さっぽろ地下鉄のなかでマルクスを呼吸する、世界を呼吸する

タグ:資本論 ( 4 ) タグの人気記事

歴史的に形成された総過程Gesamtprozessとしての世界市場Weltmarkt 

諸範疇を1つの社会的総体の諸分肢として規定しながらそこを通過する円環運動、それが社会システムの根源の能動的運動である、特定の社会的形態における労働する諸個人の生産という運動です。封建制における商業であれば、封建的生産に媒介された総体の器官としてそれは有機的なものの要素として存立しているのであって、現代の発展した産業資本の形態としての商業資本とそれを比べたりしても、それが対象の概念的把握ではなく、見る人の関心を満たす行為にすぎないことはあまり理解されてはいない1つの真実です。「生産、分配、消費、交換」は「1つの総体の諸分肢をなしており、1つの統一体の内部での諸区別をなしている」(『マルクス資本論草稿集1』大月書店、MEGA Ⅱ/1.1 S.35)。「資本はいっさいを支配するブルジョア社会を経済力である」(S.42)という『経済学批判要綱』「序説」の言葉は社会システム総体を把握の対象としています。

c0064668_17161645.gif

『資本論』第3部は、平均利潤の成立、商業資本と利子生み資本、土地所有といった範疇を理論的、概念的に把握するのですが、それは、第2部での社会的総資本の再生産および流通の理論的把握のうえに、資本がその外部にひきついだ総体の諸姿態を自己の必然性の浸透した、自己を内容とする形態として再産出していく運動を追求しています。

c0064668_17162417.gif

実体的な共同体を想定しない孤立的・排他的・私的な諸主体間の疎外された社会的生産の運動である商品流通が地球全体を覆う物象的相互依存関係を形成することを前提にして、現在、資本の運動は株式会社の形態にいたるまで地球規模で不断に反復しています。生産過程の個々の分肢が国境を越えた協業を形成し、資本の循環の諸要素が地球規模で流動し、流動を否定し、多様な国民的出自の資本が分裂、統合を繰り返し、科学技術をその大気として架空資本が全地球的を駆け巡り、株式会社が世界市場を舞台とする超国籍的な企業の形態となり、自由な個人の私的所有と物象的に拡張する世界的生産との矛盾を世界的に開示しています。資本の運動は私的な形態における社会的生産の展開として国家を超え、個別的な生産過程をますます社会的な生産過程に転化し、その人類史的な存在理由である生産力の増大を遂行し終えようとしています。

c0064668_17163988.gif

相互依存関係の決定的な確立は、一国主義をもはや不可能なものとし、国際協調なしでは人類が存在できない時代を生み出してます。真の選択肢は、国際協調というにとどまらず、成長のための成長にとらわれたこれまでの生産力発展からの転換として見いだされています。生産関係の物象化と自由な諸人格との分離した統一というプラットフォームから出発した現代は、制御されざる物象的に編成される生産発展そのものを止揚することを課題とする地平にまで自身を超出しているのです。自由な諸人格の協同的な制御の対象は世界市場という総体であり、この総体の主体的モメントとして諸人格は世界的諸問題に立ち向かう時代の課題において自己を自覚し、この総体自身の主体的形態として総体自身の自己否定を成し遂げようとしています。

国際協調を資本の形態にとどまるものとする従来の道に対して、自由な諸人格という生産発展の目的を対自化した真の選択肢としての国際主義とが明確に区別され自覚されねばなりません。国際協調を国際協調の資本主義的形態から区別せず、国際協調そのものを否定するのは、現代のラダイットというべき未成熟な態度として克服されねばなりません。「機械をその資本主義的充用から区別し、したがって攻撃の的を物質的生産手段そのものからその社会的利用形態に移すことを労働者がおぼえるまでには、時間と経験が必要だったのである」(『資本論』第1部、大月書店、S.452)。あるいは外部の敵対関係として現れる資本を外部そのものに放置した批判は資本の巧妙な反転運動の内部にとどまる疎外された理解というべきでしょう。

