さっぽろ地下鉄のなかでマルクスを呼吸する、世界を呼吸する

抽象物としての「市場経済」(3)

むかしなにかのシンポジウムで、「資本主義」という言葉を使うのはやめよう、いまは「市場経済」なんだ、という趣旨の自説を述べた人がいたのをふと思い出しました。たぶん自称社会主義国家の崩壊からそれほど経っていなかった頃だと思います。いまは逆ですよね。資本主義の弁護も批判も、資本主義の外部に頼ることができません。資本主義システムとその矛盾をつかむことだけが問題です。

先日唯物論研究会というところで報告をしまして、話した内容は、【生産物の交換は、資本主義以前にも部分的には存在したが、自己再生産的なシステムとしてイメージされる「市場経済」なるものは資本主義システムにほかならず、資本主義から切り離された「市場経済」なるものは、存在していないものを論じているにすぎない幻想なのだ】といったこと。これに関連して、久々の続きを少し。

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〈抽象物としての「市場経済」〉 (1)(2)では、「経済学批判要綱」として知られるマルクスの1857-58年の草稿の「資本に先行する諸形態(フォルメン)」とよばれる箇所を読んでメモをしてみました。

その内容は、《交換価値》は、労働する諸個人が自己の客体的諸条件を喪失することによってなりたつ、という点に集約されます。

以下、この点を要約的に解説してみます。

① 交換価値は使用価値を包摂して生きている。

「市場」とは、交換価値の運動によってなりたっている社会的生産のことである。交換が、個別の生産の社会的生産への収束と、社会的生産の個別の生産への発散を媒介している。この交換価値が生き生きとそこに現れているとは、どういうことか。流通する生産物である商品は、交換価値と使用価値という排除しあう性質をもつ。交換価値は、経済的諸関係として意味のある独自の使用価値として、生きた労働を自分の過程に引き込む。

流通は生産を包み込むことで実在する、といってもいい。交換価値が絶えることなくそこに在り続けるためには、交換価値が自分を生み出す独自の使用価値を包摂することによって自分の能動性を維持しなければならない。これが交換価値にもとづく生産である。「市場」は生きた労働を、過去の労働である交換価値が吸収する資本の運動としてしかリアルな社会的生産とはなりえない。交換価値は、使用価値を包摂しつつ交換価値として不断に存在する。

『資本論』では「交換価値」は価値の現象形態として具体化されるけれど、ここでは、私的生産における生産の社会性を示している。交換価値の発展が資本なのである。

交換価値は資本であり、それは生きた労働を自分の前提として必要としている。

② 交換価値の実現は、交換価値の否定である。

生きた労働は、生きた労働を提供する労働者が必要とする生活諸手段を越える剰余生産物を生みだす。労働者は、その労働の処分権、労働能力を貨幣という交換価値と交換するが、これは労働能力を再生するのに要する生活諸手段の価値に等しい。生きた労働は等価交換を越える剰余価値を資本という自己維持的な交換価値に与える。交換価値は、交換の否定によってリアルであるという自己解体的、自己分裂的な運動である。剰余価値の生産は、等価交換の否定なのだからだ。

③ 交換価値は自分のなかに目的と手段をもつ生きた運動である。

このような、消えない、生きている交換価値は、剰余価値を自分の過程の結果として自分にもたらす。

この剰余価値は、さらに交換価値の運動の出発点になる。つまり資本は、剰余価値を資本として投下することで、剰余資本の成立によって生きている。剰余資本を立てることで、流通は資本の流通である。いいかえると、流通は生産を包摂して生きており、生産は資本の流通過程として流通を立てる。全体としての生産過程の姿態として流通はリアルである。

交換価値は自己を目的として、生きた労働を手段として包摂する能動的なものとして実在する。

④ 交換価値の能動性は、労働する諸個人の自己の対象からの疎外を前提している。

交換価値の自立において、剰余価値の剰余資本への転化において、働く人々の対象ははじめからすべて、彼等の労働が等価なしに他人に取得され蓄積したものである。剰余資本は労働の疎外、不等価交換という労働のありようを示す。

《剰余資本においては、…[略]…いっさいの実在する現在の資本が、そのあらゆる要素が、一様に、対象化され、かつ資本によって取得された他人の労働として、交換なしに、等価物と引き替えられることなしに取得されているのである。》(Gr.,S.407.「要綱」は『マルクス資本論草稿集』①②、資本論草稿集翻訳委員会訳、大月書店、1993年、から。訳文中の強調、ルビ、注釈等は基本的に省略する。Gr.と略す。『資本論』は大月書店版。D.K.と略す。)


