さっぽろ地下鉄のなかでマルクスを呼吸する、世界を呼吸する

televisionのglobalな一有用性

新年数時間すぎました。おめでとうございます。

最近居酒屋のカウンターに座ってのこと。

食事を終えて帰ろうとする若いカップルが、調理中少し手の空いた料理人に、カメラを向けてます。板さんがにっこりすると「かわいい」。

東京から来た若者の旅行かと思っていたんですが、あとでこの板さんが教えてくれたところでは、「台湾からのお客さん」だったとのこと。

「日本語はテレビを見ておぼえたそうですよ。すごいですね」

好きこそものの上手なれ、か。

労働は犠牲なりとするスミスや、負効用とする需給論は、歴史的に規定された資本主義的労働の形態を労働の永遠不滅の本質と取り違えており、労働を生きた総体から切り離された一領域として見るだけで、労働から社会を介して多様に展開する人間性の本質をとらえることができない。労働は人間の人間的生命発現であり、それ自体歓びをもたらす欲求実現であって、学ぶという活動ももちろん同様。

労働が剰余価値の生産・蓄積の手段に転じ、非労働時間も豊かさの尺度ではなく蓄積の外で蓄積に従属する一分肢におとしめられている現在、人間の生命欲求としての学びも労働力売買・剰余価値生産の手段となって疎外されますが、同時に学びはそれ自体、現在の社会を狭隘な制約とみなす普遍的個人の形成であり、社会変革の要因であって、労働における人間的解放に先行して、矛盾する労働する個人における自覚的・主体的モメントをなすのであります。

自己の生命欲求の実現として生き生きと、社会的自由を実現する主体として、普遍的世界人として、積極的にともに学ばんと思います。
by kamiyam_y | 2013-01-01 01:48 | 学問一般