およそ資本主義という私たちの疎外された労働のシステムが達成したすべてのものを疎外とともに捨て去ることほどばかげた、また不可能かつ非人間的なことはありません。個人の古典的な、また社会的な自由、多様な欲求の実現と多様性の承認、寛容と共生、自由な個性、それらを支える国際化と生産発展、科学と民主主義の発展、この数世紀の人類の努力がもたらしたすべての成果を私たちは受け継ぎ、発展させていくことができるし、そうしていくことが未来の私たちと共存する現在の私たちの責務です。そしてこのことが資本主義というシステムの内部でもはやこのシステムを狭隘な外皮として脱皮するほかないないほどまでに発展した即自的な未来社会を顕在化すること、自由な人間社会の形成として実現することなのです。人類史を世界史として実在化した歴史の頂点を私たちは生きています。「それは、生産過程の物質的諸条件および社会的結合を成熟させるとともに、生産過程の資本主義的形態の矛盾と敵対関係とを、したがってまた同時に新たな社会の形成要素と古い社会の変革契機とを成熟させる」(『資本論』第1部、S.526)。工場立法の一般化についてこのように19世紀に語られた資本の運動の弁証法は現代においてこそますます豊かな内容をもってリアルなのです。

by kamiyam_y | 2017-01-25 21:14 | 資本主義System(資本論)

The So-Called Labour Fund / Der sogenannte Arbeitsfonds

『資本論』第1部第7篇第22章第5節「いわゆる労働財源」は、この章の最後の節で、短い補足的な話なのですぐ読めます。労働力に投下される可変資本を不変量とみなす説がこの節で批判する対象です。

Es ergab sich im Verlauf dieser Untersuchung, daß das Kapital keine fixe Größe ist, sondern ein elastischer und mit der Teilung des Mehrwerts in Revenue und Zusatzkapital beständig fluktuierender Teil des gesellschaftlichen Reichtums.
この研究の過程で明らかになったように、資本はけっして固定した量ではなく、社会的富のうちの弾力性のある一部分であり、剰余価値が収入と追加資本とにどう分かれるかにしたがって絶えず変動する一部分である。(『資本論』岡崎次郎訳、大月書店、S.636.)


資本を固定したものとしてつかもうとする、「古典派経済学」にみられた「偏見」(ドグマ)が、ベンサムにより完成され、マルサス、ジェームズ・ミル、マカロックらによって「弁護論的目的」に用いられたが、この考えでは、とくに可変資本に示される労働ファンドが「自然の鎖」で固定された不変の前提とされてしまっており、可変資本量が搾取度、労働力の価格によって変化する点が見落とされます。

このドグマに対して、その「根底にある事実」として、マルクスがあらためて摘出している事実は、労働者が「非労働者の享楽手段と生産手段への社会的富の分割に口出しはできないこと」、および、労働者が「ただ例外的に恵まれた場合に富者の『収入』の犠牲においていわゆる『労働財源』を拡大することができるだけである」(S.638.)ということです。労働ファンドが固定しているようにみえるのは、労働者の生活手段が弾力的に最低限にまで押しやられているからであり、それは自然の摂理などではなく、資本蓄積という社会システムの運動の作用にほかならない、というのが真相です。「労働財源の資本主義的な限度をその社会的な自然限度につくり変えること」(S.638.)がここでの俗流的な弁護論です。

いうまでもなく、超国籍的な資本が運動する現代の「新自由主義」的に現れる蓄積において、労働者の「貧困」が明るみに出されているのであって、蓄積論のリアリティは現代を貫いています。

ちなみに、ここでのベンサムに対するマルクスの罵倒は冴えていて、面白い。

もう1つ興味深いのは、「労働の生産物」が「労働に反比例して分配される」と論じた、註65におけるジョン・ステュアート・ミルからの引用。マルクスはJ.St.ミルを「俗流経済学的弁護論者の仲間と混同することは、まったく不当であろう」とここで評価しています。他の学説すべてを「俗流」と言い放って分かった気にならずに、きちんと評価すべきものを評価する学問的な作業の積み重ねが「批判」なのです。ここは、「古典派経済学」と「俗流経済学」をマルクスがどう扱っていたかがわかる箇所の1つです。

蓄積において、可変資本と、生産手段に投下される不変資本とは歩調を同じくして拡大するわけではなく、また、可変資本の素材である労働力の増減は蓄積を制約する重要な条件です。そこで、次く24章では、「労働者階級の運命」が課題となり、蓄積に伴う資本主義的人口法則、貧困としての本質の露出、「資本主義的蓄積の一般的法則」が論じられます。
by kamiyam_y | 2016-06-20 23:16 | 資本主義System(資本論)

