さっぽろ地下鉄のなかでマルクスを呼吸する、世界を呼吸する

カテゴリ:民主主義と日本社会( 134 )

小泉政権とは何であったか

「小泉的なるもの」の本質についてかんたんな覚書です。曖昧さや謬見もあろうかと思いますが、いろいろな考え方や立場のなかでの1つの主張として、参考のためにアップしておきます。

このたびの解散と選挙においても、既存のマスコミは、小泉政権の「劇場」型政治をささえる舞台装置として働いています。

個人の社会的陶冶において新世紀の展望が開かれてくるものだとすれば、無内容なスローガンを弄ぶ小泉の全体主義的手法は個人の無関心を助長するだけであり、こうした手法からの脱却こそ、専門家が自覚的に主張すべきことでしょう。もちろん、専門家が、政権の実質についての冷静な分析と評価を、議論の素材として提供すべきだということはいうまでもありません。

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by kamiyam_y | 2005-08-20 18:09 | 民主主義と日本社会

8月15日


アジアで2000万人、日本で310万人以上の命を奪った戦争が集結して60年。

国家や政治的党派の一部は、歴史を偽造し、集団的被害妄想を煽って自己保存をはかろうとする。こうした欺瞞が、「世界の平和と人類の福祉」(教育基本法前文)にとって、何も新たなものを生みだすことはないことはあきらかだ。

歴史捏造を私利追求の手段とする国益主義と、排他主義という粗野な集団幻想は、「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと務めている 国際社会において、名誉ある地位を占め」(憲法前文)ようとする普遍的課題にとっては、何の新たなものも生みださない。

それは、まさに乗り越えるべき「偏狭」そのものにほかならない。

隣人の国民性を決めつけたりする想像力の欠如や、歴史を外交カードに矮小化するような国家主義は、永遠に除去すべき「専制と隷従」そのものではないか。
by kamiyam_y | 2005-08-15 15:27 | 民主主義と日本社会

恫喝解散は、憲法典の欠缺の利用か

▽ テレビはあまり見ないなんてこのまえ書きましたが、NHKでいま放映されている自然スペシャル、ついみてしまいます。

雨期にジャングルに拡がったアマゾンの川面を、ナマケモノがゆったり泳ぐ姿など、めずらしい映像がいっぱいでおもしろいです。

アマゾンのカワウソが、ピラニアをむしゃむしゃ音を立ててむさぼり食う様子なんて、とっても癒されますよ。
自分の卑しい姿が大写しにされているようで、魂の救済を感じます。んなわけないか。

撮影スタッフのみなさん、ご苦労様。よくぞとったという映像が多く感心です。
政治家に弱いNHKも、情報の集積点としては公共性がありますな。

▽ お盆休みですね。

世間に合わせて、私も昼間からビールなんぞ飲んでみました。

幸せな気分ざんす。

最近の数日は、気分を盛り上げたいときは、湘南乃風のRockin'Wild~10-FEET REMIX~。

今日3回くらい聴いたな。

おなじCDに入っている「2005年4月6日、大日本警告JPNへの意義主張」って曲、すべて賛同するわけじゃないんですが、「アメリカが作るのか日本の政治は」とか「×××の幹事長の名前すらもわからねぇ」というフレーズ笑えます。

で、あっしの頭の中でこれをきいた妖精さんが、ささやいてきました、「政権のこと、あんたも、考えなかといけなか、酔い覚ましにどうかいな」。

▽ 今回の衆議院解散について、「郵政解散」というネーミングを定着させようとする小泉に対して、日刊ゲンダイは

「自爆解散」

なんて言ってます。私は「粛清解散」「恫喝解散」とでもよぶことにします。郵政法案反対議員に対する脅しの実行だからです。議員にとっての「落選」の恐怖にしても、それを脅しに使う取引にしても、政策や理念よりも貨幣の権力がものを言う顛倒があらわになっている、システムの亀裂にすぎません。

