さっぽろ地下鉄のなかでマルクスを呼吸する、世界を呼吸する

カテゴリ:資本主義System(資本論)( 127 )

ある日のとりとめない会話―貨幣・補足

(ビアガーデンにて)

恋奈美:ヨントリー、おいしいね。

美菜子:この香りだぜぃ。うまいよぉ。

那弥子:もう酔っぱらいかあ。しょうがないな。

(那弥子、バッグから女の子の人形をとりだして、語りかける)

おはよう。こみなちゃん。

(那弥子、声を変えて人形の役で返事をする)

小南:オハヨ。

那弥子:何の質問?

恋奈美:なに腹話術ごっこしてんの。

小南:イイカラ、イイカラ。

美菜子:何の質問?

小南:アノネ、本来ノ貨幣。

美菜子:まだ気になるの?

小南:ウン。貨幣蓄蔵サレル蓄蔵貨幣、本来ノ貨幣ハコレダケジャナイヨ。

恋奈美:そうね。物の形態で価値が自立化する本来の貨幣としては、蓄蔵貨幣だけじゃないね。

美菜子:何?

那弥子:支払手段としての貨幣。

小南:ナンデ?

恋奈美:ビールを買うためのコインは購買手段、コインは人から人の手へ流通手段としてわたる。

那弥子:でも私がビール製造するけど、まず原料だけ手に入れるとするでしょ。私は信用をもらうの。で相手は私を信用をあたえる。そのあと私がビールを造って売れたら貨幣が手に入るから、それで払って、原料生産者に対して支払の約束を実行する。

恋奈美:商品W―貨幣G・G―商品Wじゃないの。ここでね、債務者は約束―W、債権者はW―約束。最後にGが債務者から債権者にわたり、終了ってわけ。

小南:フ~ン。

恋奈美:信用って国家なの。いってみればね。法。約束にもとづいて支払がなされ、お金を払う義務は債務、受け取る権利は債権ね。

美菜子:債権債務関係か。破っちゃいけないんだもんね。

那弥子:でさ、私が決済するとこの関係が解消するでしょ。

恋奈美:それそれ。

那弥子:流通手段は、商品の形態転換の手段で、商品の価値が一時的にとる形でしかないけど、支払手段として貨幣は、価値それ自体の、ザ・価値の移転、富の引き渡し。つまり、流通の家来ではなくて、流通に対する独立した力であって、事を終らせる王様。

小南:違ウンダネ。

恋奈美:補足すると、信用って連鎖していって、譲渡できる証書にすればそれが流通する。

美菜子:それとねえ、あと世界貨幣。世界的な支払手段、購買手段、富の絶対的な形の移転だっけ。

小南:ナンカ分ッタ。

(那弥子、人形をしまう)

美菜子:あっ、みこな。

(バイト中のみこな登場)

みこな(神子島奈月みこしまなつき):や~~。ありがと。来てくれて。

恋奈美:バイト忙しいね。

みこな:きょうやばいよ。夏も終わりだからかな。

美菜子:なんかおすすめは。

那弥子:サザエない?

みこな:ないない。牡蠣おいしいよ。あと、ツブとか。

恋奈美:そうねえ。

みこな:人気はこっちのポルトガル料理。ビールにもあうよ。

(賑わうビアガーデンで会話も弾むのであった)
by kamiyam_y | 2013-08-29 23:43 | 資本主義System(資本論)

ある日のとりとめない会話―貨幣

みかん:これから食べられちゃうの。

布:食べられちゃうね。すてき。

机:これで使用価値として天に昇れるね。

みかん:食べる欲求をみたしてあたしは自分を全うだぜぃ。

布:私はこれから雑巾になって別の生産物に生まれ変わるの。ラブリー。

机:待ちに待った消費だね。多様な欲求をみたして消費される多様な使用価値としての僕たち。他人の消費のなかで使用価値が実現。

みかん:ほんと店頭にいたときは早く買って~と心のなかで叫んでたよ。

布:私も。布づくりされてるときから叫んでたかも。

みかん:店先では早くしないとあたし腐っちゃうよって、超焦りまくり。

机:商品として僕たちは使用価値。持ち手来て~と僕も叫んでた。消費したい人あらわれろ、って念じて汗びっしょりさ。

みかん:あたしが売れたら一段落、あたしをつくったみかんづくりも、みかんをつくった人の欲求をみたせる労働一般になれる。あたしを価値物にした抽象的人間的労働は、あたしがおカネに変って購買力発揮すればおしまい。あたしをつくった有用労働もあたしが売られて食べられたらミッション完了ね。

布:つくってくれた人とはほんとは無関係ってさびしい。私はただの未来のおカネとしてつくられてたんだ。

みかん:さびしいけどね。魂こめた作品とその制作者っていうような結びつきも、つくった人が自分で使う愛着もないね。それがでもあたしたちが社会全体に流れ、労働の世界をひろげていくのか~。

机:まあ、そうやって私的労働は商品交換で私的利益を実現するてわけ。それが社会的でもあるよね。僕たちの私的行動が私的労働の社会的実現で、全体の部分。

みかん:使用価値であるあたしたちは社会的分業を代表してる。あたしたち商品がいろんな使用価値としてあることは、いろんな労働があって絡みあいおぎないあってることをしめしてる。

机:そうそう。使用価値は社会的欲求をみたすべき社会的分業があることを意味してる。

布:私的労働はじつは具体的有用労働として依存しあっているけど、それは私たち商品の依存関係としてあるんだもんね。

みかん:あたしたちって、しかも等価交換で動かないといけない。使用価値として多様で、価値として同一。

机:だね。僕たちは価値としてみんな同じ。ってことは、僕たちの使用価値っていうちがいをはぎとったら僕たちはただ労働の産物であることだけが共通。価値という僕たちの共通のありかたは、いろんな労働からその具体性をはぎとって、多様な商品生産労働を、具体性を捨象した一般的な労働というか、労働そのものに還元してる。価値って、あれこれの労働でなくて、労働そのものの対象化。逆に、あれこれの労働はあれこれの使用価値に実を結ぶんだ。

みかん:あたし1コは机くん1台と交換価値がちがううけど、これって量のちがい。

布:質として無区別だ~、私たち、みんな同じ。使用価値としてばらばらだけど価値として一体。

机:価値に結果する労働としてはどの労働も同じ労働。

布:私たちをまとめる価値ってなかみはなに?

机:僕たちをつくる社会的労働の要請だろう。社会の存続に絶対不可欠の支出。費用。もちろん僕たち商品は同じ一族の代表見本だし、社会が要する費用、負担だから平均的なもの。基礎にあるのは人間の活動という根源的な必要。神経や筋肉の生産的支出という根拠がなくちゃ僕たちはこの世にいない。

布:おたがいに連絡もなく弾きあってる私的労働でも、社会的な労働力の支出なんだ、客観的に。

みかん:あたしたちが価値として質的に同一で量的にだけ異なるのも、抽象的人間的労働が実体としてあるから。価値っていっても、ほんとは人間労働力の支出一般があたしたちの共同の関係に映しだされてるだけ。人間たちはばらばらだから知らない。あたしたちの価値は、社会の労働の絶対必要な発揮のあかしなのよ。社会にとって絶対必要な労働というコスト。私的労働の体制で。

布:価値法則だね。物の交換で社会的労働と生産物の配置・配分。

机:社会的労働のコストが反映してるんだ。物という客体の世界で価値というみえない存在として、感覚的な物というみえる形で。

布:うん。価値の量はその商品をつくるのに社会的に、平均的に必要な人間的労働の量にかかっている。社会的必要労働時間による価値の大きさの規定。

机:社会的総労働の配分が、交換で事後的になりたつ。社会的自覚によらずに、人々の主観のうらがわでひっそり。

布:人間が生産ではばらばらだから全体は人間が制御できない。でさ、憎たらしいのは貨幣。私たちの価値って、使用価値のためのなかだちのはずだったのに。

みかん:ああ、ほんとだぜ~ぃ。あたしたちの消費じゃなくて、価値が、価値が目的。あたしたち使用価値は価値の奴隷。なんで価値の塊のあいつ、貨幣にひれふさなきゃいけないの。あいつがあたしの魂を抜いてあたしたちの外に独立。

布:しかも、あいつがいないと私たちも消えちゃう。あいつなしでは生きていけない。

みかん:ばらばらに引き裂かれてくあたしたちと巨大化してく貨幣の力。

◇◇◇

(以上の記されたノートをみて)

那弥子:ってここまで書いてめんどうになっちゃった。

美菜子:なみこ、勉強のために商品・貨幣論をまとめるなら、なんで対話?普通の文章で書いた方がコンパクトだよ。

那弥子:まあいいじゃん。

美菜子:わかるといえばわかるしね。チョコ食べた~い。チョコといえばこなみ、こなみといえば勉強。呼ぶべ。

(恋奈美登場)

恋奈美:チョコどころじゃないよ。うちの頭はいま貨幣論だよ。

那弥子:じゃ、まずべんきょしよ。商品から生れた貨幣が、商品世界の王になる、って書きたかったんだけど、めんどうでやめたんだ。

恋奈美:ちょうどよかった。商品から生れた貨幣の最初の姿は?

