さっぽろ地下鉄のなかでマルクスを呼吸する、世界を呼吸する

共同本質の疎外態(2)

「どんな状態のもとでも、生活手段の生産に費やされる労働時間は、人間の関心事でなければならなかった、といっても、発展段階の相違によって一様ではないが」(全集版、MEW23,S.85-86)。『資本論』の例をそのまま用いると、孤島に一人たどりついたロビンソン・クルーソーであれば、同じ1つのロビンソンの労働力が、ロビンソンの目的によって、いろんな作業に振り向けられ、必要な生産手段も用意され、作業に対して労働時間が割り当てられます。この割当は、ロビンソンが生活を軌道に乗せるにつれ、平均化されてきます。ロビンソンのその日の体調や海や山の状態に変化があっても、平均的な時間は自明になってきます。イギリスからもってきた帳面に各有用労働において平均的に必要な労働時間が記録されます。ロビンソンの一人経済においてたまに魚を捕りすぎて腐らせたとしても需給は平均的に一致しており、各欲求に対する正常な量を提供する各有用労働において、支出される同一のロビンソンの労働力は、支出継続の平均時間が知られています。家父長制的農民家族であれば、メンバーの労働力ははじめから家族労働力の「器官」であって、織布、紡績、耕作等々の有用労働はそのまま家族の労働の一部です。中世封建制であれば、生産は人格的依存関係に直接おおわれてますから、同じく明快であって、たとえば農奴が行う労働力支出は、農民保有地での労働が週に3日と、領主直営地での賦役が週に3日、貢納のための生産物生産が週に1日、というぐあいに、掟という形でその時間が明示されていましょう。

全面的な商品流通ではどうでしょうか。労働する諸個人が土地に縛られ身分によって有用労働に配分される人間の不等性に依存した状態を抜け出て、発展した近代社会では労働力も社会的平均的なものとして作用してます。ロビンソンの同じ労働力が具体的活動に配分されるありようは、この商品生産にスライドさせると、人間労働力支出の平均時間が、生産条件・労働強度・労働熟練度が社会的平均的なばあいに要する時間が、人間の活動としてではなくその結果物において物象において物の属性として現れる、という形に変形されます。この変形は、自らの生産諸関係を転倒的に客体の性格として受け取る物神崇拝によって補われます。商品所持者の眼に現れる物象は、背後の媒介を消失させており、かれらの所持する物として認知されます。商品価値の形態である値札も、商品の使用価値としての実現と価値としての実現を充す流通手段としての貨幣も、値札や交換によって価値が生ずるというように逆さまに理解されてしまいます。商品たることは消え、お役立ち度や心理的満足度という社会的規定性を消失した物一般を人は崇拝してしまうわけです。ともあれ、ロビンソンの一人経済では異なる活動もすべて同じロビンソンの労働力の支出であることは明白であるのに対して(あまりに当り前ですね)、商品生産では、相異なる諸有用労働における同一の人間労働力の支出という側面は、相異なる諸生産物の同一性に反映され無自覚的に媒介されるとでもいえましょうか。

生産は相互に依存しあいながらも直接には社会的性格を排除する私的生産に分割されており、労働はそのままの姿では社会的労働としてみんなの労働として妥当してません。私的諸労働の社会的性格は私的諸主体に疎遠に物象的に媒介されます。相互に異なる具体的な有用な労働が相互に依存しあっていることは、諸商品の加工された自然という側面に、自然的な姿である使用価値に、さまざまの欲求の対象としての有用物になるという相異なる諸属性に表出され、それぞれの有用な労働に同じ人間労働力が一定量支出されるということが、異なる諸商品に含まれる一定量の価値という同質性に転換されて妥当し、各生産に要する人間労働力の支出(抽象的人間労働・同一の人間労働)の平均時間は、商品価値の大きさという別のものに屈折してあらわれます。各私的生産内部でひそかに行われる労働、その労働が合目的的活動として他の労働と異なる有用で具体的な活動であるという特殊性も、有用労働に振り分けられた人間労働力の支出という同一性・普遍性も、そのままで妥当するのではなく、私的主体に知られることなく、物の属性に転換することによって妥当します。各有用労働における労働力支出の平均時間は、商品の価値の大きさに反映され、直接にはわかりません。ロビンソンが同一の労働力の支出を、各作業それぞれにどれだけ平均して継続すべきか知っているのに対して、ここでは、同一の社会的労働力の支出をある生産物の生産に平均的にどれだけ要するかという社会的必要労働時間の大きさは価値量に、価値の大きさに転換され、商品の交換によって、私的諸労働は社会的労働力の社会的支出としてとして事後的に確証されることでふたたび起点になることができるというわけです。

