さっぽろ地下鉄のなかでマルクスを呼吸する、世界を呼吸する

知床と温暖化


▽ 夏至をすぎて、8時になってもまだ空に明るさが残っているのがうれしい!
夕刻の空のスクリーン色の変化、日が落ちたあとのビルの影を見ていると、ほんとに生きていてよかったと思う。おおげさでなく。

仕事を終えたあとしばらく外が明るいのはとってもすてきなことだ。
といっても、私は、サマータイム導入は反対です。早起きするのじゃ意味がない。
今の日本では、サービス残業廃絶こそ正しい目標でしょう。

時短の強制は働く現場に対する制御ですが、知床の世界遺産認定は、天然の自然を保護するための総合的な制御の道具としてみることができます。ただのお国自慢ではなく。


▽ アスベスト被害者に労災認定がまったく追いついていないのは、現場で働く人々の無知のせいではない。惨事を招いたのは、国の安全対策の遅れである。今朝の日経3面によれば、83 年にはアスベスト全面使用禁止をしている国もあり、アスベストの危険性は70年代にILOによって指摘されていたという。

<アスベスト>厚労省が各労働局に通達「労災認定徹底を」 [ 07月07日 15時00分 ]
毎日新聞社(Excite エキサイト : 社会ニュース)


 アスベスト(石綿)が原因で起こる胸や腹部などのがんの中皮腫の死者数に対し、労災認定数が極端に少ないため、厚生労働省が全国の労働局に、医療機関などへ周知徹底を図るよう、異例の通達を出していたことが分かった。発症まで20~50年かかる中皮腫は最近になって死者が急増し、年間900人近くに達しているが、労災認定は約10分の1にとどまっている。患者支援団体は「通達自体は評価できるが、労働基準監督署の現場に浸透していないところもある」と指摘している。

 人口動態統計によると、中皮腫による死者は95年に500人だったが、02年は810人、03年には95年の約1.8倍の878人に達した。

 中皮腫の多くは、仕事中に石綿を吸い込んだことが原因で発症する。厚労省は03年、専門家らによる検討の結果、危険性の認識がより深まったとして、勤務歴などに関して労災認定基準を緩和した。

 しかし、中皮腫の労災認定数は02年度の55件から、03年度は85件に増えただけだった。このため厚労省は今年2月、都道府県労働局長に、認定基準を的確に運用するよう通達した。それによると、「認定数は増加傾向にあるものの、死亡者数は認定件数を大きく上回る水準で、中皮腫が労災認定の対象であることの社会的認知の不足に起因するものと考えられる」とし、その上で「的確な補償に努め、医療機関や関係団体などへの周知徹底を図ること」としている。【大島秀利】


年間900人の中皮腫による死者数のうち、労災認定数がその1割とはどういういうことなのだろうか。

▽ 『資本論』の「機械と大工業」章に、19世紀イギリスの工場の安全衛生を素材とした記述がある。やや長くなるが引用しておく。

保健条項は、その用語法が資本家のためにその回避を容易にしていることは別としても、まったく貧弱なもので、実際には、壁を白くすることやその他いくつかの清潔維持法や換気や危険な機械にたいする保護などに関する規定に限られている。われわれは第三部で、工場主たちが彼らの「職工」の手足を保護するためのわずかな支出を彼らに課する条項にたいして熱狂的に反抗したということに、立ち帰るであろう。ここでもまた、利害の対立する社会では各人はその私利を追求することによって公益を推進する、という自由貿易の信条が輝かしく示される。

人の知るように、アイルランドでは最近の20年間に亜麻工業が大いに発達し、それにつれてカッチング・ミル(亜麻を打って皮をはぐ工場)が非常にふえてきた。そこには1864年にはこの工場が約1800あった。周期的に秋と冬にはおもに少年と女、つまり近隣の小作人の息子や娘や妻で機械にはまったくなじみのない人々ばかりが、畑仕事から連れ去られて、スカッチング・ミルの圧延機に亜麻を食わせる。その災害は、数から見ても程度から見ても機械の歴史にまったく例がない。

キルディナン(コークのそば)のたった一つのスカッチング・ミルだけでも、1852年から1856年までに6件の死亡と60件の不具になる重傷とがあったが、これらはどれもわずか数シリングのごく簡単な設備で防止できるものだった。ダウンパトリックの諸工場の証明医ドクター・W・ホワイトは、1865年12月16日のある公式報告書のなかで次のように明言している。

「……この国での工場の増加は、もちろん、このような身の毛のよだつ結果を広げるであろう。私は、スカッチング・ミルにたいしては、適切な国家の監督によって、身体生命の大きな犠牲が避けられることを確信する。」

資本主義的生産様式にたいしては最も簡単な清潔保健設備でさえも国家の側から強制法によって押しつけられなければならないということ、これほどよくこの生産様式を特徴づけうるものがあろうか?

