を抜け道的にいわば悪用する企業と、単純に適法ともいえない企業と問題は腑分けできそうですが、とりあえず、「規制が名ばかりとなっている実態」があります。

まず、この法律みてみましょう。

政治資金規正法http://www.houko.com/00/01/S23/194.HTM

献金の量的制限から。

(寄附の総額の制限)
第21条の3 政党及び政治資金団体に対してされる政治活動に関する寄附は、各年中において、次の各号の区分に応じ、当該各号に掲げる額を超えることができない。
1.個人のする寄附
2千万円
2.会社のする寄附
次の表の上欄に掲げる会社の資本金の額又は出資の金額の区分に応じ、それぞれ同表の下欄に掲げる額
   50億円以上3000万円
   10億円以上50億円未満1500万円
   10億円未満750万円
 …[略]…


もちろんこういう区分は人為的な線引きにすぎません。本当はいけないことだけど、これくらいなら許してください、という雰囲気でしょうか。

質的制限。

(寄附の質的制限)
第22条の3 国から補助金、負担金、利子補給金その他の給付金(試験研究、調査又は災害復旧に係るものその他性質上利益を伴わないもの及び政党助成法(平成6年法律第5号)第3条第1項の規定による政党交付金(同法第27条第1項の規定による特定交付金を含む。)を除く。第4項において同じ。)の交付の決定(利子補給金に係る契約の承諾の決定を含む。第4項において同じ。)を受けた会社その他の法人は、当該給付金の交付の決定の通知を受けた日から同日後1年を経過する日(当該給付金の交付の決定の全部の取消しがあつたときは、当該取消しの通知を受けた日)までの間、政治活動に関する寄附をしてはならない。


官僚と政治家の決めた掟は、国から補助金の交付決定を受けた会社その他の法人は1年献金禁止するが、試験研究、調査、災害復旧という名目が立つなら話は別だぞ、といってます。

記事に戻りますと、合法性を主張する企業に対しては、官庁も及び腰。

朝日新聞1月6日(日)14版27面「甘い規制、税金還流」(江口悟、四倉幹木)

…[略]…企業の多くは、利益を伴わない補助金だとして適法を協調するが、マンション開発やベンチャー支援で交付を受けた企業もあった。総務省の担当者は「違法かどうかの解釈は難しい」と打ち明けた。…[略]…


利益を全く考慮に入れない、とはすばらしい。成長しないで人を豊かにする循環経済、J.S.ミルの定常状態を日本の企業社会が実現したということか。

なんていいませんが、企業は「利益を伴わない」公共的存在となったのだ、と述べ立てているのでしたら、そう、「利益を伴わない」活動の成果が私物化されることなく完全に公開されて他の企業も自由に使えるようにするとか、私企業や特定団体や企業なるものの安定を要求する政治献金はすべて廃止する、とか主張してもよさそうなもんです。そういう雄大な話はしなくても、補助金獲得は私企業にとってはコスト削減、資金獲得の手段であり、反射的に利益の担保みたいなもんでしょう。

で、「難しい」とは正直ですね。

資本主義企業は、直接利益がなくても利益源泉に変換しようとするんですし、利益が直接発生しなくても将来発生するとか、将来利益がなくならないために、会社が存続するために、見込み生産に暴走するのですから。計画的なドンブリ勘定はお手の物です。

この点は、公共的なものを暴力的に、排他的で利己的な私的利益に取りこもうとすることが資本主義の躍動の源泉なのですから、といいかえることも可能です。

また、全く事業を行っていないのに補助金を獲得する詐欺でもなければ、計画を提出し、実行して報告していれば、それなりに公共的でしょう。

さらにいうと、公共的な貨幣が国から支給された場合は、私企業は献金を禁止されるが、非営利で公共的なものなら例外にする、という制度は、公共的なものを引き出すための合理的な措置にもおもえなくもありません。

