さっぽろ地下鉄のなかでマルクスを呼吸する、世界を呼吸する

剰余人口Surpluspopulation(5)

(続き)

絶対的な窮乏が、現役労働者と失業者への分割を生む

まとめのかわりに最後に、『要綱』のマルサス批判から長々と引用しておきます。

労働能力を買われなければならないのに買われない人を失業者とよびます。資本にがっちりと捕まえられている現役労働者に対して、労働力販売が不安定な状態にある半失業者も一種の失業者です。

失業者に対して、対極には剰余生産物を食い尽くすだけの人口も現れます。

なぜか、この人口は失業者とはいわれません。不思議です。

「資本がさらに発展していくなかで示すように、この剰余人口のうち産業的な〔勤労的な〕一部分-産業資本家-とならんで、純粋に消費するだけも一部分が分肢してくる。こののらくら者の仕事は、他人の生産物を食い尽くすことであり、……。経済学者たちがこの剰余人口について論じるときには、こののらくら者の剰余人口は問題にされない。反対にそれは-食い尽くすという彼らの仕事は-狂信的人口論者によって、まさに必要人口として取り扱われるのであるが……。」(S.496-497)


必要人口として扱われるのらくら者は資本から直に養われている。この対極に、資本から排除された人口が生み出されています。

資本のもとに直接労働能力を集められた現役労働者も、資本から排除されているのですが、剰余人口化された労働者群は、この排除をまさに文字通りの排除にして示しています。過剰人口において、排除は、資本によって労働能力を安定して継続的に日々買われることができない、という排除として実現しています。現役労働者における排除を補完しています。

資本から弾き出された労働者は、資本主義における剰余人口です。剰余人口は、人口増大が食料増大をはるかにうわまわるといった馬鹿話ではありません。剰余人口は、労働能力の増大と食料の増大との抽象的な結びつきによって生まれるのではありません。こういう結びつきを、歴史的形態規定性を欠いた空虚な抽象といいます。生産のありかたから切り離された超歴史的な過剰人口なんてないのです。

資本から弾き出された剰余人口は、資本による剰余労働収奪にとっての剰余であって、この剰余は、現役労働者に対する労働条件悪化の圧力にもなり、資本が急激な拡大のさいに使える労働能力のプールでもあり、利潤率低下による蓄積の低下をおさえる土台でもあります。剰余人口は、資本の蓄積欲求に対する剰余でしかありません。まさに『資本論』蓄積論の『相対的過剰人口」が批判するところです。

ここは『要綱』から引用します。

「この剰余〔Surplus〕は純粋に相対的なものである。すなわち、けっして生存手段一般にたいする関係における剰余ではなく、生存手段を生産する様式にたいする関係における剰余である」(S.496)


労働能力を買われない人口は、資本の蓄積という生産のありかたによってつくりだされるのです。剰余労働の収奪が剰余人口をもたらす、といえます。

資本内部の協業という社会的な力の内部にいながら、この社会的力から排除されるのが、現役労働者だとしたら、この協業からも排除されるのが、剰余人口です。

労働能力から切り離された形で、生産手段や生産物が集積する、という資本の大前提がそもそもあらゆる労働者を、潜在的に、労働能力を買われない喪失者にしています。

自己の客体的諸条件からの分離を絶対的窮乏とよぶならば、この窮乏ゆえに、資本に吸収される労働者と、資本から弾き出される労働者とがいるわけです。

「自由な労働者という概念のなかには、すでに、彼が被救済民〔Pauper〕であるということ、潜勢的な被救済民であるということがふくまれている。彼の経済的諸条件からみれば、彼は、たんなる生きた労働能力であり、したがってまた生活の諸欲求をも備えている。労働能力以外の労働能力の実現のための客体的諸条件を欠いた、あらゆる面から見ての窮乏。資本家が彼の剰余労働を使用することができなければ、彼は自分の必要労働をすることができず、自分の生活手段を生産することができない。……彼が労働者として生きていくことができるのは、ただ、彼の労働能力を資本のうちの労働ファンドをなす部分と交換するかぎりでしかない。この交換そのものが、彼にとっては偶然的な、彼の有機的存在にとってはどうでもよい諸条件と結つけられている。だから彼は、潜勢的な被救済民なのである。さらに、資本にもとづく生産の条件は、彼がますます多くの剰余労働を生産することなのだから、ますます多くの必要労働が自由になる。つまり、彼の被救済民状態〔Pauperismus〕の機会は増大するのである。剰余労働〔Surplusarbeit〕の発展には、剰余人口〔Surpluspopulation〕の発展が対応する。」(S.492-493)


自己の客体的諸条件を喪失した裸の労働能力であるに落とされていることを《窮乏》とよべば、この窮乏ゆえに、労働者は強制労働に身を捧げる部類と、強制遊休の生け贄にされる部類とに分割されます。

窮乏する諸個人のなかに、現役労働者も、失業・半失業者もふくまれています。窮乏するがゆえに、労働する諸個人は窮乏を通じて社会をつくっています。社会づくりは《窮乏》であり、蓄積は、絶対的な分断という《窮乏》を再生産することである、とでもいえましょうか。客体的諸条件と労働能力の分離が、労働者を資本に吸収される部分と、資本の外に排出される部分とに分けている、といってみたいわけです。《「剰余労働の発展には、剰余人口の発展が対応する》のです。(終り)
by kamiyam_y | 2007-09-06 02:34 | 資本主義System(資本論)