さっぽろ地下鉄のなかでマルクスを呼吸する、世界を呼吸する

ドラッカー理論における自由の追求

P.F.ドラッカー(Peter F. Drucker )先生が、11月11日(現地時間午前7時20分)カリフォルニア州クレアモントの自宅で96歳の誕生日を前にして逝去されたそうです。氏の思想的格闘に敬意を表し、謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

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NIKKEI NET国際ニュース:米経営学者ピーター・ドラッカー氏が死去

ドラッカーに関する簡潔な解説は、ダイヤモンド社のホーム・ページがとりあえず便利です。
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ドラッカー理論は企業経営に関心のある人々に受け入れられてきましたが、その真骨頂はじつは「自由」の社会哲学的考察にあるように思います。

ドラッカーの資本主義終焉論

1909年ウィーンに生れフランクフルト大学を卒業したドラッカーは、ナチスから逃れるために英国にうつり、その後渡米して、39年に『経済人の終り』を刊行します。以降多くの論考を発表し、『断絶の時代』などの著作が多くのビジネスマンや経営者に影響を与えてきました。

ちなみに「経営学の父」「経営学の神様」などと呼ばれているそうです。ちょっとださいですね。巨匠くらいでいいのに。

ドラッカーの神髄は、文明論的な思索を背景にしてビジネス社会の進むべき方向性を考察しつつ、経営管理論の具体的な指針を提起していく運動にあるのかもしれません。おそらく多くのドラッカーファンはそうした側面から読むのでしょう。

ドラッカーの影響力はもちろんビジネスの現場にとどまらず、経営学の学会レベルでもドラッカーは論じられてきました。

ドラッカーについてさまざまの自由な理解があるなかで、私は、ドラッカーの「社長訓辞」的部分に先行して初期の理論的問題設定を摘出した山口正之の理解と、資本のシステムの正当性モメントの崩壊現象においてドラッカーを位置づける有井行夫による評価を継承します。私もまた彼ら同様、ドラッカーが知的格闘をしている対象は【資本主義システムの過渡期性】であると考えます。彼の本質は社会理論家にあるとして評価します。

「ドラッカー理論には、文明論と経営理論の二つの系譜がある、というふうにいわれることが、よくある。だが、正確には、かれの経営管理論が、かれの文明論の結語なのである。『産業社会を、いかにして自由な社会としてきずくことができるか』というかれの主題への回答が、労働者を『管理』する政策の研究なのである」(山口正之『マルクス主義と産業社会論』新日本出版社、1969年、203頁)。

山口が言うとおり、彼の著作を貫く問題設定は、彼の理論的出発点となった初期の著作において明快であり、以降の著作はその具体化でしょう。ドラッカーは初期の著作において、ファシズムを、資本主義が陥る社会的統合の崩壊に対する1つの対応としてつかみ、産業社会を、ファシズムを招いた同一の危機からは自由ではないことを鋭くつかんでいます。

ドラッカーは最初の2つの著作において、政治上の形式的な自由平等ではなく、産業社会における現実的な自由平等をいかにして実現するのかという課題を自覚します。産業社会は、個人の自由がシステムの原理になっておらず、その中心的な社会力である経営権力も非正当なものとしても現れており、彼は、実質的な疎外を解決すべき大問題として提起します。彼が「会社」「産業」に対して強度の関心を持ち続けたのも、「自由平等」の現実化を、この経済の平凡な世界の課題として見いだすからです。

ちょうどこれはマルクスが、1843年に「ユダヤ人問題によせて」を執筆し、「政治的解放」から「人間的解放へ」という有名なシェーマを立て、それを1867年の『資本論』第1部において具体化しているのと似ています。ちなみに初期マルクスをマルクスの成熟から「断絶」する一連の理解がありますが、私はそうした「断絶」を恣意的な分析として拒否する立場です。

「ユダヤ人問題によせて」にいう「政治的解放」とは、成熟したマルクスの言葉をもって理解すればそれは、諸個人が「二重の意味で自由な労働者」になる「世界史的」転換であり、「近代ブルジョア社会」の形成です。封建制社会においては、人々は、移動の自由も仕事を選ぶ自由もなく、人々が土地の付属物でした。「政治的解放」とは、人々を人格的に自由な個人として解放することです。「職業選択の自由」を人々がもつことです。