衆議院が内閣不信任決議をしたわけでもなく、ましてや衆議院では法案は通っている。

たかが郵政法案です。

衆議院解散という速報をきいてまずおもったのは、これって憲法に則っているのか、憲法のグレーゾーンの利用ではないのか、ということです。

衆議院解散には、内閣不信任決議に対する69条解散と、天皇の国事行為7条3号による解散とがある、というかんたんな説明だけではよくわかりません。手元にある憲法のテキストをみてみます。

辻村みよ子『憲法 第2版』(日本評論社2004年・初版2000年)から。

国会の召集権についてまず。

召集の決定権の所在については、……一種の憲法規範の欠缺であり、助言・承認権をもつ内閣に実質的決定権限があると考えるのがやむをえない帰結といえよう。

助言・承認が国事行為の実質的決定権を含まないという立場にたつと召集決定権者を確定することが困難となるからである。この点、学説では、国事行為には本来実質的決定権が含まれないとすると、7条以外に根拠を求めることが必要となるため、憲法53条が臨時会の召集について「内閣は、国会の臨時会の召集を決定することができる」と定めることから、すべての召集権が内閣にあると類推するものが多い。

しかし、常会(52条)や特別会(54条)については召集権の主体は明示されておらず、比較憲法的にみても国会の自律集会制度もありうる以上、類推によることは立憲主義に反することになる。そこで、7条2号を国会召集の原則的根拠規定と解さざるをえないとする見解(杉原・憲法Ⅱ500頁)も主張されるが、他方、天皇が実質的決定権を有すると考えることは象徴天皇制の構造自体から問題があり、……。(89頁。読みやすくするため行替えを入れた)


ふうん。天皇の国事行為として7条2号は、国会の召集をあげています。象徴天皇制であるから、天皇の国事行為には「実質的決定権限」は認められない。とすると、召集決定権は「助言・承認権」をもつ内閣にあるということになる。しかし7条以外に根拠を求めると、類推となり立憲主義に反する。そこで7条2項を国会召集の根拠規定とすることになるが、そうすると、天皇に実質的権限を認めることになってしまう。

いずれの見解も一貫しないというわけですが、この点を論評する必要はありません。興味深いのは、天皇の国事行為の「実質的決定権」が憲法規範に明記されていないことが、「憲法規範の欠缺(けんけつ)」とよばれている点です。

当然、7条3号による国事行為による衆議院解散にも、同様の憲法学上の論争があることになります。

解散は、議院に属する議員全員に対して、その任期満了前に議員としての地位を喪失させる行為である。議会解散権は、君主主権から国民主権への展開、近代の「純粋代表制」から「半代表制」への展開のなかで重要な機能を果たしてきた。(475頁)

現代の議会政治や議院内閣制においては、任期満了前の解散・総選挙によって民意を的確に反映させる機能や、内閣と議会との協調関係の破綻に対処して内閣を安定させる機能などがある。(同上)


解散が果たすこの役割そのものには異論はないとしておきましょう。
そうだとしても、学説状況は単純ではないのです。

憲法学説というのは、念のためいえば、現代社会の自身の自己認識であって、純スコラ的であっても、単なる机上の空論ではなく、システムの正統性という現実的な要因をなす現実的な力です。社会的な運動や対立が自覚的な姿をとる1つの頂点が、国家権力をめぐる憲法論にある、といってもいいでしょう。

そこで学説は、(I)衆議院自身が解散決定できるとする自律的解散説(①)と、(Ⅱ)内閣に実質的解散権があるとする他律的解散説に分かれ、その根拠をめぐって、後者(Ⅱ)はさらに、7条説(②)、65条説(③)、議院内閣制等の制度全体を根拠とする制度説(④)に分かれる。また、解散は69条の場合に限定されるとする69条限定説(A説)と、69条以外の場合にも解散を認める69条非限定説(B説)に分かれ、前者(A説)では解散権の根拠として69条をあげることになる(69条説⑤)。これに対して、後者(B説)では69条以外に根拠を求めることが必要となるため、学説状況は錯綜していた……。(同上)

