さっぽろ地下鉄のなかでマルクスを呼吸する、世界を呼吸する

共同本質の疎外態(1)

▽ スニーカーの底のラバーを雨で濡らしたままエスカレーターの階段に乗って滑って背中を打ちました。身体が物理法則から逃れられないことを痛感。思い出してみると、ずるずるっと滑り出したら背中を打つまでのスローモーションのあいだ、転ぶのはいやだ、と心のなかで叫んでいた気がします。

▽ 頭痛の波にときおりおそわれた一日。とりあえず、外は寒いのに室内が蒸す雨のせいと、一昨日、ワード2007で一日作業したせいと原因を2つほど決めつけることにしました。ワードのファイルの編集も含めて作業は一太郎でしてるのですが、何を血迷ったのか、一昨日はワード2007を使ってしまいました。ネットをみると、2003より使い勝手がよくなったという声や宣伝文句もたくさんありますけど、逆の感想もたくさんあって、ついこないだまでワード2000を使っていた私にとってはドロップダウンメニューがない2007はストレスがたまります。リボンはめんどくさい。余計な疲労をため込む。インターフェイスをワード2003に戻す設定はないのか探したのですが、ないじゃないですか。2003をイ
ンストールすることにします。

▽ タクシーに乗って、マニュアル車でなく、オートマ車であることに気づきました。タクシーイコールマニュアルと思っていたので、「オートマですか?」と尋ねたら、運転手の表情が一瞬こわばったので、(批判してると思われてしまった)と「乗り心地がなめらかなので」と言葉を継ぎ足しました。人間って一瞬にしていろんな判断をしてるものです。運転手によると、運転手は年配の人が多く、クラッチ操作は膝に負担がかかるため、オートマが増えているそう。人間変なこだわりを捨て簡単なものを使うのが大事です。

共同本質の疎外態 生産の諸関係の物象化

農家出身の人から聞いた話を思い出しました。子どもの頃、海の方から魚をもってくる知らない人がいて、家ではその魚と農産物と交換したらしいです。他人との直接の交換ですねたぶん、詳しく聞かなかったんですけど。厳密さは犠牲にしてややくどい感じで話をひろげてみます。

購買手段として、海から来た人にとっては魚が、農家の人にとっては農産物が作用する、とここでいうことができます。

ここにみられるべきは、人間とその手の産物との原始的な転倒でしょう。魚は魚所持者のもとにあっても、他人のモノを獲得する手段であり、彼の精神の刻印された彼固有のオブジェとしての彼との絆を喪失しています。交換過程以前に魚の持ち手において、魚はすでに潜在的に魚ではなく、未来の農産物にほかなりません。彼の眼前に登場すべき農産物所持者もまた、人的器官を具備した動く農産物であり、農産物がその交換可能性を現実の交換とし、農産物を欲求する人的器官へと到達するための経路、媒介環です。

もちろんこの経路は農産物の交換相手につながらず、農産物を腐らせることもあるかもしれません。生きた人間ですもん。とはいえ、経路である人間において、形の上での自由と、自由な二人の認めあいという共同体がつくられることで、モノは自己を実現します。モノとして交換されねばならない労働が、交換により共同の労働へと格上げされます。与えることによって得、得ることによって与えるいっときの信頼は、相互の孤立と相互の手段化、相互の排除を前提にしており、等価物であり加工された自然であるモノが着ぐるみをかぶって運動している姿であり、裏側ではモノとしての相互に疎遠な労働の関係であり、労働がモノにおいて社会的労働として自らを実現しようとする際の器官です。

労働生産物は交換に先だついわば値札のようなものとしても機能しています。円を介さずに、交換割合が一定の水準に落ちついているとして、農産物麦からみて、麦これだけに対して、魚鰯これだけが交換可能、となっているなら、魚鰯一定量は農産物麦の交換的同一性をその表象された自然量で計る等価物であり、麦の鰯に対する関係において、農産物麦一定量の交換価値、値段、みたいなもんが成立しているといえましょう。

いや、すでに、価値尺度の素材となる物質金の一定の重量に対して「円」という呼称が法定化され、1円が単位となって交換価値の目安として機能し、1円の倍数として交換比率が示されているのですから、魚も農産物も、表象における上皿天秤で価値塊一定量に等置されてから交換される、という方がいいかもしれません。鰯これだけは10円で市で売れるからそれに運んだコストを足して12円、麦12円分は卸すときにこれくらいだからこれだけ交換、というぐあいに。観念的に存在する貨幣の一定量が交換比率の物差しとなります。