人々が、その人格的な、法的な自由を得たことは、その反面では、あらゆる生活手段(個人的消費に向けられる労働生産物)が商品化するほどに商品生産が一般化したことを意味してます。それは、労働する諸個人が、生産手段からも「自由」となり、つまり生産手段から遊離し、生産手段を持たず、自己の必須生活手段を獲得するためにはそれを貨幣の形で、労働力の対価として得なければならなくなること、労働力を商品として販売する地位に落とされることを意味します。生産手段も生きた個人の手から離れて商品として売買され、資本の形態として集中していくことになります。

資本として集中することによって社会的生産過程が事実上の公共領域として形成されながら、法的な政治的な自由(「政治的解放」の領域)から分離し、自由を実現するための現実的な解放の課題の領域として露出していることが、現代の現代たるゆえんを劃している矛盾です。

社会的生産過程は、剰余価値を吸収して増殖する貨幣により編成されることとなります。人権主体としての個人の成立、共同体的生産の姿態である国家権力からの自由として表象される法的人格の自由は、いわば、封建社会の中に埋もれていた物象的な権力を、貨幣の権力として解放し、諸個人が現実的生活においてそれに従属することと引き替えに成立したのです。

貨幣は、過去の労働の蓄積であり、他人の労働の支配権となり、労働の共同体を支配します。貨幣は分裂した共同体であり、貨幣が共同体の現実であることによって、政治的解放という形で諸個人は幻想上の共同体において自由となるわけです。

「政治的解放」とは、こうして封建的共同体から諸個人を解放し、自由な個人の政治的共同体を解放するとともに、貨幣による社会的生産を政治的共同体から解放することです。政治的国家と市民社会との分離が近代の大きな枠組みです。「政治的解放」とは、国家が社会的生産から解放され、国家が共同体的な宗教から解放されることであり、諸個人の現実の共同体は貨幣に吸収され、市民の共同体が政治的共同体として成立します。

現実の共同体が労働において形成されておらず、この政治的共同体は、表象された共同体であり、想像上の共同体です。そこでの自由平等、万人の所有と人権は、労働における諸個人の孤立が観念的関係において転化したものです。個人が共同体をつくるという「主権在民」、それを原理とする「民主主義政治」とは、人類の解放ではあるが、解放の終りではなく、想像上の共同体における自由の実現です。

問題はもはや政治という表象上の共同性ではなく、総体を編成する労働における自由な個人の共同体の形成です。労働から分離した自由に対して、労働は貨幣が共同体であり、諸個人は対象からも、他の個人からも、自己の労働からも疎外されています。法的自由の反面は、対象世界の全面喪失です。問題は、この対象世界における共同体の形成です。共同体は資本の力として成立しており、これを諸個人が諸個人の共同体として奪還することが、見え隠れする課題です。この課題を「ユダヤ人問題によせて」は「人間的解放」と呼んだわけです。資本がつくりだす共同体を真の共同体へ、諸個人を、共同体を包摂した自由な個人へ。これが合い言葉でしょう。完成した人間社会は、ちっとも国有化とか一国社会主義なんぞではありません。

人間の解放と自由は、かつては宗教に、そして政治において局限された形で、実現してきたが、「歴史の真のカマド」である市民社会、社会的生産過程の姿である経済、諸個人の現実的労働の世界が、いまや自由と解放の課題となる地平まで人類は到達したわけです。政治的国家における解放と自由にとどまることなく、市民社会における解放と自由の実現にむけて、近代から現代への人類史の経験が深まっていくのです。

ドラッカーもこの現実自身の運動の一部として理解できます。「人間的解放」は、労働において現実の共同体をつくることであり、労働の社会的なつながりが諸個人の人格的自由を制限する独立した力ではなくなること、人々が社会的生産を協同で制御することにもとづいて、自由に発展しあえる自由な諸個人の社会状態をつくりだすことです。

