さっぽろ地下鉄のなかでマルクスを呼吸する、世界を呼吸する

カネというシステムは人を自由にし、かつ人が制御できない暴走をする



カネは商品交換から生まれた

資本主義は、産業資本が中心となる社会。産業資本とは、カネが、工場や労働力、商品に形を変えながら、労働者の労働を吸収して太っていく運動。働く人が法的に自由になるとともに、生産手段をもたず、労働力を販売し、剰余労働を剰余価値として生み出すシステム。

カネとはもともと労働の固まりです。この点を理解するには、カネが、単に国が力を与えたからできたというようなおとぎ話から脱却する必要があります。

カネともともと、金(きん)であって、金はそれ自体、1つの商品でした。商品とは、値段がつく物ということではなく、全くの他人との間で交換される労働生産物のことです。


商品は間共同体的は本性をもつ 商品は共同体の間で生まれる

全くの他人とは、おなじ生産共同体のなかで依存しあっている人じゃない人です。ともに働き、ともに分かち合うような自給自足の村落のなかには、商品という関係が生まれません。社会的分業が発展しても商品経済じゃありません。社会的分業が土地に縛られ身分という形をとった封建社会もそうです。
家族だっておなじ。他人に販売するためにつくる椅子は商品ですが、日曜大工で自分の家族のためにつくる椅子は商品ではありません。

商品とは、つまり、おなじ共同体の成員として生産しているわけではない、おなじ政府(生産における共同)をもっていない関係です。

商品は、共同体と共同体との間で生まれ、それが共同体のなかに入り込んできます。紀元前十何世紀かには陸上、海上の交易の発達した地域もありました。
このばあい金貨幣が存在してなくても、交換が、特定の民族によって担われます。

商品生産は、もともと共同体を想定せず、共同体を超えてひろがるわけですから、共同体のなかでの生産方法をとりあえず問うことなくそれらを連結していきます。グローバリゼーションという社会科学の大テーマも、商品生産の姿だし、資本主義の展開です。


資本主義は商品生産が全開

資本主義より前の社会では、商品やカネは、生産のごく一部しか支配できません。カネが流通するのが、貿易をおこなう支配者や商人の間だけだったり。あるいは、自由な自給自足の農民が、余った物を自分が作れない物を手に入れるために交換するなどのかたちでしか商品は存在しませんでした。

資本も封建的生産においてはたとえば、金貸しのカネというように、ただの部分、封建的生産のなかの点にすぎませんでした。

これに対して、商品生産が社会の生産すべてを覆うのが、資本主義です。金貸しは、産業資本をささえる装置となり、近代的な銀行に姿を変えます。

大量生産されて一物一価で販売されるような商品こそ、産業資本の運動というシステムの現実の起点です。


商品交換の発達から、貨幣が生まれた

ちょっとメルヘンチックにお話ししましょう。
たとえば、Aという山の部族がいて、乾燥フルーツをたんまりもっている。この部族の一員が、平野を歩いていると、Bという部族がバーベキューしているところに遭遇する。おいしそう~~、と表情で示して、A部族は乾燥フルーツをバッグから取り出して、見せる。
交渉開始です。めでたく、フルーツ10キロと焼き肉8キロが交換されます。

このとき、AもBもお互い「他人」であって「自由な私的所有者」として相互承認します。言葉が通じなくたってちゃんと契約が成立します。

これはたまたま交換されただけですが、定期的に一定の割合で交換されるようになると、A部族とB部族との間で、商品生産という形の社会的分業が反復されるようになります。

さらにここにC部族が登場。かれらは馬で移動し、塩づくりの特別な技術をもっています。
B部族は、肉に塩をかけるとうまい、ということを発見し、C部族と交換関係をつくります。
A部族も、Cの塩と自分たちの乾燥フルーツを交換するようになります。

さて、賢い皆さんはお気づきですね。塩はもはや「貨幣」です。

フルーツ10キロ の交換価値  → 塩の棒4本
焼き肉7キロ → 塩の棒4本

交換の割合が、塩の量で表されるようになり、塩がここでは価値を示す共通のものさしという意味をもっています。フルーツ10キロは、焼き肉7キロと交換できます。

とはいっても、交換物が増えれば、一対一の交換では欲求通りの交換なんてできません。いったん「貨幣」をもってからそれをまた交換すること(売ってから買う)が必要になります。

ところが、塩は雨にあたると溶けます。実際の交換の仲立ちとしてはちょっと、です。
家畜や奴隷もそうですね。

布5メートル = 牛20分の1頭

実際の牛を切って持ち運ぶことはできません。

貴金属が「貨幣」の地位を独占するのも、採掘が大変なので少量で多くの商品と交換できること、自然な性質としての耐久性、均質性、任意分割・加工性が「貨幣」にふさわしいからです。

