さっぽろ地下鉄のなかでマルクスを呼吸する、世界を呼吸する

古典派経済学(2)

社会契約説からスミスに至る社会理論の流れを概観すると、これは封建制的システムの解体という総体の変革が理論的認識という総体の一分肢に屈折したものとして把握することができます。

政治的国家と市民社会の分離という市民革命以降の世界は、神の威力としての社会的統一から解き放たれた孤立した諸個人に依拠した社会認識を求めます。王権神授説に対する社会契約説以降の理論的思考は国家権力の正当性の根拠をめぐる展開として整理可能です。

しかしこの展開は自律的とみえる市民社会を解放することであり、諸個人の政治的解放にすぎません。市民社会が自律的ではない(永続的ではない)というのが現代を劃する理論的思考であり、これはドラッカーの経営権力の正当性の議論に示されましょう。

とはいえ、マルクス以前の社会契約説と古典派経済学の偉大さに対して、マルクス以降の経営社会学的思考の卑小さは否めない気がします。
by kamiyam_y | 2012-10-31 23:37 | 資本主義System(資本論)