さっぽろ地下鉄のなかでマルクスを呼吸する、世界を呼吸する

労働の人間化へ 道具にとっての道具となる転倒を超えて(2)-開発と転倒。生産関係の物象化

昭和の女優はイカソーメン食べてました。

太宰治 女人訓戒

或る映画女優は、色を白くする為に、烏賊(いか)のさしみを、せっせとたべているそうである。あくまで之を摂取(せっしゅ)すれば、烏賊の細胞が彼女の肉体の細胞と同化し、柔軟、透明の白色の肌を確保するに到るであろうという、愚かな迷信である。けれども、不愉快なことには、彼女は、その試みに成功したという風聞がある。もう、ここに到っては、なにがなんだかわからない。女性を、あわれと思うより致しかたがない。


今例えば、

イカ墨、毎日飲んだら、髪が黒くなるぞ、

というウソをついても、迷信にはならないでしょう。墨→黒→髪という連想がストレートすぎるために、連想という根を忘れることができず、迷信に転化しないからです。

現代の迷信は科学を装いますから、「細胞」という言葉がこのころは科学的に響いたのかもしれません。でもやっぱり、ストレートすぎる連想です。この女優の個人オカルトか、太宰の創作なのかな。

この女優の例では、烏賊→白→肌という連想を、迷信に転化する媒体の役割を果しているのが「細胞」という科学的知識です。現在だったら、「細胞」よりももっとミクロな成分がこの媒体の役割を果すはず。

ともかく太宰の「なにがなんだかわからない」という嘆きは、「烏賊のさしみ」という言葉を流行の健康情報に置き換えてみると、21世紀の現在に発せられてよい強さがあります(たまたま見つけたんですけど健康情報の読み方)。太宰のこの表現は、迷信を信じる人々の「イタサ」を捉えて面白い。

迷信といえば、迷信ビジネスはギャンブル同様の二次的な搾取です。安心を売るといいつつ、人を騙してカネを巻き上げることですから、マネーゲーム同様の不労所得による労働の産物の移転です。フジテレビのドラマ「トップキャスター」(フジテレビ第3話)が細木数子をモデルとした人物を登場させ、細木が怒ったらしいです(どうする?どうなる?/インチキ占い師ドラマで激怒されたフジ | Excite エキサイト : ニュース)けど、ドラマの制作者をフジテレビは守ってほしいもんです。まあ、細木を持ち上げて儲け、批判して儲け、というマッチポンプという見方も成り立ちそうですけれど。ドラマは見てないし、興味ないんですけど、天海祐希頑張ってほしい。矢田亜希子はどうでもいい。

占い師であれ、教師であれ、医者であれ、親であれ、友人であれ、人の人生を決めつける権利は誰にもない。暴言の連続の細木が名誉毀損で訴えるなど、権力者が、自ら欺そうとした大衆を訴えるようなもので笑止ではないか。

細木数子を検証する溝口敦氏のような仕事(週刊現代Online)はやはり大切です。溝口氏の批判は痛快ですぜ。「細木を番組で重用するテレビ局も社会的責任の自覚がなく」(溝口「『魔女の履歴書』特別版、週刊現代6/10号、29頁)との主張には同感です。ほんと下らなすぎると思う。

溝口氏はジャーナリストとして闇社会を切りこむ取材をすることも恐れず、そのために、なんと長男が元暴力団員に刺されました(SANSPO.COM > 社会)。暴力によって言論を封じようとするこんなテロが起きるこの世界の後進性こそに、絶望的にみえても逆に、未来を切り開く通路が潜んでいるはず。自由な言論空間に対する卑劣な行為を断じて許さない態度を私たちは強化しうるのですから。

迷信を増幅させて儲ける手法は、社会的不安を前提し、儲けるために儲けるという資本主義を前提しています。

以下では、この前書いた労働の人間化へ 道具にとっての道具となる転倒を超えてへの補足として、貨幣追求があらゆる物事を逆さまにしてしまうという転倒の原因を考えてみたいと思います。《生産関係の物象化》という論点の解説です。

