さっぽろ地下鉄のなかでマルクスを呼吸する、世界を呼吸する

断片化する現実から、憲法の先進性へ

憲法が批判する現実世界の断片化

政府がファイル流出対策に走るほど、ウィルスが活発なようですが、自衛隊の流出ファイルからは、《憲法》すなわち《市民にもとづく統治》を侵害する実態が明るみに出さています(『月刊現代』6月1日号の斉藤貴男の記事自衛隊秘作戦計画「憲法違反」の核心-Winny流出資料で判明 | Excite エキサイト : ニュース )。

池澤夏樹が「憲法が邪魔と言わんばかりの発言は少なくないよ」(『憲法なんて知らないよ』集英社文庫、36頁)と述べるように、憲法擁護を義務づけられた人たちがその義務を果していません。警察も自衛隊も首相も政権も憲法を遵守しない非文明的でそれ自体違憲的な転倒した現実があるからこそ、憲法は遅れた現実、断片化する世界に対して「人民主権」という原理にもとづく不断の変革を要求しています。

第99条 天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。

いかがわしい衆院解散、靖国参拝、言論の自由を押し殺す国民投票法案、共謀罪、教育基本法改悪といった一連の動きを見るかぎり、政権は近代民主主義の原則をその根元から木疵付ける役割を果してきました(2日発行の日刊ゲンダイの1-2面記事「憲法違反が次々強制されているこの国の行く道」が正しく、かつ面白おかしく指摘しているように)。少なくともこの点では現実は全体主義的で後進的な部分へと断片化しているといってよいと思います。

人類の自己了解の最前線

憲法記念日関連の文章はあまり読んでいないのですが、『朝日新聞』2日夕刊に出ていた田村理「キムタクの『目』と憲法」(2版・5頁)がちょっと面白く感じられました。刑事と被害者が犯人は別だと思いつつも被疑者を追いつめて自殺させてしまう『HERO』第10話を素材にして、「憲法の存在意義」をイメージさせてくれています。

諸個人の共同の力である公権力は諸個人を簡単に殺傷できる暴力として実存しており、それに制限をかけることが、個人を主体として規定する現代憲法の基本性格であり、まさにその原理は、諸個人(人民)が主体として権力を制限することにほかなりません。「人民主権」とは、平たく言って、1人1人が社会をつくる主体として存立していること、社会が諸個人をその中に埋没させるのではなく、社会が諸個人を手段とする目的になるのではなく、諸個人が社会を自己の延長として、環境として包摂するということです。

もちろん個人が社会をつくることは、私たち1人1人が社会契約を結んだという事実が生のデータとしてあることを意味するわけではありません。そうではなくて、この契約の想定は、社会とは私たちを主人公とする私たちのものだ、という社会の根本に対する私たちの自覚のありかた、社会という事実に対する反省された関係であって、諸個人の主体的原理(関係行為力)を示しています。諸個人から関係性が遊離して諸個人を抑圧する未発展な状態において関係性を自己のものとして規制しうる原理を、労働する諸個人が獲得した、というありようが近代の起点です。個人が社会に対してグローバルであり、社会が国家に対してグローバルなのであるにもかかわらず、それを転倒する力に対して、人間の本質を実現するように制御の網をかけること。これが徹底されるべき、憲法の原理、近代の原理にほかなりません。局所的な共同体が諸個人を抑圧する関係によって憲法を浸食することではなく、自由な個人の実在化を合意として示す憲法の原理を徹底することが現代の発展です。

「権威は国民に由来し」政府は「厳粛な信託」にもとづくとする憲法前文の「主権在民」の原理は、1人1人の生きた人間を、政治の根拠にすることです。政治支配という疎遠な形をとった社会的生産共同体の管理に、生きた人間を原理として埋め込むことです。憲法の本質として承認されている「公権力」を国民が規制するという原理は、権力を私物化せず(諸個人から浮き上がった共同性の姿態にせず)、自己のものに包摂せよ、という人類史の到達した課題の端緒であり、これから切り開くべき課題の始まりにすぎません。破ってはならない信託としての憲法が、人類の獲得した武器です。日本国憲法はフランス人権宣言を継承するだけではなく、戦後の世界人権宣言や国際人権規約に連続する人類の普遍的な精神の実在です。

平たく言えば、権力を民衆のものにという理念こそ憲法前文の原理です。これに対して、個人の権利を犯人視して公権力が国民を拘束することこそ大事だとする逆立ちした議論は、権力の暴走(私物化)をもたらすものでしかありません。ちょうど私物である企業権力が諸個人の従属を強制するように、国家権力を個人に先だつ実体とみなすならば、それはこの権力を諸個人に対して疎遠に独立化した私物として放つことを意味します。社会的権力が自らの私物性を隠すときに全体(社会性)を持ちだし、全体を私物性の威力にして(権力による社会の簒奪)生きた個人を抑圧するというシステムの欺瞞・転倒がここにも見られるというべきでしょうか。個人を国家権力が由来する実体と捉えて、国家権力を人民に制御させるのが近代の智慧だとすれば、逆に、個人に対する国家権力の先行性を想定するのは、個人に対して彼等の紐帯が独立化、私物化することを承認すること、国家権力の私物化を許容することです。それは本質的に「独善」であり、転倒なのです。