これらのうち、解散の根拠を7条に求める②の7条説は、厳密には、天皇の解散は形式的・儀礼的な表示行為に限定されるため、実質的決定権は「助言と承認」を通して内閣にあるとする7条説(a)と、7条三号の解散は本来政治的なものであるとしても天皇は拒否権をもたないため結局内閣の「助言と承認」に拘束されると解する7条説(b)(杉原・憲法Ⅱ290頁)に区別される。……とくに7条説(a)については、内閣の「助言と承認」は天皇の形式的・儀礼的解散宣示行為についての「助言と承認」となるためそこから実質的権限は導かれないとする批判が提示される(杉原・憲法Ⅱ291頁、樋口・憲法I315頁参照)。(475-476頁。)



実質的解散権をどこに求めるかで、

Ⅰ ①衆議院による自律解散説
Ⅱ 内閣による他律的解散説

があり、後者は、その根拠によって、

 ②7条説
 ③65条説
 ④制度説

に別れる。7条説に対しては、「内閣の「助言と承認」は天皇の形式的・儀礼的解散宣示行為についての「助言と承認」となるためそこから実質的権限は導かれないとする批判が提示される」(476頁)。

解散も、

A説 ⑤69条限定説 69条の場合に限定されるとする
B説 69条非限定説 69条以外の場合にも解散を認める

とがある。

実際の運用では、憲法施行当初は野党が69条限定説をとって非限定説をとる政府と鋭く対立したが、結局、69条による解散は、1948年12月23日(第二次吉田内閣)、1953年三月14日(第4次吉田内閣)、1980年五月19日(第二次大平内閣)で実施されたのみで、それ以外の解散はすべて7条三号に基づいて実施され、69条非限定説(B説)が定着している。……

……憲法の明文上の限界や、主権者の意思を常時反映させるための解散の民主的な機能を重視する必要があることからすれば、解散の現代的機能を前提とした現代的な制度説(④')を構築することも意味があろう。……

……ただし、内閣による解散権の濫用や恣意的な運用を制約する意味では、69条限定説が重要な意味をもつことも否定できず、この立場を再考することも今後の課題といえる。(476-477頁。行替え引用者)


7条解散の既成事実化を追認する形で学説も、69条非限定説が定着したということでしょうか。明文上の規定との矛盾を回避するために、解散を民意の問い直しとして説明する見方も出てきたのでしょう。

しかし何をもって民意とみなすのか。内閣による解散権乱用は制限されねばならないし、ましてや、首相に解散権があるかのようにみなすのも、どういうもんなんじゃ?

隣国や現場公務員を悪玉にして、動員される思考停止、また終戦記念日に動員され、選挙にも動員されるのか。その程度の成熟なのか、この社会は。
スローガンは空疎であるほど社会的錯覚を増長する。オウム返ししやすい台詞ほど世論操作に効果を発する。改革の「信念」とかさ。保守メディアがこんなクーデター的喜劇を讃えるのも皮肉なものだ。

もっとも、無知の大河が歴史の振子を大きく揺らすのであれば、こうした喜劇も、雑多な政治団体を、新自由主義、保守主義、社会民主主義、第三の道等に振り分ける作用を果す可能性がないともいいきれないけど。

樋口陽一・大須賀明編『日本国憲法資料集 第4版』(三省堂)みてみましょう。

解散権濫用を戒める保利前衆議院議長の遺稿「解散権について」(1973・7・11)
〔1979年2月に死去した保利茂前衆議院議長が、在任中の前年7月に大平首相(当時)周辺から流された衆院の解散説に反発、解散権のありかたについて見解をまとめていたことが、死後明らかになった。以下その要旨〕

……内閣に衆議院の解散権があるといっても、内閣の都合や判断で一方的に衆議院を解散できると考えるのは現行憲法の精神を理解していないもので、適当ではない。

……現行憲法下で内閲が勝手に助言と承認をすることによって、7条解散を行うことには問題がある。それは憲法の精神を歪(わい)曲するものだからである。

……“7条解散”は憲法上容認されるべきであるが、ただその発動は内閣の恣意によるものではなく、あくまで国会が混乱し、国政に重大な支障を与えるような場合に、立法府と行政府の関係を正常化するためのものでなければならない。“7条解散”の濫用(らんよう)は許されるべきではない。……(1979・3・21朝日新聞)(156-157頁)