社会的労働の諸関係がこのように物象的に媒介されることは、この物象の運動を担う五感の持主としての意味を人間に与え、人間がこの物象を物として支配し、崇拝することで、個人の意識を脱した労働の社会的関係と、物を崇拝する主観とが補完しあうことになります。人が自分の関係にだまされている状態です。しかし、生産関係のこうした物象的媒介は、諸個人を孤立化することによって、かれらに、形の上で、法的に自由な人格性を与えます。諸個人は社会の起点として、人民主権の担い手としてあらわれ、人権を、身体的精神的経済的自由を有する市民として、権力を集中させる正当性の起点として立てられています。生産の共同体が解体され貨幣がそれを代行することによって浮かびあがったこの政治的に解放された市民、土地所有から解放されて自由な私的生産者になった市民のなかに社会の完成をみる欺瞞も生れてきます。「商品生産に人間の自由と個人の独立との頂点を見る小市民にとっては……。この俗物的ユートピアを描きあげたものがプルドンの社会主義なのであるが……」(全集版、MEW23,S.82)。諸個人の意識から脱して社会的労働の諸関係が物象的に媒介されることがさらに社会的労働を直接につくりだします。貨幣の力が、資本が労働の社会的組織を発展させるからです。物象的生産が現実に進むことは、法的人格性の自由の閉じた世界を自ら解体する社会的生産の展開です。社会的生産の力は環境破壊的な成長の力として、人権と対立する企業の力として現象し、労働する諸個人の自己形成が強制されます。

こうした物象的連関はいまや世界大です。物象が流通する運動は、個人を埋めていた共同体の連関を脱したグローバルな流れとしてはじまったのであり、共同体を共有しない他人どうしの生産を連結し、生産から分離している流通は生産の共同体を超えて生産の結果を結びつける弾力的な拡大運動をなしています。この拡大する流通において運動する資本は、内部に生産をかかえており、この生産は、私的生産内部に事実上形成された社会的生産にほかなりません。貨幣という物象が自己増殖する手段として、労働力という物象が結合され、生産手段が科学を適用した社会的生産手段が発展します。私的資本内部の社会的生産の力が原動力となって私的諸資本総体の制御されざる力が発動しており、この力に対して諸個人は制御することを問われるようになります。疎外から政治的趣をとりさって物象的にこれを完成させた貨幣たることが、封建的掟の体系という形の生産から、土地所有による人間支配から諸個人を解放したわけですが、「政治的解放」を主導したこの貨幣たることが、「人間的解放」を制約する客体に転じ、対立的に現象してきます。政治的に解放された諸個人に対して、今度はこの解放の基底にひそんでいた貨幣の力が対立して現象し、かれらの社会的個人としての主体性を鍛えていきます。貨幣は人をばらばらにするとともに、資本は人を結合します。貨幣の力がかれらの社会的生産を現実化しながら発展することによって、かれらに対して、この社会的生産を貨幣の力として対立させます。諸個人は自らの諸力の疎外態に対して対立し自己を社会づくりの主体として教育していくのです。資本主義は自らを、自ら産み出した社会の主役である自由な諸個人に対して露呈するという、自己批判的な姿で発展します。資本主義内部にとどまるのではなく社会一般をつかみ、社会にとどまるのではなく生命一般に遡るという労働にもとづく把握それ自身もまたこの教育プロセスの一部をなし、資本主義内部での資本主義の把握を遂行する知的解放(個人がシステムにだまされる関係の内部にとどまるのであればシステムは知りえない)もまた資本主義の自己批判の形態をなしています。