重商主義 Mercantilismの経済学Political Economy

現代社会の存立原理は、資本主義という生きた運動体です。労働する諸個人の労働は現在、資本主義というありかたをとっています。資本主義が労働の原理としてなりたつためには、労働がある特定の状態になければなりません。それが、労働する諸個人が生産手段・生活手段・生産物・貨幣を失うことです。生産手段などは人間が向きあうその外のもの、つまり対象です。それらは労働する諸個人が生きていくために絶対不可欠なものですから、それらは労働する諸個人にとって自己の対象的諸条件にほかなりません。労働する諸個人が自己の対象的諸条件から排除されること、疎外されること、これが資本主義の大前提です。

資本主義が歴史のなかで生まれた過程は、資本の本源的(原始的)蓄積といいます。それゆえ、この軸をなすのが、対象的諸条件を労働する諸個人が失うことです。15世紀末からの土地囲いこみ(エンクロージャー)のような、農民からの土地収奪ですね。これによって、労働する個人に対して、かれらの世界が独立する(青年マルクス風にいえば疎外された労働に対立する「私的所有」)のです。

こうして、労働する個人は、労働力を商品として売る以外に生きるすべのない賃金労働者になります。

労働する個人が失う対象的なものには、社会という、目ではみえませんが存在するものも重要です。労働する諸個人は、かれらを包んでいた共同体という社会的対象もなくしてしまいます。

労働力を売る労働者は、その対価で生活必需品(生活手段)を取りもどし、それを消費して労働力を再生産し、労働市場に引き戻される存在です。

古い共同体が壊れたことで、万人が商品の交換で生きるばらばらの、孤立した点となります。しかし、これによって、人類が社会的分業を強力におしすすめる体制に入ることを忘れてはいけません。

労働者は、こうして、商品を交換する法的な自由をもつ存在でもあります。労働者の個々の契約は法的に自由なものです。自由な契約を介して、資本は労働力を自分のなかに集中することができます。というわけで、労働力の商品化は、このような法的自由と生産手段からの「自由」という「二重の意味で自由な労働者」の存在を想定します。

資本主義の前の社会は、典型的には封建制ですね。資本主義の誕生は封建社会の解体ですが、この過程で、封建的に分散した権力構造を破壊して、巨大な共同体にまとめあげること、国家としての統一があらわれます。

この統一的国家、絶対王制とは、封建的支配階級とブルジョアジーとに足をのせた過渡的な体制というのは、世界史の教科書的説明のとおりです。その政策は、プロレタリアの創出、統一的な市場圏の形成を背景とした貨幣制度の整備、中央銀行と租税を通じた資本家への富の移転、植民などです。

最初の経済学は、この絶対王制の時期に生まれた「重商主義」の経済学でした。3人ほどみてみましょう。

まず、トマス・マン(Thomas Mun, 1571-1641)。邦訳の解説によれば、1615年に東インド会社の取締役=理事に選ばれた人です。
『外国貿易によるイングランドの財宝(初期イギリス経済学古典選集1) 』渡辺源次郎訳、東京大学出版会、1965年。
http://www.utp.or.jp/bd/978-4-13-044051-6.html
A Discourse of Trade: From England Unto the East-Indies, 1621 - Thomas Mun - Google ブックス

第4章で彼は「商品貿易において貨幣を輸出するのは、わが国の財宝を増加する一手段である」という主張を行っています。

かれらは、貨幣が少しでも国外へ持ち出されるのをみると、手ひどく批判し、あげくにつぎのように断言する。すなわち、われわれはそれだけの貨幣を失ってしまったとか、……スペインさえもが……その輸出を禁止している、とかいうようなことである。(上記訳書、31頁)


マンが貿易の利点として強調しているのは、金銀貨幣を船積みして航海に出るところだけみると、イングランドの財宝を減らしているようにみえるが、遠隔地から買ってきて、それを売り時に近隣諸国に売れば、トータルで金銀貨幣が増える、ということです。マルクスはこれに関連してつぎのように書いています。

……トマス・マンは、『イギリスの対東インド貿易論』で、「重商主義」の基礎づけをおこなったさい、一国がもつことのできる唯一の真の富は貴金属であると認めながらも、同時に、国際収支が輸出国民にとって順調である場合には貴金属の輸出を許してもさしつかえないと、強調せざるをえなかった。この意味で彼は、東インドからの輸入品はおもに他国に再輸出されるものであって、そこからインドで支払に要したよりもはるかに大量の金銀地金が獲得されると強調したのである。……(マルクス「東インド会社-その歴史と成果」大月書店『全集9』146頁)


