さっぽろ地下鉄のなかでマルクスを呼吸する、世界を呼吸する

隔離ゆえに

不潔な時代に育ったおじさんたちに痲疹(ハシカ)は関係ない。

<はしか>若者に感染拡大 予防接種敬遠の世代 | エキサイトニュース

私ののどが痛かったのも活ボタンエビを食べて暴飲しただけのことです。気持ち悪い話が苦手な人と、論点の錯綜につきあえない人は、この先読まない方がいいですけど、ボタンエビ、



料理してくださった方に感謝して美味しくいただきました。噛み切った後も残った頭部のヒゲがぴくぴく動いてる、なんてこと書くのは、お下劣ですからよしましょう。

魚の活け作りを野蛮とみなす人もいますが、文化です。これが野蛮なら、豚の顔やら足やら食べるのだって十分野蛮だということはいうまでもない。猿の脳みそだってある文化では立派な料理だし、北海道の田舎に行けば、じいさんがつかまえた熊を解体して鍋にしてくれます。

皆さんはどんな変わった食べ物を食べたことありますか?私はたいしてない。せいぜい、居酒屋で、すずめ食べたくらいか。言われなきゃただのひな鳥の唐揚げです。どこでつかまえたのかは謎ですが、私の学生時代の話ですから、その分いまより野蛮な時代だったんでしょう。

商品・貨幣経済が、現物経済をベースにした昔の封建社会よりも、優れている点は、生産するプロセスを消費から断ち切ってしまう点にあります。生産は社会から隔離されてそれだけに専念する人がいる。隔離された生産は、生産物を貨幣と交換することでつながっている。貨幣が生産をつないでいる。

封建制社会だと土地に人が縛りつけられることで、各種の生産に人が割りあてられている。封建制社会は局所的な経済ですが、貨幣でつなげられた生産は、本質的にグローバルです。一つ一つの生産は隔離されてしまうのに。

一つ一つの生産に人は押し込められる一方で、生産全体は多様になる。欲求も多様になる。流通の表に浮かび上がってきた生産物は、背後のプロセスを消去して、買い手の欲求を満たす。

ペットの買い手は、売られなかった子犬がどこに行くかを知らず、焼き肉の食い手は、肉の解体現場をみたこともない。だからこそ平気で欲求を多様に開花していくことができる。

ただし、社会を見る見方はおそらく消費者の視点から出ることがなければ、深まらないはずです。人間社会がそこから沸き立つ生産という竈(かまど)を知らないのだから。

よい消費者になるとか、生産物の製造責任を買い手の立場から問うとかって、社会をよくしていくための大事なツールではあるけれど、限界がある。限界はあるけれど、そうしたツールはそれ自体がじつは生産自身の要因であり、生産の姿として不可避だし、進歩的です。

そうしたツールは、生産が生産自身をコントロールしようとする試みです。もっといえば、隔離された生産が隔離された生産というありようを壊していくという意味をもちます。隔離された生産と貨幣増大によるそれらの結合を、資本主義的生産とよべば、資本主義的生産は、隔離と無政府性を前提する生産であるがゆえに、生産の社会的コントロールを喚起するのだ、といえましょう。

隔離は隔離を否定する社会的コントロールを要請し、社会的コントロールは隔離において否定されている。

なぜ、コントロールが貨幣(市場)とは別に必要なのか。それこそまさに、生産と消費とが分断されているという商品経済の特質そのものの限界ゆえ、なのです。分断ゆえに、過剰生産恐慌が資本主義経済の正常な生命過程であり、分断ゆえに、大量生産・高賃金・長時間労働・大量消費というフォーディズムが成立した。分断ゆえに、あるいは隔離ゆえに、巨大な生産力がコントロールされずに、社会的、協同的に用いられずに、企業献金や環境破壊といった形をとる。

やや飛躍して言ってみたわけですが、いいかえると、資本主義社会(現代)において、生産のコントロールの試みは、コントロールを否定する資本主義的生産がその持続のために求めざるを得ないものなのです。

《それだからこそ、私は、ことにイギリスの工場立法の歴史、その内容、その成果には、本巻のなかであのように詳細な叙述のページをさいたのである》(資本論第1版序文、岡崎訳)

産業資本というのは、労働者が、自分の維持に必要な消費むけの財貨よりもたくさんの生産物をつくることでなりたっています。この産業資本という生産が、社会の共同の利益をつかんだら、それが資本主義社会です。

社会の共同の利益とは、端的に社会的生産のこと。つまり、労働力の再生産と各種生産への割りあてであって、これがないと社会が存在しないし、人間が存在しない、という人間の原点です。

この原点を封建的な生産がつかんだら、封建制社会。封建的な生産とは、農民が土地に縛りつけられていて、職業の自由がなく、領主階級に貢いでいるような生産です。

この原点を産業資本がつかんだら、資本主義社会。産業資本が社会的生産の媒介者の位置を握ることといってもいい。

資本主義社会はそれが存続するためには、社会の共同の利益を媒介しなければなりません。社会の多数の犠牲をともなう矛盾した形でであれ、共同の利益が資本の運動に貫かれていなくてはならない。資本は、労働力の再生産という社会共同の利益を実現しなければならないので、労働時間に対する社会的規制が一切ない初期の超野蛮な資本主義は、この共同利益に則って自分の超野蛮さを否定しなければ存続できない。誤解を恐れずいえば、労働者に労働習慣のないような資本主義の始まりの時期には労働時間延長が社会的な利益であり、その後には、労働時間延長に歯止めをかけることが社会的な利益だった、というようにいえなくもない。社会の共同利益の根本を資本がつかむから資本主義なのです。

ちなみに。考えてみると、封建制社会から資本主義社会に到達した人類は、未開状態からほんの数百・数十世代くらいしか、労働の産物を継承していないんですね。それなのにここまでグローバルに科学を発展させ、生産を発展させた。人間の偉大さを、労働により世界をつくる人間の偉大さを感じずにはいられないぜ。共同の利益の根本のありようが資本では満たせなくなったら、資本のなかみは諸個人の共同の道具として解放されるだけのことだ。と、まあ思った次第。
by kamiyam_y | 2007-05-24 23:40 | 資本主義System(資本論)