7条は解散権の根拠としては曖昧すぎ、厳格に運用すれば69条が根拠になるはずだが、さしあたり、7条解散説を仮に認めるとしても、郵政法案の参院での否決が、解散を要する異常事態を、「国政に重大な支障を与えるような場合」を意味するのでしょうかね。あるいは、立法府による内閣不信任を意味するのでしょうかね。否決した参院は元のままでっせ。

郵政の陰に隠されたサラリーマンの負担増(定率減税廃止、所得税控除縮小等々)、分配の変更なのだから、重大な国民的議題ではないですか。共謀罪だって終ったわけではなく監視が必要。重要法案ほかにもいろいろあるし。

冷静になって考えてみましょうよ。ワンフレーズポリティックスの支配から脱却できるよう、単純な敵味方論で煽られないよう。

国家機関における最高の権威は理念的には立法権にあります。

行政は、立法としての国民の意思を執行する機関です。執行権力を抑制するための理念的枠組みが、立法権の至上性にあるとすれば、仮に立法権が国民から大きく独立化しずれてしまったばあい、この立法権の再構成をする権限はどこにあるのかといえば、国民にあるはずです。首相の権限は、そうだとするとどこに由来するのでしょうか。

執行権力が世論を僭称することは、専制の正統性を主張しないかぎりは、いや、そういう主張をしてさえ、正常な民主政体においては筋の通らない話でしょう。議会解散権の実質的な決定権が首相のものとして無制限に承認されているわけではありません。また、多数派である自民党自体がもともと郵政をめぐっては分裂していたわけです。

立法権の空洞化も、憲法の空洞化も、現実の巨大な進展を背景にしている現象でしょう。とすれば、こうした空洞化も、現実的な基盤があり、それをどう変えていくのかが問われます。こうした空洞化も、いわばその反作用として民主主義を深め、内容を充填していくのであり、民主主義の発展という新たな現実性に道を開く歴史の契機です。

民意の反映、解散権の意味と国際比較、など考えたいことたくさんあるのですが、とりあえず、感じたのは、今回の解散を「粛清解散」と規定するとすれば、これは、あたかも、株主から選出された経営者が株主総会の意向はけしからん!と株主をクビにするようなものではないか、ということです。


衆議院解散とは、憲法上の根拠をめぐっては、こんなふうに論争のある大問題!だということでした。

▽ また酔いに行きます。じゃあ。

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追記 8月12日午前2時

帰宅してから読み直したら、文章が少し酔っている。根本的に直すのは無理なので、ちょっと加筆・修正しました。

追記2 11時48分

「単純な敵味方論で煽られないよう」と上に書きましたが、けさ朝日などの大新聞の社説をみると、おおかた小泉支持的で、敵味方をハッキリさせるのが小泉の手法なのだと、大衆の思考停止を利用するスタイルに無批判でした。大衆の無知を扇動するスタイルに無批判でした。

古い自民党を解体するというイデオロギーにとっては手法は何でも許されるのでしょうか。イデオロギーの勢いの前には、冷静さもふきとばされて当然なのでしょうか。

(このイデオロギーの背景には、じっさいに自民党が分裂的だということがある。理念的にも市場主義と国家主義が手を組んだりケンカしてみたり。地域的利害や産業的利害を代弁する集金組織の集合体、雑多な利害を集中する装置、共同体的利害組織としても、分裂的です。高度成長に役立った同じ要因が、重荷に転化している現状は、他の分野と同じです)

これに比べると、今日の「日刊ゲンダイ」は「『否決されたら解散する』と脅していたのは野党ではなく自民党内の……身内だ」「後任される前議員だって『法案には反対だが、いま解散されるのは困るから賛成した』というヤカラがゾロゾロいた」と論じていました(2面)。