貨幣の登場によって商品交換はますます規則的で法則的なものになります。最初のたまたまの交換では、べつにかかった労働量が等しくなくても交換されるというように、交換比率も偶然的です。


商品の交換割合(交換可能性)は、おなじ労働の量がかかっているということ

A・スミスは、毛皮一枚と綿糸15メートルといった交換割合の尺度を、労働に求めました。「労苦と骨折り」です。
でも、綿糸15メートル=上着1着といった交換の割合は、いわば社会的な法則です。
個人の欲求とは関わりないだけでなく、実際にかかった個人の労働量も、社会的平均としてしか妥当しません。つまり、綿糸15メートルをつくるのに、平均的な条件(道具や熟練度など)よりも劣った条件でつくったら、平均よりもたくさんの労働がかかります。だからといって、この劣った条件の生産者が綿糸を高く売れるわけじゃありません。「一物一価」です。

資本主義で大量生産されている商品もおなじです。優位な生産条件で、一個あたりを安くつくっても、おなじ値段で売れますから、企業は技術革新に日々精を出す。逆に劣った生産条件の企業は生産するほどに、労働者から搾り取った剰余価値を失う、赤字を増やすことになりますから、必死。


商品交換を商品価値が規制する 社会的必要労働時間が商品価値の大きさという形に転換される   

私たちは、自分の時間を自分で割り振って生活してます。一日の計画、ありますよね。朝おきて、飯をつくるのに10分、顔洗うのに20分とか。これは経験と計画によって時間割り振りがされていることです。必要な活動の時間の割り振りです。

ロビンソン・クルーソーなら、自分の労働を全部自分で把握しています。

工場も、綿密な作業工程にもとづく計画生産です。クギ工場なら、針金づくり、切断、とがらしなど、それぞれの作業にどれだけの労働が必要かわかっています。
工場という社会で、それぞれの作業に必要な労働の量が割り振られているわけです。
この場合、作業それぞれに必要労働時間があって、各作業に従事する労働者は、一人一人能率も違いますけど、だれが担っても計画表は一定で、この労働時間は社会的にきまってます。差はすべて相殺されて平均が支配します。たぶん。
チーム作業ですと、Aさんの労働はBさんの労働を規制し、Bさんの労働はCさんの労働と依存しあい、というように、チーム全体で一つの労働力みたいになりますから、その中の一人一人の差は相殺され、一人一人平均的労働力として妥当します。

さてこれは商品生産ではない社会的分業でした。こういう「社会的に必要な労働の量」(社会的必要労働時間)を、商品生産に移して考えてみましょう。

ある市場で正常に交換されている商品があって、それが、1月1000個取引されるとします。この1000個を生産するのに、社会的に必要な労働時間が、50000時間だとしましょう。1個あたり、50時間です。

じっさいには、1個あたり、55 時間かかる生産者もいれば、45時間しかかからない平均以上の生産性をもつ生産者もいます。実際にかかった労働量はいろいろあっても、一物一価です。もちろん、平均以上の生産者はもちろん価格をその価値より下げて売りシェア拡大もできます。

ある生産者がわざとゆっくり生産しても「平均」ではないので、ゆっくりした分が、社会的必要労働として、価値の大きさを増やすわけではないのです。

商品生産は、孤立した私的生産者による生産です。社会的必要労働時間は、ここでは商品の価値という物の性格に転換しています。
商品の価値という形をとるような労働となることによって、個々の私的生産者の労働は、社会的に配分された労働に、社会的労働の部分としての意味に転換しています。

社会的な労働のつながり、社会的な労働の配分、社会的に必要な労働の配分は、人々にとって全体がみえません。

こんなふうに俯瞰すると、市場に働く「神のみえざる手」って、価値を通じた労働の社会的配分や、市場を通じた資本の絡み合いによる社会的分業の成立のことなのでしょうね、きっと。


貨幣とは

貨幣とは、第三の商品。商品のなかの商品。

貨幣とは、第一に、もろもろの商品の価値を計るものさしであって、商品の共通の価値尺度です。

上着1着 は 金1.5グラム

金0.75グラムを「一円」となづければ、上着の価値は、二円と称されます。

これは別に貨幣がその場になくてもいい働きです。交換の可能性を示すだけですので、何がほしいのかという所有者の欲望も関係なく、欲望に左右されない労働の関係です。

金の量で表した商品価値を「価格」とよびます。「価格」がつくとこれは、価値からずれますし、価値のないものも何でも「価格」がつきます。良心でも、美醜でも、地位でも何でも。

