さっぽろ地下鉄のなかでマルクスを呼吸する、世界を呼吸する

ある日のとりとめない会話―商品・貨幣論

かずとも(以下K):『理論劇画 マルクス資本論』(門井文雄原作、紙屋高雪構成・解説、石川康宏監修、かもがわ出版、2009年)(Amazon.co.jpをみていたら「労働日」に出てくる過労死の話が載っていて(79頁以下)、おもわず「脱法ハウス」を思い出したよ。横になれる最小限の間仕切りされた非人間的空間でしか寝られないなんて。正規雇用的現役軍から追い出された個人が生きることが社会基準上の最低限を下回って有効需要と使用価値供給が合致すること、資本の一部分がかれらからさらにまた吸血するのに用いられることになってる。

ともかず(以下T):うん、交換価値のための交換価値が眠りに配慮するのは交換価値のためでしかなく、貨幣増大のために貧困がつくられては動員されるというわけか。産業予備軍の絶え間なき創出と現役軍の絶え間なき消耗が価値増殖による資本蓄積が自ら生み出すその前提、生活環境なんだ。

K:そうだね。で、今日これからの勉強会、テーマは交換価値の形成で。

T:商品・貨幣論。ええと、貨幣という支配力。これがいってみれば資本主義把握という変革のモメントの核心で、これって「ユダヤ人問題によせて」の最後に市民社会の疎遠な力として出てくる。この疎遠な力を労働という存在世界総体の原点の自己疎遠性においてつかむことが市民社会の解剖学、経済学批判といっていいとおもう。

K:貨幣の魔力だけど、まず貨幣って一応モノだよね。モノがどうして社会の力なんだろう。物理的でも化学的でもなくて社会的な力。

T:まさに謎だよ。超感覚的な社会の力が自然物の属性なんだから。自然的な素材形態がそのままで、目でみえない社会的な力としてあらわれてくる。では貨幣はどうしてそうなんだ?駅員が切符の代わりに千円札を配ったり、大学教師が出席カードの代わりに一万円札を配ったらどうだい?俺は切符買いに行くし授業に絶対出るぞ。まっ、誰でもだけどさ。

K:買物をしたら包装紙が一万円札でできているなんてのもいいな。

T:こういう空想上の喜びは、俺んちのチワワとは共有できない資本主義的人間だけのもの。この社会の外にはないし、動物にはない人間特有の社会現象だからね。かかわっている人間だけに妥当する社会関係っていうか。

K:うん、ミミズに貨幣は存在しない。貨幣はそのものを感覚的にみればモノでしかなくて、でも感覚的でない社会力。金はそれ自体欲求をみたす有用性が飾りに使えるとかしかなくても、交換価値の代表で、その金を代理するのが価値標章だっけ。まあ、メロンを包むのも紙だし、お札も紙だ。紙という似たようなものが購買する力であったり、なかったり、不思議だね。

T:じゃ、直接的交換可能性といったこの驚異の力って政府が決めたから生まれたものなのかな。貨幣が妥当していく力は法律の力の発揮。

K:いやいや、政府がたとえば君、ともかずを貨幣にしようと決めても俺はそんな貨幣は使いたくない。ともかず4分の1と何を交換すればいいんだか。

T:俺は貨幣にはならないって(笑)。商品として価値物として大量生産され交換可能なものでないと。で、結局政府や法律が決めてもそれが通用するのは実際の人間を通してだから、そう政府じゃない。価格の単位確定や鋳貨製造は法律的なものだとしてもそれはいわば形でしかない。中身は経済がつくる。貨幣の力は人間から独立して人間を制御する経済法則だからね。

K:経済法則の力って何だ?