いくつかおもしろいコメントも掲載していたのでちょっと引用しておきます。(日刊ゲンダイは、個人のエッセーはたまに???というのが載るんですけどね)。

「自民党から反対票が出たことは総裁としての指導力のなさの結果で、……党議拘束を破ったというなら、自民党規約にのっとって党紀委員会にかけて処分すればいいことです。なのに参院で否決されると『国民に信を問う』と問題をすり替えた」(政治評論家・本澤二郎)。

「ハナから小泉首相は『法案修正には応じない』と突っぱね、必要な作業を一切放棄してきた。……首相は立法権を侵害し、議会政治を否定していることを自覚すべきです」(明大教授・山田朗)。


5面の高橋乗宣「日本経済一歩先の真相」も

「郵政をめぐる国民投票」という理屈は「冷静に判断すればムチャクチャな論理」で「解散」ではなく「内閣総辞職の場面」

だと述べ、

7面の黒木亮「国際金融裏読み&深読み」も、候補者が選挙費用を制限されている英国とは異なり、

「日本では選挙に莫大な金がかかる。それゆえ使った金を取り戻そうと政治が腐敗するのだ」と論じる。黒木はまた、英国における官僚と政治家の接触禁止をあげ、「日本のように政治家が役人を呼びつけてさまざまな要求をし、選挙民も、公共事業や補助金を地元にもってきてくれる政治家がよい政治家と思っている国とは格段の違いがある」

としています。

ケインズ主義などとイメージされる資本の国家は、日本において妥当するさいには、日本的・共同体的(一種アジア的)な土壌において育ってきました。

貨幣の権力は皮肉なことに、法治国家というよりもこうした共同体的な人治国家においてむしろ、あからさまかつ野蛮です。

偉い議員さんといえば、地域や産業から金を引き出し、役人を「呼びつけ」中央から見返りをもってくる政治家とみなされるような風土において、天下の回りものである貨幣がもつ公共性は、奇妙に特殊利害として渦を巻き無秩序に妥当するのでした。

そんな諸利害のごった煮が、自民党であったわけです。


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追記3 8月22日

▽ 他の国の憲法を調べてみましたが、首相の解散権を憲法で定めているのは、ドイツ連邦共和国基本法。やっぱり天皇の国事行為による解散はあいまいです。

第68条 (1) 自己に信任を表明すべきことを求める連邦総理大臣の動議が、連邦議会議員の過半数の同意を得られないときは、連邦大統領は、連邦総理大臣の提案に基づいて、21日以内に連邦議会を解散することができる。

ちなみに戦前のワイマール憲法では「ライヒ大統領は、ライヒ議会を解散することができる」と無限定的だったようです。 (樋口陽一・吉田善明編『解説 世界憲法集』三省堂・第4版2001年)。

▽ 付けくわえる点はないのですが、いくつかのブログを拝見して確認をひとつ。今回の解散劇はここに書いたように形式的にも問題のあるものであり、それを利用した小泉の行動は、形式上違法ではないとしても、少なくとも、内容的には、「国政に重大な支障を与えるような場合」ではないような出来事を、解散権行使の対象にすり替えたものです。形式的合法性だけではなく、内容上のすり替えこそ、内容上の正当性破綻こそ、冷静に見つめる必要があるかと。ファシスト的資質は合法的に貫徹されるのですから。
by kamiyam_y | 2005-08-11 19:40 | 民主主義と日本社会

個人の成熟という課題 自己責任論1年

雪に閉ざされた4ヶ月乗っていなかったの車に乗った。乾いた路面を走るのは気持ちよかった。この気持ちよさは、車がなければ絶対に自分の体だけでは出せないスピードのせいでしょう。運転の爽快感は、身体を拡大する感じです。車では、機械が、体の拡大であることが、直接、感覚的にわかります。

じつは、感覚的にわからなくても、人間がつくった道具・機械(生産手段)はすべて、人間の拡大です。人間がつくりだす物は、自然が形を変えて、人間の「非有機的な身体」となったものだからです。