たいてい私たちは、目の前のできあがったものから類推するので、価格があるものを商品とよぶ、お金があるから物が商品になる、みたいに思います。でもこれが逆さまなことは、ここまでの説明で理解してもらえると思います。

貨幣は、第二には、所有者の欲求をみたすような、交換の媒介、流通手段です。
実際の交換では、一対一の交換では矛盾に陥ってしまいます。
酒を交換する人は、肉がほしいが、肉を交換したい人は、ナイフがほしい。これじゃ交換できません。
しかし、価値の象徴(金の代理物)をうまく挟み込むと、酒の所有者は酒をこの価値の象徴におきかえて、これでもって肉を手に入れ、肉を譲渡した人は、この象徴でもってナイフを手に入れる。ってな具合で使用価値と欲求とを、この象徴が橋渡します。

この場合の貨幣は、一時的なもんですから、形だけです。だから、実際には無価値の紙の券で足りるわけです。
本物の金をいちいち秤量して扱うよりも、コインで。コインも金の目方と、名目がずれるし、「抜き取り屋」がコインから金を抜き取るので、安い金属や、紙に置き換わるのです。

貨幣は第三には、もろもろの商品からの商品価値の独立化、社会的労働の代表です。貨幣そのものが目的となってしまうような蓄蔵貨幣の働きや、流通を終らせる支払い手段です。信用もここで発生します。

じっさいの貨幣がまさに、価値の代表として果たす役割です。
価値尺度の単位や、コインの鋳造は共同体(国家)を要しますが、この共同体をこえた購買や支払いに使われた金も、こういう意味での貨幣です。(現代の「不換銀行券」「国際信用システム」は発達した資本主義の姿)。

こういう貨幣の3つの姿は、資本主義のなかで生きてきます。

価値尺度としての貨幣は、産業資本の価値増殖の尺度。産業資本は最初貨幣で、つぎに労働力となり、それが剰余価値を含んだ商品となり、最後も貨幣。増殖の率が分かります。

流通手段としての貨幣は、資本の姿態転換を媒介し、私的諸資本の絡み合いを媒介する再生産の媒介です。

蓄蔵貨幣としての貨幣は、諸資本のなかの共同資本、つまり銀行資本です。信用ももちろん発展。貨幣はここでは利子生み資本という意味をもちます。自己目的化した貨幣とは、すぐれて「貨幣→より多くの貨幣」という利子生み資本です。


商品は人を自由にする

資本主義が人を共同体から解放するのも、商品生産の全開だからです。商品交換に由来する私的所有者の相互承認が人を自由な法的人格にするのです。もちろん当初は、単に形式的に。社会的生産を物の運動にゆだねることと引き替えに、人は自由を得るのです。

商品は人を支配する

しかし同時に、最初の一対一の交換ですら、人は商品を支配できません。交換の割合は、自分たちの意思によってきまるのではなく、天候やら何やらの生産条件の変化によって、たとえば、フルーツの価値が変わります。交換は無政府的なのです。流通が発展すれば、売買の連鎖は、人をのみこむ法則です(黒字倒産!)。すでに不況の原型がここにあります。

資本主義が発達させる商品流通の全体は、人々が制御できない自然法則となり、そのことで社会が発展するとともに、それは敵対的な法則(労働破壊・環境破壊)となることで、人々を鍛えます。

環境・労働・人権という地球規模での問題群も、こうした無政府性の現象です。生産関係の物象化こそがじつは問題の起点にあるのです。

物の運動にゆだねていた社会的生産を今や、自分たち自身の豊かさの土台として制御すること、自分たち自身の社会的生産として走らせること、が問題群の解決として私たちに問われていることの本体なのだといえます。


補足

「労働価値論」というと、古典派の残りかすだとか、「労働者の立場から搾取を説明するために思いついたものだ」とか「労働が尊いという価値観だ」とかいろいろな見方があります。
「労働価値論は古典派を科学になおした」という説明がされることもあります。

どれも違うと思います。
労働論は『資本論』のメタなシステムであって、社会科学の基礎づけ論です。
ただの労働価値論でもないです。

とりあえず『資本論』におけるもののの見方を労働価値論とよべば、それは、新古典派の原子論的予定調和(「新自由主義」のイデオロギー)を批判しています。経済学的原子論は、市場を前提した個人によって市場を説明するという認識の破綻、社会をビルトインした個人によって社会を説明する出来レースです。