貨幣はモノの関係に擬装された人間の生産の関係であり、労働生産物が貨幣たることの基盤にあります。私的諸生産の社会的性格が貨幣であり、この貨幣が増殖する際に、人間は貨幣産出的物象として、労働力として、市場で取引の客体となり流通過程から生産過程に入り込みます。消費されることが価値を生むことになる特別な商品として労働力が、貨幣の生命の環に位置づけられます。貨幣はモノである、というわれわれの自明性は貨幣が生みだす見せかけにすぎません。貨幣は物象化された生産関係です。

労働生産物が商品に、商品が貨幣に、生産が私的生産に完成したのが資本主義。貨幣は、私的諸労働に労働が分解しているがゆえにその社会的な統一性を担う力として生れ、商品の価値表現の形態として直接的交換可能性として生れ、欲求する人の手に渡る使用価値としての実現と任意の商品と交換できる価値としての実現をともに充すものとして、五感をもった商品所持者の行為によって流通のなかに諸商品と並んであらわれ、流通の外で蓄蔵されるなど、価値そのものの、社会的労働そのものの独立した姿、あらゆる商品と交換可能なもの、物としてつかめる富の代表となり、この貨幣が起点となって、自己増殖する貨幣が生れ、労働力を商品として買い消費して増殖する、過程を進行する貨幣として、産業資本として実在します。産業資本は、二重の意味で自由な労働者を前提し、一方で形式的に自由な人格性を立てるとともに、他方で社会的生産を物象の関係において集中し発展させ、この人格性に対立させます。私的諸生産内部に科学の適用である大工業という社会的労働組織を実現することで資本は運動しますが、それは、社会的生産関係の物象化を物に擬装されたものから、物という外観を突破したものに発展させます。諸個人の社会性が商品としてではなく、実際の社会的結合労働の過程として実現させられます。この労働の過程を真に諸個人のものにして制御することが課題として明白になってきます。

貨幣の力は、成長主義の強制として、自然と社会を分断し、生産と消費を分断し、社会と人間を分断します。環境破壊や労働破壊などの形であらわれた貨幣の力の暴走は、しかしこの暴走によって貨幣の力への制御を要求することになります。諸資本の競争として資本の本性が相互に強制されているのが「市場」であり、貨幣の力は「市場」の威力として私たちに対して問題化しています。「市場」の力は私的に分解し隠蔽された生産からはじまりますが、その実現は、「市場」に対する制御と生産の公開に反転します。効率性追求がさらなる労働収奪に結果したり、環境破壊を進めたり、何のための効率性追求か問われる。効率性は何のためかというならば、それはヒマになるためです。自由時間の創造こそが生産力発展の隠された主題なのでした。労働基準法であれ、食品安全衛生であれなんであれ、社会的な制御の進展は、私的生産に公共的な網を被せ、公開させ、社会的でありながら社会的でない労働を真に社会的にする試みです。私的労働を前提しながら不断に社会的労働を立てる運動です。市場は生産を隠すことでなりたつにもかかわらず、生産の公開の進展なしには存続しえません。「市場」は、「市場」の力をわれわれのものに、と私たちに宣言させながら、みんなの労働を真にみんなの労働に、われわれの生産を真にわれわれの生産に、社会的労働を真にわれわれの社会的労働にという課題を私たちに提起しているといってもいいかもしれません。地球規模での問題群において、「市場」や「成長」の力としてあらわれる貨幣の力、私たちの社会的労働の力を吸収して資本として実現している貨幣の力を私たちが私たち自身の自由で豊かな発展の土台におさめ暴走させないようにするために智慧を集結することが求められていることの本体なのではないでしょうか。(了)
by kamiyam_y | 2009-06-08 22:41 | 資本主義System(資本論)