さっぽろ地下鉄のなかでマルクスを呼吸する、世界を呼吸する

自己の時間の他人の時間化(2) 「イノベーション」から脱資本主義へ

むだにカタカナ語を羅列する安倍演説をみると、そういう言葉を使わず語ろうとする小泉がまともにみえてきます。小泉も関心のないことは丸投げでしたけど、今回の所信表明は、いかにも冴えない企業のコピーみたいな文句が並んでいて、官僚の作文です。

「美しい国」なんて言葉を聞くと悪寒がしますし、論じている人もたくさんいますから、これには触れず、「イノベーション」という言葉に着目して、そこから少し空理空論形而上学をやってみます。

この言葉、ビジネスオタクが使いたがるので、知られているのかと思ったんですが、あまり大衆のあいだにはなじみがないようです。それはいいとして。

イノベーションとは創造的破壊。

なんて書いてもつまらんですから、元ネタの相対的剰余価値の話を書いておきます。もっとつまらんという人は読んでくださらなくてけっこうです。一見教科書風のメモにすぎませんし。

イノベーションとは技術革新です。とりあえず、標準的な生産条件から抜き出た企業は超過利潤を得るし、標準以下だったりすると生産するほど赤字、という話です。

技術革新はべつに人類で民主的に計画を立てて相談して行っているわけではありません。資本主義システムが人々を鉄鎖につないで強制するものです。

単純きわまりない例を考えます。

商品W1一定量の値段が9000円であるとします。需給は一致しているので、これがこの商品に当てられている社会的コスト(労働)です。

W1生産分野には、それなりの社会的で標準的な技術水準をもつ企業群があります。これをMと名づけると、Mが生産したW1が、個別に含むコストは、W1の標準的コストに等しい。ちょうど9000円です。これを、個別的価値と社会的価値とが等しい、と考えます。

しかし、これよりも優れた技術をもつ企業Hは、どうでしょうか。

これらの企業は、W1を一定時間でMよりも多く生産できるはずですね。そのため、Hが生産したW1一定量がふくむコスト(個別的価値)は低い。とりあえず、8000円にしときましょう。

そうしますと、Hは、W1をその社会的価値9000円で販売する。と、HはW1一定量につき、その社会的価値と個別的価値との差額1000円を、超過利益として得ます。もちろん9000円より安く売ってシェア拡大したっていいのですが、話を純粋にするため無視。

他方、Mよりも劣った生産条件しかもたないLは、Hとは逆に、個別的価値よりも社会的価値が低い。たとえばLが生産したW1は個別的には10000円ですが、社会的には9000円で妥当します。つまり、1000円の欠損が生じます。Hとの差が大きければ、生産するほどに赤字になるでしょう。

このような競争を通じて、たえず優れた技術を採用していかないと企業は淘汰されていくことになるわけです。Hは倒産したLを吸収し、得た利潤を拡大投資し、ますます生産条件を上げていきます。と平均値が上がって、W1の社会的価値が8800円に下がります。

Hが得ていた利潤は、Hが拡大することによってこのかぎりでは減ります。

あるいは、MがHと同様の技術を採用していきますから、結局、このW1の社会的価値は下がらざるを得ません。要するに、競争が、優れた生産条件を企業に押しつけ、これを標準的な生産条件にしてしまいます。

イノベーションのとりあえずの過程がこんなものだとすると、本当に面白いのはこの過程がもつ人類史的意味です。

このプロセスによって、働く大衆が消費する生産物はどう変化するでしょうか。そう、価値が低下していきます。

その結果、労働者とその家族が標準的に生活で消費する生産物は、より少ないコストを含むこととなり、つまり、価値が低下することとなり、この価値を生む労働時間が短くなります。労働者はより少ない労働で、彼等自身の消費手段を得ることが可能となります。要するに、彼等の労働のうち、彼等自身を支えるために必要な分が最小化するわけです。

労働時間が変らなければ、この必須労働を超える剰余労働は増えます。

資本は剰余労働の増大をその不断の《傾向》とします。剰余労働の増大として、生産力の発展が実現しているわけです。この剰余労働は企業の設備やマネーといった労働者の外の富をつくりだしますが、これが徹底するならば、資本そのものが不要となる跳躍点に達するはずです。

「……資本家の時間は……非労働時間……として措定されている。……労働者が、自分の再生産に必要な労働時間を対象化すること、価値化すること……を許されるためには、彼は、剰余時間を労働しなければならない。……自由な時間とは、すべて、自由な発展のための時間であるから、資本家は、労働者によってつくりだされた、社会のための自由な時間、すなわち文明を横領するのであり、……」(「要綱」G.519)。

生産手段を所有する非労働者は、労働者の剰余によって、すべての時間を労働から解放された自由時間としています。「自由な時間とは、すべて、自由な発展のための時間」です。人間社会が形成途上にあるうちは「自由な発展のための時間」は大衆には行き渡らないわけですが、そうであっても、この剰余を剰余価値にしてしまう生産力は、潜在的に、自由の基盤をつくりだしています。「文明」の「横領」とは、社会的生産の私物化と同じです。矛盾において潜在的に人間的な物をつくりだすことです。

ともかく、労働者の自分自身のための労働時間を短縮させる生産力発展は、自由時間をもたらしうるものとして規定されるといってよいでしょう。

とすれば、剰余労働を目的とする価値増殖が不要になった瞬間に、剰余は自由時間として顕在化することになります。価値増殖の不要性は、生産力発展が利潤低下として実現することによって明かされるはずですけれど、それはここでは考えるのはやめておきます。資本は競争において生産力を増大し、剰余労働を増大したが、このことのもつ潜在的な意味は、めちゃめちゃ大きい。この点だけ少し触れてみます。

資本は、人々を動かす見えない法則(物象化された生産関係)として、生産力を増大し、剰余労働を増大します。競争という形で、飽くなき剰余価値の獲得という資本の目的は、個別資本に強制されます。資本が、個々の当事者を、生産力を発展させるように行動させ、意図せざる結果として事後的に、社会全体の生産力を高める。

このような意図せざる生産力発展を、ふたたび資本の《傾向》とよべば、株式会社であれ、世界市場であれ、資本の現代的展開はすべて資本の傾向によって貫かれています。

この生産力発展は、個別的生産過程を、その内側から社会的生産過程へと変革し、その連結において社会的生産過程の体系に変えていきます。これが剰余労働増大の《使命》でしょう。この徹底は、やがて、他人の富の無秩序な増大のために強制された剰余労働そのものを不要とする地点にまで到達する。と、剰余労働に当てられた私たちの剰余時間は、私たちの時間として用いられることが可能となります。もちろん、この基礎には、剰余時間だけではなく、必要な労働時間を協同に制御することが不可欠ですが。

「資本の文明的な面の1つは、資本がこの剰余労働を、生産力や社会的関係の発展のためにも、またより高度な新形成のための諸要素の創造のためにも、……強要するということである」(『資本論』MEW25,S.827)。

剰余時間を他人の時間として使用することが資本のもたらす文明化傾向です。剰余時間を他人の富のために食いつぶす「生産のための生産」は、人間のための生産から疎外されているとはいえ、人間のための生産に転化せざるを得ない通過点にすぎません。資本のシステムによる生産力の追求は、結局は人間の自由な発展の諸条件に転化する過渡的なものにすぎません。
by kamiyam_y | 2006-10-03 23:16 | 資本主義System(資本論)