資本主義が世界史に登場する大きな前提の1つが、貿易による世界貨幣の獲得、貨幣の貯めこみでした。

つぎは、ウィリアム・ペティ(William Petty,1623-1687)
The Economic Writings of Sir William Petty, 2 vols. - Online Library of Liberty

『政治算術Political Arithmetick』の訳書で松川七郎がこう述べているのは注目に値します。

市民社会における富の真実の状態ないしはその実体の認識……という究極の目的に焦点をあわせるならば……政治的解剖は、そのための市民社会の解剖学として、その基本構造の分析を志向する方法であり、また政治算術は、市民社会の諸現象の数量的観察(計算)・比較にもとづくすぐれて実証的な経験的・帰納法的方法である、といえるであろう。そしてこのばあい、「政治的尾(poiltical)」とは、「社会的(social)」というのと同義と考えてさしつかえないであろう。(松川七郎「解題」『政治算術』大内兵衛・松川七郎訳、岩波書店、1955年、163-164頁。引用に際して、旧字体を変更した)


大谷禎之介『図解 社会経済学』(桜井書店)のⅢ頁に、なぜpolticalが社会なのか、説明されていますが、それを補強しているといえましょう。

『租税貢納論』はペティそのものとは関係ないですけど、大内兵衛の「序」が面白い。戦火で大原社研から逃げ出して、戻ってみたら土蔵のなかで訳稿が無事であったが、もちろん出版どころではなかったという話。

ペティは労働価値論の提起者として知られますが、関心のある方は上記岩波文庫で。

3人目は、ジョン・ロック(John Locke, 1632- 1704)。いわずとしれた社会契約説の古典『統治二論』。
統治二論
Locke: Two Treatises of Government | Texts Political Thought | Cambridge University Press

「前篇」はロバート・フィルマーの王権神授説に対する批判。資本主義が自分をあるべき姿としてみせるなら、それは商品生産です。王権神授説が古い共同体的世界のイデオロギー(社会的意識)であるのにたいして、社会契約説は、商品生産の理想化であり、古い共同体の解体から出てくる理論です。個人が社会をつくる主体として認められたという人類史の偉大な一歩。交換する個人という限界のなかでの解放とはいえ、個人が共同体の付属物である状態が商品交換によって破壊されてはじめて法的にではあれ、個人は自由になります。

「後篇」の第5章が「所有権について」です。「共有状態」にたいする「労働」の「投下」が「所有権」を成立させる「自然法」を論じています。

……自然が供給し、自然が残しておいたものから彼が取りだすものは何であれ、彼はそれに自分の労働を混合し、それに彼自身のものである何ものかを加えたのであって、そのことにより、それを彼自身の所有物とするのである。(『完訳統治二論』加藤節訳、岩波書店、2010年、326頁。傍点は省略)


スミスを思わせるところがありますね。市民的個人が理想の時代。

資本主義は資本それ自体の本性を肯定するようなイデオロギーをもちません。資本主義の基本的な上部構造は、交換に由来する自由で自立した個人の社会的意識であり、ここにおいては、搾取による蓄積という資本主義の本体は、合意されるものではないからです。資本主義が自己の理想を述べる自己認識は、社会契約論にまでこの意識を高めたジョン・ロックにおいては、個人的労働による個人の所有として成立しています。絶対王制を批判する社会契約論者ロックと経済学者ロックは一体です。
by kamiyam_y | 2016-05-21 00:40 | 資本主義System(資本論)

協業と機械-スミス『国富論』とマルクスの《資本の生産力》(5)

チャップリンの「モダンタイムズ」をなぜかみました。中学生のとき名画座で400円でみて以来です。邦題は「モダンタイムス」らしいんですけど。字幕の訳も変だなあと思うところがあったのですが、ふれないでおきます。

有名な冒頭の工場のシーンだけではなく、貧しい少女(ポーレット・ゴダード)がでてからの方が場面が外になって生き生きした感じを受けました。酒場のシーンとか、やっぱり面白いです。

監視社会、大衆消費社会と貧困、失業といった、疎外された現代社会の要因がほぼでています。思想性がそれほど深いのかと問われると即答はできませんけれども、ともあれ、資本主義批判を素材とした、しつこいくらいのドタバタ喜劇であり、プロレタリア文学のお笑い版であることはたしか。ちゃんと笑わせてくれます。

