さっぽろ地下鉄のなかでマルクスを呼吸する、世界を呼吸する

スミスの交換価値あるいはスミスによる突破と挫折

『国富論』第1編は、いってみればまあ労働から商品へとちょっとマルクスの思考めいて話が進みまして、労働の生産力を向上させる労働の分割を取りあげてから交換価値を検討する流れですね。視点が作業場内の分業から市場を介した社会的分業へと移動し、商品と商品との一対一の交換の制限を突破する交換用具として貨幣の発生を論じた次に商品の交換価値を課題に。

スミスは物の使用価値に対し、交換物の「相対価格」として〈交換価値〉を区別し、この交換価値の真の尺度を労働に見いだします。豊かさは生活手段の享受力にあり、それは他人の労働に依存している、ゆえに「支配しうる労働」「購買する労働の量」が貧富を規定する、交換主体にとって交換価値はその商品によって購買・支配できる労働の量に等しい、というようなかんじで。

第6章(水田洋監訳・杉山忠平訳、岩波書店、2000年、91頁以下)でのスミスは2つの段階区分によってその価値論を構成します。まず「社会の初期未開の状態」。ここでは「貯えの蓄積」「土地の占有」がまだなく、労働者は「労働の全生産物」を自分のものにする状態。ビーヴァー1頭と鹿2頭の交換の例を挙げ、スミスはこの時代「さまざまな物を獲得するのに必要な労働の量のあいだの割合」が交換を規制すると考察。商品が購買する労働の量を、交換価値を規制するのは「商品の獲得あるいは生産に通常使用される労働の量」にほかならないとします。

これに対して「改良された社会」、文明的時代では、貯えをその手中に蓄積する個人が登場し、彼は他人である労働者を雇うのにそれを用いるようになり、資本所有者として「貯えの利潤」を得るようになるとします。「職人が原料につけ加える価値」は賃金と利潤とに「分解する」のであって、資本所有者はその所有に比例した利潤を「期待」し、「商品の価格において、貯えの利潤は労働の賃金とはまったくことなる構成部分となり、まったくことなる原理によって規制される」ようになると論じられてます。

スミスはさらに、土地の私的所有においても、労働者は「採取する許可にたいして支払わねばならず、彼の労働が収集または生産するものの一部を地主に引きわたさなければならない」と書きます。土地所有者が労働者に地代を要求し、これも価格の「構成部分」になっていく。こうして価格は賃金・利潤・地代に分解し、賃金・利潤・地代が価格に「構成部分としてはいりこむ」とスミスは捉えていくわけです。

労働の生産物のすべてが労働者の取得するものであった過去に対して、「改良された社会」では資本家と地主もこの分割部分を手に入れることになる。いわば価格のすべてが賃金だった状態から価格の中身が賃金・利潤・地代になる。労働者の加える価値は賃金を超えて、利潤と地代に分解する。こうして利潤も地代も労働者の労働の産物から取得するもの。いいのかなあ、これって正当な承認を得られるのかなあ。たしかに分解部分の取得が価格を構成する前提とされ、労働の対象化である価値の分解部分が価格を構成する独立の原理とされてしまうことは価値源泉をあいまいにします。とはいえ、ここでは労働の産物が資本家と地主の手に配分されていることも明らかじゃないのかな。原料に加える価値が賃金と利潤に分解するって剰余価値論でねえか。労働の生産力の増大があってこのような事態が生じるので資本家と地主が労働者の生存に必要な部分を超える生産を独自の私的所有としてもまいっか的な見方もありえるとしても、価値源泉を労働に見いだすのはラディカルにならざるをえない。ここでは利潤も地代もその発生を労働生産物に対する、あるいは労働の加えた価値に対する分配請求の発生として追想・叙述されていますよね。でもまた賃金・利潤・地代がそれぞれ仮象的に原理化すれば神秘化へと転換するのであって、スミスにおいて労働価値論は三位一体的幻想に連なるあいまいさを孕むものとなったともいえそうですわな。

第2編序論と第1章をみてみましょう。「未開状態の社会」では交換は「めったに行われず」すべて自給自足で貯えを蓄積しない。分業によって他人の労働に依存するようになると自分の生産物を完成し販売するまでに「彼の生活を維持し」「材料と道具」を供給しうる貯えstockが「前提」されることになる。貯えを数日分でなく何年分ももつなら、その人はそれを直接消費する部分だけでなく「収入をもたらすと期待する貯え」としても用いる、これが資本。というような流れでスミスは説明してます。

未開の状態は交換がほとんどないと捉えながらも、交換価値の根拠を未開の交換を想定して求めるのは、スミスにおいては人間一般における交換の性向が想定されており、彼においては人間とはまさに他者を排除する私的な交換する人間だからであって、生まれたばかりの産業資本はスミスというその姿において資本の細胞活動である商品交換がもたらす人間の孤立と利己的振舞、交換を人間に本来的なものとして表明しているのである、とでもいえましょうかね。資本主義による封建的秩序の解体を背景に、スミスは封建的共同体的人間を非人間として、共同体なき孤立した諸個人を人間一般として描き出す。スミスは富を貿易に求める重商主義を批判し、富の源泉を労働に求め、富を諸個人の生活手段と捉え、いわば平凡な諸個人の主体性を再発見したともいえるわけですが、これもこうした制約のもとで、資本主義的生産関係の生成において実現したのだといえそう。

商品生産から切り離しては分業の存在しないスミスにとって、社会的総労働の共同体的存在様式と商品生産的存在様式とは区別されず、商品流通がなくても複雑な分業社会をなすような共同体的生産は視野に入ってきません。未開状態はそのまま交換の発展、商品流通、利潤追求へと移行していきます。勤勉に生産・生活諸手段を貯える行為から資本家の発生を導くスミス的本源的蓄積論においては、孤立した交換する諸個人というブルジョア的アトムが普遍的な労働する諸個人から分離しておらず、資本という社会的形態が生産手段という自然的基礎に癒着して現れています。

ヒュームやスコットランド啓蒙の問題意識を受け継ぐスミスがホッブズやロックの社会契約説の知的延長上にあり、スミスの理論的作業が封建的諸権力を解除した市民たちの自律的社会のありかたを根拠づける営みのなかで労働する諸個人による社会形成を把捉していったのだとすれば、スミスとは社会総体を批判的に捉えるポリティカルエコノミーにまで脱皮した社会契約説、自由な個人による社会形成の理論としての社会契約説から出発して社会総体の労働にもとづく把握へと転回・成長しようとした社会科学であるということができましょう。スミスの本体は、原子論と未分化な労働価値論であり、社会契約説において遂行された労働価値論であり、アトミズムの制約によって姿を現し成長した労働価値論であり、市民革命的問題設定という外皮のもとに培われた労働にもとづく社会把握・ポリティカルエコノミーにほかならないと一応まとめておきます。
by kamiyam_y | 2013-05-25 04:20 | 資本主義System(資本論)