美菜子:ねだん。価値の尺度として働く。

那弥子:金銀以外のあらゆる商品の価値が金銀という自然素材におきかえられ、ってやつ。

恋奈美:価格。価格はでも交換の前提だよ。

那弥子:そこで流通手段なんだよ。

美菜子:流通手段ってどういうの?

那弥子:商品W-G-別の商品W。ここで出てくるの。

恋奈美:価値尺度と流通手段の図解はテキストであとでみよっ。

那弥子:でね、貨幣のこういう最初の2つの規定だけど、これってね、商品から独立して価値が自然素材と結びつくっていう貨幣の展開からするとまだまだなの。

美菜子:どういうこと?

恋奈美:ここでの金銀のありかたをかんがえてみようよ。価値尺度では?

那弥子:そこにはないけど、価値をしめす金銀。表象された金重量。観念的な金銀。

恋奈美:そう。金銀という物体が存在していることが不可欠だけど、それはそこに物としてあれこれの商品の隣にあるようなもんじゃないよね。

美菜子:そっか~。流通手段は?

那弥子:流通手段は金銀そのものじゃなくて、金銀の代りのもの。

恋奈美:一定量の価値を代弁するような物ね。物があれこれの商品と交換されるけど、金銀の実体はないの。

美菜子:それで、どう発展すんの?

那弥子:価格の材料になって、それから価格実現して、流通手段になって交換の全体、つまり流通をおよぐ。そこで終り?

美菜子:ちがうべ。

恋奈美:つぎは金銀そのものだよ。

那弥子:価値の自立化。観念的金でも金の代理物でもなくて、金銀そのものがふさわしいような物質化した価値っていうか。

美菜子:わかった~。貯メコミ。

那弥子:そうそう。貨幣蓄蔵。

美菜子:貨幣は蓄蔵貨幣として本来の貨幣なんだっけ?

那弥子:貨幣ってさあ、一般的価値形態、自分以外の全商品の価値をしめす一般的等価物。

恋奈美:一般的等価物は固定化されるようそれが1つの商品におちつく。

美菜子:で、それが価値という質的に均質でいて量的にだけちがってるものをしめすように貴金属におちつくんだね。

那弥子:自然の性質がふさわしいからね。均質で分割も合成も可能。

恋奈美:一般的等価物の地位を金銀が独占してそれが貨幣。

那弥子:そうやって、一般的等価物という役割が癒着した自然物金銀が貨幣ってわけ。

美菜子:そっか。それでさっき那弥子が言ったみたいに、最初の2つの機能だけだと金銀っていっても観念的だったり、代理物だったり。

恋奈美:金銀は価値尺度だと観念化、表象化されてるし、流通手段だと代理物におきかえられてる。

美菜子:そこで金銀が流通から飛び出す。

那弥子:流通から独立して金銀の結晶。価値が物の姿で自立化。

恋奈美:流通にいつでも戻れるしね。価値の材料でもあるし。

美菜子:流通の外で貨幣そのもの。流通にかかわらないと意味はないけど、独立。金銀が流通の外で蓄積して、富が蓄積してく。

恋奈美:流通の外に価値が結晶化してく。金銀がそのもので価値の自立化した姿。

美菜子:この金銀を求めて世界が流通に巻きこまれた。スペインの侵略。

恋奈美:うん、貨幣が脱共同体的な本性で動く。

那弥子:金銀は、あれこれの使用価値じゃなくて、まさにザ・価値。つまりすべての使用価値と交換可能な力。

恋奈美:抽象的な富一般ね。金銀に結晶し集約される。

美菜子:だからいいかえれば抽象的人間的労働の化身なんだ。

那弥子:一般的労働の対象化・結晶化ともいえるよね。一般的富の対象化。

恋奈美:あれこれの使用価値は商品で、これはすべての富。他の商品の価値の表現材料だったり、他の商品の流通のなかだちだったりという商品の下僕であるのはやめて否定して、富の普遍的代表、富であることの物質化。

那弥子:金銀がそのままでこういう力。

美菜子:物神崇拝だ~。

恋奈美:で、古代や中世でも権力者がこれを独占しようとするけど、これは殺戮の結果でしかなくて、生産の発展のなかで自己増殖する貨幣は産業資本だし、現代の蓄蔵貨幣はその媒介なの。

美菜子:ちょっとむずかしいけど、現代こそカネのためのカネよね。

那弥子:なみこがおもうに致富欲ってのもキーワードかも。富の一般的な集約である貨幣が、致富欲を生みだす。特定の使用価値への欲求なんかじゃないの。

恋奈美:こなみもおもうに突如商品の主君になった貨幣だけど、流通から生れて流通の外に自立化した貨幣。

那弥子:流通に否定的にかかわって自立的。

美菜子:どういうこと?

恋奈美:流通がなかったらどうなる?

美菜子:蓄蔵貨幣の意味がなくなるべさ。

那弥子:金銀を山に埋めて場所がわからなくなったらアウトだし。

恋奈美:貨幣は流通に依存しているけど、流通を否定して自立的となってる。

那弥子:ミミズは土のなかだけど、生きていないと土に還元されちゃう。海のなかでくらす生き物は、海に依存しているけど、海そのものから自分をたえず区別してる。

美菜子:生きていないと海そのものになっちゃう。

恋奈美:そんなとっかな。まっ、産業資本が生れる前提だよね、蓄蔵貨幣。

那弥子:労働力買って資本になってやろうっていつでも待ちかまえているのがGだから。

恋奈美:G-W-G'が資本の一般的定式だもんね。

那弥子:流通は等価交換だからさ、価値の量全体は、だれかがだましあいで儲けても、増えたりしない。

恋奈美:だから貨幣の自立化は資本として実現するんだ。

美菜子:それって、貨幣の話の先だよね。

恋奈美:うん。この先のうちらの研究。

那弥子:じゃ、チョコ食べよ。

美菜子:やっぱビアガいかね?

恋奈美:勉強のあとの1杯はうめ~よな。いこっ!
by kamiyam_y | 2013-07-26 21:11 | 資本主義System(資本論)

ある日のとりとめない会話―商品・貨幣論

かずとも(以下K):『理論劇画 マルクス資本論』(門井文雄原作、紙屋高雪構成・解説、石川康宏監修、かもがわ出版、2009年)(Amazon.co.jpをみていたら「労働日」に出てくる過労死の話が載っていて(79頁以下)、おもわず「脱法ハウス」を思い出したよ。横になれる最小限の間仕切りされた非人間的空間でしか寝られないなんて。正規雇用的現役軍から追い出された個人が生きることが社会基準上の最低限を下回って有効需要と使用価値供給が合致すること、資本の一部分がかれらからさらにまた吸血するのに用いられることになってる。

ともかず(以下T):うん、交換価値のための交換価値が眠りに配慮するのは交換価値のためでしかなく、貨幣増大のために貧困がつくられては動員されるというわけか。産業予備軍の絶え間なき創出と現役軍の絶え間なき消耗が価値増殖による資本蓄積が自ら生み出すその前提、生活環境なんだ。

K:そうだね。で、今日これからの勉強会、テーマは交換価値の形成で。

T:商品・貨幣論。ええと、貨幣という支配力。これがいってみれば資本主義把握という変革のモメントの核心で、これって「ユダヤ人問題によせて」の最後に市民社会の疎遠な力として出てくる。この疎遠な力を労働という存在世界総体の原点の自己疎遠性においてつかむことが市民社会の解剖学、経済学批判といっていいとおもう。

K:貨幣の魔力だけど、まず貨幣って一応モノだよね。モノがどうして社会の力なんだろう。物理的でも化学的でもなくて社会的な力。

T:まさに謎だよ。超感覚的な社会の力が自然物の属性なんだから。自然的な素材形態がそのままで、目でみえない社会的な力としてあらわれてくる。では貨幣はどうしてそうなんだ?駅員が切符の代わりに千円札を配ったり、大学教師が出席カードの代わりに一万円札を配ったらどうだい?俺は切符買いに行くし授業に絶対出るぞ。まっ、誰でもだけどさ。

K:買物をしたら包装紙が一万円札でできているなんてのもいいな。

T:こういう空想上の喜びは、俺んちのチワワとは共有できない資本主義的人間だけのもの。この社会の外にはないし、動物にはない人間特有の社会現象だからね。かかわっている人間だけに妥当する社会関係っていうか。

K:うん、ミミズに貨幣は存在しない。貨幣はそのものを感覚的にみればモノでしかなくて、でも感覚的でない社会力。金はそれ自体欲求をみたす有用性が飾りに使えるとかしかなくても、交換価値の代表で、その金を代理するのが価値標章だっけ。まあ、メロンを包むのも紙だし、お札も紙だ。紙という似たようなものが購買する力であったり、なかったり、不思議だね。

T:じゃ、直接的交換可能性といったこの驚異の力って政府が決めたから生まれたものなのかな。貨幣が妥当していく力は法律の力の発揮。

K:いやいや、政府がたとえば君、ともかずを貨幣にしようと決めても俺はそんな貨幣は使いたくない。ともかず4分の1と何を交換すればいいんだか。

T:俺は貨幣にはならないって(笑)。商品として価値物として大量生産され交換可能なものでないと。で、結局政府や法律が決めてもそれが通用するのは実際の人間を通してだから、そう政府じゃない。価格の単位確定や鋳貨製造は法律的なものだとしてもそれはいわば形でしかない。中身は経済がつくる。貨幣の力は人間から独立して人間を制御する経済法則だからね。

K:経済法則の力って何だ?

