さっぽろ地下鉄のなかでマルクスを呼吸する、世界を呼吸する

【物神崇拝 Fetischismus】

▽ 寒いなか、天気予報はウソだ、寒くなんかない、と念じて歩きまわったせいか、風邪をひき、昨晩は11時間も寝てしまいました。たいへんにスッキリした目覚めでございました。

▽ 最高裁も大がかりな捏造に参加。

保坂展人のどこどこ日記 「裁判員制度タウンミーティング」とメディア支配

これからは権力の広告には、広告という文字が入りませんから気をつけるように。

▽ ちょっと物神崇拝について確認です。

【物神崇拝 Fetischismus】

……ここで人間にとって諸物の関係という幻影的な形態をとるものは、ただ人間自身の特定の社会的関係でしかないのである。それゆえ、その類例を見いだすためには、われわれは宗教的世界の夢幻境に逃げこまなければならない。ここでは、人間の頭の産物が、それ自身の生命を与えられてそれら自身のあいだでも人間とのあいだでも関係を結ぶ独立した姿に見える。同様に、商品世界では人間の手の生産物がそう見える。これを私は物神崇拝と呼ぶのであるが、それは、労働生産物が商品として生産されるやいなやこれに付着するものであり、したがって商品生産と不可分なものである。

……生産者たちにとっては、彼らの私的諸労働の社会的関係は、そのあるがままのものとして現われるのである。すなわち、諸人格が自分たちの労働そのものにおいて結ぶ直接に社会的な諸関係としてではなく、むしろ諸人格の物象的な諸関係および諸物象の社会的な諸関係として、現われるのである。

このような諸形態こそはまさにブルジョア経済学の諸範疇をなしているのである。それらの形態こそは、この歴史的に規定された社会的生産様式の、商品生産の、生産関係についての社会的に認められた、つまり客観的な思想形態なのである。

(『資本論』第1篇第四節「商品の物神的性格とその秘密(Der Fetischcharakter der Ware und sein Geheimnis」岡崎訳、ただしFethischは「呪物」から「物神」に、Personは「個人」から「人格」に、「物」はSacheを「物象」に変えた。)


マルクスの物神崇拝論の核心は、商品生産における《私的諸労働》の理解にある。労働の自己解体的なありようが物神に屈折している。

私たちは金属や紙をカネだと疑わず、他の商品を引きよせる力がそこにあることを確信している。だが、物理的素材としての金属そのものや紙そのものに、カネのカネたるゆえんがあるのではない。

これはカネだという約束が紙をカネにしているのでもない。約束が妥当するには、約束以前に紙がカネとして機能できなければならないからだ。崇拝されるには実際に貨幣に力がなければならないといってもいい。

この貨幣の力を人間自身の労働の関係として発生的につかみなおすことが学的理解になる。

人間は労働において人格として社会を構成する。ところが、商品生産においては、労働において人間は結びあわない。交換における接触のみが社会的関係である。交換されねばならないものとして生産された商品(貨幣)に力がある。物象に力がある。

物象の結びつきは、自然物の結びつきに見える。貨幣が人間を支配する労働における転倒は、人間が自分たちの産物なのにそれを物として拝むという転倒によって、いわば隠されている。

転倒は経済学の範疇として固定化される。それゆえに、経済学批判として、生産様式の批判的理解が遂行される。労働にもとづく社会の再認識はすぐれて《批判》なのである。

商品生産の物神崇拝が資本の秘密を消し去ろうとするならば、次の事態はその逆である。

「労働能力が生産物を自己自身のものだと見抜くこと、そして自己の実現の諸条件からの分離を不埒な強制された分離だと判断すること、――これは並外れた意識であり、それ自身が資本にもとづく生産様式の産物である」(「経済学批判要綱」『マルクス資本論草稿集②』S.371)。「労働能力が生産物を自己自身のものだと見抜くこと、そして自己の実現の諸条件からの分離を不公正Unrechts――強制関係――だと判断すること、――これは並外れた意識であり、それ自身が資本にもとづく生産様式の産物である」(「1861-1863草稿」『マルクス資本論草稿集⑨』S.2287)。


労働の転倒を労働する諸個人が自覚することは、それ自身資本の産物なのである。
by kamiyam_y | 2007-02-28 20:23 | 資本主義System(資本論)