さっぽろ地下鉄のなかでマルクスを呼吸する、世界を呼吸する

戦争へのベルトコンベア

暑いったらありゃしない、やる気を起してもすぐにめげる1日でした。夜になって降りはじめた雨のみがほんとに救い。

まったく暑さのせいで、豊平川の橋を渡るときに、蛾がたくさん発生しているではありませんか。まちがっても、せわしく舞う蛾が顔面に当ったりしないよう、にと祈るようにして、ライトに照らされる蛾をよけるようにして歩きながら、渡り終えるまではプチ・ホラー、恐怖の数分間でした。


戦争へのベルトコンベア

『週刊東洋経済』5月17日特大号特集「子供格差」にはなかなか面白いレポートがありまして、とくに関心をもてたのが、堤未果「削られる米国の子供医療 落ちこぼれ生徒はイラクへ」。

記事によると、アメリカ合衆国では、ブッシュ政権下の「全国一斉学力テスト」で「生徒がわるい点数を出せば教師はクビにされ、国からの予算はカットされ」るようになったんだそうです。

テストの点数という脅しによって縛ればそれに適応した教師と学校が選別されて、効率のわるい教育労働力が排除される、競争にまかせることが資源の適正配分を果すのだから公共的なのだ、という話ですね。こういうおとぎ話にもちろんあくどい裏があるのは資本主義社会の自然法則。

おとぎ話は言います。この競争によって「落ちこぼれ」はなくなり、みんなハッピーだぜ。

この制度をもたらした法律は通称「おちこぼれゼロ法」。

ところがですね。記事は伝えます。「予算カットのあおりをもろに受ける貧困地域の学校はそのまま廃校になるケースが少なくない」。「貧困地域の学校ほど教師たちは追い詰められ、その結果、競争からこぼれ落ちる生徒は増えていく」。点数のわるい生徒は教師からかまってもらえなくなりますからね。学校が閉鎖されたら次の瞬間にはよりよい別の学校に通っている、なんてあるわけないですからね。

でもって教師も生徒も地域も疲弊していく。

落ちこぼれゼロどころかそれを増やす法だったのです。

数字のみが人間の行いを判定し、それに従うことが行いを公共的にするという迷信が教育を汚染するとどうなるか、アメリカって徹底してやっちゃうわけです。アメリカって人工国家ですから資本主義の迷信を何でも実験してみないと気が済まない。ある意味、めちゃくちゃ進歩的。進歩的ってのはそれ自体幸せってことではなく逆にそれ自体は悲惨さを極めるってことです。

市場を崇める物神崇拝が公教育を支配するようになると、学修のためのテストが、テストのためのテストに逆立ちし、所得格差、地域格差をさらに教育格差に増幅するだけではありません。

この教育「改革」の裏の意味を、資本が産み出すおとぎ話の裏の意味を、堤は語っています。

何かというと、軍への労働力の供給です。労働力を正規雇用と非正規雇用、失業者の貯水池に選別して運ぶ水路の役割を、学校教育は資本主義システムにおいて担わされます。教育を労働力の選別機構とする、教育の資本主義的利用は、ここでは、軍への労働力の流入としてその大衆疎外的な性格を拡大された形で現しています。

「落ちこぼれ生徒」は軍へ。非正規雇用予備軍たる大学生も、軍による教育ローンの肩代りといった誘因によって軍へ。生徒の情報が軍に提供されるというのが落ちこぼれ創出政策のおいしい目玉だったのだ。軍は入手した情報にしたがって落ちこぼれ生徒を「勧誘」し「イラク」に供給し、米国の超国籍的資本(矛盾ですね)の利益に学校教育は奉仕するという流れなのでした。

堤は、岩波新書『ルポ 貧困大国アメリカ』ですでにこの問題を論じています。そこでは、この法律を端的に「裏口徴兵政策」と呼んでます。言い得てますね。

市場は自由な連帯、自由な創意として美化されるがそんなものではなく、連帯の否定であって、《万人の万人による闘争》(ホッブス)によってのみ社会的につながりうる孤立した点的存在となった排他的・利己的な諸個人の社会的紐帯・共同性です。対する教育は、公民を育てる公共的なものというタテマエのもとにあります。資本は教育というこの公共的なものを自分の手段にしますが、この新自由主義的姿態では、市場を通じた資本の集中にならって、弱小学校も淘汰せよ、という実験がなされます。



《万人の万人による闘争》を公共性の尺度とする実験の過酷さの一例として、この記事を読みました。
by kamiyam_y | 2008-06-11 01:12 | 現代グローバリゼーション