「政治的解放」が示す「天賦人権の楽園」は、資本主義社会の理念的姿態であり、「自由平等」は商品交換における諸個人の社会関係として発生しています。資本主義社会の現実的姿態は、諸個人を飲みこむ資本の競争連関であり、ここには自由も解放も実現していません。

ドラッカーが注視するのはこの現実的領域である「職場」であり「会社」であり、産業社会です。「自由平等」が実現せず、社会的に諸個人の力を凝集し配分する権力が正当化されていない、個人が社会的承認において自由に活動をしていない状態をどう解決するのかという問題こそ、ドラッカーが終生追求した課題です。

ドラッカーが「自由」の未完成を「会社」の領域において見いだし研究を進めたことは、マルクスが哲学批判から経済学批判へ、市民社会の解剖学へ、経験的諸個人の生きた労働の問題へ議論を展開するのと同じといってもよいでしょう。

ドラッカーの本質を最もよく著している著作を1冊あげるとすれば、『ポスト資本主義社会 21世紀の組織と人間はどう変わるか』(上田惇生・佐々木実智男・田代正美訳、ダイヤモンド社、1993年。P. F. Drucker, Post-Capitalist Society,New York, 1993)です。『新しい現実』などもいいですが、やはりこれはその書名からしてラディカルです。資本主義の終焉と新社会への移行を説いているのですから。人類史的な射程でものを考えています。

「知識社会」とは、資本主義のあとの社会を社会主義と呼ぶのならば「社会主義」であり、企業の知識労働者、管理労働者に対して世界革命を鼓舞しているのです。第2部のグローバリゼーションを扱った文章も、大工業と世界市場によって諸個人を世界史的諸個人に変えていく資本主義時代の偉大さを生き生きと描いたマルクスの記述を彷彿とさせます。

このようなドラッカーが特に日本の経営労働者・管理労働者に受容されてきた歴史は興味深いと言ってもよいかもしれません。ドラッカーが日本の企業社会に注目し続けてきたことも考察に値する問題かもしれません。

以下ドラッカーの初期の2つの著作をもとにして、彼の問題設定を確認しておきます。

自由で機能する社会へ

『経済人の終り』ではドラッカーは、「自由平等」が宗教において実現されるのは宗教が社会の本質的な領域ではなくなることによってであり、「政治」上の「自由平等」の実現は、政治ではなく「経済」が社会を構成する本質領域になってからのことである、と理論的枠組を提出している(P. F. Drucker.The End of Economic Man, New York,1939,p.240.岩根忠訳『経済人の終り』東洋経済新報社、1963年、230頁[『ドラッカー全集1』産業社会編、ダイヤモンド社、1972年、収録])。

ドラッカーにとっては「経済」からの脱却が、自由の実現という意味を帯びているのである。脱却しつつも新たな社会統合のシステム(自由の現実化)の関係が成立していない。これが産業社会の正当性問題としてドラッカーが想定している思索の対象である。ドラッカーによる「知識」の発見も、まさにこの自由の実現として資本主義を超えることとして意味を与えられている。

ドラッカーの企業経営論は実は、社会科学の基本テーマである個人と社会との統一を中心課題としている。ドラッカーの把握は社会システム論であり、彼が追求するのは、個人が社会を介して自由であり、社会が自由な社会として個人を支えている状態であると言ってもよいだろう。個人が社会との統一において自らの社会性と個性の一致を自覚し、社会的承認のなかで生き生きと活動すること、社会が個人との統一において個人をまとめる権力の正当性を有し、安定した状態で個人の自由を実現すること、これがドラッカーのめざす社会状態であると理解できる。

『産業人の未来』(P.F.Drucker,The Future of Industrial Man: A Conservative Approach,London/Tront, 1943.田代義範訳『産業人の未来』未来社、1965年。岩根忠訳『産業にたずさわる人の未来』東洋経済新報社、1964年[前掲『全集1』収録]。邦訳頁は未来社版を掲げる。なお、引用に際しては訳文・訳語は必ずしも邦訳書どおりではない)においてドラッカーは、「自由で機能する社会」が実現していない危機状態として現代を捉えている。