資本主義社会はまず何といっても、発展した商品生産です。ここでは、すべての生産物が商品として生産され、労働力という生産の根源が、生産のための1商品として売買されています。

労働力の売買が前提しているのは、労働者が生産手段から排除されていることですが、この自由な労働者の存在は、反対の極に、資本の蓄積を想定します。この資本の蓄積が労働力を自らの道具にして、自己を存立させています。

この蓄積する資本は、蓄積する貨幣であって、貨幣を生みだした商品を前提しています。資本の基本細胞が商品です。資本はその持主に商品を生産させ、商品として労働力を購入させ、自己増殖します。貨幣から、労働力と生産手段へ、そして商品へと形を変えて増加する貨幣を資本と呼びます。この自己増殖する貨幣である資本が支配する社会が資本主義です。

資本は商品を前提し、資本主義社会は商品をその基本細胞としており、資本主義社会の転倒性はすべてこの商品という生産関係に起点をもっています。資本のなかでは労働者が機械の付属物となるという転倒において生産するのですが、この転倒の出発点は、《商品》という生産関係に即した転倒なのです。ですからこの基礎的転倒をつかむことが現代社会理解の1つの重要なベースになるのです。

この基礎的転倒が、商品生産における生産関係の物象化です。物象化とは、人間たちの社会的生産関係が、人間たちによって制御されずに、モノという形を取って独立化し、主体化し、逆に人間を支配する、という転倒を指します。

ではなぜ生産関係は物象化するのでしょうか。それを解く鍵は、商品生産における労働のありようのなかに隠されています。

前商品生産的な共同体社会では、生産が人格相互の関係に附着しています。そのため、各種の生産にどれだけ労働を割り当てるかといった社会的な法則が、人格相互の関係(掟・封建的諸関係・政治権力など)として、人間に対して明示されています。

あるいは、孤島に流れたロビンソン・クルーソーであれば、毎週の各作業への労働の割り振りは、何ら神秘的なところがなく、彼自身が自覚して媒介しています。

これに対して、商品生産においては、社会的に連動すべき労働が、すべてバラバラに切断されています。労働が直接には社会的ではなく私的労働というありかたを取っているわけです。労働において人間が完全に相互排除的であるため、労働の社会的法則が、人格相互の自覚的媒介を獲得することができません。

それゆえに、労働の社会的性格が、人格相互の関係から剥がれ落ちた客体の側の運動に委ねられてしまうのです。

労働が人格的ではなく、社会的ではないがゆえに、生産関係は物象化するのです。労働が私的・排他的であるがゆえに、労働の社会的関係が物象化するのです。

私的労働が直接には社会的労働ではないため、例えば、生産に支出した労働時間がそのものとしては認知されず、物の属性として認知される商品価値という形で、物に投影されてしまうのです。特定の種類の生産に労働を支出することが、ロビンソン・クルーソーのようには自覚されず、商品がもっている価値において隠されています(註1)。

註1 やや詳しく補足すると、私的労働は、商品の価値という商品世界の同等性の、その大元として同等の人間労働となることにおいて、潜在的に、社会の労働の一部分という社会的な性格を受け取っているといえましょう。ロビンソン・クルーソーがどの労働を行っても、同じ人間である彼の労働であるのと同じように。私的労働は商品生産において、価値という平均によって、社会に妥当する平均として存在し、平均が社会的という意味をもっています。
またこの私的労働は、他人の消費のための労働として、自らの欲求の対象ではない対象を生産することにおいて、社会的分業の分肢をなしています。 

この価値にしたがって商品が交換されることが、労働の社会的な支出を事後的に実現することになります。労働の社会的法則は、労働生産物が商品という形態をとることによって、この商品の実現プロセス(交換)によって実現することになります。