鰯と米の交換はまだ経済成長がおわっていない日本のいなかの話でした。つい最近までそういうこともあったんだという感慨まじりに思い出したのでメモしてみました。では、何が労働生産物を貨幣にしたのでしょうか、貨幣は何によって産みおとされたのでしょうか、さらに問を一般化してひろげてみました。異邦の民どうしの接触に貨幣の起源を象徴させてみることができます。宇宙の全歴史において貨幣が生れた瞬間の激動をたどってみましょう。こういう真に重要なドラマは往々にして平凡です。むかしむかしあるところに、海の民がおりまして、縄を編む、網を仕掛ける、魚を干す、屋根を葺く、など多くの活動が商品も貨幣もなく分業されており、潜っては海鼠を刺して採ってくるのは女の仕事。乙女は海鼠を採った帰りに海岸で、七色に光る貝を集めては家で装飾品をつくってました。

そこから遠く離れた山には山の民もおりました。かれらも分業を行い、鹿みたいな動物を飼育することを覚えて、乳製品も生産するようになりました。歩くのが好きな冒険部隊を編成して、チーズをもって旅に出ます。かれらは、海の民と出会います。チーズを食べてみせると海の民も関心を示します。逆に、山の民は乙女の気を惹こうと装飾具について尋ねます。って言葉は通じないかもしません。異なる共同体の民ですから。海の民は貝を、山の民はチーズを並べ、言葉は通じなくても、交換の合意をします。出会った海の民と山の民とは、おたがいに生産物を示して、交換しました。やがて、二つの民は交換を繰り返すようになり、交換がうまくいったら得た生産物に2度ほど接吻をする習慣をつくり(『資本論』第1部註51)、交換がさかんになっていきました。

この交換は、家族のような同じメンバー内部の共同の産物の分かちあいや取り替えっこやプレゼントではありません。生産の共同組織を超えて規則的に行われる、脱共同体的な労働の依存関係です。共同体に縛られない生産物の交流が常態化すれば、共同体の諸個人も文明化されます。海の民は、チーズを最初はくさくて食えないと思うし、山の民は、貝殻なんて役に立たないと思っていたのに、やがてどちらの民もチーズと貝を楽しめるようになります。海の民の味覚は、山の民のチーズによって豊かにされ、山の民の美的鑑賞眼も鍛えられます。山の民はチーズを野の民の草花とも交換し、海の民は塩も交換に出すようになり、こうして社会的分業が複雑化し高度化していきました。民の内部もまた特定の交換物の生産がさかんになり、塩づくりはこの人が年にこれだけすればいいといった古い掟が壊れていきます。交換は欲求を具体化・特殊化・開発し、生産を分担しあう社会的分業を細かくし、共同体の編成を替えていき、社会を文明化していったのでした。われながらいいおとぎ話です。

労働に即して把握すれば、資本主義において不断に生産物が商品として生産され、貨幣の力が現実化されていることがわかります。労働は直接には商品を生み続ける労働であり、それは、交換において生産物という結果の形でしか相互に接触しあうことのない孤立しあい排除しあう諸労働です。個々の労働がはじめからそのまま社会的労働である共同体的生産とは異なって、この私的諸労働はその現物形態・自然形態がそのまま社会的な姿として妥当するのではなく、同一の人間労働力の支出一般という同一性において社会的であるにすぎません(私的諸労働の社会的な形態。『資本論 初版』MEGAⅡ/5, S.41)

さて、乳製品A量は、綿製品a量、皮b量、塩c量などなどの値札をつけることによって、その価値を示します。Aの価値を示すその現物の姿の量によって値札系列は、交換可能なものとしてこの関係において位置づけられています。「労働生産物は、それらの交換のなかで……使用対象性から分離された……価値対象性を受け取る」(『資本論』全集版、大月書店、MEW23, S.87)。この連関を前提して値札だけをみると、あたかもはじめから自然物が、交換力という社会的な力をもっているようにみえたりもする。黄金崇拝ですね。

しかしこれでは、それぞれの商品がすべて生産物の延々と続く交換可能なものの札の系列によってしかその価値の表現形態をもてず、直接に統一された尺度はない。札の側に立っていた諸商品もまた他の商品で自己の価値を表す能動的なものでもあり、価値表現は間接的に統一的であるとしても、直接にはばらばら、無限に細分化されています。この制約を超えるのが、諸商品世界が一つの統一された商品を排除し、共通の(社会的な)価値表現の素材とします。「リンネルに等しいものとして、どの商品の価値も、いまではその商品自身の使用価値から区別されるだけではなく、いっさいの使用価値から区別され、まさにそのことによって、その商品とすべての商品とに共通なものとして表現されたのである。それだからこそ、この形態がはじめて現実に諸商品を互いに価値として関係させるのであり、言いかえれば諸商品を互いに交換価値として現わさせるのである」(全集版、MEW23,S.80)。この統一された等価物の地位を占めるようになるのが金なのでした。