人間はこうした共同の制作物をつくりだし、それを土台として共有して、一人一人の生物的・物理的な限界を超えていきます。一人一人は、この土台を共有することで、自分の力を拡大しているわけです。

ここで人間は、一人一人がグローバルな(普遍的な)存在だといっていいでしょう。
また、こうした土台を社会的にどう分けあうかをめぐって、社会制度というしくみがうまれます。

ところが、人間一人一人の豊かさとか、成長をささえるこういうしくみは、まだまだ不完全です。

だから、一人一人のグローバルな本性よりも、企業や国家が、あるいはマネーが、ほんとうは人間のつくったものなのに、みずからをグローバルだと僭称するさかだちがあるわけです。

 ◇◇◇

昨年のイラク人質事件から一年たちました。

政府の責任を議論したり、救出を願うよりも、むしろ、犯罪被害者とその家族をバッシングしたメディアがありました。また、意図的に流された「自作自演説」や、「自業自得論」に乗せられた人たちもいました。そうした人たちの存在も、おそらく、人間がグローバルな本性をもっているのに、じっさいにはそうなりきれず、グローバルになりきれない、ということだとおもいます。人間が本当は豊かで人を思う本性をもっているのにそうなっていないといってもいいかもしれません。

首相が被害者家族を励ますのではなく、その反対の態度をとったことに何の疑問をもたない人たちがいたことも、ひとびとがまだいろいろな制限にとらわれていることを意味しています。
昨年の騒動も、グローバルな事態がすすんでいるのに、それにひとびとが対応できず、悲惨な摩擦が生じてしまう、という現代的な文脈のなかでおきたことといえます。

ふとこんなことを思ったのも、
『北海道新聞』4月11日号第2社会面に掲載されていた

「イラク人質事件から1年 ある男性の変化 『自己責任』憤り消えた 『命懸け』に今は敬意」(黒田理)

という記事を読んだからです。

この記事では、高遠さんらにたいするバッシングに共鳴していた男性が、【自分たちには手をさしのべてくれる人がいないのに、かれらを英雄にしてはたまるもんか】という気持ちであったと当時を振り返っています。この男性も、今では「責められるのは三人ではない」と気持ちが変ったと記事では、紹介されていました。

この記事に斉藤貴男のコメントが附けられており、それは、【バッシングした人たちには三人にたいする嫉妬心もあり、女性や未成年者を「見下したい」という気持ちもあった】という趣旨でした。

たしかに当時、一生懸命三人にけちをつけて、三人を見下すことで自分を保とうとする、とても寂しい人たちがいたことを思いだしました。

個人がグローバルってことは、まず第一に、封建社会とは違って、個人が、王の支配(国家)から解放され自由になっているということです。
国家の正当性が、一人一人の国民の参政権にもとめられること(主権在民)、国家(政府)の義務と、個人の自由な行動とのあいだに線が引がれていることが、近代の基本枠組です。
また人の生命は、処分可能な、だれかの持ち物ではありません。人の命は平等です。ですから、どの命も、すべて平等に政府による救出義務の対象になります。
この政府の救出義務が、個人の思想信条(たとえば派兵反対かどうかなど)によって左右されることは絶対にあってはならないことです(柏村武昭自民党議員による「反日分子」発言をおもいだしてほしい)。法にもとづく統治は、国民に平等であって、恣意的な支配ではありません。

当時の政府首脳による被害者家族批判は、近代政府の原則を崩していますし、矛先を弱い人間に向けた異常な事態でした。ファルージャ市民の殺戮は伝えず、被害者を支援するより、自己責任論を垂れ流したジャーナリズムを忘れてはならないとおもいます。

「『四人』に対する報復が『600人』では、命の価値があまりに均衡を欠いている。……政府が仕掛けた『自己責任』の世論に乗る形のジャーナリスト、支援活動家排除は、国民自身が目と耳をふさぐ行為である……」(『北海道新聞』2004年、4月19日4頁「急速だった治安悪化」)。

