さっぽろ地下鉄のなかでマルクスを呼吸する、世界を呼吸する

キシ・ジョンイル(アベ・ジョンイル)の腐った郷愁

前回のエントリーの「追記」に補足2点。『SHIGT』の特集に触れるだけですけど。

1 「自由主義」って。

吉本隆明が自民党の改憲案の「自由主義」という言葉に対して嫌悪を表明してます。《露骨に国家的党派性が出てる》と(18頁)。

《「自由」だったら、万国どこにでも通用する》、この「自由」と「自由主義」は正反対だ、というわけです。普遍的な「自由」が労働する諸個人の自由を包み込んでいるのに対して、「自由主義」は資本の自由を中身としている、と私は読みました。

資本の自由とは、資本間の競争の自由であって、労働者を利潤の道具にする自由です。労働者の労働が、彼等自身を、労働の果実から絶えず排除するという労働の自己矛盾によって、資本主義は生きています。「自由」はこの矛盾のなかでは、労働を資本が吸収する過程として作用しています。『資本論』にいう〈資本主義的取得法則〉、他人の労働の無償の取得に、「自由」がひっくり返っています。この取得法則を〈自由主義〉の本体として考えると面白い。

2  懐かしくなくもないが。

小熊英二が愛国ノスタルジー「75年体制」説を出してます。日本の高度成長モデルが完成したのが、75年。古い日本がまだ残存していたちょうどそのころを、安倍ような連中は懐かしんでいるんだ、と。

この古い日本は戦前的なものの残りかすでしょうから、やはり戦前回帰的といってもいいかと思います。高度成長期の終焉期回帰的でもいいですけど。どちらにせよ、こうした連中の過去への回帰なんて反動・復古の郷愁にすぎません。

日本の高成長が、企業一家主義に端的なように、人治というか、共同体的な古いものを再利用していたのは周知の通り。この成長が完成したこと、成長の終焉は、日本では個人を起点とする現代的なものが本格的に浸透することを意味します。ですから、教育基本法が改悪されたからといって文字通りの戦前が復活することはありえません。

成長に利用した共同体的なものを廃棄するこの現代化のプロセスは、安倍においては軍拡と新自由主義継承という方向と、後ろ向きの郷愁に彩られた人権抑圧的方向として現れています。こういう郷愁は、高成長の共同体的体制を廃棄する資本の展開が触発した反応の1つであって、郷愁に現実を変える力はありません。

《家族や公共心の復権については効果ゼロでしょう》(80頁)。

成長経済も終焉、日本的の古いものも終焉。昔あったらしい道徳的なるもの、国家愛のようなものに教育を改善する効力などまったくない。過去と名づけられた空想に対する郷愁だからです。

《たいていの国旗は建国の理念を図案化したものです》(82頁)。

日本の旗には《建国の理念》はなーもないですから、《保守派に建国の理念を憲法素案屋教育基本法案に書いてみろと言っても材料が何もない》(同上)。もちろん歌だって、民衆による闘いの記憶も、国づくりの原点もかけらすらない。建国記念日が神話ですからね。

歌といえば、入学式で校歌を歌わない学生がいたところで、入学取消しにする大学なんてありません。歌いたいから歌うのが本筋なわけですから。

歌いたいかどうかという気持ちの問題は、法律とは、社会関係としての位置がちがいます。法律は、個人の内面はどうであっても行為だけは従わなければならないという規範です。内面の積極性が社会的行為になるような関係ではないんです。これはこれで自由を確保するのに重宝する。それどころか、そもそも内面を問わないから、法的な自由が成立するのでした。

国の歌を歌わないからといって現場労働者を処分する役人がいるとしたら、それは道徳と法律とを混同しているのであり、郷愁に固執した精神が過剰反応しているというほかはありません。こんな過剰反応を浄化できないほど、日本における基本的人権の定着は弱いものでしょうか。

そう、弱いものなのです。

と切って捨てる必要はないしょう。

人権を空洞化する全体主義の圧力こそが、かえって人々に個人のグローバルな性格を気づかせる役割を果すのですから。成長崇拝と日本的なもの崇拝に、社会をつくりだす力はなく、そんなもの、いずれ消滅すべき、ただの一時の継ぎ接ぎでしょう。

もしかしたら、安倍が「成長」とうるさく言うのも郷愁かも。
by kamiyam_y | 2006-12-24 22:33 | 民主主義と日本社会