T:社会的生産過程の力。労働の自然的人間的社会的諸力さ。

K:生産によってまとめられている生きた全体の力かな。

T:うん、そんなかんじだね。まあ、直接には商品。商品の力。貨幣は商品から生まれるからね。そして貨幣を生みつづけて商品が存在し、労働生産物が商品となって再生産されている。貨幣と商品、この運動の全体が生きているわけだけど、商品と貨幣が絶えず生まれ出て経済法則の力がリアル。1つの商品が関係していく起点で、商品から貨幣が生まれ、商品の力が貨幣によって実現し、貨幣の力が商品によって息を吹き込まれている。社会全体の力が商品に担われていて、商品はなにものにも優位する必然性なんだ。

K:商品の交換価値として、商品が貨幣を生む。価値形態論だな。商品の価値を統一的にその使用価値で表現する等価物ってやつ。

T:そうそう。一般的等価物であることは、あらゆる商品に対する直接的交換可能性だ。それは流通手段になって、買う力となり、流通から独立して、なおかつ流通に戻って、増殖する価値という力になる。

K:ちょっと難しくなってきた。

T:そういえば、『哲学の貧困』(高木裕一郎訳、国民文庫、55頁)によると、商業はあらゆるものを使用価値と交換価値との対立に還元したってシスモンディが言ったらしいぜ。

K:使用価値と価値との内的対立を外的対立に対象化する、だっけ。価値形態論は商品の二要因を分離する。

T:そして交換過程は商品が、商品と商品と並ぶ貨幣という二重化することで媒介されている。

K:平たくいえば、あれだね、労働はばらばらで、労働では人が結びついていない。代わりにモノが結びついて社会的分業が成り立つ。人の関係がモノの関係としてつくられ、モノの関係が社会的労働総体という生きた社会全体のまとめる力になる。交換が労働を社会的にする。モノの多様な依存関係が異なる労働の依存関係。

T:そのとおりだ。共同体的な労働の反対。

K:私的な労働。共同体的な労働では個々の労働が社会的労働としてあらかじめ立てられていて、労働がそのまま現物の姿で社会的なものとして妥当しているけれど、私的労働ではそうでなくて、商品それぞれのもととなるばらばらな私的労働って相互に異なっていて非社会的に隔離されていて、それらの抽象的な同一性、連続性に、商品の価値関係のもととして人間労働力支出という同一性に還元される側面に普遍性がみとめられる、とでもいうのかな?

T:まあ。

K:私的労働として労働が相互に断ち切られているから、その連関は交換される客体の連関だ。まったく孤立しあっているわけで労働の有用性、特定の生産物をつくる合目的的活動も、それへの社会的労働力の支出もまったく相互に隠されている。

T:うん。それで、客体である諸商品が能動的に連関しあって社会的労働を実現する。諸欲求をみたす有用物を適切な量つくる私的労働の相互の依存ってのは、諸商品が使用価値として実現することであって、また、異なる諸労働の形をとる人間労働力の支出という社会的費用ってのは客観的に価値に反映している。他人のための使用価値として実現することがその背後の労働を具体的有用的労働として社会的分業の一分肢として実証し、価値として実現することが人間労働力の支出一般に還元された抽象的人間的労働を実証する。こういうわけだ。

K:価値量として、労働は社会的総労働時間の一部として社会的必要労働時間として実現する。抽象的労働は価値という形をとるけど、その大きさは継続時間、社会的に平均的な生産条件、労働の強度・熟練度のもとで必要な時間によって規定されている。

T:ついでにいえば私的労働として労働が相互に断ち切られているからこそ、市場が拡がり経済法則をつうじて生産力発展が自己目的化してるね。

K:共同体を超えて流通へと同化していく商品の本性と、飽くなき価値増殖による事後的な生産力発展っちゅうことやね。私的労働だけど単純にいえば、まあ、生産した商品が売れれば、その背後の労働は自分を全うしたことになり、また労働を繰り返せる。売れなければ労働は死す。

T:ゆえに商品は人々を突き動かして交換されねばならない客観的要請なんだね。人々の交換行為の実体はかれらの意思にではなくてまさに商品にある。客体の側に社会形成の力がある。商品所持者の目にはこれはこのあるがままの姿で、つまりモノに本来交換力があるかのようにみえてしまい、事態の全体の連関が消え去ってしまう。この実体の力は人間が支配する自然素材、客体に重ね合わさって、というかこの自然物の姿であらわれるからね。

K:物神崇拝による正当化だっけ。

T:だな。商品として社会的力が自立するには、交換者の立場では交換者が主人公という法的抽象が維持されていなくちゃいけない。商品の力は商品の自然な属性で、よって交換する人間も交換を自然として了解しているっていうのかな。

K:まあそういうことだべ。で、繰り返すけど、そういう社会的な力のある商品って、ばらばらな労働のその社会的な力となるような紐帯なんだってことが重要だよな。労働は私的利益に分解し、その社会的統一は商品の交換がなしとげる。労働で人は関係せず、商品の交換が労働を事後的に無自覚に社会的労働として実現する。

T:そう。生産における人格どうしの関係であるはずのものがモノとモノとの社会関係としてあらわれる生産関係の物象化ってまとめられる話だね。社会を排除し他者を排除し私的利益の計算で私的利益のために社会的合意や計画なしに見込みで行われる私的諸労働、これって物象的にのみ、物象の関係としてのみ社会的総労働の生きた器官として関係しあう。私的労働は物象化を通した社会的編成の起点、といっても商品流通がその外部にあるとしているその根拠なんだ。商品は自分を生み出す理由を流通の外にもっていてそれに依存していけれど、ここではそれはそれがあることを商品から指示されるものでしかない。私的労働は商品にとっての前提だけど、商品が商品として自分の足で立つ、商品がこの前提を自ら生み出すのは単純な商品にとどまってではなくって、資本に移行してなんだよね。実際の労働の中身は資本の過程に包摂されている自己否定的な疎外された労働、自己疎外する労働で、あくまでもここでは私的労働は商品が流通の外に前提しているもの。商品がそれを確保するのは資本としてのことだ。賃労働が商品生産者の自己労働を実現する。

K:そういう流れを予想しつつも、ともかくここでは商品を生み出すのは、私的労働という社会的労働なんだよね。商品論におけるそれを生み出すものとしての私的諸労働。商品流通という全体からみた労働。商品流通によって全体を生み出すもととなっている孤立した労働。孤立しているからモノの流通として連関するほかない疎外された労働。商品を主体化させる労働。

T:社会的労働である私的労働。交換という社会的労働とそれが想定する私的労働。私的労働は商品交換によって私的利益を実現する、つまり私的労働として実現するけれど、それは社会的労働としての実現なんだ。社会的総労働が私的諸労働へと分解していて、私的労働は社会的労働としての潜在的な普遍性を現実化することによって自身を実現する。

K:生きた矛盾!

