さっぽろ地下鉄のなかでマルクスを呼吸する、世界を呼吸する

みんなのもの、うばいとったもの

耐震設計偽造問題ですけど。

資本主義の「現代」とは次の矛盾のことである、と言ってもいはずです。

 私的所有の中 → みんなのものではない

 私的所有の中に 大工業。社会的労働組織=社会的生産手段。
           科学。労働の社会的生産力
           → みんなのもの

この「みんな」は労働者だけではなくて資本家も含みます。私的所有はみんなのものを自分のものとして囲った状態です。

労働者は生産手段(工場設備など)の私的所有者ではないので、この点で会社の中の生産過程はかれらのものではなく、会社を超える生産過程の全体もかれらのものではありません。

労働者は、衣食住に必要な生産物である生活手段(消費手段)を私的所有しますけど、結局それは消費されて労働力に形を変えるので、労働者は結局、労働力以外何ももっていない。

人間の一部となった自然である生産手段も、人類普遍の知識である科学も、他人の私的所有のなかに実現しており、労働者はそこから排除されています。

資本家にとっては自分の生産手段は自分のものですが、他人が私的所有している生産過程の全体は、資本家のものではありません。資本家もこの全体によって翻弄される存在です。

これが競争ってことです。「自由な」競争はその実態において、非人格的な力の作用です。非人格的に社会的生産を発展させ、個人を自由にし、古い秩序を壊すのが資本主義の時代精神だとしたら、この非人格的な威力をどう協同で制御していくのか智慧を鍛えるのも、資本主義の時代精神でしょう。

会社を超えて連結している社会的生産過程が、会社の外の労働者にとっても、会社をもつ資本家にとっても、「みんなのもの」であるのに「みんなのものではない」。「みんなのものではない」から制御されず、全体の威力が人間に対立する。

で、設計事務所も建設業界も、私的交換者としては消費者と対等です。売買は私的な関係であり、売り手も買い手も「自由平等」です。

しかし、建築は人類の普遍的な知識の応用です。マンションを建てるには社会的生産組織=社会的生産手段が必要です。マンション建築は、個人にとって公共的な環境です。だったら、建設業者もマンション販売業者も設計事務所も、消費者と同格ではない。

だからこそ、国家が公共的なルールをつくり、基準をつくり、監督をするわけです。

労働組織も生産手段も科学も、他人の私的所有のなかにあり、消費者は排除されています。これは資本主義の限界ですが、この限界の中でルールが鍛えられ、民主主義が鍛えられていくのです。

この問題をこれ以上追求するとよくないという内容の武部氏の発言が批判されましたが、もちろん倫理的に許せませんけど、彼はこの社会の利害関係の顔にすぎず、私たちの資本主義社会にそうした「人命よりも金」という関係性が矛盾として存在しているのではないか。

京都議定書だってそう。環境と雇用と、先進国と途上国といろんな矛盾があるので、総合的な計画性が必要なのです(久留間健『資本主義は存続できるか』大月書店、2003年、参照)。
by kamiyam_y | 2005-12-08 00:22 | 資本主義System(資本論)