とはいえ、自民党への税金の還流であるのは確実です。試験研究、調査といっても国は補助するだけですから、完全に企業活動を公開するものでもありません。将来の企業の安定に結びつく(かもしれない)投資でしょう、私企業の活動原則からして。税金が投入されている企業はその分納税者の共有財産ですけどね(笑)。

明白になっていることは、勤労者のつくりだした富が自民党に移転していること。より一般的にいえば、ここで提示されている事実は、企業の富の増殖が政治を手段にしていることです。

こういう私企業と私政党(?)への税金サービスが、諸個人の納得が得られないことも明白といわねばなりません。

民衆の同意は統治に必要です。資本主義の不滅を願いたい保守主義者であれば、ここは、こんな失態を批判しなければならんでしょう。

くりかえしますと、資本が政治を動かし、税金が収奪されている事実が公開されているのですからね。いいかえれば、社会契約論的な市民(人権をもった生きた個人)ではなく、金こそがすべてで金こそが社会をつくっている、という転倒が剥き出しになるのだからです。金の支配とは、人間が分裂したシステムのことです。

資本が収奪する政治が正しいと主張するならば、これまた資本とは社会的共同物だと宣言していることになります。どう転んでも、現システムの永遠不滅を説教したいイデオローグにとっては、あってはならないことが相次いで起きるのが現代なのですね。

政治的経済的支配層にいる個人が、団体による政治献金も補助金のずるい獲得も、自由で民主な(!)社会の原則からいって認められるものではないと知ってはいても、そうせざるをえない。

体制護教のイデオロギーの信奉者に対しても、資本は制御できない力として作用するということです。個人が自分たちの労働の社会的生産連関によって支配される転倒は、賃金労働者において敵対的に明白ですけど、企業支配者やら政治支配者にとっても現れるというわけです。

政治を賄賂でわがものにしようとするけしからんふるまいをする個別資本の頭上に、社会的理性の立場から実践的に容赦ない鉄槌を下すことが総資本にとって必要であっても、これにはいってみれば不可避的に手心が加えられてしまう。資本の運動は政治の収奪への衝動を秘めているからです。理性の立場は、官僚と政治家が書き記すあいまいな掟として実現されます。そして、資本を規制する掟が、資本が政治を収奪する方策を認めるという反転。

とはいえ、このあいまいさがあったとしても、資本家が自分の意思で貨幣を自由に政治に用いるような法律的規制のない資本の未開状態に比べれば、大前進でしょう。補助金を投入することでその使途の透明性・公開性が私企業には問われますし、政治献金だって、帳簿の付け方や、寄付するされる団体に制限を設けたり、ルールの発展という面もありましょう。補助金と献金がこういうかたちで問題になること自体、企業の社会性の一定の成熟をしめす側面かもしれません。

ともあれ、適法化された政治献金とは、適切な賄賂であり、正しい収奪であって、収奪する適法性です。収奪という適法ではないことが適法にされる現システムの愚かしさです。

資本はその愚かしさを剥き出しにしています。人間に対して転倒的に自立して資本(経済法則)が人を動かす力となることは、この転倒した事態を、動かされる人々の目に対して明白に剥き出すことをも防げない、ということなのでもあります。

個別生産体の設備投資に共同体(国家)の金が用いられている点からすれば、この個別生産体は、他の生産体を倒そうとする私利追求はしない社会の共有物にほかならないというべきでしょう。コスト削減、資金獲得が公共的だと言い張るのなら、なおのこと、企業のカネは公共物なのだから、それを特定の一政党に集中することは許されない、と主張するべきでしょう。

企業が公共的だと企業自らが宣言するのなら、生きた個人の権利を空洞化する野蛮きわまりない政治献金などではなく、税金を多く納めるとか、社会全体に寄付するとかすればいい話でもありましょう。そうしたらますます私企業は公共的権力を握ることができます。納税万歳(笑)。これまた野蛮な状態の復権で、蟻地獄みたいな高度化ですね。