同書によれば、「機能する社会(functioning society)」の形式的な条件は、

(a)諸個人に社会的な「地位と機能(status and function)」が与えられていること、
(b)「社会的に決定的な権力(decisive social power)」が「正当な権力(legitimate  power)」であること、

であり、「自由な社会」の条件は、

(c) 社会の本質的領域が自由であること、責任ある選択が行われる自治のあること、
(d) 政治の領域における自由な統治と社会の本質的領域が分離していること、

であるとされる。個人が社会的な役割を自覚し、社会の本質的領域において権力が正当であり、「自己統治(self-go vernment=自治)」が実現し、社会生活を組織する原理としての「自由」が生きている状態が「自由で機能する」社会状態である。

ドラッカーはこの基準によって問題を提起する。

第一次世界大戦の前の150年の「商業社会」は「機能する自由な社会」であった。社会は、前産業的であり、「営利的だがいまだに田園的な性格」をもっていた。社会的人間像は、イギリスでは「紳士」であり、フランスでは「自作農」、アメリカ合衆国では「市民としての自営農民」であった(The Future of Industrial Man, p.50. 65頁)。

これに対して、現在はどの条件も満たされてはいない。産業社会は危機にある。
(a)大量生産工場では、諸個人は機能と地位を失っており、(b)株式会社では、経営層の権力が私的所有権という正当性の基礎から分離しており、(c)社会的に本質的な領域で自治が行われておらず、(d)中央集権的な官僚政治によって社会的支配が吸収されている、というように。

従業員社会において働く人々は目的と役割を喪失し、自覚的な社会関係が形成されていない。株式会社は、私的所有にもとづく正当性を失っている。

「政治的解放」は商品交換にもとづく自由な私的所有者としての相互承認を普遍化する。この相互承認において、株式会社は、自由な私的所有者の団体として、自由を組織原理とする社会的妥当形式を与えられている。

「株式会社のような集団的実在が、なんら政治的承認を必要とせずに、個人的財産保有者の自由契約によって創りだされる、ということは、財産を本源的かつ至高の権利として承認したのである。……/株式会社の政治的目的は、その株主の個人的財産権の本源的な権力にもとづいて、正当な社会的統治体をつくりあげることにある」「……株式会社は、歴史的なフィクションの分野、倫理的正当化の分野から、政治的活動の分野に移された契約理論にほかならない」(The Future of Industrial Man, p.52. 67-68頁)。

しかしこの「政治的解放」を突破して「人間的解放」の課題が露出している。株式会社が株主のものという虚構は破綻している。

「現代の会社経営層は-アメリカのように名目的に株主の下僕であろうと、カルテルや中央統制機関の管理者のように法律上株主とまったく無関係であろうと-株式会社の形で社会的に結合した、原子的な個人の財産の業務執行上の代理人ではない。それは財産から委託された権力ではない」(The Future of Industrial Man, p.59. 74-75頁)。

「経営上の権力は今日非正当な権力である。それは権力の正当な基盤として、社会に承認された基本的な原則にもとづいていない」(The Future of Industrial Man, p.66. 82頁)。

「階級社会という資本主義の現実は、資本主義の理念と一致しない」(The End of Economic Man, New York,1939,p.44-45.42頁)。

資本主義の理念とは、「政治的解放」の圏域であり、「商業社会」的な「自由平等」、法的自由、政治的自由を指すとすれば、資本主義の現実的な姿態は自由な諸人格の関係ではなく、物象的な関係によって編成される非社会的な状態、自由を原理としない社会編成のありようである。

この現実的な姿態を織りなす企業と企業の世界、そこの現れる社会的生産過程はしかし、諸個人の社会的な力をその姿態として生みだしている。生産過程こそ人々の共同体が現実に存在する「公共的なもの」である。私的所有にもとづく自由な社会関係によって経営者権力が正当化されておらず、従業員の社会において経営者権力が独立した権力となってしまっている疎外状態において、公共的なものが露出している。