また、交換可能なものは単に可能なものにすぎず、乳製品はその消費者になるべき人の手へと個別的な関係において渡っていかねばなりません。あらゆる商品が、等しい価値のものとして他の商品と交換されその社会性を実証しなければならない、任意の商品と交換されて価値としての実証されねばならない、と同時に、あらゆる商品がそれを欲求する人間の手に渡らねばならない、使用価値として実証されねばならない、のですから、これが充せないかぎりあらゆる商品は崩壊せざるをえない。あらゆる商品が他の商品の値札になろうとするとあらゆる商品は値札をもてない。交換は不可能です。直接的交換のこの不可能性を解除するのが、共通の等価物、「第三の商品」を介することです。諸商品は第三の商品を自分に対立させ、この商品金の量によって共通の価値表現を得、この第三者の形を介することで、商品にない人間的諸器官を備えた所持者の社会的行為を介した運動、売りと買いの分離した流通を形成します。諸商品は貨幣を自分に対立させて形態化することによって実在できていきます。乳製品所持者は酒がほしいが、酒所持者は皮がほしい。まず乳製品所持者は乳製品を欲求する人がもつこの共通の等価物、第三の商品と、交換する。この売りのプロセスでは、乳製品が手放され、その使用価値としての実現が果たされ、乳製品所持者の手には乳製品の価値がこの等価物の印に替り値札であった価値を実現し、買いにおいて、この第三のものを自由に等しい価値のものと交換し価値としての実現をとげます。

こうして成立した貨幣は、まず第1に価値尺度という機能において諸商品の価値表現の素材として存在し、その現物の量によって商品価値を価格に転化し、第2に諸商品の価値としての実現と使用価値としての実現を媒介する、諸商品の流通の道具として流通手段として流通のなかに諸商品と並んで現れ、この機能において、素材としての性格を欠いた形だけのもの、価値標章・価値象徴によって代理され、第3に、貨幣としての貨幣として、物として個別化された価値の独立的姿態として、社会的労働の化身として、あらゆる商品と交換可能なものとして、あらゆる使用価値に変りうるものとして、富の代表として、流通から引き上げられて崇拝され(蓄蔵貨幣)、単なる価値の移転、流通の仕上げに支払手段として機能し、国内流通を脱ぎでた富そのもの(世界貨幣)として存在します。

貨幣は価値の独立化として流通から引き上げられたり、移転したりするわけですが、貨幣が自己増殖する貨幣、資本になることは、価値を生産する過程である生産過程を貨幣が自分の過程の手段にすること、流通の圏域を飛び出ることによってです。価値の増大は流通の圏域が想定する外部の生産過程においてなのですから。こうして貨幣は生きた貨幣である資本に転化し、資本はその抽象的な形態である貨幣から始まります。

貨幣は生きた貨幣として自己目的化し、貨幣(目的)―商品(手段)―増大した貨幣(実現された目的)という価値が自己を保持し形を変えつつ増大する運動になりますが、流通にとどまることはできません。商品と貨幣との、姿態変換は、同一価値の姿態転換にすぎず、価値がそこで発生するわけではないのですから。単なる交換では価値は価値として自立した運動をしていません。貨幣は、流通の圏域にとどまっては自己を目的として実現することはできず、かつ流通に戻らなければ、あらゆる商品と交換可能な富の代表ではなくなってしまい崩壊します。

貨幣(目的)―商品(手段)という過程も、それに続く商品(手段)―増大した貨幣(実現された目的)という過程も、価値を生産することはできません。同じ商品の転売は価値の奪いあいにすぎません。最初の商品と次の商品は別の商品であり、最初の商品は生産のために購入した生産で消費する物、次の商品が販売すべき別の生産物です。最初の商品が、生産過程でのその消費によって最初の貨幣額=最初の自身の商品価値を超える多くの価値を生産物に加えることができなければなりません。

そこで、価値を生むという独自の使用価値をもつ商品が、労働力という商品が登場するわけです。労働者は自分たちが消費するよりも多くの生産物を生産します。資本主義では、労働者自身が消費して労働力を再生産するための生産物である必須生活手段の価値=労働力価値を超える剰余価値として、この多くの生産物が実現します。労働力を買って生産においてそれを消費することで貨幣は価値増殖する貨幣、資本でありえています。

全面的に完成された商品貨幣生産が、自己を目的とする貨幣が生産を手段にして編成する社会、すなわち資本主義です。商品は、資本の原基形態で抽象的な範疇ですから、出現は資本の時代以前に遡ります。とはいえ資本が目的となった社会である資本主義以前では、商品流通は生産の基礎ではなく局所的器官にすぎません。「人間の商品生産者としての定在は……共同体がその崩壊段階にはいるつれて重要さを増してくる……。本来の商業民族は……古代世界のあいだの空所に存在するだけである」(『資本論』全集版、大月書店、MEW23, S.93)

