さっぽろ地下鉄のなかでマルクスを呼吸する、世界を呼吸する

後進性の象徴としての小泉氏的熱病

▼さっき逮捕されちゃいましたね(毎日)。

 氷点を超えることのない日が続いています。帽子やフード、マスクがあれば完璧ですが、マフラーと手袋だけでもとりあえずかなり暖かいです。マフラーも2枚重ねたりするとかなり違います。

そういえば一昨日のセンター入試のリスニング試験、予備校ではICプレーヤー操作の練習をしたらしいですね。こりゃ金のある家庭に有利でしょう。しかも聞きづらいと受験生が訴えたら本当かどうか確認しなかったり(南日本新聞)、逆にプレーヤーの不具合があっても再試験をうけていない受験生もいるようだし(朝日)。リスクをかけて実施する意味があるのでしょうかね。出荷された機械に不良品が混じっていないと想定するのもどんなもんか。

米産牛肉をめぐる日米の「摩擦」は、国際社会を鍛え上げていく上でとてもいいことです。今回の「特定危険部位混入」問題では、野党は徹底して小泉政権の米国追随を批判し、その失政の責任を追及してほしいもんです。

▼さて、憲法の意義は、内向きかつ後ろ向きの政治スローガンを正当化する点にあるのではなく、グローバルに展開する現代社会において立脚すべき批判と構築の《原理》である点にあります。小泉氏の政治も近代の憲法的原則に照らして徹底的に批評されなければならないと考えます。社会のすすむべき選択肢を発見しそれを定式化する営みにおいても、小泉政治について考えておくことは不可欠です。小泉劇場については9.11総選挙前後に考えたこと、感じたことのいくつかを記しましたが、またちょっと書きたい気分になったので、少しだけ記しておきます。

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市民の学習過程としての変人熱望

靖国、イラク派兵に端的なように小泉氏の答弁は対話の否定である。対話を拒否する変人を熱望する人々が大衆の一部分にいるのならば、それはそうした未熟な要因こそが民主主義的環境から突出して力をもつ権力を生みだすといっておこう。対話の反対を暴力という。権力の濫用と肥大を、暴力を必要とする社会はそれだけ未熟で非人間的である。

収奪される人が、彼らの収奪を進める政治を支持し、強者の論理を弱者が支持するという局面を、小泉氏が、大衆への語りかけによって被い、農村から都市へその支持基盤的弱者を変更したともし借りにいいうるのであれば、また、それを転換と呼びたいのであれば、彼は自民党政治を転換したといいたい人はいえばよい。まったく彼は自民党を壊すといいながら、そのなかの足の引っ張り合いを全体として否定したわけではなかった。

しかしこうした小泉氏の劇場なるものも、大衆の発展の過程が辿る瞬間的な局面にすぎない。形の上で合法的であっても内容的に暴力である要因によって歴史が進展してきたことはいつも通りかもしれず、小泉政権とは米政府の「年次改革要望書」のことなのだから、日本社会の変化がつねに「外圧」から来ているという歴史が、また繰り返されているだけかもしれない。

とはいえ、時代の進展が常に敵対や破壊や暴力を伴うからといって黙っていられるほど、私たちは無知ではなく、歴史のなかに私たちの民主主義の深化の努力が浸透していくことを私たちは知っていもいるし、そのことを絶えず学び続けてもいる。

グローバル政治における後進性の象徴

小泉氏の米国追随とアジア外交毀損にも、小泉政治が日本社会の後進性を象徴していることが見いだされる。

大量破壊兵器の情報が誤りだったことをブッシュが認め、大義の揺らいだ戦争だったことがハッキリしたにもかかわらず、派兵によってブッシュに応じた姿勢を反省したことは一度もない小泉氏であるが、米国に追随して日本の憲法を真摯に実現しようとしない欺瞞的な態度は、国内民主主義に対する侮蔑であろう。国際的安全保障の創出という地球的な公共性の実現のために武力管理の国際的ありかたについて智慧を出していかねばならない時代に、米軍の一部として戦争に荷担していくことが、国際化の真のありかたにとって、またそこで果たす日本の役割と日本の憲法の先進性にとって、どういう意味があるのか、議論をすることが日本の民主主義を発展させるはずである。

米産牛肉輸入再開と特定危険部位混入による輸入停止という局面に見いだされる問題にも、国際化の真のあるべき方向からは遅れているありかたが露呈している。

日本という共同体が国際社会より水準の高く、国際的にも妥当させるべきルールを持っているのならそれを主張し、国際的ルールの不十分な現状においては、米国に対しても、日本の政治が日本の独自の共同性を守る政治的使命があることを主張しなければならない。

小泉氏の米国べったりの姿勢は国際化の進展に歪みをもたらすものだが、アジア外交も同様である。ここで顔を出す古さは、戦前的な史観を信奉するような社会病理だけではなく、排外的憎悪の吸収というグローバル化のもたらす摩擦を含んでいるように思われる。共同体の畜群的水準を示すにすぎない排外主義的言説という無媒介な意識、想像力欠如を取り上げる必要はない。ここでは小泉氏の外交の著しいアンバランスだけ指摘しておけばよいだろう。

小泉氏の態度が、米国向けの貌とアジア向けの貌との対照をなすのは、おそらく、偶然的な彼の思想や彼の選挙利害や彼の個性的態度が絡んでいるために、米国中心の経済的諸関係に依存している日本経済の位置を反映しながらも、アジアを含んだグローバル経済の諸関係や、アジア経済における日本企業の利益を反映してはいないからである。もちろん参拝(註1)はアジアのみならず、講和条約の秩序を裏切るという性格を帯びて、ドイツや、アメリカ、シンガポールを始めとする各国からの批判に晒される。


