さっぽろ地下鉄のなかでマルクスを呼吸する、世界を呼吸する

The So-Called Labour Fund / Der sogenannte Arbeitsfonds

『資本論』第1部第7篇第22章第5節「いわゆる労働財源」は、この章の最後の節で、短い補足的な話なのですぐ読めます。労働力に投下される可変資本を不変量とみなす説がこの節で批判する対象です。

Es ergab sich im Verlauf dieser Untersuchung, daß das Kapital keine fixe Größe ist, sondern ein elastischer und mit der Teilung des Mehrwerts in Revenue und Zusatzkapital beständig fluktuierender Teil des gesellschaftlichen Reichtums.
この研究の過程で明らかになったように、資本はけっして固定した量ではなく、社会的富のうちの弾力性のある一部分であり、剰余価値が収入と追加資本とにどう分かれるかにしたがって絶えず変動する一部分である。(『資本論』岡崎次郎訳、大月書店、S.636.)


資本を固定したものとしてつかもうとする、「古典派経済学」にみられた「偏見」(ドグマ)が、ベンサムにより完成され、マルサス、ジェームズ・ミル、マカロックらによって「弁護論的目的」に用いられたが、この考えでは、とくに可変資本に示される労働ファンドが「自然の鎖」で固定された不変の前提とされてしまっており、可変資本量が搾取度、労働力の価格によって変化する点が見落とされます。

このドグマに対して、その「根底にある事実」として、マルクスがあらためて摘出している事実は、労働者が「非労働者の享楽手段と生産手段への社会的富の分割に口出しはできないこと」、および、労働者が「ただ例外的に恵まれた場合に富者の『収入』の犠牲においていわゆる『労働財源』を拡大することができるだけである」(S.638.)ということです。労働ファンドが固定しているようにみえるのは、労働者の生活手段が弾力的に最低限にまで押しやられているからであり、それは自然の摂理などではなく、資本蓄積という社会システムの運動の作用にほかならない、というのが真相です。「労働財源の資本主義的な限度をその社会的な自然限度につくり変えること」(S.638.)がここでの俗流的な弁護論です。

いうまでもなく、超国籍的な資本が運動する現代の「新自由主義」的に現れる蓄積において、労働者の「貧困」が明るみに出されているのであって、蓄積論のリアリティは現代を貫いています。

ちなみに、ここでのベンサムに対するマルクスの罵倒は冴えていて、面白い。

もう1つ興味深いのは、「労働の生産物」が「労働に反比例して分配される」と論じた、註65におけるジョン・ステュアート・ミルからの引用。マルクスはJ.St.ミルを「俗流経済学的弁護論者の仲間と混同することは、まったく不当であろう」とここで評価しています。他の学説すべてを「俗流」と言い放って分かった気にならずに、きちんと評価すべきものを評価する学問的な作業の積み重ねが「批判」なのです。ここは、「古典派経済学」と「俗流経済学」をマルクスがどう扱っていたかがわかる箇所の1つです。

蓄積において、可変資本と、生産手段に投下される不変資本とは歩調を同じくして拡大するわけではなく、また、可変資本の素材である労働力の増減は蓄積を制約する重要な条件です。そこで、次く24章では、「労働者階級の運命」が課題となり、蓄積に伴う資本主義的人口法則、貧困としての本質の露出、「資本主義的蓄積の一般的法則」が論じられます。
by kamiyam_y | 2016-06-20 23:16 | 資本主義System(資本論)