T:まさに、私的なものというのが、範疇を展開する原動力となる矛盾した存在なわけ。

K:私的労働の社会的性格を商品が体現していて、この商品が自分の世界の連関を自分の運動によって展開する、これが資本論の以降の展開といえそう。

T:商品の徹底が資本ともいえそう。商品という単純なものが難しいとマルクスが念を押すのも、商品の運動に徹する重要さゆえだろう。一見空理空論にみえる商品論こそじつはすごくラディカルで、『資本論』に結実するマルクスの研究は現代システムの細胞としての商品範疇に半端なくこだわっているかんじがするよ。商品の内的矛盾は『資本論』以外では「経済学批判要綱」『経済学批判』あたりが読めればといいとおもうけど、一人では難しいから商品世界の理解には『マルクス自身の手による資本論入門』(ヨハン・モスト原著、カール・マルクス加筆・訂正、大谷禎之介訳、大月書店、2009年)の商品論の記述が参考になるのでお薦め。
by kamiyam_y | 2013-07-23 21:40 | 資本主義System(資本論)

蓄積せよと至高の実体は命じ給ふ-スミスとマルクスの蓄積論から(2)

3 スミスの蓄積論

以上前置き。やや話は飛びます。スミスの生産的労働と蓄積です。

『国富論』第2編第3章冒頭でスミスは生産的労働と不生産的労働をとりあげます。スミスによれば、生産的労働は「特定の対象または販売しうる商品に、固定し、実現する」労働。

「投下される対象の価値を増加させる」商品に価値を対象化する労働ですね。同時にまたその価値は利潤をもふくむものでなければならないとされます。「材料の価値にかれ自身の生活維持費の価値とかれの主人の利潤の価値とをつけくわえる」。つまり賃金プラス剰余価値であります。

しかも賃金も結局労働者がうみだす価値であり、資本家にとっての賃金前貸し費用は見せかけ的(労働ファンドとしての可変資本)。「賃金を、かれの主人から前ばらいしてもらうとはいっても、じっさいは、かれは主人にとって少しも費用がかからない」(水田洋訳、河出書房新社、1974年、281頁)

製造工などの労働、「価値を生産する」生産的労働に対して、スミスが不生産的としてまずあげるのは「家庭の召使の労働」で、さらに「主権者」「司法官僚」「軍将校」「陸海軍全体」、「聖職者」「法律家」「文筆家」「道化師」「俳優」「オペラ歌手」「踊り子」などをあげています(281-282頁)

召使いの労働に支払う部分が大きいほど浪費的であり、対して生産的労働を充用するほどに生産物価値が増大していくことになります。スミスは資本の回収と収入(利潤・地代)を区別したうえで、不生産的労働者、労働しない人が収入によって維持されること、富裕な国々では資本と収入の割合において資本の方が大きいことなどを論じます。「資本が優勢なところでは勤労が普及し、収入が優勢なところでは怠惰が普及する」(287頁)

「資本の増減」が「生産的労働の人手の数」を、「生産物の交換価値」を「増減させる」のであるから、富増大には収入を貯蓄し資本に蓄積することが必要であるとされます。「勤労ではなく節倹が、資本の増加の直接の原因である」(同上)。資本主義的生産関係が命じるものがスミスを介して、収入を浪費するな、資本に蓄積せよ、と表現されます。スミスの頭は蓄積の命じるところを素直にその内容としています。

ここで『資本論』第1部第22章「剰余価値の資本への転化」第2・3節が参照されねばなりません。

「アダム・スミスは、蓄積をただ生産的労働者による剰余生産物の消費として説明すること……をはやらせた」(岡崎訳S.615.)。スミスは再生産、蓄積の把握において「重農学派に比べて……明白に後退してさえもいる」(S.617.)


節約が富増大と生産的労働者の増大を導く資本の説く調和とでもいえましょうか。蓄積って剰余価値の資本への転化であり、労働者が剰余労働の産物によって再び剰余労働を資本に吸収されること、労働者階級のうみだした剰余価値によって、資本から遊離していた労働力の一部分を資本に合体するということ、その際には労働の新たな吸収のための素材となる追加の生産手段も必要ですね。スミスは価格を賃金・利潤・地代からなるとしてしまい、不変資本(設備・原料の価値)がぬけていて、それともかかわってこういうとらえかたになってしまいます。

「倹約せよ、倹約せよ!……すなわち、剰余価値または剰余生産物のできるだけ大きな部分を資本に再転化せよ!」(S.621.)
「ブルジョア経済学にとって決定的に重要だったのは……資本の蓄積を市民の第1の義務として告げ……収入の全部を食ってしまったのでは、蓄積することはできない、と飽きることなく説教することだった」(S.614-615.)


スミスにおいて、資本家は社会発展のためのネジでありベルトであり歯車であってかれは収入の浪費ではなく、資本の蓄積のよき下僕にならねばなりません。資本主義の発生において、倦むことなき蓄積の布教の学的姿が市民的経済学でした。

剰余価値は資本家による消費ファンドをなすだけでなく、資本に転化してさらに労働を吸収するという使命があります。蓄積の進行においては、この相反する2つの衝動が、剰余価値を収入と資本に分割する資本家の内部で葛藤となります。これに対してスミスの説くモラルは収入の浪費ではなく資本の増大であり、ひたすら蓄積を説くわけです。

「蓄積のための蓄積、生産のための生産、この定式のなかに古典派経済学はブルジョア時代の歴史的使命を言い表した」(S.621.)


土地所有が富を浪費する封建的なシステムに対立する資本蓄積の飽くなき推進を課題とするスミスにおいて、資本家は蓄積拡大を遂行する資本の人格化としてのみ社会的な意義のある存在であり、資本家は蓄積しなければならない。自己目的化した蓄積という資本主義の存在理由が古典派経済学に表出されています。

「価値増殖の狂信者として、彼〔資本家-引用者〕は容赦なく人類に生産のための生産を強制し、したがってまた社会的生産力の発展を強制し、そしてまた、各個人の十分な自由な発展を根本原理とするより高い社会形態への唯一の現実の基礎となりうる物質的生産条件の創造を強制する」(S.618.)


「交換価値とその増大」(S.618.)は、社会的生産力の発展を人類に押しつけ、対立的に強制的に、社会的労働・社会的生産手段・世界市場を蓄積運動として形成させ、もって諸個人の自由な発展にもとづく1つの自由な人類社会を創出する通過点をなします。資本主義黎明期の古典派経済学が冷酷に定式化した蓄積のための蓄積に、通過点的運動をなす現在の運動の1つの表示を私たちはみることができます。
by kamiyam_y | 2013-07-01 23:14 | 資本主義System(資本論)

「経済表Tableau Économique」(ケネーQuesnay):ケネーとリカードQuesnay and Ricardo

このまえ「経済表」について書いたもの(フィジオクラシーphysiocracy)に補足をしておきます。

「経済表の範式」に描かれた世界について、需給関係をまとめるだけでなく、剰余価値率や利潤率を考えるのも一興かと。「経済表」が単純再生産であるのも、当時の生産諸関係のありようか。もし拡大再生産ならどうでしょう。ケネーがアンシャンレジュームにおける重商主義政策による農民の貧窮という問題を解決しようとしたのであるならば、彼にあって農業における蓄積、拡大再生産は肯定すべき事態。

リカードであれば、耕作地の拡大はより劣等な耕作地への拡大であり、生産力の最も低い最劣等地における農生産物がこの農生産物の価格を規定し、より優等な耕作地では超過利潤、差額地代が発生することになります。資本主義発展とともに耕作地が拡大することは、リカード的には、地代の増大を意味し、地代・賃金に対して利潤率は低下することになります。蓄積にともなう利潤率の低下って現代のグローバル化を考える上でも重要。

ケネー『経済表』(戸田正雄・増井健一訳、岩波書店、1933年)の範式をワープロソフトの描画機能をもちい手でうつしてから、それに書込みをして画像ファイルに変換してみました。「経済表」の雰囲気をそこはかと残しつつも緑と赤の彩りあざやかな作品です。

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フィジオクラシーの把握基準は、生産物から始まる商品資本循環。生産物の流れの絡みあいを想定する商品資本循環をイメージして経済表を振り返ると、こんな感じ。50の価値の生産物(30の費用+20の剰余価値)がどのように持ち手変換し、生産資本の補填を導くのかを「経済表」は示します。あくまでも自然から生産物を得る農業だけが生産的というのがミソです。

生産階級(借地農民)による社会的総生産物50。この生産には、用具など固定資本100の価値移転分10(原前払の利子)と、種子や食糧など流動資本20(年前払)が投下されています。言いかえれば、用具や種子など生産手段に20(不変資本)、農民が消費する食糧(可変資本)10です。

他方、地主、主権者及び10分の1税徴収者が収入として前年得た20の貨幣を、商業・手工業に従事する不生産的階級が10の貨幣を前払として購買準備にあてています。

課題は、生産物50が流通と徴税、不生産的階級による消費(加工)を介して、農民に30の生産資本、支配階級の消費ファンド20の貨幣と不生産的階級の貨幣資本10に、価値的、使用価値的(素材的)に補填される流れの確定です。

剰余価値20を支配階級が取得しつづけると単純再生産が繰り返されます。剰余価値のすべてが消費ファンドに消えるのが単純再生産。

これに対して、表式からすれば、拡大再生産による富の増大は支配階級に向けていた剰余価値を、生産階級による生産的投下に振り向けることを意味しましょう。絶対主義の重商主義政策のもと地代と税に苦しむ農民を解放するという実践的帰結を、絶対王政の足下で彼ケネーは密かに正当化していたのです。働く平凡な人間が社会を再生産においてまとめあげるのであり、消費だけする階級がじつは非自立的存在であるという把握がすでに発生しているというべきでしょう。

