さっぽろ地下鉄のなかでマルクスを呼吸する、世界を呼吸する

生産手段の非理性的形態/フクシマ以降を考えるための書籍(1)

1 『毎日新聞』の記者が原発災害に「四大公害」と「同じ構図」を見いだしている(「記者の目」後藤逸郎執筆)。

http://mainichi.jp/select/opinion/eye/news/20120322ddm004070002000c.html

イタイイタイ病で国が「カドミウム原因説の撤回に動き、世界保健機関(WHO)に働きかける『暴挙』に出た」とある。カドミウムが流出しても「健康に影響はありません」というわけだ。人々の安全を守る責任を果すのとは逆の行為である。加害企業の防衛ではなく、海と大地と空気を汚染し、広範囲で多くの人の故郷を解体し、住む場所を破壊し、望まぬ被曝を強いつづけている深刻な環境汚染として対策を立てねばならない。

水俣だって同じ。あとで触れる宇井純「水俣病」によれば、細川さんをはじめとする医師や熊本大学の研究者の努力に対して、化学工業協会が有機水銀原因説を否定した。

「広域処理」ついて『北海道新聞』の編集委員が「政府が努力を怠った付け」として論じている(「異聞風聞」大西隆雄、2012年4月1日16版2面)。

「モニタリングなど放射能管理の長期間の展望」(共産・真下紀子)を欠いては場当たり的対応とよばれるのがふさわしい。ここで書かれているように「厳格な」「集中的」「管理」が必要である。放射能管理を無計画的に自治体に押しつけ、その結果放射性物質の無責任な拡散が進むことは避けねばならない。

記事では小出裕章が挙げる「仮に全国で処理する場合の条件」も紹介されている。

小出の2つの条件は『毎日』のこちらの記事でも。

http://mainichi.jp/select/science/news/20120324mog00m040021000c.html

『道新』の3週間前の夕刊(3月12日)で、3.11から1年たち独仏、米で行われた脱原発集会の記事があった(6版10面)。ドイツもフランスも数万人規模。11月にゴアレーベンに行った山本太郎のインタビューも掲載されていた(6面)。脱原発のために「事務所をやめ、交際していた女性とも別れ」「収入は以前の10分の1以下」となっても「悲壮感はない」。頑張って動き表現する個人のうちに人間の気高い精神が実在している。

2 萩尾望都を久々に読んだ。

『なのはな』(小学館、2012年、1200円)

原発を扱った作品集。

萩尾望都といえば、彼女の作品をその批評において取り上げていた吉本隆明が先日亡くなったのを思い出した。ここでは彼の脱原発批判について一言書いておく。彼は今回も脱原発を「科学」の「後戻り」と言っていた(日経2011/08/05)。技術進歩は「自然史的過程」で必然なのだというのであろう。科学を労働する諸個人の自由の本質的な契機と捉えるマルクスを一見すると踏まえた発言のようにみえなくもない。

しかしである。脱原発は科学発展一般の消滅などではありえない。単純なことではなかろうか。

問われているのは、原発という1技術、社会的に用いられている技術の1形態であり、これを新たな技術に変えるのが理性的という話。

まず、生産力とその資本主義的利用との区別を確認しておく。生産手段の普遍性と社会関係拘束性とよんでもいいかもしれない。ここでの批判対象として規定されているのは、技術の特定の歴史的形態、資本主義的生産関係において実現するありかた、資本主義的利用形態にほかならない。この批判は、技術の発展一般の否定ではない。成長主義的な、蓄積のための蓄積による安全度外視の技術を廃棄することは、歴史の逆行などでは断じてありえない。

同様に、技術発展一般を人間の永遠の原罪であるかのように思い込んで過去を美化するのも裏返しの誤りである。問題の大きな性格は、技術の資本主義的利用という限界によって劃されている。

社会的理性の浸透を欠く技術が用いられていることは、人類普遍の技術一般の話ではない。生命の安定性を損う放射性物質で環境を汚染する技術、廃棄物を無毒化できない技術、被曝労働を常態化し労働者に犠牲を強いる技術、安全でもコスト安でも環境に優しくもない技術でありながら巨額のマネーがその反対の宣伝をすることで維持されてきた技術、スリーマイルからフクシマまで立て続けに事故を起し、過酷事故を起せばかつてない環境汚染をもたらすような非理性的な技術が用いられていること、その事故により故郷を、住み慣れた世界を、地域を、社会基盤を破壊し、生態系を損傷し続けるような欠陥製造物が用いられていることは、人類永遠普遍の無色透明な技術一般の話ではない。

