さっぽろ地下鉄のなかでマルクスを呼吸する、世界を呼吸する

「資本市場」の公共性

ライブドア報道に託けて書いたこと(→ここ)に補足です。

やっぱり「日経」に「日本版SEC」を!という社説が発表されました(1/22朝「今こそ本物の『日本版SEC』をつくれ」)。予想した通りです。現代の経済的諸関係が生みだす意識の1つとして妥当なものと思いました。

アメリカのSEC(米証券取引委員会)は、政府からの独立性が強く、準司法的な権限を与えられた「市場」の監視人であり、「マネー市場」の公共性を担保する組織です。

これに対して、強大な準司法的権限をもつがあったって「エンロン事件」は起きたではないか。所詮は資本主義は犯罪を呼び起こす、公共的関与など本質を隠す幻想にすぎない。こういうひねくれた考えというか、敗北を愛好する趣味もあるでしょう。逆にこれこそ今のシステムの安定性の証明だと資本主義をそのまま代弁しているだけの意識もあれば、これこそ現在は資本主義から脱却した新社会になった証しだとする幸せな空想もあるかもしれません。

詐欺は商品交換がもたらす《法》において最も許されざる犯罪であろうから、これを野放しにしては《市場の正統性》を担保できません。だから資本主義は詐欺に対して本来容赦ないです。ルールを守って競争しなきゃ不公平です。不公平には資本は敏感です。国の関与を積極的に求めていきます。これ自体すでに矛盾です。

しかし、現代はそこにとどまっていません。現代は「詐欺」1つとってみても、資本の姿として意味をもち、新たな形を与えられています。現代では、資本主義とは関わりない商品売買につきもののの詐欺が存続するだけではなく、詐欺が現代の資本の形態として意味をもって、新たな形態を与えられて発生しています。

巨大資本が孤立した消費者に対して、情報を隠す。科学を独占した資本が、消費者や労働者に対して権力として現れる。詐欺だって現代的です。

現代的な詐欺に対しては牧歌的で古典的な取締ではなく、現代的な組織が必要です。

食の安全の検査組織もそうですし、SECもそうです。

こうして詐欺に対する対処が資本主義の正統性を修復するとともに、絶えず発生する詐欺へのシステム的な圧力が、この対処によって明確になってきます。しかも、自由な市場を守るためには、組織による管理が必要になっています。資本主義は資本主義の私的経済としての諸前提を分解するような作用によって存続しています。

ですから、システム自身の浄化機能が高度化していくことを、資本主義の強さの1つと考えれば、その強さこそが、《正統性》の亀裂を拡大しているのです。資本の発展が資本の矛盾の噴出です。

「エンロン事件」も企業改革法を始めとするシステムの健全化機能の活発な発動を招きました。この強さこそがいってみれば「新自由主義」の弱さの1つです。

公正な市場という市場的理念は、公共的関与を排除する私的利益への信奉と市場の自動調節への信奉をくつがえすことによって存立してます。

そもそも「神のみえざる手」とは、労働の関係が共同体の意思から脱落して物の運動として(=「経済法則」)疎外されている《生産関係の物象化》を、地上に天国を見る調和的な幻想において表現された姿です。それは生産関係の物象化であり、交換による社会的生産の事後的成立であり、社会的総資本の再生産と流通を本体としており、また何といっても、それは資本の競争場面として実現されることによって、それがじつは「ありえないこと」を露出します。労働の社会的発展を諸個人が自ら制御していなかったことは社会問題としてあらゆる局面に吹き出てくるわけです。

民間企業的世界の公共的コードの網の深化は、いうまでもなく単純な「自由市場」イデオロギーの復古的実現ではありません。資本の「自由な」展開、つまり偶然的な利害の衝突、私的利益(価値増殖)の解放は、私的利益追求に調和の原理を見いだす「自由市場」イデオロギーとは別の公共的水準を要求しています。

「新自由主義」は、自分を分解していく諸条件に必然的に依存しているのです。それは自立した完結したシステムではありえず、過渡的な通過局面にすぎません。資本主義がそもそもそうなのですが、「新自由主義」という資本主義の現代的姿は、あくまでも巨大ではあれ1つの姿にすぎず、相反するような姿を必ず引き寄せ、それを拡大するのです。

資本主義の発展はどこを取ってみても《文明化作用》の強制だと書きましたけど、いったんこういう超マクロな映像を通過してから、証券市場の日々の事実を観察してみるとまた違ってみえてくるはずです。
by kamiyam_y | 2006-01-23 13:29 | 資本主義System(資本論)