個人のグローバルさは、たとえば、国連「人権の10年」といわれるような、国を超えた人権の発展といったかたちにもなっています。いまは、地球規模で、人権や環境が問題となる時代です。一人一人がいわば、国を超えて普遍化する時代なのです。

また、社会が成熟するということは、お上ではなく、一人一人がいわば社会を代表するということでもあります。
一人一人を政府から批判され監督される存在におとしめるような集団主義は、きっと、どこの国にだって(今の人類では)あるのでしょう。
しかし、一人一人が自由に行動し、それも社会的な意味があるというふうに納得されるような社会のほうが、成熟した市民社会、懐の深い社会、といえるはずです。
とすれば、人質とその家族にたいするバッシングのおきた日本は、どうなのでしょうか。

このことを劇的にハッキリさせ、私たちに気づかせたのが、【人質をバッシングするなんて信じられない、ありえない】とする欧米市民社会の反応でした。パウエル国務長官が金平茂紀によるインタビューで「危険を承知でみずから行動する人がいなかったら、われわれはけっして進歩しないでしょう。日本のみなさんは彼らのような市民を誇りに思うべきです。たとえ彼らが危険を冒したために人質となったにせよ、『危険なところにいったあなたたちが悪い』などと言うべきではありません。われわれには、彼らが安全に解放されるようにあらゆる手立てを尽くす義務があり、彼らを深く心配し配慮をする義務があるのです。彼らはわれわれの友人であり、われわれの隣人であり、われわれの仲間の市民なのですから」といった趣旨の発言をしたことが思い出されますね。

人質に対して軍隊の邪魔をした非国民という扱いをする社会と、社会の進歩をになう個人として扱う社会と、どちらが成熟した社会か、懐の深い成熟した市民社会かは、あきらかです。自由な生き方を尊重し、一人一人を社会の進歩をになう主人公として扱う社会こと豊かな社会でしょう(ちなみに、国連NGOの多くが本部を欧州においていることなどにも、日本の市民社会の特質があらわれているようにも思えます)。

参照 エキブロから 高遠さんのブログ( ::minor⇔major::)


--------  追記 4月12日 ---------------------------------

道警裏金に触れたエントリーを補足する記事を1つ紹介しておきます。

高田昌幸・佐藤一・中原洋之輔「『北海道新聞と』警察との長き闘い」(『週刊金曜日』2004年7月23日号)

道警元最高幹部、外国人記者を前に語る|高田さんのブログ「札幌から ニュースの現場で考えること」もご覧ください。

 ◇◇◇

昨年の今頃、一部のメディアは、外務省職員の自己責任は問わなかったのに、3人に対しては自己責任というあいまいな言葉を投げつけて、おかしな雰囲気をつくりだしました。人質バッシングに荷担したメディアも、かつて普賢岳取材で亡くなったカメラマンにたいしては、最大限に褒め称え英雄扱いしていたのに、です(この点は江川昭子ジャーナル「いわゆる自己責任について」)。
犯罪被害者を糾弾するというセカンドレイプ的な論説も、政府首脳の対応も、絶対忘れるべきではないと思います。

政府首脳による世論操作について証言の1つ。政治記者が、自民党の一年生議員に「自作自演説」の出所を尋ねたら、外務省と公安だったという証言です。政治記者が1年生議員に狂言説の出所をたずねたら、「二人は外務省からで一人は公安。お喋りな1年生議員に流して報道関係にリークさせ、それがネットの2ちゃんねるなどに瞬く間に流れた」(木村元彦「イラク人質事件に対する政府、メディアの卑劣な対応を許すな!」『ミュージックマガジン』6月号)。

もちろんこの証言によらずとも、当時の政府首脳の発言が、メディアをもちいた世論誘導であったことにかわりはありません。

海外メディアが、自己責任論を奇怪な現象としてとりあげだしてから、こういう法治国家以前的な雰囲気がかげをひそめていったわけですが、当時フランスにいた人がこう書いています。