個人が権利を主張できず、個人が社会の主体として政治に参加していないがゆえに、社会が後進的なのであって、人民主権とは正反対の「愛国心」という無内容な合い言葉をもちだした統合の試みが目ざす地点は、権力の濫用に対するチェックを外すことです。国家が国民に命ずる愛国心は、主権在民とは逆向きの断片化であって、民の諸権利である思想および良心の自由、沈黙の自由、表現の自由、学問の自由を毀損していきます。ファシストの教育行政に見られるように。

「青少年の育成のため」と称してサブ・カルチャーを取り締まり、表現の自由を否定することが、ちょうど、権力に付着した人格が、批判を抑圧しようとする意思を発動させているのと同じように、国に対する愛を誓わせることが、権力批判を封殺するという目的を客観的にもっていることは自明です。「厳粛な信託」とは逆に国家権力が国家への信頼を強要するとき、それは権力と社会との狡猾な同一視によって自由な言論を排除する機能をじつは期待されています。諸個人の諸力を凝集する場である権力に対するモニタリングを外すための無内容なスローガンです。それは、狭隘な排外主義と差別主義という社会病理に無知と精神的貧困とゆがんだ善意を動員するための合い言葉であり、人権の主張を企業や国家といった独立した全体によって制限する転倒した関係の目鼻立ちです。警察国家、軍事国家、監視社会を肥大する指向性が取る1つの形象が愛国心強制です。社会に対する自発的な愛は主権在民と人権尊重によって保障されるのであり、愛の強制は、貧困な危機意識と貧困な善意とを支えとしながら、権力に対するチェックを弛めるものです。

頭の中無意味なショートカットキーだらけの人が主張するのとは反対に、国を愛する心が欠けたために社会の秩序が崩壊したという事実も一笑に付すべき妄想のなかにしかなく、国家愛という道徳の主張の本体は、人々の紐帯である権力を不当に用いることでしかありません。愛国心によって青少年を健全に育てるという主張は、笑い飛ばすべき無知であるか、粗野な全体主義への社会の分断の存在であるか、無邪気を装った権力の狡猾な自己保存戦略から出たものであるか、共同性をタテマエとして出しつつそれを収奪する権力の欺瞞であるか、後進性と貧困の象徴であるにちがいありません。

憲法前文は、狭隘な国家主義やナショナリズムを否定する人類愛を宣言しています。社会に対する愛は人民主権と人権実現という現代の理念に依拠しています。人類愛は国家主義に優越します。人権に示される人間の普遍性は偏狭なナショナリズムを突破します。ちなみに、大韓民国憲法(1987年)の前文を読んだら、3.1独立運動や4.19学生革命を拠り所として明記しているだけではなく、そこにも「恒久的な世界平和と人類共栄に貢献」という言葉がありました(樋口陽一・吉田善明編『解説 世界憲法集 第4版』三省堂、320頁)。当然といえば当然ですが。

補足を1つ。「人民主権」という言葉です。フランス人権宣言の「国民主権」は「人民主権」の意味で、日本国憲法の「国民主権」も同じ(杉原泰雄『人民主権の史的展開』岩波書店、1978年、430頁)ですが、「国民主権」が国家権力を制御する原理として「人民」による「人民」のための政治として機能していない現状(同『憲法Ⅰ 憲法総論』有斐閣、1987年、202頁以下)では、「人民主権」という言葉の方がわかりやすいように思えます。「国民」はnationですから、peopleとは異なります。人民、民衆、大衆が主体であるとは、支配者ではなく、生きた1人1人が社会の主人公だということです。

憲法前文の英文では、

We, the Japanese people
Government is a sacred trust of the people
the authority for which is derived from the people

というように、国民と訳されている箇所は、リンカーンの「人民」です。もちろん「国民」という用語でも、社会の大衆1人1人という原義が理解されていればかまわないと思いますが、「臣民」同様に国家に従属する民をイメージする人もいるみたいなので。冒頭で「市民」という言葉を用いたのも、封建制から解放された《個人》を主体として自覚したいからです。

教育基本法改悪 愛国心の反憲法性

憲法記念日とは1文字違いで建国記念日というのもありますが、中身は180度違います。建国記念「の」日の方は、明治政府が戦争国家をつくるためにもちだした『日本書紀』の作り話、国家規模のカルトを掟として国民に強制するものであって、憲法の精神とは正反対です。それ自体違憲です。こうした憲法空洞化の流れのなかに教育基本法改悪の試みも起きています。