商品が価値にしたがい交換され、他人のための使用価値として実現することによって、異なる労働相互の依存関係と労働の社会的配分が実現します。

このようにして、生産する人間どうしの関係が物と物との関係に置きかわってしまいます。商品生産において労働がとる歴史的な形態が、生産関係を物象化しているわけです。

社会をつくる人間どうしの関係として制御された生産ではない点に、物象化の理由があるといってもいいでしょう。やや平たく言えば、生産が相互に孤立して営まれながらも、社会的分業を実現しなければならない、という矛盾のために、生産物を商品として交換しなければ、労働は、その社会的性格が実現できない、ということです。

労働が私的労働として分断されているために、それは、交換によって事後的に、社会的労働の一環として実証されます。このような私的労働の矛盾が、労働生産物を商品にし、生産関係を物象化しているのです。労働が互いに分断されているため、その社会的な性質が商品どうしのつながりのなかに、物の性質に転換して現れてしまうのです。

商品は商品と貨幣への二重化において実在しますから、商品における物象化は貨幣の力として実現します。

悪人が貨幣をもつと社会に影響力をもつ重要な人物になり、無名の素晴らしい人物がゴミのように扱われる。こういう矛盾も貨幣がもつ力の所為です。

「貨幣が一切の人間的および自然的な性質を転倒させまた倒錯させること……は、人間の疎外された類的本質……としての貨幣の本質のなかに存している」(『経済学・哲学手稿』城塚登・田中吉六訳、岩波文庫、183-184頁)。


シェークスピアの『アテネのタイモン』を引用しながらマルクスはこの「目に見える神」(183頁)の本質を語ってます。貨幣はあらゆる物を正反対に見せてしまう魔力ですが、その転倒力も結局、人間の人間的な、自然的な本質が、独立した社会的な力となり、それが個人が所有する物に転換するところからきています。

貨幣とは、かつての政治権力を個人が持物にしたものです。個人は引き裂かれる代りに、生産はモノの側で集結し、個人は生産共同体を廃棄して、自由な個人となります。まあ、ポケットに王がいれば、本物の王はいらない、ってことですね(註2)。その代り、競争や企業や市場といった物象的な力が個人を支配するようになります。

註2 「それだからこそ、古代社会は貨幣をその経済的および道徳的秩序の破壊者として非難する」(『資本論』第1部S.146大月書店)。

モノを崇拝するフェティシズムが私たちを捉えるのも、生産関係のこうした物象化があるからです。ホリエモンを批判しても私たちは老後のために貨幣を蓄蔵しなければならず、フェティシズムから自由になることはできません。

人間は自分たちの本質を実現しないうちは、それを非人間的な力として崇拝せざるをえません。かつて私たちが、自分たちの頭の産物を神秘的な力として崇拝したように。そう、迷信などという物神崇拝はたまたまの偶然といってよいでしょうが、貨幣は現代人のすべてに対して対立する偶然の威力であり、貨幣崇拝は現代人のすべてを貫く疎外なのです。

生産関係の物象化とは、労働生産物が商品となって、人間の制御を離れて独立して関係を結びあうことであり、貨幣(資本)が人間と社会を支配する現代社会では、この独立化がますます発展しています。まさに、物象化の解明こそは、日々現実が提起する問題を、資本主義における人間の逆立ちとして理解し、その解決に向って人々の智慧を集結することを目指すといえましょう。

資本主義社会は、貨幣が支配する逆立ちした社会であり、人間自身の生産関係が制御されないという矛盾(逆立ち)が、現在地球環境問題をはじめとする「成長主義の限界」として現れています。

貨幣が現代資本主義へと発展することは、まさに、人間からの人間的な力の独立という転倒が、人間の力を開発する、という弁証法の実現にほかなりません。

私的労働による商品生産という資本主義の基礎を解明することが、21世紀の社会の進む方向の大枠を理解することになるゆえんです。
by kamiyam_y | 2006-06-02 21:50 | 資本主義System(資本論)