「マネジメントの権力」「企業の」マネジメントは正当性承認を欠いており、正当性のない権力は収奪である、という議論は、後期の著作『マネジメント』などにも貫かれている。

「企業内の問題と思われるものが、かなり公共的な利害問題となってくる」( P. F. Drucker,New Society: Anatomy of Industrial Order, New York,1950,p.46.村上恒夫訳「新しい社会と新しい経営」『ドラッカー全集2』産業文明編、ダイヤモンド社、1972年、54頁)。

社会の本質的領域である企業社会の実体はすでに「公共的」であるが、それによって個人が社会との調和において生命発現する媒介のしくみが存在していない。ドラッカーの苦闘はこの矛盾に由来する。

ドラッカーが企業社会を論じ、企業社会を変貌させる情報化を語り、トランスナショナルな関連の形成を視野に入れて、資本主義の終焉を期待し、ビジネスマンの解放を追求するのもマルクスが論じた矛盾のいわば1つの優れた表出なのである。

もちろんこの表出は学問という形を取った現実の自己開示というよりは、現実の無自覚な表現というべきである。この表現は、労働者の自己矛盾的振舞を生産関係の資本主義的編成の原理として堅持するマルクスの把握が包摂する対象にすぎない。現存の社会システムの労働による資本主義的規定性を捉えることができない点はしかし、ドラッカーに固有の欠点ではない。彼に固有の美点こそマルクス的な現代認識に包摂すべき営為なのである。


文献

○ 有井行夫『株式会社の正当性と所有理論』青木書店、1991年。マルクスの経済学批判を株式会社の正当性問題として復権している。138頁で、ドラッカーの正当性論が評価されている。上記の論考における評価もこれを踏まえている。
○ 山口正之『マルクス主義と産業社会論』新日本出版社、1969年、第3章。山口の議論の最大の長所は、非マルクス的な議論の成熟のうちに資本主義の自己否定性をつかみとる点にある。「『所有と経営の分離』が確定的となった瞬間から、経営者とテクノストラクチュアの権力が確立されたと主張しはじめる瞬間から、資本家としての生産手段の私的所有の『適法性』の根拠が、崩壊することを、ドラッカーは、俊敏にも感知した。……20世紀の新しい産業的現実は、資本主義から、その存在の適法な根拠を奪い、資本家を、無用な腐朽した寄生物にかえた。……それは、死滅しつつある資本主義なのである」(178頁)。
○ 村田稔『経営者支配論』東洋経済新報社、1972年、第2部第7章。
○ 岩尾裕純「制度学派の新しい展開-ドラッカー、P. F.- 」同編『制度学派の経営学』講座経営管理論I、中央経済社、1972年。
○ 藻和重隆『ドラッカー経営学説の研究』森山書店、1959年。
○ 松本正徳『経営学の理論』中央大学出服部、1980年、第3部3章。
○ 白杉庄一郎『独占理論の研究』ミネルヴァ書房、1961年、第4章第4節。
○ T. Tarrant、Drucker : The Man Who Invented the Corporate Society,Boston,1976. 風間禎三郎訳『ドラッカー一企業社会を発明した思想家-』ダイヤモンド社、1977年。
○ 田代義範『産業社会の構図-ドラッカーの管理思想-』有斐閣、1986年。
○ 岡本康雄「ドラッカーの産業社会論」高宮晋編『現代経営学の系譜』日本経営出版会、1969年。
○ 麻生幸『ドラッカーの経営学-企業と管理者の正当性-』文眞堂、1992年。
○ 河野大機『ドラッカー経営論の体系〈増補改訂版〉』三嶺書房、1990年。
○ 泉卓二「アメリカ労務管理史論」ミネルヴァ書房、1978年「資本主義経済社会の矛盾の発展……は、〈予定調和〉の世界を崩壊させ、この現象に対応して〈社会と個人〉の問題が、いわばブルジョアジーの危機意識の表現として提起され、〈有機体的社会観〉を成立させたといってよい」(303頁)。
by kamiyam_y | 2005-11-21 21:44 | 資本主義System(資本論)