いや、こういうべきでしょう、

解決を絶えず否定される解決へと促迫される運動。否定される解決に向かう解決への衝動。

《物神崇拝》がシステムをむらなく被うことはありえない。モノを崇拝するこのふるまいがなりたつのも、人間の社会関係が商品という物象の運動がとりむすぶ関係になってしまっているが、同時に私的生産者という人間の視点に対しては、彼を突き動かすこの物象の関係が、彼によって所持され、かつ彼によって崇められるただのモノとして現れている、というかぎりでのことです。資本主義のほころびに気づかれたくない体制維持の願望はこの《物神崇拝》に依存してますから、対抗運動はつねに励まされているのですよ。資本というかたちをとった社会的労働発展が、その敵対性によって《物神崇拝》のヴェールをたえまなく切り裂いています。政治をカネで支配する衝動はモノを拝むことの徹底ですが、それはまったくモノを拝むことそのこと自体を解体せざるをえないのです。
by kamiyam_y | 2008-01-10 00:01 | 資本主義System(資本論)

自由と階級闘争

▽おしゃれ九州60SPという番組で、エビちゃんがふるさとの宮崎を紹介してました。「小みかん」というフルーツ食いたいと思いました。

▽1月から3月って入試や進級判定で繁忙期なのですが、授業がない分、研究の貯金をしておかねばならず、更新滞るかもしれません。ここで貯金をして論文の原型をつくっておかないと今年きつくなってしまうので。

▽ 自由な個性とか自由な個人って何なのよ、リバタリアンかよ、というご意見を前回書いたことに対して頂戴いたしました。個人が社会的な個人として存在するような社会システムの成立を求めている以上、国家《からの》自由という無内容で、抑圧的に機能することもありうる「自由」一般とは当然異なりますから、このご意見はちょっと単純すぎるかと。グローバリゼーションの開明性も肯定性もふまえて市場に対するグローバルで有機的な規制を現代の矛盾が求めていることを理論的にとらえるべきであって、市場の調和一般を説くあほらしい賛美といっしょにされたくはないです。

社会民主主義とももちろん違います。公正な賃金をという善意の要求は好きですけれど、それはいささか皮肉な味方をすれば平等な搾取を求めるものであって、福祉の整備ですら資本の競争条件に吸収されることを考慮すれば本質隠蔽的なのでは、と。

また、自由や個人や民主主義に対する悲観主義をもって「近代」を批判する左右の道徳主義や共同体主義とも違います。市場原理主義を批判する左の共同体主義とは、資本主義に対する深い批判の意識を共有する点で連帯しますが、こういう批判の道徳的制約にあっては、資本主義の敵対がもたらす敵対を超える要因の形成という歴史の必然的進歩がとらえられません。敗北する資本主義批判がうまれてくる根拠すらも理論的につかむことが重要でしょう。

労働する諸個人にもとづく社会認識は、こういう言葉を用いるとすればいわゆる「ブルジョア民主主義」に対する徹底した批判です。人権とは資本家階級の権利に転用される資本の権利であったという現代の逆説的真相をふまえて、現代の課題は、労働に即した人権の徹底(「プロレタリア民主主義」の内実であるべき労働過程の民主的管理)にあり、自分たちの社会的生産から排除された諸個人(労働者階級)が生産を自分のものとして管理することにもとづく自由な個性を発展した社会的生産にもとづいて復権することにある、といっているのですからね。
by kamiyam_y | 2008-01-06 22:58 | 労働論(メタ資本論)

新春を迎えて


新春を迎え、ご覧いただいている皆さん、あけましておめでとうございます。昨年もいろいろとありがとうございました。本年も気長におつきあいくだされば、幸いです。

新たな年を迎えて、皆さんいかがおすごしでしょうか。

私は、年末年始は研究以外の時間に拘束されてます。このときしかできないこともありますし。おせちはたっぷり食いました。体重増えてるはずです。

元日は、チラシをみてホームセンターに安売りのSDカード1G、1000円を買いに行きました。どこかが元日も営業すれば、競争企業も右にならえです。時間はカネのため。とにかく売りつけろです。私も時間がつぶせます。ホームセンターを歩きながら、シリカゲルとか、真空にできる保存容器とか、あとで買いたいリストを頭のなかでつくったりしてました。