教育基本法の精神を引き裂くであろう改悪法案が先月28日に提出されました。小森陽一や高橋哲哉が呼びかけ人となっている教育基本法の改悪をとめよう!全国連絡会「あんころ」に、問題点を整理するページがあります(教育基本法改悪法案の問題点)。現行教基法と政府法案とが対比され、法案の意図がわかりやすく解読されています。人権に配慮しているかのような口当たりのよい、あるいは読み取りにくい法律的フレーズの合間からのぞく諸個人からの国家の自立という指向が分析されています。

教基法「改正」の動きはもちろん今始まったわけではありません。学習指導要領「道徳」導入(1958年)、中教審「期待される人間像」(1966年)、臨教審(1985年)といった前史があるわけです(増田孝雄・武田晃二『子供と教育基本法』地歴社、2002年、武田「教育基本法はなぜ大切か」61頁以下、参照)。

第10条 (教育行政)  教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負つて行われるべきものである。
 2  教育行政は、この自覚のもとに、教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標として行われなければならない。

「平成の教育勅語」をめざすらしい(教育基本法が「改正」されるとこんなことに・・・)この法案ですが、特に、国民が主体となって、権力を規制することを規定している第10条の「教育行政」を改変・粉飾・塗装している点にこの法案の意図ないし指向性が凝縮されているように思われます。この点は、
そもそも「教育基本法」って何さ?
【マスメディアが民衆を裏切る、12の方法】 | 愛していると云ってくれE-Magazine 【PUBLICITY】1355号4/14)
とくに、【マスメディアが民衆を裏切る、12の方法】 | よみがえる利権~「法律の定めるところにより」という「逃げ口上」がこの点をていねいに論じていて、参考になります(また、このエントリーに言及している毎日新聞リーダー - 教育基本法、参照)。

法案では、「国民全体に対し直接に責任を」が削られ、「条件」の「整備」を教育行政の「目標」とする、行政権力に対する規制が取り払われています。第10条は、教育が軍事国家に従属しその手段となっていた戦前の体制を捨て去る宣言であり、直接的な国家権力による不当で不要な干渉を排除し、執行権力・立法権力による支配から教育を守り人民による人民のための教育を教育行政の原理にすることを謳っています。この10条の改悪から読み取るべきは、主権在民(人権)から愛国(教育の権力への従属)に、子供の学ぶ権利から政治と官僚による教育支配に原理を転換させようとする指向意外にはありえません。

引用できませんでしたが、参照した文献:

増田孝雄『子供と教育基本法2』地歴社、2003年
増田孝雄・武田晃二『子供と教育基本法3』地歴社、2004年
大川隆司『国旗・国家と「こころの自由」』(高文研、2005年)
木幡洋子『教育基本法「改正」批判』(澤野義一・井端正幸・出原政雄・元山健編『総批判改憲論』(法律文化社、2005年)


補足 消しゴム愛と国家愛

【PUBLICITY】1359号4/19と日本がアブナイ! : 安倍晋三氏がハチマキ姿で主張する愛国心の中身は?  <教育の憲法に「愛国心」は必要なのか?(2)>から知りましたが、安倍晋三が「教育基本法改正を求める中央国民大会」で演説する寒い映像があります(アジアプレスネットワーク -ウェブジャーナル-)。損得を超えて国を守れ、と言ってます。空疎な人です。上に書いた「頭の中無意味なショートカットキーだらけの人」そのものです。この人を見ていると、社会病理が政治を浸食している見本を見ているような気分になります。

『日本がアブナイ!』も触れているのですが、安倍晋三がこの演説中にする喩え話がひどい。国を「大切にする」ではなく、「愛する」でなければならない、消しゴムを大切にしろとは言うが愛せよとは言わない、「国家は消しゴムや鉛筆なみなんでしょうか」と言ってます。
消しゴムを愛せよ、とは言わないのだろうか?国家を愛することが可能なのだろうか?以下は茶化しやすい話題を茶化しつつ、国家に優越する人間の普遍性を考察してみました。国家主義的迷妄という倒錯に対して、現実的な諸個人のグローバルな本質を対置してみました。

良識ある多くの方が主張しているように、制御されるべき国家が愛を要求するのは本末転倒で権力による人権侵害を正統化し、権力を批判する権利を奪うことです。

辞書には、愛-心という形では、愛校、愛国といったことばに心を付けたものしかみあたりません。が、愛と心の間に一文字入れて造語をつくってみます。

組織を表す一文字を入れるとどうでしょう。

愛街心。街が飲み屋街なら、強制されたニュアンスがなくていいかも。
愛社会心。愛国心よりも普遍的です。地域社会から地球社会まで含んでいるからです。

組織をやめて物にしたら。

愛靴心。靴職人の心意気。人によっては異なるニュアンスも。
愛馬心。馬を愛でる版エイ競馬の騎手、競馬好きを思い浮かべます。
愛歌心。カラオケ好き。
愛鉛筆心。カテゴリーが細かすぎる気がしますね。

