さっぽろ地下鉄のなかでマルクスを呼吸する、世界を呼吸する

自己の時間の他人の時間化(5) 「好きなこと」の落とし穴

「未履修」問題ですけど、撃つべきは教育の「新自由主義的」再編でしょう。

公立の学校が企業と化して大学進学者という数値目標を疑うことなく競争し、未来の労働力販売者の競争を後押しする。物神崇拝の世界です。資本主義をわかりやすく見せているという点では新自由主義的解体があらゆるところで進んだ方がいいのかも。


「好きなこと」の落とし穴

「仕事は好きでやるものではない」という人生訓て、会社の表看板から引きずり下ろされてしまってるんでしょうか。

阿部真大『搾取される若者たち』(集英社新書)が、若者の「やりたいこと志向」をとりあげていて、じつはこれが挫折したのがニートで、挫折していないのが「自己実現系ワーカホリック」だと分析してます。

「自己実現系・・・」は阿部氏の命名。このワーカホリックが「安定した仕事と結びついたときは、あまり大きな問題を引き起こさない」(17頁)が、不安定雇用の若者に感染すると、働く者の使い捨て、搾取に結びつく。

阿部氏はバイク便ライダーの現場に入り込んで書いていて、面白いです。

以下少し、この本とは関係なく、「好きなことを仕事に」をキーワードにして、思い浮かぶことを書き連ねておきます。とくに古典からの引用はしません。

-------------------------------

「好きなこと」が仕事選びの優先事項として定着する現状があるとすれば、このこと自体は、働く現場に人間らしさを人々が求めるということですから、進歩的です。

さらにいえば、「好きで働く」と称してなお、体を壊し、企業の利潤追求の車輪の下に自ら飛び込むことは、矛盾をハッキリさせてくれそうですから結構なこと。

しかも、「好きで働く」はみんなが実現できるわけはなく、監獄としての労働から人が逃れられず、社会が逃れられないことが明らかにされるから、「好きで働く」はどんどん主張すべきかとも。

ここで少し思うのは、「好きなことを仕事にする」ということが、雇う側にとっても宣伝文句になることをどう見るか、です。

「おまえら雇われなきゃ死ぬんだから、嫌でも工場の部品になってろ」と雇う側が堂々と言うよりはもちろんましに見えますね。

しかし、「工場の付属物」だとハッキリわかる方が、経済におけるシステムによる人間支配が透けて見える。

「好きな仕事」要求は、労働者の自由な個人性が発展してることでもありますし、それを支える社会的労働過程の成熟があるともいえます。労働における人間の尊厳が認められねばならないことが社会の合意になりつつあるともいえましょう。

ただし、阿部氏がテーマとした不安定雇用における「好きな仕事」要求に限っていうと、合意や自主性が、資本の支配を隠す点では何も以前とは変っていないともいえます。

労働の自己実現性が仕事選びのポイントであるかのようにこのように宣伝されるのは、企業の社会性が宣伝文句になるのとも似てますね。

それはちょうど、企業の社会性が企業の新たな弁護になり、資本の力に吸い上げられていくとも似ています。「好きな仕事」が、見えない鎖を見えないままにする騙し絵になるというか。

「好きな仕事」は、個人が自分の生き方を決め、それが社会に役立つ、というタテマエかも。タテマエは、現実の深いところから立ち上がって現実を批判するのではないかぎり、現実を隠す。「好きな仕事」が、単純に、自由意思による契約という社会の表層の観念を、労働現場での活動に当てはめてなぞっているだけだったら、それは、社会的な自己実現というよりも人間の孤立によって成りたっているように思えたりもします。

「好きな仕事」は、この点では、何かを見えなくしてしまうのではないか。「好きな仕事」という考えが単なる競争主義の道具として信じられているなら、それは、個人の自発性が社会の発展であるという理想とは、ちょっとずれてきて、錯覚させる見方になります。

やや一般的にいうと、競争をあたかも市民革命の自由の延長であるかのように捉えるのは幻想です。労働者同士の競争は、出来高賃金に明らかなように、労働者の自主性を育てる面もあるとともに、彼等が自分で自分に命令することで搾取の度合いを自ら上げてしまうシステムですし。

労働者の競争を起動しているのは、企業の競争であり、資本の競争。資本の競争は、資本の相互作用であり、資本の価値増殖という内面的な目的を、外面的な強制として押しつけあうことで、この競争を通じて資本は集中し、社会的労働過程が成長する。

ここで労働過程は社会的になりますけど、同時に依然として、私的諸資本にとっての手段であり、労働者に対して外的です。つまり、「好きな仕事」を信じ込んでもそうでなくても、彼等は価値増殖の手段になっています。

しかも、価値の直接の形は貨幣ですから、生産過程では価値増殖は潜在的で、生産過程そのものを取りだすとあたかも社会的形態規定のない永遠不滅の生産一般に見え、この転倒が隠されたりもします。

けれども、社会の流れを見ると、資本蓄積自体が、失業者・半失業者(「相対的過剰人口」)の存在として、労働力を供給するプールをつくります。労働者は好きな仕事どころか、仕事の現場から排除されてしまう。タテマエは自由な選択ですが、労働者は、何にでも使える労働力という便利な道具の売り手です。

一生ベルトコンベアの横で機械の付属物になる人々がいる。現役の労働者は、産業予備軍に転落しないために、低価格で多くの労働を約束しようとする。

「好きな仕事」という言葉が「好きな仕事につけた個人はえらくて、つけなかった人は怠けた罰」とみなす文脈で用いられるなら、それは、スミスの「先行的蓄積」に通じる御伽噺に近い。勤勉が資本家に、怠け者が労働者に、という市民社会の架空の説明原理です。スミスの時代にはそれしかなかった説明も、現代では俗流弁護論のありふれた発想でしかありません。

「好きな仕事してるから、私は長時間労働でいい」と思うだけでなく、他の人にまで、「好きな仕事だから長時間労働でいい」を押しつける人がいるとしたら、その人は、好きという自分の個人的な気持ちを、労働条件という社会的な問題と混同するバカな人です。個人の努力というミクロな視点をそのまま社会を論じる際にスライドしてはいけません。

「好きな仕事」をみんなが実現していくためには、一部の労働者が長時間労働にしばられ、他の労働者が強制的に遊ばされている(半失業者・失業者)状態ではなく、社会の労働をみんなが少しずつわけあって行う状態が必要でしょう。これは資本主義が想定していない状態です。

誰もが自発的に仕事をしながら、なおかつそれが社会的に調和しているという状態を想定するのなら、資本主義では解決できない状態を想定しています。

誰もが好きで楽しく働く。しかし、社会を支えるには、必要不可欠な労働が多くあります。とすれば、一生それだけするのは嫌だが、気分転換に水曜日だけするといった状態がないと、あらゆる仕事に自発性が発揮されるのは無理です。

もう1つ。そうした不可欠のコストのような労働が最小限ですむ状態があれば、より自由で普遍的な労働に人々は好きで関わることができるはずです。いずれにしてもこうした労働は、現在の、他人の富を増殖する労働からは大きく意味を変えたものであることはたしかでしょう。
by kamiyam_y | 2006-11-20 22:39 | 企業の力と労働する諸個人