さっぽろ地下鉄のなかでマルクスを呼吸する、世界を呼吸する

国際主義の存在権利 2

aikoが茅ヶ崎の海岸で無料ライブをやったらしい(ZAKZAK)。 滞在期間と重なってたら観たかも。女性ボーカルといえば、銀杏マニアらしいカエラがサディスティック・ミカ・バンドに参加とか。ミーハーなどうでもいい情報を散布してみました。ついでにBENNIE Kのある曲の頭の部分とU2の曲とそっくりなことをさっき発見。リスペクトなのか??たまたま聴けば誰でも気づくことを言ってみました。

aikoのライブ2万5千人の観客、に託けて思うんですが、aikoが人々の心をつかむすばらしいものをもっているであろうことは確かとして、aikoとは関係なく一般的にいえば、1人のアーティストのCDが何十万枚も売れることは生活様式の一元化で、個性化・多様化に反するような気がします。

といいつつ、ネットが個性化・多様化を推進する方向に期待したい。文章や音楽、映像など精神的産物は、紙でもモニタでも物質的媒体があればよく、パッケージは偶然的なものです。本という物体の感触から離れて文章は存在します。真剣に読むときはプリントアウトしないと気が済まないとか、CDのジャケット写真が好きとか、いろんな趣味はあるとしても、こうした趣味を別として、ネットから直接自分のiPodや携帯、パソコンにダウンロードするのがふつうになってくるのはいわば必然的。

こうなると、独占的芸能資本や音楽資本、出版資本のアンシャン・レジームを破壊する革命が作動します。音楽を民衆の手に。音楽をじかにiPodに。

これらの資本によりかかるメリットがないとか、その外で活動したい人たちは、産物をストレートに享受者に渡すモデルをつくっていく。ネットにおける地産地消的みたいなものです。アマゾンの「ロングテール」現象を引き合いに出すまでもなく、ネットによって、消費する側も選択をより個性的に実現することが可能です。

中間的搾取で利潤を得ていた部分が、利潤を生まない重荷になってしまい、解体される。これもいってみれば、社会的労働の配分における効率化です。発展は資本主義においては利潤の低下として現れる。

この場合、巨大資本に対して、ネットというシステムの方が強い社会的生産の力で、労働の普遍性を体現している。産業革命と市民革命を融合するのがネット革命です。万国のプロレタリア、ネットへ。

ほんまかいな、ということで、付けたしておくと、もちろんネット配信がメディアミックス複合体による一元化をすすめるという物象化の進展もあります。テレビドラマを見て流れている曲を携帯にダウンロードする。ダウンロード記録は情報として蓄積。曲を批評する雑誌にはカネが流れて、批評が批評のふりをした広告になっていき、批評の広告化が進む。

芸能業者、電話会社、家電メーカー、テレビ局、広告会社、出版社、信販会社、音楽産業などが利害複合体として、消費する個人の欲望をつくりだし、カネを引き出す。ちなみに、メジャーなものがすべて低レベルなどといっているわけではないので誤解なきよう。


国際主義の存在権利 -「現代」から「要綱」の「基本的矛盾」へ- 2


1.2 矛盾としての世界的労働が定義する人間解放

グローバリゼーションが人間的解放を準備する。いいかえれば、資本の世界システムは、ポスト資本主義への通過点をなす。1つの人類社会の形成プロセスが完了する地点に、労働する諸個人を招く。

この世界市場形成の世紀は、諸個人が生産関係を物象化している。この物象的な関係が労働を意図せざる結果として、事実上社会化し、世界化する。世界社会の合意が生産の姿として存在しているわけではないから、社会的労働の発展が非社会的な姿をとる。管理されざる成長主義、不均等と破壊をともなう競争主義、政治を空洞化する貨幣の力など、非社会的な社会的労働のありようである。

つまり、社会がない状態で社会を形成するとは、普遍的なものを孤立的なものとしていってみれば暴力的に展開する矛盾の運動である。資本は矛盾である。この矛盾は労働の矛盾であり、運動を展開する矛盾である。日常知にいうあれこれの不合理や闘争ではない。人格間の闘争という生産内部の再封建化は、人格と物象の矛盾であり、労働の矛盾である。政治勢力の対立という皮相な矛盾論は幻想である。

グローバリゼーションの敵対性を見ない市場主義と、グローバリゼーションの肯定性と通過点性を見ない地域主義とは、対立すると見えつつ、対象を統一して把握できないから、本質的に馴れ合っている。この馴れ合いこそ、現在の私たちから、メタな視野を奪い取る学問的障害物である。

より現代知の普遍的な形式になおせば、方法的個人主義と関係主義との馴れ合いを思い浮かべてもよい。こうした知的形式において、個人や関係は、検討してはいけない宇宙の前提である。前提まで遡って存在するものを存在するものの運動において把握することは、禁じられている。この非実践的な把握において、経済学の範疇という形で、幻想的に諸関係が自立化している。この自立化によって人々は資本主義を美化する転倒した認識に陥る。現代知が物神崇拝の形式になっている。マルクスの経済学批判は、この自立化を批判して実践的である。

マルクスの把握は、政治や法や消費といった孤立した関係それ自体に確たる歴史の発生を見ない。労働における社会の形成として現代を見ている。最高に発展した資本主義のなかに労働の人類史の到達点をつかむ。資本主義のなかの社会主義も外の社会主義も資本主義の形成途上に現れた、通過点のなかの通過点であった。

把握の根拠、方法的態度、20世紀社会理論、「社会主義」などテーマは拡がるけれども、さしあたり、考えておきたいのは、資本による世界的労働の創出とその破壊的現実性の意味である。
by kamiyam_y | 2006-09-03 12:30 | 資本主義System(資本論)