市民革命、産業革命へといたって生誕した現代システムは、アンシャン・レジーム(旧体制)のうちにすでに最愛王ルイ15世の寵姫ポンパドゥールが机上においた『百科全書』のうちに萌芽として存在しています。むろん古い社会は十分に発達しなければ新たな社会に移行できない。しかしまた、その絶頂にまで達した古い社会は、その胎内に新しい社会をすでに妊んでいます。蛹のなかに蝶が準備されているように。
by kamiyam_y | 2013-06-17 01:10 | 資本主義System(資本論)

蓄積せよと至高の実体は命じ給ふ-スミスとマルクスの蓄積論から(1)

1 資本主義

資本とは、自己増殖する価値の運動体で、貨幣G-商品W-増大した貨幣G'と表され、形態を変えながら循環、増大する自己目的化した、有機的に運動する生産関係です。資本主義とは、この資本の蓄積運動が客観的に(人々の社会的合意から独立して)社会総体を貫く自己目的と化することによって、事後的・無自覚に(社会的制御なしに)、急激な生産力の発展を実現するシステムを指します。

貨幣G-商品W-増大した貨幣G'は実際には、流通は等価交換ですから、その実現には、価値を原材料に付加することをその有用性とする独自の商品、すなわち労働力が包摂されねばならず、貨幣G-商品W(労働力Aと生産手段Pm)・・・P生産・・・剰余価値をふくむ商品W'-増大した貨幣G'として存在します。交換価値の増大が生産過程における価値増殖を手段として不断に発生しているのが資本主義。

資本主義をそのエネルギーの素材として支えるのが私たちの賃労働で、それは、生産手段、生産物、商品、貨幣という自己の対象的世界、環境を他人の富としてうみだす自己分裂的な労働です。賃労働、これを吸収し燃焼することによって、他人の所有の富の運動が実現し資本主義という生きた総体が存在しています。

他人の富の制御されない運動である資本は、労働を社会的に結合し生産手段を社会的に使用するものへと高度化し、個別的生産過程を社会的過程へと連結しながら増大することによって、事後的・結果的に生産力の、かつてなかった急激な発展をもたらします。

資本主義の存在意義は生産力の発展を自己目的化したシステムであることにあります。この自己目的化、G-G'の悪循環的螺旋(らせん)運動は、自然・社会・人間の安定した存在と相容れず、限界に達します。有限な自然に対する無秩序な収奪、個人に対する社会の力の独立化、労働する人間への容赦ない搾取において、資本主義という無秩序な発展に対して、生産力の管理された発展が課題として明確化してきます(たとえば「持続可能性」など)。自己目的化した生産力発展は、生産の発展の目的が生産そのものにあるのではなく人間にあるという発展の本体をあらわにせざるをえません。諸個人の自由な発展の基盤が諸個人に外的な疎遠な力として形成されてきたが、それを諸個人の側に包摂すること、これこそが現代という矛盾の運動の意味です。

物にゆだねた無秩序な発展から諸個人による民主的共同管理へと移行することが現代の私たちに課されている大きな転換です。現代の問題群は、労働過程における諸個人が資本蓄積の道具として存在しなければならないという主客の転倒を解消せよ、という課題を諸個人に提起しつづけている現代システムの自己否定運動です。利潤追求による資本蓄積という目的運動貨幣G-商品W-増大した貨幣G'が潜在的に産出しているのは、私たち諸個人が生き生きとして活動するはずの諸個人自身の労働過程、人間の自然に対する合目的的活動の発展、自由な人間の社会的結合の発展であるにもかかわらず、これが他人の経済の力として諸個人に対立的に実在している。

現代の問題群は資本のもとに私たちがつくりだした私たちの世界を、まさに、私たちが自由に個性をのばしあい自己実現するための私たち自身の環境へと変えること、そのようなものとして奪還することを要求しているといえましょう。諸個人の自由な発展の基盤を急激に対立的に創出するのが資本主義であり、現代世界の展開とは、他人の力としてつくりだされたこの基盤を自己のものとして制御しようとする試みの展開以外のなにものでもありません。利潤追求の手段に転倒した労働過程を私たちが自覚的に制御する共同的存在条件として、私たち自身の労働過程として管理することを課題として私たちに提起しつづけているといってもよい。

現代世界は利潤追求する富の力に動員された分裂的、対立的な発展であることによって逆説的に私たち自身の環境世界としての本体をあらわしています。課題として意識される世界の対立性は、私たち自身の自然と社会の力がとる姿であって、資本主義において諸個人は社会・自然の対象的形成を強制され、それに即して主体としての社会的・世界的人間(「民主主義」)の成長を強制されています。

2 商品

他人の私的所有の富の世界の運動である資本主義は、商品大量の運動する循環において実現しています。他人の所有が総体をなす資本主義は、私的労働という社会的に規定された労働を基準に商品の運動する世界として再把握されます。そして、飽くなき利潤追求・剰余価値の取得による資本維持増大を起点とするようなシステム、G-G'が社会の諸要素を包摂し自己の要素へとまとめあげる有機的システム、その秘密は商品にあります。貨幣にかわらねばならないが貨幣にとどまることもできずたえず大量生産されたものとしてあらわれつづけている商品。

この商品がそれを産出する根拠として想定している社会的形態にある特定の労働の姿、それが私的労働です。私的交換主体の背後に想定される労働は、他者を排除しながらも、自己利益を目的として他者に依存する労働。交換者は、客観的には己の物の力として関係しあい、人間を、自己を手段化する転倒におかれた存在です。

私的労働は直接的な共同体の世界を解体した社会的労働です。個別的労働が共同体内の社会的労働としてあらかじめたてられている共同体や、血縁地縁で分業を形成するカーストなどが商品の反対の世界として表象されます。

私的労働は、他者を排除する私的空間において私事として営まれる。しかし、直接に私的というのは、じつは潜在的には社会的ってことです。他者の労働の産物を自己の労働の産物で獲得するべくおこなわれる私的主体の労働はそもそも他者に依存していますし、生産物の交換によって事後的かつ客観的にかれらの労働は社会的労働としてまとめあげられていくのであり、商品流通の不断の再生産において私的労働は社会的労働として存在しているのです。

私的所有の客体である生産物の交換の運動が、私的労働を社会的労働として事後的に実証します。私的労働において生産される労働生産物はすでに交換者主観から分離して独自の意味、目的をもつ存在です(交換者の欲求から市場の調和を導くのが原子論的社会観)

商品が帯びるミッションは、第1に任意の他人の労働生産物に転換することであり、第2に欲求する他人に持ち手を変えること。第1に対価との交換可能性、交換比率として示される交換価値であり、第2に他人の欲求を満たす物であるという社会的な関係にある有用物ってわけです。

商品は有用物、使用価値という自然的基礎でありつつ、交換価値でもある。ここでは任意の生産物に変わりうるという交換可能性である交換価値が手放すべき使用価値をその手段としています。自己増殖する価値が使用価値を手段、己の制約としていく資本主義の展開の細胞がまさに商品。

多様な使用価値総体は、労働の有用性産出としての側面、有用的労働の相互依存、社会的分業を意味し、交換価値として現象する価値は人間労働力の支出としての労働、労働とはいってもそのような支出一般である共通性としての人間的労働をじつは表現しています。
by kamiyam_y | 2013-06-12 03:39 | 資本主義System(資本論)

スミスの交換価値あるいはスミスによる突破と挫折

『国富論』第1編は、いってみればまあ労働から商品へとちょっとマルクスの思考めいて話が進みまして、労働の生産力を向上させる労働の分割を取りあげてから交換価値を検討する流れですね。視点が作業場内の分業から市場を介した社会的分業へと移動し、商品と商品との一対一の交換の制限を突破する交換用具として貨幣の発生を論じた次に商品の交換価値を課題に。

スミスは物の使用価値に対し、交換物の「相対価格」として〈交換価値〉を区別し、この交換価値の真の尺度を労働に見いだします。豊かさは生活手段の享受力にあり、それは他人の労働に依存している、ゆえに「支配しうる労働」「購買する労働の量」が貧富を規定する、交換主体にとって交換価値はその商品によって購買・支配できる労働の量に等しい、というようなかんじで。

第6章(水田洋監訳・杉山忠平訳、岩波書店、2000年、91頁以下)でのスミスは2つの段階区分によってその価値論を構成します。まず「社会の初期未開の状態」。ここでは「貯えの蓄積」「土地の占有」がまだなく、労働者は「労働の全生産物」を自分のものにする状態。ビーヴァー1頭と鹿2頭の交換の例を挙げ、スミスはこの時代「さまざまな物を獲得するのに必要な労働の量のあいだの割合」が交換を規制すると考察。商品が購買する労働の量を、交換価値を規制するのは「商品の獲得あるいは生産に通常使用される労働の量」にほかならないとします。