問題圏の大枠は、生産発展の資本主義的な、利潤と蓄積のための発展というありかた(社会的限界)として規定されている。資本主義的な技術形態を批判することは、技術一般の発展を止めることではない。原発推進利権共同体の人格化が発する「脱原発は進歩の否定」という声も、本源的共同体という過去を美化し科学の発展そのものに反対する一部の主張も、皮相な短絡にすぎない。

深刻な事故を起したにもかかわらず資本主義(資本主義社会システム総体)の成熟において国際社会がうちだした「汚染者負担原則」も消費者の権利の実質化である「製造物責任」も無視する技術、資本主義が封建社会を解体して諸個人の社会的規定にした「人権」を蔑ろにする技術は「持続可能」ではない。

次に強調すべきは、ここでの直接の対象が、原発という特定の歴史の経過のなかで用いられた技術の1形態として絞り込まれていることである。この直接の対象は、資本主義的利用一般が消滅しないかぎりは永久不滅の必然的技術などではない。

歴史的偶然的諸要因に規定されて拡がった技術を廃棄することを、原始状態への回帰や停滞と同一視するのは、一種のデマというべき短絡である。社会的生産手段、共同的原動機は人類の発展に欠かせない社会的生産の客体的条件であり、むろん資本主義にも不可欠であるが、それの一部を現在原発が担っているのはいわば偶発的な事情、歴史的偶然的要因による。社会的生産手段の存在は不可欠だが、原発というその1姿態は不可欠ではない。発電はウランを用いて蒸気でタービンを回して行わなければならないという法則はない。エネルギー利用の社会的技術を原発に代えて開発することは、科学一般の発展に反対するのではなくまさにその逆である。脱原発の世論が物質の研究を止めろと言っているわけでもないことも明白。

技術の資本主義的利用の1つの歴史的形態である原発に対して行う取組みは、資本主義内部に生まれでる社会的な制度の運動であり、そのようなものとして蓄積し、資本主義において資本主義が生み出し資本主義を制約する人権を具体化し、資本を制御する民主主義を深化させる。非社会的・無政府的な社会的生産過程において、社会的生産過程の社会性・計画性・協同性を押し進める試みの一姿、一分肢として資本の矛盾した生命運動のなかでそれは生き客観的に意味をもつ。安全安心を求める生活する大衆の闘いと制度化は人間の巨大な発展の一部をなす。個人の生活、地域社会、安全を優先する社会づくり、生きた個人を原理とする協同が矛盾する躍動のなかで客観的に目的化されている。

ビッグバン以来の歴史の産物である全自然は制御しきれないが、数世紀といういわば一瞬の歴史しかない資本主義は制御可能であり、さらに歴史の短い原発は廃棄可能である。

3 全く不完全ではあるが、福島第一原発事故を考えるうえで役立つ本の紹介をしておく。

大島堅一・左巻健男監修、もんじゅ君『おしえて!もんじゅ君』(平凡社、2012年、1000円)
論点がすごく分りやすくまとめてある。藤波心のインタビューが面白かった。「ふだん仲よかった子が、こういう大事な問題についていっしょに考えていける友達なのかっていうと、かならずしもそうじゃないんだなってわかっちゃって」(122頁)。寂しいけれど成長。悲しいけれど新たな協同と自立の発見。

TwitNoNukes編著『デモいこ!-声をあげれば世界が変わる 街を歩けば社会が見える』(河出書房新社、2012年、700円)
去年の日本社会で注目すべき事件の1つは、デモである。デモに集う若者たちの声はとてもいいものだと思う。デモの意義と方法を簡潔に記したハンドブックとしても読める。

西尾漠『新版 原発を考える50話』(岩波ジュニア新書、2006年、840円)
これも読みやすい論点整理。大人でももちろん読める。(続く)
by kamiyam_y | 2012-04-02 23:43 | 民主主義と日本社会