さっぽろ地下鉄のなかでマルクスを呼吸する、世界を呼吸する

大学で社会科学を学ぶということ

一気に書きましたけど、タイトルほどのものではないです。

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履修登録の時期ですんごく混み合ってるんですよ。狭い校舎がいっそう狭くなるわい。

大学院生向け、留年生向け、卒業延期者向け、新入生向け、三年生向け、教職課程受講者向け、などなど大学って今の時期、ガイダンスだらけ。関係者の皆さんお疲れ様です(いやご愁傷様です、かな)。

30年近く前にも大先生が嘆いていました。

「今の学生生活は、ガイダンス漬けである。……生活はそれだけ受け身となる」(隅谷三喜男『大学で何を学ぶか』岩波書店、1981年、53頁)

私とてガイダンスという方法で情報を整理して提供すること自体は否定しませんし、学則や講義要項を渡して「読んでおけだ」と、後になって泣きつく学生が出そうですから予防的な措置としてガイダンスをするのも効率的かもしれません。

けれど、それだけの話です。

以下、この「受け身」性についてちょっと拘ってみますね。

この受け身性には社会科学的に立派な理由があります。資本主義的生産様式という理由が。特殊日本的なもの、消費社会的な要因など諸々の他の要因は無視して、指摘だけしておきましょう。

資本主義という社会の様式はそもそも、人から積極性を奪うことで成り立っているんです。

というのは、まず第1に、資本主義は人の結びつきをすべて貨幣の増殖に置き換えていく運動だからです。人は受け身ですみます。

貨幣は、交換価値によるモノの配分として、人を自由に連結していきます。ここに、市民革命の精神も発生します。貨幣が労働を結びつけるのですから、王権による支配が要らないわけです。個人が個人として社会関係の作り手になっていく進歩性もここにあります。

しかし同時に、金銭関係の浸透は、人の結びつきである共同体を壊すことですから、必ず人を孤立させるように作用します。生存に必要なのは共同体の手足になることではなく自分の利益を追求すること、という社会の分解状態が生じます。

第2に、より積極的に貨幣が貨幣であるためには、貨幣は人を孤立させるだけではなく彼等の結合労働自体を貨幣の道具にするからです。積極性はこの増殖する貨幣のなかに、資本のなかにあります。人が貨幣の増殖のための道具(客体)になるという労働過程の転倒が社会に行き渡るため、個人の社会的積極性は制限されます。積極性は資本の側にあります。

けれども、ここが強調すべきことですけど、資本をつくる労働者の積極的なこの受け身性こそが、諸個人を社会的主体として立ち上げていくためには欠かせない起点をつくっているんです。受け身ゆえに受け身からの脱却に反転せざるをえないのですね。物神崇拝すること、会社の奴隷になることは潜在的には素晴らしいものを含んでいる。

資本のもとでの労働過程の発展は、働く人々なしには社会が発展しないことを実証し、実質的に社会の基盤に、働く人々の積極的な関与を染みこませていきます。

受け身性に対して、資本主義という生産様式が、受け身性からの脱却という結果へと導いていくほかはないのは、まず労働過程が実質的に働く大衆のものになっていくからです。生産力がますます、労働する諸個人の社会的な生産力に転換するからです。

それだけではありません。

この社会的生産力は、直接には、暴走する貨幣の増殖の手段です。資本は、労働の社会的生産力をつくりだし、それを容赦なく殺戮にも使えば、環境破壊や健康破壊にも使います。

温暖化現象、戦争、国際的な食の安全問題、企業による民主主義の空洞化、労働問題、超国籍的な資本による収奪など地球大のニュースを辿っていくと、すべて、資本(貨幣の増殖運動)に突き当たります。貨幣の増殖運動は、私たちの受け身的な生活に対して多様な影響を与え、受け身にとどまることの限界を社会的に見えるようにするでしょう。私たちの長時間労働を合法化するホワイトカラーエグゼンプション導入の動きは、企業の利潤追求、資本の増殖なしには理解できません。

受け身性を反転する作用を資本主義が自ら秘めているのは、まさに資本主義の矛盾が、人々の積極的な関わりを求めざるをえないからでもあるのです。

資本の増殖は労働の社会的生産力を人に対しても環境に対しても破壊的に作用するよう放置するので、この社会的な基盤に人々が積極的に関与しないかぎり、問題が解決しない。問題を解決するためには、人々の関与のしくみを資本主義は鍛え練り上げていかざるをえないが、鍛え上げることは資本主義が前提していた人々の受け身と貨幣の支配を超える要因を熟成させることになります。



かくして、ガイダンスという情報の整理はただの入口なのでした。社会のかかえる問題に対して積極的にかかわる活動性を養い鍛錬していくことこそ、ガイダンスそのものの先にある学の世界のはずなのであり、全力を傾注すべき教育活動の中心であるべきはずのものなのです・・・・・けれど(笑)。

実際には大学の学問もいろいろ資本の作用に汚染されてますし。学問自体が一種の運動であり、闘いの場でもあります。

なお、もちろんのことですけれど学の途をつくりだすこと自体は、自由な個人の営みです。学的蓄積と継承をになう共同体組織がもっぱら大学であるとしてもそのこと自体は、学の途をたどることやつくることにとっては本質的な問題ではありません。学び方を学ぶための場を提供するのが大学だとしたら、大学の外でこそ学ぶことが始まるのであり、学ぶこと、教育することが大学の役割だとたら、それは大学という場を離れても可能なものというべきでしょう。
by kamiyam_y | 2007-04-10 19:41 | 労働論(メタ資本論)