これに対して「改良された社会」、文明的時代では、貯えをその手中に蓄積する個人が登場し、彼は他人である労働者を雇うのにそれを用いるようになり、資本所有者として「貯えの利潤」を得るようになるとします。「職人が原料につけ加える価値」は賃金と利潤とに「分解する」のであって、資本所有者はその所有に比例した利潤を「期待」し、「商品の価格において、貯えの利潤は労働の賃金とはまったくことなる構成部分となり、まったくことなる原理によって規制される」ようになると論じられてます。

スミスはさらに、土地の私的所有においても、労働者は「採取する許可にたいして支払わねばならず、彼の労働が収集または生産するものの一部を地主に引きわたさなければならない」と書きます。土地所有者が労働者に地代を要求し、これも価格の「構成部分」になっていく。こうして価格は賃金・利潤・地代に分解し、賃金・利潤・地代が価格に「構成部分としてはいりこむ」とスミスは捉えていくわけです。

労働の生産物のすべてが労働者の取得するものであった過去に対して、「改良された社会」では資本家と地主もこの分割部分を手に入れることになる。いわば価格のすべてが賃金だった状態から価格の中身が賃金・利潤・地代になる。労働者の加える価値は賃金を超えて、利潤と地代に分解する。こうして利潤も地代も労働者の労働の産物から取得するもの。いいのかなあ、これって正当な承認を得られるのかなあ。たしかに分解部分の取得が価格を構成する前提とされ、労働の対象化である価値の分解部分が価格を構成する独立の原理とされてしまうことは価値源泉をあいまいにします。とはいえ、ここでは労働の産物が資本家と地主の手に配分されていることも明らかじゃないのかな。原料に加える価値が賃金と利潤に分解するって剰余価値論でねえか。労働の生産力の増大があってこのような事態が生じるので資本家と地主が労働者の生存に必要な部分を超える生産を独自の私的所有としてもまいっか的な見方もありえるとしても、価値源泉を労働に見いだすのはラディカルにならざるをえない。ここでは利潤も地代もその発生を労働生産物に対する、あるいは労働の加えた価値に対する分配請求の発生として追想・叙述されていますよね。でもまた賃金・利潤・地代がそれぞれ仮象的に原理化すれば神秘化へと転換するのであって、スミスにおいて労働価値論は三位一体的幻想に連なるあいまいさを孕むものとなったともいえそうですわな。

第2編序論と第1章をみてみましょう。「未開状態の社会」では交換は「めったに行われず」すべて自給自足で貯えを蓄積しない。分業によって他人の労働に依存するようになると自分の生産物を完成し販売するまでに「彼の生活を維持し」「材料と道具」を供給しうる貯えstockが「前提」されることになる。貯えを数日分でなく何年分ももつなら、その人はそれを直接消費する部分だけでなく「収入をもたらすと期待する貯え」としても用いる、これが資本。というような流れでスミスは説明してます。

未開の状態は交換がほとんどないと捉えながらも、交換価値の根拠を未開の交換を想定して求めるのは、スミスにおいては人間一般における交換の性向が想定されており、彼においては人間とはまさに他者を排除する私的な交換する人間だからであって、生まれたばかりの産業資本はスミスというその姿において資本の細胞活動である商品交換がもたらす人間の孤立と利己的振舞、交換を人間に本来的なものとして表明しているのである、とでもいえましょうかね。資本主義による封建的秩序の解体を背景に、スミスは封建的共同体的人間を非人間として、共同体なき孤立した諸個人を人間一般として描き出す。スミスは富を貿易に求める重商主義を批判し、富の源泉を労働に求め、富を諸個人の生活手段と捉え、いわば平凡な諸個人の主体性を再発見したともいえるわけですが、これもこうした制約のもとで、資本主義的生産関係の生成において実現したのだといえそう。

商品生産から切り離しては分業の存在しないスミスにとって、社会的総労働の共同体的存在様式と商品生産的存在様式とは区別されず、商品流通がなくても複雑な分業社会をなすような共同体的生産は視野に入ってきません。未開状態はそのまま交換の発展、商品流通、利潤追求へと移行していきます。勤勉に生産・生活諸手段を貯える行為から資本家の発生を導くスミス的本源的蓄積論においては、孤立した交換する諸個人というブルジョア的アトムが普遍的な労働する諸個人から分離しておらず、資本という社会的形態が生産手段という自然的基礎に癒着して現れています。

ヒュームやスコットランド啓蒙の問題意識を受け継ぐスミスがホッブズやロックの社会契約説の知的延長上にあり、スミスの理論的作業が封建的諸権力を解除した市民たちの自律的社会のありかたを根拠づける営みのなかで労働する諸個人による社会形成を把捉していったのだとすれば、スミスとは社会総体を批判的に捉えるポリティカルエコノミーにまで脱皮した社会契約説、自由な個人による社会形成の理論としての社会契約説から出発して社会総体の労働にもとづく把握へと転回・成長しようとした社会科学であるということができましょう。スミスの本体は、原子論と未分化な労働価値論であり、社会契約説において遂行された労働価値論であり、アトミズムの制約によって姿を現し成長した労働価値論であり、市民革命的問題設定という外皮のもとに培われた労働にもとづく社会把握・ポリティカルエコノミーにほかならないと一応まとめておきます。
by kamiyam_y | 2013-05-25 04:20 | 資本主義System(資本論)

フィジオクラシーphysiocracy:F.ケネーFrançois Quesnayの「経済表」Tableau Économique

ケネーですけど、「労働は富の父」で有名なウィリアム・ペティと少し似てます。平民から政治権力の中枢へ。医学から経済学political economy(社会経済学)へ。自然と労働に由来するものとしての社会的再生産の把握へ。古典派の創始者の一人として。あっ、マルクスが言ったのはイギリスはペティ、フランスはボアギュベールだった。リカードとシスモンディで終る古典派経済学(『経済学批判』MEW.Bd.13, S37.)

ペティは服屋の息子で軍に入り、いろいろあって解剖学教授となってクロムウェル軍の医者になります。地主階級の一員になっちゃう俗物。「まったく浮薄な一外科軍医」(『経済学批判』杉本俊郎訳、大月書店)。ではありますが彼の試みは社会経済学を切りひらいたもの。労働を基準に国民経済全体の生産を計測しようとしました。統計学の元祖としての「政治算術」ですね。社会を再生産過程の通過においてトータルなものとして捉えようとしたならばそれはまさしくpolitical economyといえよう、ってかんじですな。

重農主義(フィジオクラシー)の指導者フランソワ・ケネー(1694-1774)の「経済表」も自己再生産する社会システムを表象しうる興味深い著作です。

ケネーは外科医として活躍し、ポンパドゥール夫人、ブルジョア出身でルイ15世の寵姫となりヴォルテールの友人でもあったこの知的な美女に使える侍医としてヴェルサイユに。ここで啓蒙主義知識人ディドロなどと交友を深めます。常識的なこと並べてみました。

貧農に生れた彼の問題意識は農業にもとづく再生産を破壊している旧体制に向けられてます。1756年に『百科全書』に「借地農」を執筆した彼が乗り越えようとしたのは、農民が犠牲にされて荒廃した絶対主義下のフランス社会。工業品輸出のために穀物価格を抑え、農民に重税を課した重商主義政策に対して、彼が対置したのは、穀物輸出自由化による適正な価格の実現(資本蓄積を可能とする「良価」)と農民への重税の廃止(新村聡「市場経済の発展と古典派経済学」八木紀一郎・新村聡・中村達也・井上義朗『経済学の歴史』有斐閣、2001年、21-22頁)なのでした。

「経済表」は1758年に最初のものが作成され、1763年、1767年と改訂されます。岩波文庫の訳書をみると、収められているのは第1版の図式、第2版の全部、「経済表の分析」「重要事項」「農業国の経済的統治の一般原則」です(ケネー『経済表』戸田正雄・増井健一訳、岩波書店、1933年)

では第1版の表からと思ったのですが、これは眺めておしまい。図も文字も細かすぎるので。2本の直線が中央で交差しては両端で折り返し菱形を重ねていく図も細かいですけど、この図の両サイドにある説明もまた活字がルビみたいに小さくて虫眼鏡がないと読めません。