小泉路線は、新たな権力の増大を意味している

小泉氏による古さとの対決姿勢は、それが新たな権力をさらに解放することによって、逆に小泉政治を古くしてしまう要因を含んでいるのだろうか。というのは、小泉政治は利益政治の終焉などでは全くなく、利益政治の形態転化上のものではないからだ。その転化がもしも、産業の地域的分裂を前提にした地域ボスの存在、古い共同体的秩序に載っていた古い自民党体質から、全国的でグローバルな企業の利益を公然と主張するものへの転化であるならば、それは私たちにとっていわば民主主義をすすめる闘いの相手、対象を特定してくれる役割を果たす。残忍な政治はだから進歩的だ。

小泉政権は「小さな政府」などではなく、巨大な専制の支配を解放する。それは小泉専制政治という意味だけではなく、企業社会という巨大な権力を解放するという意味でだ。橋本派ヤミ献金疑惑のように、金権政治は続いている。小泉氏が企業献金廃止を論じたことはない。企業による政治献金は、最高裁で合法化されようとも、憲法の原理に反する非正統な行為であって、この点からいえば、小泉改革とは企業権力の解放である。

小泉氏の支配とは改革ではなく改革の収奪である

議論の大前提として踏まえておくべきは、近年の日本的システムの分解や再生とみえるものが、高度成長期に日本で資本蓄積がすすんでいく際の有効な環境であった共同体的なものが、社会的労働の発展にそぐわない外皮に転化したということである。あらゆる分野ですすむ改変は、古い秩序が変形されて高度成長の軌道を準備した時代が本格的に終焉したことを意味しており、小泉氏の登場も、日本社会の抱える問題の多くのベースを形作っている、「共同体崩壊」という局面に乗った歴史の1つの姿にすぎない。

だからこそいわねばならない。小泉氏の政治とは、変革ではなく変革の簒奪であると。簒奪される内容には肯定的契機もむろん含まれていよう。郵貯事業や政府系金融機関の改変・統廃合など本当はもはや古い問題というべきだろう。日本が築いてきたシステムを、グローバルな諸関係の発展に対応して組み替えていくという課題を遂行することがファシズムであってはならない。民主主義と憲法を蹂躙してはならない。

郵政民営化「法案」反対者を郵政民営化反対者にしたてあげ、それを、地域ボスの利権政治・派閥政治の蜜を吸う者と一括りにし、それを「世間」「改革」に反対する者として悪玉にして排除し、自らを全体利害の代表者にみせかけ、本来解散権濫用を批判されるべきなのに憲法よりも自分こそが民意であると自称して、参議院を反社会的集団に落とし立法府の原理的な至上性を踏みにじり、権力の執行部隊を民意に格上げし、自分に賛同しない者を「抵抗勢力」(=「反革命分子」)として血祭りにあげる。テレビは最大のプロパガンダの手段だ。

郵政民営化反対論が負けるべくして負ける議論という要素を含んでいるためにレッテル張りは有効で、テレビ・ファシズムともいうべき大メディアは、小泉氏のワンフレーズの政治に飛びつきそれを安物のショーに仕立てて、輿論を誘導し、小泉氏による政治局面の創出に大きな力となった(註2)。景気回復が小泉改革の成果だなどとする主張もおべんちゃらにすぎず、小泉政権下で名目GDPは回復しておらず、景気回復基調は外需の貢献であると高杉良が述べている(『月刊現代2月号』)のがおそらく真実に近い部分を言い当てている。小泉政権下で赤字国債は250兆円発行され、高失業社会の本格化していることすら大メディアは正確に伝えていない。

《反-個人》主義つまり全体主義としての小泉政治

小泉氏の言動は日本の市民社会の懐の浅さをよく象徴している。最も端的なのは、イラク人質事件における「自己責任」バッシングを扇動したことだ。およそ彼の思想には個人の尊厳という近代の原理が決定的に欠如している。個人を原点にしないがゆえに小泉路線は、資本という疎外された共同性を暴力的に押し出す。「新自由主義」は個人の自由の社会的実現ではなく、個人から切り離された個人の共同性の独立化にほかならない。


註1 最近ナベツネが「市場原理主義」と「靖国参拝」を批判している(『月刊 現代』1月号)。また、経済団体がアジア外交行き詰まりに懸念を表明している(首相のアジア外交「変えてほしい」奥田経団連会長2006年01月05日19時30分http://www.asahi.com/politics/update/0105/005.html)ことは、小泉外交がアジアにおいて経済的利害の平均を捉えていないことを意味している。。

註2 宮沢喜一元首相「熱狂の上に民主主義は成り立たない」(『世界』2月号・聞き手国正武重)「これだけ大きな国で選挙をやるわけですから、財政もあれば、社会保障もあれば、外交もある。テーマが1つだけなんてことはありえません。……テーマが正しく知らされなければいけないと思います」「衆院解散は一種の劇場的な出来事ですから、瞬間的にそれに飲み込まれてしまう。『良い、悪い』という議論がなかなか出てこないのが常ですね。それでも誰かが議論するかと思ったら、そういう議論が出てこなくて不思議でした」。 
by kamiyam_y | 2006-01-23 21:51 | 民主主義と日本社会