「『いったい、これはどういうこと、たとえフランス人が人質になっても、こんな事態は考えられないわ』とあるフランス人が言った。『自己責任だって?その理論でゆくと、失業は能力不足の自己責任。不景気中の会社破産も経営者の自己責任。軍人が戦死したら、軍隊に志願したのも自己責任になるのよ』という友人もいた。……自分たちができないことをしてくれる彼らに、『迷惑をかけるな』と言う発想はフランス人にみられない」(美帆シボ「フランスから見たイラク人質事件」佐藤・伊藤編『イラク「人質」事件と自己責任論』大月書店)。

フランス社会の自由度の高さや、とらわれのなさを感じます。友愛という言葉もおもいだします。なお、自己責任などという法律用語はなく、退避勧告にも法的拘束力はなく、事故の際の国に対する損害賠償請求却下にかかわるだけだそうです(同上書、佐藤真紀・伊藤和子鼎談、179頁)。もちろん「迷惑」とやらも共同体的な曖昧な観念です。

(ちなみに、自己責任論を引き延ばすとばかげた結論になります。たとえば、この引用にありますように、不景気による破産も自己責任となったら、社会理論も、社会的協同も、政府も何もいりません。純粋な個などどこにも存在せず、黒字の会社だって、ほかの会社に依存していて、倒産したりするのですから。)

1年前に共感した発言を最後に引用しておきます。自己責任を問う声は、共感力や連帯の心に欠けていると思います。なぜ弱いものに対して見下ろして否定しようとするのでしょうか。 「この状況下において、解放された3人とその家族に『自己責任』を問う輩は、想像力が徹底的に欠如した『人でなし』だ。/老若男女問わず、「自己責任」狂いの愚を撃て!/それがニッポンという「イジメ大国」を、「共生の大国」へと変える第一歩であり、橋頭堡であると信じる」(竹山 徹朗【 Publicity 】904 :陰惨な「イジメ大国」ニッポンの本性を撃て!:2004年4月17日:申込先http://www.emaga.com/info/7777.html:blog)。

--------  追記 4月14日 ---------------------------------

記事をいつでも修正できるのがいいのか悪いのか分からないが、
当時の自己責任論にたいする怒りが蘇ってきたので追加します。

自己責任論という奇怪な議論によって、政策も、世界認識も、政府の救出義務も無視されて、被害者とその家族へのバッシングに話がすりかえられたのが昨年の事態です。思い出すと本当に異常な事態で、日本の民主主義の空洞を見たような暗澹たる気持ちになります。
当時「自演自作論」にのった論説を垂れ流した人はその後何か反省をしたのでしょうか。
一年たってほおかむりでしょうか。
「自己責任」論という単純なキャッチフレーズを流して、個人の行動計画の問題も、国家の責任も一緒くたの不毛なバッシングを導いたメディアを、安田純平はつぎのように批判しています。

「自己責任」論として三人への批判を展開し、政策の議論を避けようとしたのが小泉政権なのだが、この政治家の発言にのって「自己責任論」なる用語をつくったのは大手メディアだった。……「本人は悪いか悪くないか」という単純な二者択一的論ばかりが流れた。

安田純平「プロパガンダに騙されるな――マスコミは問題を単純化して真実を隠す」(文藝春秋編『日本の論点2005』)

シバレイのblog 新イラク取材日記 The Not so Beautiful People (4/13)   にとても面白いことが書いてあります。

ハリバートンがイラクで営業するのは、資本主義を生みだした「土地囲い込み」や帝国主義戦争と同じで、地域の人々から生産手段(この場合は石油)を取りあげるプロセスでしょう。「イラク解放」というタテマエそのものも、ナポレオン戦争と同じ革命の輸出に似ています。しかしです。そうだとしてもそれは殺戮であることにかわりありません。人一人の命が地球より重いという言葉がどんなに嘘くさく思えようとも、これこそが人間社会の出発点であり、命の尊厳を徹底することこそが、次世代に、個人の尊厳という人間社会の人間社会らしさを残すのだと信じたいです。

高遠さんのブログほんとうに何度でも見てほしいとおもいます。
by kamiyam_y | 2005-04-11 23:56 | 民主主義と日本社会