愛社精神という言葉がありますから、愛金精神という言葉もできそうですね。しかしそれは通常は拝金主義と呼びます。少し拡げて拝国主義としたら、戦前の日本の体制を彷彿とさせますね。

強制された拝国心は、個人の基本的人権に対する侵害ですが、それに対して、自然発生的な拝金主義は、貨幣という労働のつながりを、人類の労働の紐帯を、そうとは知らずして拝んでいるのであり、より普遍的なものを愛しています。この点では愛国心よりもホリエモンの方が立派です。大きな利己主義より小さな利己主義の方に、無自覚に発展した人類の歴史が体現されています。愛国心も損得(私利)であって、小さな損得の方が正直です。

誤解を恐れず単純化すれば、国家という大きな利己心を最小化して、小さな利己主義の総体を社会的な善(労働の配分)に転換するのが商品経済だとすれば、それはその理念を裏切って企業や貨幣の力といった利己心に人々を従属させ、国家という利己心を復元してしまう。全体主義的な局面が絶えず現れる。とはいえ、この日本ではそれが歴史修正論的なカルトをひきずりだす。安倍が損得勘定を否定するのはホリエモンに象徴される市場原理主義を後押ししてきた与党の自己否定であり、憲法と教育基本法をアメリカの押しつけとして批判する(今時!)のは戦後の国際協調体制を裏切るものです。市場主義やテレビ文化、車社会といったアメリカ発のものをすべて拒否して生活しなくては一貫性がありません。

ともかく、大きな利己主義より小さな利己主義の方がましであり、小さな利己主義は個人の自主性や法的自由を封建制の軛から解き放つ要因でもあったわけで、そこには労働の普遍性と人間の普遍性が隠れています。つまり、消しゴムこそ普遍的なのです(笑)。

愛酒精神なら、豊かな人間性の発露でしょう。愛煙精神はどうでしょうか。愛薬精神とか。

郷土愛というように愛を後につける用法もあります。愛国心は国家愛になります。ちょっとこわいニュアンスが付着しますね。ケインズは「貨幣愛」といいましたが、それを真似てみましょう。

人間愛
人類愛
隣人愛
友愛
恋愛
師弟愛
博愛

なんかいいじゃないですか。でも全部承認された言葉なので造語でいきます。

貨幣愛
商品愛

物欲とも、生産物という自分の活動の産物への愛と受取れます。

サービス愛

相反するものがいっしょになっている「無限判断」みたいになってきます。金と愛という。

国家愛
アルミ愛
臭い愛
靴愛

フェティッシュな趣が感ぜられます。どれも全体から切りはなされた部分に対する愛情です。

消しゴム愛。鉛筆愛。キッチン愛。

こうなると生活に対する愛情に近づいてくる感じです。あいまいな抽象物に対する愛情とは異なってリアルな愛情だね。消しゴムを愛していいのです。大袈裟な感じはありますが。

書物愛

愛とは他者の中に自分と同一の本質を承認することですから、精神の表現物も愛の対象でしょう。ふつうは身体を感覚できる直接的な人間関係に言うわけですけど。

言葉遊びはいいとして。

消しゴムを軽蔑する人間がもしいるとしたら、その人は人類の普遍性を軽蔑しているに違いありません。大衆蔑視と言い換えてもいいかと思います。消しゴムは労働の産物であり、人類の英知が詰まっています。消しゴムは国境を越えて消しゴムであり続け、言葉を超えてあらゆる人々が等しく使えます。消しゴムを消しゴムにしているシステムは、自家中毒に陥る抽象的な観念とは異なって、開かれています。

現実社会がいまだに利害の衝突(非人間的な関係の支配として現れるような)によって成りたっているとしたら、国家という組織による特殊利害への介入もそれ自体特殊利害の1つとして規定されています。共同社会のルールの束が、利害衝突が受けとるその姿態になってしまうことによって、このルールの束に本来期待される個人と社会の調和(人権の実現)が、障壁に遮られてしまいます。ある部分社会から発散する国家愛の退屈な主張の繰り返しも、普遍的な現実の展開に対する退行的な反応の1つであって、こうした障壁の一部分をなす腐敗した要素なのであろうと思われます。


5/9 追記

7日の北海道新聞の社説で教育基本法改悪法案の問題点がまとめられていました。関心のある方は読んでみてください。
by kamiyam_y | 2006-05-05 23:47 | 民主主義と日本社会