「1864年の工場法は、製糖業で200以上の作業場を白くぬらせ清潔にさせたが、それまで20年間も、または完全に、いっさいのこの種の処置が節制されたのであり」(これが資本の「節欲」なのだ)「しかもこれらの作業場では27,878もの労働者が働いているのであって、彼らは、これまでは、過度の昼夜作業のあいだ、またしばしば夜間作業のあいだも、有毒な空気を吸い込んでいて、それが他の点では比較的無害なこの仕事に病気と死とをはらませていたのである。この法律は換気装置を非常に増加させた。」

それと同時に、工場法のこの部分は、資本主義的生産様式はその本質上ある一定の点を越えてはどんな合理的改良をも許さないものだということを、的確に示している。繰り返し述べたように、イギリスの医師たちは、一様に、継続的な作業の場合には一人当たり500立方フィートの空間がどうにか不足のない最小限だといっている。そこで!工場法がそのあらゆる強制手段によって比較的ちいさい作業場の工場への転化を間接に推進し、したがって間接に小資本家の所有権を侵害して大資本家に独占を保証するものだとすれば、作業場でどの労働者にも必要な空間を法律で強制するということは、数千の小資本家を一挙に直接に収奪するものであろう! それは、資本主義的生産様式の根源を、すなわち資本の大小を問わず労働力の「自由な」購入と消費とによる資本の自己増殖を、脅かすものであろう。

それゆえ、この500立方フィートの空気ということになると、工場立法も息切れがしてくるのである。

保険関係当局も、もろもろの産業調査委員会も、工場監督官たちも、500立方フィートの必要を、そしてそれを資本に強要することの不可能を、いくたびとなく繰り返す。こうして、彼らは、実際には、労働者の肺結核やその他の肺病が資本の一つの生活条件であることを宣言しているのである。

工場立法、この、社会がその生産過程の自然発生的な姿に加えた最初の意識的な計画的な反作用、それは、すでに見たように、綿糸や自動機や電信と同様に、大工業の一つの必然的な産物なのである。……

(大月書店版資本論第1部第13章第9節「工場立法(保健・教育条項)」訳文には多少手を入れ、改行したり、段落の順序を入れかえたりしている)


もじっていえば、犠牲者の多さに、労災認定も「息切れがしてくるのである」。
健康に働く権利よりも、産業の目の前の要請が優先したのである。

もちろん今は「スカッチング・ミル」ではない。問題は現在のより高度な技術を前提におきている。しかしこの現在の水準において、噴出している問題性は、19世紀の安全衛生問題にあらわれたシステムの運動様式として同一である。

国家による強制こそが安全にはぜったい必要だ、という事実。この事実が資本主義を特徴づけると、引用文では言われている。しかも、資本主義がこの強制の実現を、この安全の実現を不可能にすることを不断に繰り返す局面において、資本主義システムの亀裂がみえると述べられている。この不断の繰り返しにおいて、【犠牲が資本主義の存立条件だ】ということを、資本主義がみずから告知している。

私利追求という資本主義の前提は、調和的には貫徹しないのであり、私利追求が自動的に安全をもたらすのではなく、逆にそれは対立によって、社会による意識的制御を起動するということだ。

この点をふまえて、念のため確認しておきたいのは、資本主義が調和でないことはいうまでもないが、だからといって「資本主義だから所詮無駄」というあほらしい議論に陥る必要はないということだ。

資本主義は制御を立てざるを得ず、同時に制御をくつがえさざるを得ないのである。資本主義は制御を立てることによって生き、制御を不可能にすることによって生きる、といってもいい。
資本というシステムは、まさに私的放埒による私利の相互衝突と、社会的共同性の要請との間の振動を生きる。制御不可能と、制御との間を呼吸するのが資本であり、この絶え間ない否定運動がもたらす「人間」の陶冶こそが、資本のリアリティだ。リアルとは分裂であり、分裂による形成運動だ。

資本は、自分の姿態である制御に対して、この制御の不可能において、自分を限界として露出する。制御を要請しながら、制御を制約することによって自らの対立性をあらわにする。制御が、資本主義の本質を照射するといえる。

「知床」に見るべきは、漁業権や林業権という私的権利と、環境という共同性との衝突だけではない。そこに見るべきは、「持続可能性」という国際合意の流れだろう。

この合意の意味するところは、資本主義的成長は持続不可能だということ、つまり、持続可能な発展とは資本主義的成長におさまらない社会システムの陶冶をすすめるということである。
工場立法による生産の制御は、いま地球環境問題においてその最前線に推移している。
by kamiyam_y | 2005-07-14 21:44 | 成長主義と環境