労働者は自分たちの剰余労働の産物によって雇われている。労働者自身の剰余労働によって、労働者は自分が従属する自立した交換価値を不断に生み出している。

⑤ 交換(「市場」)は、このような剰余資本が示す事実とは反対の、資本主義の弁護イデオロギーを分泌する。

剰余価値の資本化という連続性から断ち切られた直接的なものが、「市場」としてイメージされる個別の交換であり、この交換は、生産された交換価値どうしの交換であるから、等価交換である。資本は、一回限りの交換として現われる直接的な姿においては、単なる等価交換である。

しかし、生産過程の連続においては、過程の連続性を断ち切られて眼前に現われる等価交換という姿は、ウソである。孤立した交換は、資本主義システムを信仰的にカモフラージュする意識を分泌する器官にほかならない。

弁護論は、資本の剰余資本化、資本の蓄積を、現在の運動として捉えずに、単なる等価交換から説明する。それ以外に説明できない。だから、資本蓄積は「非資本家がたくさん節約して貯め込んだ結果、資本家になった」から実現した、というおとぎ話が信じられる。

⑥ 剰余資本は、この弁護イデオロギーを自ら不断に批判する。

実際において、自由平等の交換価値のシステムは、等価交換の否定によって、自由平等の否定によって成り立っている。自由平等を分泌する点は、生産過程総体の部分にすぎない交換に生まれている。交換が生み出す本質隠蔽的な、信仰は、交換の実現が自ら破綻せしめる。

⑦ 労働する諸個人の自己の客体からの疎外を、この疎外自身が自ら止揚する地点に向かって進む。

交換価値のシステムは、労働者が自己の対象、客体的諸条件(生産手段、生活手段、貨幣)のすべてから排除されることを事実上の前提としており、この前提自体を剰余資本の産出において不断に生みだしている。先行する状態から、交換価値のシステムへ移行は、労働者がその客体的諸条件から分離する過程である。私的所有の完成は労働者の非所有の完成である。

《…[略]…労働がふたたび、自己の客体的諸条件にたいして、自己の所有物にたいする様態で関わるためには、…[略]…対象化された労働と労働能力との交換、従ってまた交換なしでの生きた労働の取得を措定する私的交換の体制に代わって、それとは別の一体制が登場しなければならないのである。》(S.412)


等価交換を立てながらそれを否定する私的交換のシステムが資本主義であり、これは労働が自己の客体的諸条件に対して他人の所有物に対する様態で関わることを前提している。疎外された労働が他人の富、他人の所有物を増大させることが、流通、交換価値を立てている。

《私的交換》のシステムは、労働する諸個人の自己の客体からの疎外によって実在する。労働する諸個人が自己の客体を奪還することだけが、唯一現代の地球規模での問題群が示す課題である。環境保全と両立する「持続可能な開発」とは、労働する諸個人から独立した客体の運動を止揚すること、この独立によってなりたつ私的利害追求による破壊を止揚することを求めるのだから。

《私的交換》のシステムは、自身を止揚する地点に向かって進まざるをえない。

⑧ 資本主義システムの外部に変革の立脚点があるのではない。

交換価値の発展は交換価値にもとづく生産そのものを突破する。資本主義システムの「外部」によって資本主義システムを人為的に崩壊させるのではないし、そんな無垢で純粋な外部を想定すること自体が、資本主義をその表象によって隠そうとする弁護イデオロギーの裏返しにすぎない。外部とは表象なのだから。

労働の発展が社会を変える。資本主義システムも、それを超えるための「外部」によって変るのではない。「生活世界」が「システム」によって「植民地化」されるのでもなければ、「生活世界」によって解放が実現するのでもない。

⑨ 「市場」は、資本主義システム総体の一局面としてのみ存在している。

「市場経済」なる自立的なものを想定するのは、あいまいな表象か、常識か、ただの弁護論である。「市場」は資本の自己形態としてのみ存在している。

ざっと書いてみましたが、まず②あたりをさらに追求してみましょう。簡単にですが。

(続く)
by kamiyam_y | 2007-07-24 01:10 | 資本主義System(資本論)