さっぽろ地下鉄のなかでマルクスを呼吸する、世界を呼吸する

幸福は凡庸なる日常にあり:《人間の同等性》(勢古浩爾)によせて

久々の氷点下の札幌です。
先週の木曜(3/9)の朝に人生について考えてしまいました。そのときのメモです。

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明け方に見た夢です。



実家の居間に、私は、幼少の頃の甥っ子と二人でいる。幼稚園か小学校入りたてくらいだろうか。

甥っ子は鼻をずるずるしてるし、元気がない。どうしたのだろう。

「熱あるの?」ときくと、

「うん」とあどけなく、うなづく。

「そっかあ・・・毛布もってこようか?そこで寝てる?」とたずねると、また、

「うん」とこっくり。

ソファに横にして毛布を掛けてやると、すぐさま眠ってしまう。

すやすやとねむっているその横で私は本を読んでいる。寝顔をときおりみながら本を読んでいる。



それだけの場面なのに、平凡な幸せの感じがあまりにリアルで、私は夢から覚めると、泣いていました。

というのはウソで、泣きたいような気分だったのでした、というのが正確です。GOING STEADYの"BABY BABY”の一節に、「目が醒めて僕は泣いた」(アルバム「さくらの唄」Libra Records, Distribution UK Project、または、銀杏BOYZ「君と僕の第三次世界大戦的恋愛革命」初恋妄℃学園SKOOL,Distribution UKP)というのがあり、それを思い出してしまいました。

夢から覚めると、私の頭の中を、寝る前に読んでいた本の内容がぼんやりと反復されています。

その本は勢古浩爾『生きていくのに大切な言葉 吉本隆明74語』(二見書房)で、吉本隆明からの引用に独自の解説をつけたものです。

そのなかの吉本の言葉のいくつかに、打ちのめされるくらいに力を感じて、勢古氏の解説にも、そうだよなあ、と共感してました。よくわからないものも多かったですけど。私の寝付きを悪くした言葉は、たとえば、「市井の片隅に生まれ、そだち、生活し、老いて死ぬといった生涯をくりかえした無数の人物は、千年に一度しかこの世にあらわれない人物の価値とまったくおなじである」といったもの。

マルクスと私の価値は同じである。就職して勤めて、まわりの人と心を通わせ、ちょっと吉本ふうにいうと、子育てし、子供に去られ、自分もくたばる、といった平凡な人生を送ることができれば、これはどんな歴史上の偉大な人物よりも、価値があるんだ、というわけです。

生きることのリアリティーって、日常そのものにある。早い話が、社会に対する影響力を持とうが、有名になろうが、生きる幸せのリアリティーはそんなところにはない。日常から離れた世界に真実があるのではない。勢古氏はこうした原点を《人間の同等性》と名づけて、吉本思想の核心として定式化しています。結構わかった気になるんではないか。


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以上が、3/9に書いたもの。吉本思想はオリジナルすぎてちょっとわからない。噛み合わせるのは難しい。そこで、以下では、資本主義システムの把握に強引に話をもっていきます。

人間がその人権において平等だということは、誰の人生の価値も同じものとして承認され、誰もが絶対的な世界であることが社会において原点になっていることを、おそらく意味しています。それがなければこの絶対的個性である自分自身がなくなるような絶対的な世界として自分自身が存立していることが、平等という原理の背景にあるように思います。絶対的な世界としてどの個人も絶対的に平等です。

だとしたら、当り前ですが、同じ商品を1日10個つくる労働者が、15個つくる労働者よりも、人間としての価値、人生の価値が優れているということはない。使用価値の生産量によって、人間の「価値」が変わるわけではない。

人間の「価値」の前に、経済的価値の話をまず片付けておきます。

有用物(使用価値)の生産力によって、労働力価値といういわば人間の経済的価値が変わるわけではない。《賃金体系》という労働力の値段の格差が、使用価値の生産効率を理由づけにされる、としても、じつは労働力の経済的価値(標準的な生活手段価値)は、平均であって人によって違いはない。

近代的平等の背景にあるのは、より一般的には商品生産です。商品生産システムは、人間労働を、相互に計算可能な同一の労働に置き換え、商品の経済的価値に置き換えることで、労働を社会的な労働に転換しています。

しかも、企業や、企業内のチームの中で、一人一人の労働力の差は相殺されて、誰もが平均的な労働力として作用します。

商品の売買では、誰もが商品売買の当事者として自由で、売買は、商品と、その商品と同じ経済的価値を表す象徴(お金)との交換で、これも同等なものの交換です。人間はここでは同等なもの(経済的価値=同等な労働)の仮面です。

しかし、人間が「経済的価値」になるのは、人間が「物」として作用すること、自己疎外です。人権の観念的平等は現実において疎外です。

経済的平等において人間は疎外されている。人間の絶対的な平等は経済的価値に還元されない。

そこで人間の「価値」ですが、これもやっぱり、同じ商品を1日10個つくるか、15個つくるかは、人間としての価値とはかかわりがないわけです。

そうした能力はバラツキがあります。誰がどれくらいこの能力を担うかは、彼の価値とは関係ない。知識や、あることへの才能やなにやらは社会に不均等に配分されている。誰がどれくらいもらっているかは偶然です。それらは全体として補完しあっています。この不均等は、人間の絶対的な価値とは次元が異なります。

この個人の物づくりの効率(使用価値生産力)を、学歴や、顔や、賃金といった属性と入れ替えても同じことです。

ついでにいえば、よい顔をもっている人は悩みなんかないに違いないと考える人は、属性を愛する人です。顔が特別よくなくても、大学名や、服装や、職業や、声や、地位や、境遇や、権力や金が、その人を立派に見せる舞台になることもあります。どんな属性に惹かれるかは人それぞれ。話が思いっきりそれてますが、そうした属性は、人間社会全体にとっては偶然的に散布されているものといってよく、人間の本質や価値を左右するものではありません。

それから、人間が1つのことをできるのは、一人の人間がもともと多くのことを潜在的にできるがゆえであり、人間全体として多くのことがなされ、個人個人が補完しあっています。またそれゆえに、個人が1つのことだけに囚われているうちは、人間もまだ豊かではない。

1年生のゼミで優れた発言によってゼミをリードした学生が、2年生のゼミでメンバーが替わったら突然、ゼミ時間中は発言せず、飲み会での歌担当にかわってしまうなんてことがたまにあります。このばあい、彼は2年ゼミでは役割を変えたんですね。

人間全体でもって、いろんな属性や、役割がそろっており、個人個人へのそれらの分配は、いってみれば、偶然です。人間に与えられる役割も能力も、努力する傾向も、怠け者の素質も、偶然です。《人間の同等性》はそうした事柄には絶対的に無関係であり、そんなものに左右されない。

一人の友人もいないが、総理という役割をする人と、飲んでばかりだが、友人のたくさんいる人は、後者の方が幸せです。有名になるとは所詮その程度の意味しかないのです。学問の発展だって、歴史に残る名前は偶然です。結局誰かがやることでしかありません。

使用価値生産力の競争はきりがなく、一番頂点の1人でさえ、追い越される不安を持ちますから、この意味でもこの生産力は人生の価値とは関わりない。

同じ商品を1日10個つくるか、15個つくるかを、人間としての価値に結びつけるのは、ホロ・コーストの思想、ナチスの優生学です。
by kamiyam_y | 2006-03-13 20:30 | 学問一般