この映画、機械文明を批判したとよくいわれますよね。それってどうなんでしょう。

この映画が批判しているのは、「機械」や「機械文明」ではないでしょ。そうではなくて資本主義システムでしょう。

「機械」そのものを批判してるわけではありません。ラダイト運動(1810年代のイギリスでおきた機械打ち壊し運動)じゃないんですから。「文明」だって変です。「機械文明」の反対は「道具文明」なのですか(笑)。

機械ではなく、機械という形をとった資本主義システムが問題なのです。機械の資本主義的利用が問題なのです。飽くなき貨幣追求のために機械が利用されるからこそ、それは労働者の健康を破壊し、天然の自然を破壊し、労働者の社会関係を破壊します。

機械そのものが悪だったら機械をなくすか、人間は永遠に不自由だと考えるかってことになってしまいます。資本主義的な生産を太古から続き未来永劫続く永遠の生産とみなすようなもんです。チャップリンがとらえたものの意味は、機械の背後の生産関係にあります。

スミスの「労働の生産力」をみましたが、こんどは、マルクスの「労働の生産力」をみてみましょう。

「・・・[略]・・・労働の社会的生産力、または直接に社会的な、社会化された(共同的な)労働の生産力(ただこのような社会化された労働だけが数学などのような人間の発展の一般的な所産を直接的生産過程に応用することができるのであるが、他方ではまたこれらの科学の発展は物質的生産過程の一定の高さを前提するものである)、このような、個々人の多かれ少なかれ孤立的な労働などに対比しての社会化された労働の生産力の発展、またそれとともに、社会的発展の一般的な所産である科学の直接的生産過程への応用、これらはすべて資本の生産力として現われ、労働の生産力としては現われず、または資本と同じであるかぎりでの労働の生産力として現われるだけであって、・・・[略]・・・。資本関係一般のうちに存在する欺瞞は、今では資本のもとへの労働の単なる形態的包摂の場合にそうだったよりも、また、そうでありえたよりも、はるかに発展する。」(『直接的生産過程の諸結果』岡崎次郎訳、国民文庫、86-87頁。強調は省略。)


チャップリンの風刺は、人間が機械によって支配され、機械に支配される労働者が貧困を強要される転倒を笑っています。

機械の付属物に人間がなってしまうのは、機械文明やら機械そのものという歴史的規定性を欠いた要因によってではなく、資本主義システムだからです。労働の矛盾、すなわち、労働の産物が労働者のものではなく、労働が労働者にとって苦痛であり、労働する関係が労働者を圧迫するような、労働の矛盾があるからです。労働は、人間が協同で生産するという社会的な活動ですから、この社会的活動から人間が疎外されるのは、人間が自分自身を失うことであり、自分の社会的な本質を失うことです。資本主義的機械工業では、人間は社会的本質を、まさに社会的本質の喪失として実現しているのです。

資本主義的な転倒においては、労働者の労働は彼等のものではない力です。労働者はベルトコンベアの横で働きますが、かれらの社会的連続性は、機械システムという形をとって、かれらによっては制御できない法則として存在しています。資本の競争の関係が、人間によって制御できない力になっているのです。

資本主義は労働が孤立しあっている私的生産を前提しますが、この私的生産、私的利益の追求は、《直接に社会化された労働》を存在条件にしてしまう。つまり、私的生産は、私的生産を不要とするような社会的生産に依存する。なんて矛盾でしょう。

直接に社会化された、とは、孤立した個人のあいだを交換が結ぶのではなく、人と人とが直に結びつくことを意味します。実体としての共同労働の成立です。この社会的な労働において科学が適用され、科学の適用がこの社会的労働、機械を共同で用いる労働のいわば本質です。

機械は、労働者の社会的に組織された労働において、科学を応用することによって成りたっている社会的な労働手段です。この機械によって、労働は社会的に組織されてしか作用しないものとなります。

しかしこの《直接に社会化された労働の生産力》は労働者自身のものではなく、資本のものです。労働の社会的生産力は、資本においては、労働者自身の社会的なものとして制御されているわけではありません。それは、《資本の生産力》という転倒した姿をとって発展します。貨幣を増殖する力という逆立ちした力になっています。増殖する貨幣が労働を支配する力となっています。機械の採用は労働者の自由時間を増やす可能性を秘めているが、資本のもとでは逆に作用し、労働者の自由を圧迫するものとして作用します。

チャップリンはこの圧迫をおもしろおかしく誇張したわけです。
by kamiyam_y | 2007-11-04 23:22 | 資本主義System(資本論) | Comments(0)