T:社会的生産過程の力。労働の自然的人間的社会的諸力さ。

K:生産によってまとめられている生きた全体の力かな。

T:うん、そんなかんじだね。まあ、直接には商品。商品の力。貨幣は商品から生まれるからね。そして貨幣を生みつづけて商品が存在し、労働生産物が商品となって再生産されている。貨幣と商品、この運動の全体が生きているわけだけど、商品と貨幣が絶えず生まれ出て経済法則の力がリアル。1つの商品が関係していく起点で、商品から貨幣が生まれ、商品の力が貨幣によって実現し、貨幣の力が商品によって息を吹き込まれている。社会全体の力が商品に担われていて、商品はなにものにも優位する必然性なんだ。

K:商品の交換価値として、商品が貨幣を生む。価値形態論だな。商品の価値を統一的にその使用価値で表現する等価物ってやつ。

T:そうそう。一般的等価物であることは、あらゆる商品に対する直接的交換可能性だ。それは流通手段になって、買う力となり、流通から独立して、なおかつ流通に戻って、増殖する価値という力になる。

K:ちょっと難しくなってきた。

T:そういえば、『哲学の貧困』(高木裕一郎訳、国民文庫、55頁)によると、商業はあらゆるものを使用価値と交換価値との対立に還元したってシスモンディが言ったらしいぜ。

K:使用価値と価値との内的対立を外的対立に対象化する、だっけ。価値形態論は商品の二要因を分離する。

T:そして交換過程は商品が、商品と商品と並ぶ貨幣という二重化することで媒介されている。

K:平たくいえば、あれだね、労働はばらばらで、労働では人が結びついていない。代わりにモノが結びついて社会的分業が成り立つ。人の関係がモノの関係としてつくられ、モノの関係が社会的労働総体という生きた社会全体のまとめる力になる。交換が労働を社会的にする。モノの多様な依存関係が異なる労働の依存関係。

T:そのとおりだ。共同体的な労働の反対。

K:私的な労働。共同体的な労働では個々の労働が社会的労働としてあらかじめ立てられていて、労働がそのまま現物の姿で社会的なものとして妥当しているけれど、私的労働ではそうでなくて、商品それぞれのもととなるばらばらな私的労働って相互に異なっていて非社会的に隔離されていて、それらの抽象的な同一性、連続性に、商品の価値関係のもととして人間労働力支出という同一性に還元される側面に普遍性がみとめられる、とでもいうのかな?

T:まあ。

K:私的労働として労働が相互に断ち切られているから、その連関は交換される客体の連関だ。まったく孤立しあっているわけで労働の有用性、特定の生産物をつくる合目的的活動も、それへの社会的労働力の支出もまったく相互に隠されている。

T:うん。それで、客体である諸商品が能動的に連関しあって社会的労働を実現する。諸欲求をみたす有用物を適切な量つくる私的労働の相互の依存ってのは、諸商品が使用価値として実現することであって、また、異なる諸労働の形をとる人間労働力の支出という社会的費用ってのは客観的に価値に反映している。他人のための使用価値として実現することがその背後の労働を具体的有用的労働として社会的分業の一分肢として実証し、価値として実現することが人間労働力の支出一般に還元された抽象的人間的労働を実証する。こういうわけだ。

K:価値量として、労働は社会的総労働時間の一部として社会的必要労働時間として実現する。抽象的労働は価値という形をとるけど、その大きさは継続時間、社会的に平均的な生産条件、労働の強度・熟練度のもとで必要な時間によって規定されている。

T:ついでにいえば私的労働として労働が相互に断ち切られているからこそ、市場が拡がり経済法則をつうじて生産力発展が自己目的化してるね。

K:共同体を超えて流通へと同化していく商品の本性と、飽くなき価値増殖による事後的な生産力発展っちゅうことやね。私的労働だけど単純にいえば、まあ、生産した商品が売れれば、その背後の労働は自分を全うしたことになり、また労働を繰り返せる。売れなければ労働は死す。

