さっぽろ地下鉄のなかでマルクスを呼吸する、世界を呼吸する

協業と機械-スミス『国富論』とマルクスの《資本の生産力》(7)

「社会的総資本の再生産と流通」というテーマの授業終了後、学生から楽しかったと言われました。一所懸命ノートをとったからのようでしたが、この箇所は面白さを伝えるのがけっこう難しかったりするところ。

流通によって、産業資本が絡みあって全体の再生産をしているのですが、この再生産の条件が、恐慌の条件でもあることがミソです。神のみえざる手が毎年自動的にバランスをとるわけもなく、生産の社会的な統一性が暴力的につっぱしるのが恐慌。

無政府的な自然発生的な生産の限界があらわれるといえましょうが、資本主義的生産はその存続において、自然発生的ではない意識的要因を必要とします。矛盾です。

で、まとめの対比。無秩序な秩序である資本主義では、交換という非社会的な私的な生産が、大工業とそれにもとづく工場法という社会的な生産を自分の手段にしようとしながら、それとぶつかりあって、時代が切り開かれていきます。

まず交換。社会的なものを手段におとしめるという非社会的な孤立した生産のありかたです。

・・・[略]・・・交換取引は社会的な関係の反対物である.(「ジェームズ・ミルに関するノート」(1844年、杉原四郎・重田晃一訳『マルクス 経済学ノート』未来者、1962年、101頁)

われわれの生産は,人間としての人間のためにおこなう,人間の生産ではない.つまり,どうみてもそれは社会的な生産ではない.(同上、112頁。傍点省略以下同様)

・・・[略]・・・私が貴君との間にむすんでいる社会的な関係だとか,貴君の欲求のために働いているのだとかいったたぐいのことは,まるきり仮象であり,われわれの相互の間の補完ということも、これまた同様にまるきり仮象であって、実はわれわれの相互の間の掠奪が,これらの仮象を支える土台になっている.(同上、114頁)


交換が自覚的にみんなのために働いている証だ、という見方は仮象で、人間の類的な本質が手段におとしめられているのが実態だ、というわけ。人間が自己の《類》から疎外されることは、人間自身の自己疎外です。

この交換を介した貨幣の増大という私的形式がまた、社会的な生産力をつくりだします。他人の私的所有物の世界というかたちで。疎外とは、疎外という産出行為といえます。

で、つぎに、大工業。

社会的生産過程の種々雑多な外観上は無間連な骨化した請姿態は、自然科学の意識的に計画的な、それぞれ所期の有用効果に応じて体系的に特殊化された応用に分解された。(『資本論』大月書店版、S.510.)
近代工業の技術的基礎は革命的なのであるが、以前のすべての生産様式の技術的基礎は本質的に保守的だったのである。機械や化学的工程やその他の方法によって、近代工業は、生産の技術的基礎とともに労働者の機能や労働過程の社会的結合をも絶えず変革する。(S.511.)


生産方法の変革によって、資本主義は資本主義になります。封建社会からひきついだ生産用法を廃棄して、労働の合目的な性格、地球と人間とを開発する普遍的性格を解放します。敵対的な形で。

計画的な協働という主体的要因と、機械の利用という客体的要因が発展し、科学を意識的・計画的に適用した大工業的生産が資本にもとづく生産にふさわしい姿になります。

生産の不断の変革は蓄積が求めるとともに、それが科学の適用によって技術的に基礎づけられる、というの興味深い。

・・・・・・労働過程の協業的性格は、今までは、労働手段そのものの性質によって命ぜられた技術的必然となるのである。(S.407.強調は省略。)


機械体系によって協業が必然となり、私的生産の内部に、労働者の社会関係が生まれてきます。

大工業によって、部分的とはいえ生産過程に対する社会的な制御が必然化し、個人の発展の可能性とがもたらされます。

 おそらくイギリス議会の独創性を非難するような人はないであろうが、要するに、この議会は、経験によって、労働日の制限や規制にたいするいわゆる生産上の自然障害はすべて一つの強制法によって簡単に一掃できるという見解に到達したのである。それゆえ、ある産業部門で工場法が施行されるときには、その間に工場主たちの手で技術上の諸障害を除くための六か月から一八か月の期間がおかれるのである。ミラボーの、「不可能?そんなばかなことを言ってくれるな!」・・・・・・という言葉は、近代の技術学にはことによくあてはまる。(S.501.)

 資本主義的生産様式にたいしては最も簡単な清潔保健設備でさえも国家の側から強制法によって押しつけられなければならないということ、これほどよくこの生産様式を特徴づけうるものがあろうか?(S.505.)


現代においてこそすごくよく分かる記述ではないでしょうか。

したがってまた、それ[近代工業-引用者]は社会のなかでの分業をも絶えず変革し、大量の資本と労働者の大群とを一つの生産部門から他の生産部門へと絶えまなく投げ出し投げ入れる。したがって、大工業の本性は、労働の転換、機能の流動、労働者の全面的可動性を必然的にする。他面では、大工業は、その資本主義的形態において、古い分業をその骨化した分枝をつけたままで再生産する。……いまや労働の転換が、ただ圧倒的な自然法則としてのみ、また、至るところで障害にぶつかる自然法則の盲目的な破壊作用を伴ってのみ、実現されるとすれば、大工業は、いろいろな労働の転換、したがってまた労働者のできるだけの多面性を一般的な社会的生産法則として承認し、この法則の正常な実現に諸関係を適合させることを、大工業の破局そのものをつうじて、生死の問題にする。(S.511-512.)

「靴屋は靴以外のことには手を出すな」!……この、手工業的な知恵の頂点……は、時計師ウォットが蒸気機関を、理髪師アークライトが縦糸織機を、宝石細工職人フルトンが汽船を発明した瞬間から、ばかげきった文句になったのである。(S.512-513.)


マニュファクチャーは分業によって人間を固定化し、大工業によって一掃されてしまいますが、大工業は人間を機械の部品として一面的な存在にしてしまう。その反面、労働力をたえずある生産から他の生産に移動をさせねばならず、労働者を多面的な存在にせざるをえない。

アークライトの話は面白いですね。封建制の身分によって固定された職業から、単に法的にではなく、人がじっさいに職業を変える。現在の非正規雇用の強制による職業移動や、職業上の必要による勉強の継続と比べると、発明の話の誇らしさは牧歌的なかんじがしますが、現在でこそ、平凡なふつうの人がさまざまな可能性を開発してると思えます。ほんの数世代さかのぼるだけで、勉強するのは武士の一部であったという時代でした。これに対して、高等教育が短期間にこれだけ普及したことはすごいんじゃないでしょうか。自由時間の最大限の収奪において、人間の発展の可能性がもたらされてるという逆説です。
(了)
by kamiyam_y | 2007-11-22 12:23 | 資本主義System(資本論)