しかし、労働価値論が批判する対象はそれではありません。
初期マルクスは、ヘーゲルに対して、「歴史の終わり」という別世界によって眼前の現実を調和させてしまう破綻した構造を批判し、プルードンに対して「所有」によって社会を説明する逆立ちを批判しました。とくにヘーゲルの手の内にある現代思想、たとえば、資本に対して「制度」を対置する議論や、「道具的理性」と「コミュニケーション」というハバーマスの二元論、ガダマーの「先入見の復権」、いわゆる「物象化論」は、すぐれた意味において労働価値論による批判の対象です。19世紀のマルクスが21世紀の理論の限界を批判している。あるいは、資本主義のとばくちをどう理解するかが、現代をどう理解するかという意味をもっている。


労働が自然を変え、生産物をつくる。こういう人類普遍の原則から社会を見るってことが、じつはいろんな「幻想」にだまされないでものを考えるってことにつながるんです。
社会はほんと訳の分からないいろんな幻想だらけ、逆立ちだらけですから。複雑なものに惑わされずシンプルに考える、これが労働論だし、社会科学の基軸です。

平凡な人間が、労働のつながりをつくりだしていき、それをベースにして社会のさまざまの関係(法や家族、国家などなど)が存立しています。そうした関係を前提に個人がいろんな考えやら行動やらをしている。

ところが、人間てやつは「忘れちゃう」んですな。
自分が労働によって社会をつくっているのに、それを忘れちゃう。
社会関係から労働のつながりが「消えちゃう」「みえなくなっちゃう」「不透明になっちゃう」んです。

「忘れちゃう」こと、「わかんなくなっちゃう」ことにおいて、社会は、人間たちにとって、不透明な威力だし、人々にとって外からやってくる威力、脅威です。進歩することは、脅威にさらされることです。美しい記憶は破壊され、金銭関係に置きかえられ、進歩は犠牲と抑圧をもたらす。

人間は自分でつくった社会関係を忘れて、逆に社会を「神秘化」してしまう。
宗教の威力も、貨幣の威力もそういうもんです。

忘れたつながりを「思い出すこと」、まさにこれこそが学問です。
宇宙の歴史を思い出し、生命の歴史を思い出し、人類の歴史を思い出す。

講義では、よく「人類600万年」(この数字そのものはしょっちゅう変わっているので深い意味はない)の歴史がつまっているのが大学だ、とか、宇宙の歴史「百うん十億年」の到達点が君たち、私たちだ、などと語るのですが、それは大げさに言っているとか(驚かしたいというのもありますが)、宗教的な話をしているのではなく、現在の労働のなかに潜む方程式をとりだしたにすぎません。労働が示す平凡な話にすぎません。

人類は必死で社会をつくろうとしている途中です。
必死だからこそ、つくったものを記憶しながらく、考えながら、みんなで相談しながら社会をつくっているわけではないのです。逆です。すべて忘れ、敵対しあいながらつくることが前進だという矛盾を生きているのです。
できあがった社会のなかで私たちは呼吸しているのではなく、社会を生みだしている途中なのです。
社会を必死で生みだしている過程のさなかにあるわけですから、「忘れてしまう」のです。

人間必死に成長しているときは反省できません。それと同じ。

これが「生産関係の物象化」の意味です。

しかし今や、国際的な労働問題(児童労働の劣悪な形などなど:ILOの中核的労働基準!)屋地球環境問題にあきらかなように、「成長主義」の20世紀のマイナスを、後続する諸世代のために清算していく時代。

忘れていたことを思い出し、自覚して発展を制御することが必要です。
(「持続可能な開発」とは、自覚的な制御ということ!)。
学問は、この自覚の重要な契機です。

これが「人格の陶冶」(わかりやすくいえば民主主義の発展)の意味です。

現代が1つの自由な人類社会をつくる途上だということが、『資本論』の人類史的物語のテーマなのでした。


要するに「労働する」という当たり前のことが、社会の基礎にある真に無限なものである、ということです。

「本当のこと」は、もちろん「このもの」「あのもの」といった個物そのものにあるわけでもなく、また、永久につかめないものでもなければ、数学のうちにあるのでもなく、ましてや「天井」世界にあるのでもありません。

労働という平凡なことこそが、目で見えない社会のつながりをつくっているわけです。

目で見えないつながりをつかもうとして、人間はいろいろな幻想をもつわけですが、そうした幻想は私たちの目をふさぎ、耳をふさぐものでもあります。こういう制限をこわすために、労働に立ち返って思考をコントロールしてみる。常識を疑い、考えをひろげる。ここに経済学のおもしろさの1つがあります。
by kamiyam_y | 2005-05-31 17:14 | 資本主義System(資本論)