自己を目的化した増大化する貨幣、過程を進行する貨幣が資本ですが、この資本はいつでもまずは貨幣の集積として登場します。「歴史的には、資本は、土地所有にたいして、どこでも最初はまず貨幣の形で、貨幣財産として、商人資本および高利資本として相対する。とはいえ貨幣を資本の最初の現象形態として認識するためには、資本の成立史を回顧する必要はない。同じ歴史は、毎日われわれの目の前で繰り広げられている。どの新たな資本も、最初に舞台に現われるのは、……相変わらずやはり貨幣としてであり、一定の過程を経て資本に転化するべき貨幣としてである」(全集版、MEW23,S.161)。貨幣は不断に資本に転化しているのです。現実に。資本主義は貨幣が不断に資本に転化していることで成立しているといっても過言ではありません。不断に労働力を買って消費する産業資本が現代社会の編成力です。商人資本も利子生み資本も歴史的には産業資本としての資本に先行しますが、現代の編成においては産業資本によって内容規定を与えられる派生的形式です。です。利子生み資本といういわば純粋な資本の形式は、貨幣が資本として商品として売買されることから発生して、物神崇拝を頂点に導く派生的形態です。銀行は遊休貨幣を集中配分する共同的資本です。

資本主義では、労働する諸個人が生産手段を共有しておらず、資本家の私的所有のもとに社会的なみんなの生産は分解されてます。生産は社会的でありながら、直接には社会的ではありません。モノを手放す私的所有者という形をとる私的諸生産に生産が断片化されていること、古い共同体的な結びつきを解除した私的諸生産として非社会的生産として社会的生産が起点となっていることが、生産物を商品にします。「互いに他人であるという関係は、自然発生的な共同体の成員にとっては存在しない」(全集版、MEW23,S.102)。「もし労働が直接に社会的な、すなわち共同の、労働であるとすれば、諸生産物はそれらの生産者たちにとっては共同生産物という直接に社会的な性格をとるであろうが、しかし相互にとっての商品という性格はとらないであろう」(「初版」MEGAⅡ/5.S.41.国民文庫岡崎次郎訳72頁。原文の強調は省略)。生産物はすべて他人の富として労働する諸個人に対立し、他人の富はその抽象的な未展開な姿において商品なのです。商品の大海が貨幣の支配を生みだしてリアルであり、貨幣の支配は前提である労働を捉えてリアルであり、資本主義の全体をその器官とします。商品経済を完成させるのが資本主義です。

最高度に発展した資本主義において、航空機の着水現場を撮ってカネを得る行為は類的生活の手段化でした。資本主義のもっとも単純な範疇である商品において、みんなの関係と排他的手段化との転換がいわば運動原理になっています。人間どうしの社会的労働の関係は、物象に個体化され、物象を目的とする関係になっており、物象と物象の関係に転換されてます。人間どうしの古い共同体的な結びつきである人格的依存関係が労働の生みだす生産の関係をみるようにするガラス板だったのに対して、この古い共同体的結びつきが断ち切られた労働においてはそれが生みだす生産の関係は、人格的諸関係から切断され物象の関係として不可視化され、孤立的諸主体は自らの関係を自らの関係と自覚することなく客体である物として崇拝することになります。崇拝を介して諸物象はまた関係しあい、人々によって制御されない全体の流れが形成されることになります。

労働する諸個人はその労働を社会的労働として立てて生活します。商品貨幣経済としての資本主義ではない生産の編成においては、個々の労働ははじめから社会的労働として成立しています。個々の労働は(多少平たくいえば)そのままみんなの生産活動の1部分をなしています。これに対して、資本主義では個々の労働は、直接にはみんなの労働として立てられておらず、私的生産に分解された孤立的労働です。「私的労働、と言っても、分業の自然発生的な体制の、独立化されているとはいえ特殊な諸分肢として、素材的に互いに依存し合っている私的労働」(『資本論 初版』MEGAⅡ/5.S.41.国民文庫岡崎次郎訳72頁。原文の強調は省略)。私的諸労働が直接には排除し対立的に展開する「社会的生産過程」としての性格は、私的に排他的利己的「原子的」にふるまう諸主体の「意識」の関係に対して、「制御」に対して、疎遠な物象の運動によって媒介されています。社会的生産を媒介する諸関係が物象的な姿態をとって人格的諸関係から分離しています(全集版、MEW23,S.108.「初版」)MEGAⅡ/5.S.59。人格的諸関係から脱落した物象の諸関係である商品の諸関係として、みんなの生産、社会的労働が実現します。(続く)
by kamiyam_y | 2009-06-08 22:39 | 資本主義System(資本論)