で、「経済表の分析」という論文が完成型の「範式」を含んでいてこれを読むのがよいかと。「農業国民の年支出の分配に関する経済表の算術的範式の分析」と始まり、階級区分の説明がなされます。ケネーもまた後のリカード同様三大階級区分ですが、中身は異なっており、リカードは地主・資本家・労働者。確立した資本主義を反映してます。対して、ケネーは耕作者、領主、商工業者。経済表的に述べれば、生産階級classe productive、地主階級classe des propriétaires、不生産階級classe stérile。国民のこの階級分割は、十分に発達した資本主義的階級分化ではありません。

このなかで唯一生産的なのは生産階級すなわち耕作者とされます。生産階級の売上が「国民の富の年再生産の価値」を規定するとされてます。土地=自然こそが富の起点ってわけです。農業という形に限定されているとはいえ、この労働の発見は、重商主義に対して大きな社会認識の前進です。

地主階級は10分の1税を徴収する教会、地主、主権者(国王)を含み、生産階級のもたらす「純収益」によって暮す。不生産的階級は農業以外の従事者からなるすべての人民、商工業者。加工する人たち。でも生産的でない。「純収益」を生産するのは農民としての生産階級です。純収益すなわち〈剰余価値〉をつかんだ、しかしまだ農業という形に限定された姿で、ともいえるし、農業という限定された形に着目して剰余価値をつかんだ、ともいえる。

「経済表」が示す世界は「農業が最高度に発達」している「1つの大きな王国」での再生産であり、そこでは農業が毎年50億フランの価値を再生産するとされます。「経済表」は三大階級のもとでの富を配置を記し、階級間の「取引」を分析し、年々の再生産を表現していきます。

生産階級は「年前払」20億を用いて、50億を生産。

「年前払」20億は生産階級が「耕作労働」のために行う毎年の支出です。種子やら食糧。

これに対して「原前払」と呼ばれるものは、耕作に要する「創設の資本」「経営資本」を指します。これは「修復」を要し、また「大厄災に対処するため」の「予備」が必要であり、こうした費用を「原前払の利子」と呼びます。「前払」ってのは要するに資本投下のことで、「年前払」は原材料など1年ごとに回転する流動資本を指し、「原前払」は用具などに投下される固定資本部分を表現する、と読み込んでもいいでしょう。100億の原前払があってこれは全面更新に10年かかり、年にその10分の1ずつかかる。この流れの部分を「利子」と呼び「原前払の利子」が毎年10億回収されなきゃならんってわけ。

地主階級は20億の収入。生産階級が納める地代に由来。剰余価値の形態ですな。消費されるだけの部分。貨幣20億が国王・教会などが消尽する消費資料(生産・不生産両階級の産物)に支出される。

不生産階級は10億の前払。貨幣資本として準備されています。

ということで、50億の価値の「生産物」と30億の貨幣が存在しています。

「範式」(1767)に手を入れ簡略化してみました(図を局面ごとにばらして並べ貨幣の還流を矢印で示したりしたものもつくりましたが、5本の線に番号を振って説明すればやっぱり足りるのでアップはやめときます)

番号を照らしあわせつつご覧ください。

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①生産階級が生産物10億を地主階級に売る。地主階級の手に、消費すべき農産物。貨幣10億が地主階級から生産階級に。
②生産階級が生産物10億を不生産階級に売る。不生産階級はこれを工作物の原料とする。貨幣10億が不生産階級から生産階級の手中に。
③地主階級は不生産階級から工作物10億を買う。地主が消費する消費手段が彼らのもとに。不生産階級の手に10億の貨幣。
④不生産階級は地主階級が支出したこの10億の貨幣を生産階級に折り返し、生産階級から生産物を買う。不生産階級内に、消費すべき農産物。
⑤生産階級は30億販売しその手中に30億の貨幣をもつが、そのうち20億を地主に対価なく地代として収める。残り10億は不生産階級の手に渡し、彼らから工作物(労働手段)を買い入れ固定資本(原前払)の補填。不生産階級は10億の貨幣で「前払の回復」。ふたたび10億の貨幣形態の元本。

こうしてもとに戻りました。ちょっと感動しますね。1枚の静止した表はこうして私たちに立体的に循環を表象させています。

最後の結果において最初の状態に回帰し、終着点が出発点となる再生産。これこそ時間的空間的変化放散を否定して自己を維持する社会システムの本体です。

かくのごとくに「生産物が価値・素材の両面から、いかに補填されつつ、再生産=物的、階級的双方の生産条件の再生がおこなわれるか」(藤田勝治郎「ケネーの経済表」『世界の古典名著』自由國民社、2001年、99頁)を「経済表」は提示したといえそう。

5本の線によって生産物の流通が示され、3部門間での総生産物の素材的補填関係が、価値の制約のもと成立した。階級関係の再生産でもある社会的再生産を縛る条件が5本の流れを介して示された、とでもいえましょうか。

生産階級の価値額50億「年回収」は、(原前払利子10+年前払20)+純収益20。生産物の素材形態としては、地主向け10(①)、不生産階級向け原料10(②)、不生産階級向け農産物(生活手段)10(④)、生産階級内20。不生産階級の工作物は、生産階級の原前払利子に充てられる工作物10(⑤)、地主向け工作物10(③)。不生産階級は生産階級から農生産物10を買い消費し、貨幣10を次年度前払に残す。

「経済表」の「意義と限界」は、屋嘉宗彦『新版 マルクス経済学と近代経済学』(青木書店、2003年、34-37頁「経済表の意義と限界」)など参照して下さい。

----追記--------------
補足をしました(>「経済表」(ケネー)6/17)。
by kamiyam_y | 2013-05-15 03:26 | 資本主義System(資本論)

相対的過剰人口論によるマルサス『人口論』批判

マルサスの『人口論』は、フランス革命の民主的な機運がイギリスに拡がったときに、それに対して生じた保守反動的頭脳の衝動であって、地主階級の土地所有・農地権益の人格的表現として、保護貿易、農業保護を主張した本です。

この有名な書物の中心的シェーマは、「算術級数的」食料生産と「幾何級数的」人口増大ですが、この図式というのは、『資本論』に出てくる転倒的諸観念を思い出して考えるとよいでしょう。商品の物神崇拝、「労賃」形態による剰余価値の隠蔽、剰余価値の利潤への転化による剰余価値の隠蔽、利子生み資本における利潤と利子の質的分割、「三位一体的定式」など、資本主義を正当化する物神性は、生産関係という媒介を捉えない迷信的態度、対立的諸関係を自然とみる神話的諸観念を意味します。

「算術級数的」食料生産増加を所与の技術とし、労働者階級の生殖・「幾何級数的」人口増加と直接結びつけて、貧困を自然とみなす抽象は、労働する諸個人の生産諸関係という媒介を見失うことであって、貧困を神の掟、調和的世界として永久化しようとする物象的利害の表現であり、システムの弁護論の1つの典型です。

資本の蓄積過程論は、転倒的諸観念を資本自身が解体する、この解体を諸個人が理解するってことで、諸個人が奴隷状態に閉じ込められてはいないというたいへん根底的で、かつ穏やかな正しい把握です。

マルクスの相対的過剰人口論では、マルサス『人口論』に対して、資本の蓄積運動が資本の平均的増殖欲求に比して労働者人口を過剰化することが対置されます。相対的剰余価値生産の諸方法、生産力の増大が、労働者人口を過剰化し労賃の運動を蓄積の要求内に限界づける手段に転じて、蓄積を条件づける。資本主義的蓄積の法則は貧困の蓄積の法則として貫かれ、蓄積の媒介におかれて過剰人口の存在は、『人口論』的表層から脱出して現れています。

生産の諸関係において存立する過剰人口現象を、生産の諸関係から切り離して直接的に問題の起点にする点でマルサスは俗物です。対照的に、労働価値論によって古典派の神髄は学として偉大です。
by kamiyam_y | 2013-01-31 21:29 | 資本主義System(資本論)

古典派経済学(4) 古典派経済学の解体と現代批判

シスモンディ(1773-1842。『新経済学原理』1820)のフルネームはジャン=シャルル=レオナール・シモンド・ド・シスモンディ。長い。ブラジルのサッカー選手の本名みたいだす(例えばジーコはアルトゥール・アントゥネス・コインブラ)

巨大資本を批判しつつも小生産を美化する後ろ向きなその姿勢によって後の時代にレーニンから反動的な「ロマン主義者」という扱いを受け、マルクス・エンゲルスの『党宣言』では「小ブルジョア社会主義のドン」呼ばわりされたわれらがシスモンですが、『資本論』ではブルジョア経済学の解体と没落の主体化として栄誉ある位置を与えられてもいます。

「……ブルジョア経済学はその越えることのできない限界に達してしまったのである。まだリカードの存命中に、そして彼に対立して、ブルジョア経済学にたいしてはシスモンディという人物の姿をとって批判が立ち向かったのである」(『資本論』第2版後書、マルクス・エンゲルス全集第23a巻、大月書店、S.20.)


