さっぽろ地下鉄のなかでマルクスを呼吸する、世界を呼吸する

生産過程の安全保障 塵肺訴訟によせて

今回のトンネル塵肺訴訟最初の地裁判決は、2004年の炭坑塵肺訴訟最高裁判決を踏まえて、トンネル塵肺にも国の賠償責任を認定し、国の責任を追及する流れをいっそう強めたものとして評価してよい。原告5人の請求を退けた点(愛媛新聞社ONLINE)は批判すべきだろうし、安全配慮義務違反が認められなかった点にも検討すべき余地が残るかと思われるが、規制権限行使義務違反が認定され(神戸新聞Web News)、この問題に対する国の責任がますます明確にされたという点は確かな成果だと思う。

愛媛新聞社ONLINE
7月8日付・読売社説(2) : 社説・コラム : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

両社説が論じるように、判決は国の「不作為」を「指弾」して劃期的である。「粉塵濃度の測定」の早急の義務づけが求められていることも、社説の指摘するとおりだろう。

塵肺患者の苦しみを伝えているのは、朝日の記事(asahi.com: 「私たちは使い捨てか」 トンネルじん肺患者の怒り届く-健康)である。トンネル工事にいわば生涯を捧げてきた人が塵肺で苦しむ様子がレポートされている。

人々の共有の富をつくりだすために自分の労働力を提供し駆使してきた人が、劣悪な労働環境の犠牲になってしまう、というこの悲劇を根絶していく努力がなければ、先進国であろうと途上国であろうと、決して自由で民主主義的な社会とは言えまい。悲劇の根絶に向かって民意を実現していくことは、人権の実現によって正当化されるべき近代的な共同社会が果すべき当然で基本的な課題である。

課題の遂行がさらにその困難さを公開するかもしれない。しかし、国連の「人間の安全保障」という国際社会の理念を想起し「安全保障」という言葉をつかうならば、直接的生産過程における生命の防衛こそは、安全保障のもっとも基本的な課題であるというべきである。この課題は、生産過程の共同性という現代社会が生誕する世界を、人権にもとづいて制御すべき公共的なものとして公開しているのである。

参照:
Google 検索: じん肺
鳴潮(徳島新聞)
by kamiyam_y | 2006-07-10 18:14 | 企業の力と労働する諸個人