T:ゆえに商品は人々を突き動かして交換されねばならない客観的要請なんだね。人々の交換行為の実体はかれらの意思にではなくてまさに商品にある。客体の側に社会形成の力がある。商品所持者の目にはこれはこのあるがままの姿で、つまりモノに本来交換力があるかのようにみえてしまい、事態の全体の連関が消え去ってしまう。この実体の力は人間が支配する自然素材、客体に重ね合わさって、というかこの自然物の姿であらわれるからね。

K:物神崇拝による正当化だっけ。

T:だな。商品として社会的力が自立するには、交換者の立場では交換者が主人公という法的抽象が維持されていなくちゃいけない。商品の力は商品の自然な属性で、よって交換する人間も交換を自然として了解しているっていうのかな。

K:まあそういうことだべ。で、繰り返すけど、そういう社会的な力のある商品って、ばらばらな労働のその社会的な力となるような紐帯なんだってことが重要だよな。労働は私的利益に分解し、その社会的統一は商品の交換がなしとげる。労働で人は関係せず、商品の交換が労働を事後的に無自覚に社会的労働として実現する。

T:そう。生産における人格どうしの関係であるはずのものがモノとモノとの社会関係としてあらわれる生産関係の物象化ってまとめられる話だね。社会を排除し他者を排除し私的利益の計算で私的利益のために社会的合意や計画なしに見込みで行われる私的諸労働、これって物象的にのみ、物象の関係としてのみ社会的総労働の生きた器官として関係しあう。私的労働は物象化を通した社会的編成の起点、といっても商品流通がその外部にあるとしているその根拠なんだ。商品は自分を生み出す理由を流通の外にもっていてそれに依存していけれど、ここではそれはそれがあることを商品から指示されるものでしかない。私的労働は商品にとっての前提だけど、商品が商品として自分の足で立つ、商品がこの前提を自ら生み出すのは単純な商品にとどまってではなくって、資本に移行してなんだよね。実際の労働の中身は資本の過程に包摂されている自己否定的な疎外された労働、自己疎外する労働で、あくまでもここでは私的労働は商品が流通の外に前提しているもの。商品がそれを確保するのは資本としてのことだ。賃労働が商品生産者の自己労働を実現する。

K:そういう流れを予想しつつも、ともかくここでは商品を生み出すのは、私的労働という社会的労働なんだよね。商品論におけるそれを生み出すものとしての私的諸労働。商品流通という全体からみた労働。商品流通によって全体を生み出すもととなっている孤立した労働。孤立しているからモノの流通として連関するほかない疎外された労働。商品を主体化させる労働。

T:社会的労働である私的労働。交換という社会的労働とそれが想定する私的労働。私的労働は商品交換によって私的利益を実現する、つまり私的労働として実現するけれど、それは社会的労働としての実現なんだ。社会的総労働が私的諸労働へと分解していて、私的労働は社会的労働としての潜在的な普遍性を現実化することによって自身を実現する。

K:生きた矛盾!

T:まさに、私的なものというのが、範疇を展開する原動力となる矛盾した存在なわけ。

K:私的労働の社会的性格を商品が体現していて、この商品が自分の世界の連関を自分の運動によって展開する、これが資本論の以降の展開といえそう。

T:商品の徹底が資本ともいえそう。商品という単純なものが難しいとマルクスが念を押すのも、商品の運動に徹する重要さゆえだろう。一見空理空論にみえる商品論こそじつはすごくラディカルで、『資本論』に結実するマルクスの研究は現代システムの細胞としての商品範疇に半端なくこだわっているかんじがするよ。商品の内的矛盾は『資本論』以外では「経済学批判要綱」『経済学批判』あたりが読めればといいとおもうけど、一人では難しいから商品世界の理解には『マルクス自身の手による資本論入門』(ヨハン・モスト原著、カール・マルクス加筆・訂正、大谷禎之介訳、大月書店、2009年)の商品論の記述が参考になるのでお薦め。
by kamiyam_y | 2013-07-23 21:40 | 資本主義System(資本論)