フランス古典派シスモンディと対をなすイギリス古典派ディヴィッド・リカード(1772-1823。主著『経済学および課税の原理』1817)は古典派経済学の学的な本質の完成者。

古典派経済学がその頂点に到達することができたのは、産業革命を経ていない時代にあって資本主義的生産様式、資本主義的生産有機体の内的諸矛盾がまだ充分に展開されていなかったためです。「市民」的諸前提に立つ学者も諸利害の干渉から自由に冷酷な観察者として諸関係をとらええたというわけです。

「経済学がブルジョア的であるかぎり、すなわち……社会的生産の絶対的で最終的な姿として考えるかぎり、経済学が科学でありうるのは、ただ、階級闘争がまだ潜在的であるか、またはただ個別的現象としてしか現われていないあいだだけのことなのである。/……古典派経済学の最後の偉大な代表者リカードは、ついに意識的に、階級利益の対立、つまり労賃と利潤との対立、利潤と地代との対立を、彼の研究の跳躍点とするのであるが、彼は、この対立を素朴に社会的自然法則と考えることによって、そうするのである」(同上、S.19-20.)


資本主義社会体制を過渡的なものではなく歴史の完成と見る資本の知において、物象化された生産諸関係の対立的運動がまだ「潜在的」であるうちはこの知は科学でありえ、リカードは階級間の対立的関係を「素朴」に「社会的」な「自然法則」として研究し、古典派経済学を完成させます。リカードが『原理』「序文」で立てた課題は三大階級間の「分配を規定する諸法則を確定すること」(『経済学および課税の原理』(上・下)羽鳥卓也・吉澤芳樹訳、岩波書店、1987年)でした。

これを解き明かしていく原理としてリカードがスミスから継承し徹底しようとしたのが投下労働価値説。「生産された商品の交換価値は、その生産に投下される労働に比例する」という理解を原理とし、「効用」による価値規定論を廃棄し、スミスの不徹底を批判しながら、体系化された把握において、労働の熟練度、強度、「労働者とその家族の不要に要する食物、必需品および便宜品」一般利潤率、差額地代といった範疇の連鎖を彼は叙述していきます。

スミスに続く古典派経済学の思考において、スミスの資本主義理解に混在していた批判的・学問的性格と弁護論的性格とが分離したといってよいでしょう。前者はリカードという形をとり、後者は彼に対する卑俗な批判者という形をとって明快に分かれていきます。交換価値を需要によって説明し需要供給論に解消するロバート・マルサス(『経済学原理』1820年、小林時三郎訳、岩波書店、1968年)と、スミスにおける投下労働価値説の不徹底を批判するリカードとの対立は、現代の経済学的思考の座標軸を形成しているといっても過言ではなさそう。ちなみにロバート・L.ハイルブローナーがこの2人の思考を「陰気な牧師と懐疑的な実業家の極めて不穏な思想」(『入門経済思想史 世俗の思想家たち』八木甫・松原隆一郎・奥井智之・浮田聡・堀岡治男訳、ちくま学芸文庫、2001年)と呼んでいるのはちょっと面白い。

古い土地所有の支配を没落させ産業革命によって確立した産業資本による支配は、この新システムの内部の対立をも諸個人の眼前に示していくことになります。マニュファクチュアのなかから生れながらそれを駆逐した大工業は、機械の自動体系という協業に労働者を結合し、労働者を剰余価値の道具として自己に縛りつける資本の専制を完成。資本の自律的生活過程は周期的産業循環を描いて激しく運動し、過剰生産恐慌・生産力の周期的破壊としてシステムの有限性を垣間見せる。杉本栄一が「……資本主義体制そのものに含まれる諸矛盾が、リカァドォの予想したよりは、はるかに深刻であることが、その後の歴史の進行によって、明らかになった……」として「周期的恐慌」と「資本家階級と労働者階級との間の対立および闘争」を「古典派経済学の解体」の「事情」としてあげて論じているのはマルクスを踏まえた探求として1つ参考になりましょう(『近代経済学史』岩波書店、1953年、第1章第2節)

古典派経済学はピエール・ジョセフ・プルードン(1809-1865。『所有とは何か』1840-41)の「分業」の「集合力」論など社会主義思想に影響を残し、W.トムソン(1775-1833)らリカード派社会主義を生みだして終焉します。トマス・ホジスキン(1787-1869)の『労働擁護論』(1825)は、「流動資本は共存する労働にすぎず、固定資本も熟練労働にすぎないならば」(安藤悦子訳『世界思想教養全集5 イギリスの近代経済思想』河出書房新社、1964年、391頁)、資本がもたらすとされるあらゆる効果、利益はすべて労働のそれにほかならないと主張し、「個人と国民の両者の斬新的な改良を確保する最上の手段は、正義を遂行することであり、労働にたいして自己の全生産物を所有し享受するのをみとめることなのだ」(同上、392頁)と結びます(ホジスキンについては、末永茂喜『経済学史』三笠書房、1952年が1章を設けて論じているので興味のある方は参照されたい。同書は、大村泉・大和田寛・宮川彰編『『学説史』から始める経済学―剰余価値とは何か』八朔社、2009年において復刻)。ジョン・ロックにおいて私的所有が自己労働による私的所有として諸個人の自由の源泉とされたのに対し、資本の基礎としての大工業が確立した時点では常識的理解においてすでに資本家による私的所有は否定されるべきものに転じているのがわかります。

「経済学のすべての議論は私有財産を前提としている。この基本前提は、経済学にとっては、それ以上の検討をくわえられることのない、論駁をゆるさない事実なのである」(マルクス『聖家族』大内兵衛・細川嘉六監訳、マルクス・エンゲルス全集第2巻、大月書店、MEW. Bd.2, S.32.)

「私有財産の諸関係を、人間的合理的な関係としてうけいれる経済学は、その基本前提たる私有財産にたいし、たえまのない矛盾のうちに運動している」(同上、S.33.)


「私的所有」の展開が、古典派経済学という知的形態において「私的所有」の諸範疇の冷静な学的自己理解を産みだしたが、これは本質的にこの展開の内部にとどまる性格のものであり、古典派経済学の破綻は、「私的所有」の内部から超出する根本的な批判が客観的に要請されたことを意味しましょう。「私的所有」の展開があらわにする諸矛盾はさらに経済学的思考の形をとった社会認識を混迷に導いて、「私的所有」はその知的形態である古典派経済学の崩壊をみずから招きます。古典派経済学の破綻は古典派経済学の限界を超えるという客観的課題を指示しています。こうして、古典派経済学の批判として「私的所有」自身の自己批判的知が必然的に登場し、「経済学批判」という形をとって人類の実践的課題が提起されざるをえない。

古典派経済学の解体を経て、「私的所有」の内部にとどまらず「私的所有」の世界総体をその根源である人間の生産における自己対立に還帰して、自然の自己産出運動を自覚して把握するという人類社会の課題が提起されることになります。「私的所有」の「法則」にとどまる「ブルジョア的」思考を止揚する人類史的自覚の原理が労働の疎外として登場します。

「賃金の大きさは、はじめは、自由な労働者と自由な資本家の、自由な合意によって、さだめられる。あとになって、労働者はきめられるがままになることを余儀なくされ、資本家も、これをできるかぎり低くきめるように余儀なくされていることがわかる。契約当事者の自由のかわりに、強制がやってくる。……経済学者自身も、時おり、これらの矛盾に気づき、矛盾の発展は彼らの、たがいの論争のおもな内容となっている。ところが、これらの矛盾が彼らの意識にのぼってくると、彼らみずからが何かしら部分的なすがたをとった私有財産を攻撃する。……そのようにアダム・スミスは時おり資本家にたいし、デステュット・ド・トラシは両替商にたいし、シモンド・ド・シスモンディは工場制度にたいし、リカードは土地所有にたいし、ほとんどすべての近代の経済学者は非工業的資本家にたいして論争する」(同上、S.33-34.)


私的所有が過程の前提でありながら、私的所有はそれが想定している法的自由を現実的再生産過程の流れに置きこの法的自由の完結性をみずから破る物象的生産関係として実現します。引用文中経済学者たちがこの矛盾(取得法則の転回)に晒されるや否や「部分的な私的所有」を「攻撃」しだすって愉快ですね。

古典派経済学がマニュファクチュア全盛期というその生誕期における資本主義的社会システムの自己認識であるとすれば、これに対するマルクスの批判は資本主義的社会システムの現代の自己認識の最深部をなしています。私的所有という事実を動かぬ起点とする古典派経済学に対して、私的所有を自然に対して対象的に関わる人間の自己矛盾から導く総体把握は、古典派経済学が敷いた絨毯から出ることのない現代の知的諸形態の全体を包括して批判し続けています。
by kamiyam_y | 2012-11-24 21:18 | 資本主義System(資本論)