語調を変えて、社会科学を学ぶ意味について雑感です。

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人間が発生以来その歩みを着実に進めていると無邪気に思いこんでいる人はあまりいないだろう。地球環境の破壊、地球規模での格差、戦争、金の支配する政治といった問題群は解決に向かうどころかますます混迷と拡散、収拾不能な領域に入り込んでいるように思える。

人間は、自然であり、自然でありながらも自然と向きあい、それを変革する。変革された自然を受けついで、それにもとづいて自然との交流を深めていく。この交流を前提にして、個々の人間を自由な自己意識、自由な個性として鍛錬していく。労働する個人が社会の根本で生きている。

むろんこの自由は規則を破ることや、協調性がないことではない。他の個人との協調、社会との媒介によって、人間は、世界を拡大する。個性も自由も個人が承認しあうことを介してありうる。

こうした発展の概念に対しては、発展のせいで人間は解決不可能な問題を抱えたのだ、だから発展反対、という悲観論もあるが、発展を疑う意識自体発展の産物である。発展の目的である人間と、発展の無秩序な実際とが全く正反対になっているのだから、これは発展からの疎外のない無邪気な状態をくつがえしている。

産業による地球環境破壊の予測は、いやがおうにも人間に地球環境保全が緊急事態であることを訴える。予測もまた大工業の産物である。問題群の拡大は、人間に対して発展の目的を自覚させる契機である。悲観は冷静な対応に転化する契機を秘める。

人間とその環境を破壊するような発展は、人間の協同的な対応という自覚的な発展をもたらす契機をもたらす。人間の集合力が《他人の富を生産する力》としてのみつくりだされる制限されたありようが問題を制約する壁となっている。

非人間的・非社会的な無計画で《物象的な》関係がまねく発展の暴走に対して、協同の網をかけていくこと、智慧を集結することが求められている。

学問はここでどのような意味をもつのであろうか。人の絆を裂く発展は、前近代的な共同体に人が埋没している状態を破壊する発展であったし、現在でも、その側面はある。しかし、今や発展が要求しているものは、人々の協同的な制御にほかならない。

この制御は、共同体社会への逆行ではない。大工業が鍛える個人の多様性、個人の普遍性を前提して、自由な個人を社会的に自覚した存在として存在させるような社会的しくみである、といってよい。

私たち、個人に対して、問題は開かれている。資本が生みだす《物神崇拝》的な関係は、人間を社会から切り離し、社会を物の形で個人の手段にしている。社会が社会でない状態はしかし、経済法則が制御されずに環境に対立し、人間に対立する地点にまで到達している。この到達点において、自らの集合力を自らどう制御するのか、個人は問われつづけ、《物神崇拝》はその制限された性格を露呈している。学問は、個人に潜む社会的個人としての積極的な意識と連帯する。学問は人間の普遍的な知であり、個人の問題意識と共鳴する。

「心配になるのは、いつでも性急に結論に到達しようとし、一般的な原則と自分が熱中している直接の問題との関連を知りたがるフランスの読者が、どんどん先に進むことができないからといって、読みつづけるのがいやになりはしないかということです。……真理を求める読者に覚悟をさせておくよりほかには、私にはどうしようもありません」(『資本論』フランス語版序文および後書」大月書店全集版、S.31.)


共鳴はそうたやすいものではない。真理は一夜にして身につくモノではない。学問はモノではない。それだからこそ、個人に対して学問は自覚的に働きかけるのである。

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焦らず継続していくことがもっとも大切なことの一つだとおもい、勉強していきましょう。

ということで、新春の挨拶でした。舌足らずで説明不足なため誤解を招く部分もあるかもしれませんが、挨拶文ということで、ご寛容ください。

では、挨拶の繰りかえしになりますが、新年が楽しくご多幸に満ちた日々になりますようご祈念いたします。本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
by kamiyam_y | 2008-01-02 12:01 | 学問一般