さっぽろ地下鉄のなかでマルクスを呼吸する、世界を呼吸する

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重商主義 Mercantilismの経済学Political Economy

現代社会の存立原理は、資本主義という生きた運動体です。労働する諸個人の労働は現在、資本主義というありかたをとっています。資本主義が労働の原理としてなりたつためには、労働がある特定の状態になければなりません。それが、労働する諸個人が生産手段・生活手段・生産物・貨幣を失うことです。生産手段などは人間が向きあうその外のもの、つまり対象です。それらは労働する諸個人が生きていくために絶対不可欠なものですから、それらは労働する諸個人にとって自己の対象的諸条件にほかなりません。労働する諸個人が自己の対象的諸条件から排除されること、疎外されること、これが資本主義の大前提です。

資本主義が歴史のなかで生まれた過程は、資本の本源的(原始的)蓄積といいます。それゆえ、この軸をなすのが、対象的諸条件を労働する諸個人が失うことです。15世紀末からの土地囲いこみ(エンクロージャー)のような、農民からの土地収奪ですね。これによって、労働する個人に対して、かれらの世界が独立する(青年マルクス風にいえば疎外された労働に対立する「私的所有」)のです。

こうして、労働する個人は、労働力を商品として売る以外に生きるすべのない賃金労働者になります。

労働する個人が失う対象的なものには、社会という、目ではみえませんが存在するものも重要です。労働する諸個人は、かれらを包んでいた共同体という社会的対象もなくしてしまいます。

労働力を売る労働者は、その対価で生活必需品(生活手段)を取りもどし、それを消費して労働力を再生産し、労働市場に引き戻される存在です。

古い共同体が壊れたことで、万人が商品の交換で生きるばらばらの、孤立した点となります。しかし、これによって、人類が社会的分業を強力におしすすめる体制に入ることを忘れてはいけません。

労働者は、こうして、商品を交換する法的な自由をもつ存在でもあります。労働者の個々の契約は法的に自由なものです。自由な契約を介して、資本は労働力を自分のなかに集中することができます。というわけで、労働力の商品化は、このような法的自由と生産手段からの「自由」という「二重の意味で自由な労働者」の存在を想定します。

資本主義の前の社会は、典型的には封建制ですね。資本主義の誕生は封建社会の解体ですが、この過程で、封建的に分散した権力構造を破壊して、巨大な共同体にまとめあげること、国家としての統一があらわれます。

この統一的国家、絶対王制とは、封建的支配階級とブルジョアジーとに足をのせた過渡的な体制というのは、世界史の教科書的説明のとおりです。その政策は、プロレタリアの創出、統一的な市場圏の形成を背景とした貨幣制度の整備、中央銀行と租税を通じた資本家への富の移転、植民などです。

最初の経済学は、この絶対王制の時期に生まれた「重商主義」の経済学でした。3人ほどみてみましょう。

まず、トマス・マン(Thomas Mun, 1571-1641)。邦訳の解説によれば、1615年に東インド会社の取締役=理事に選ばれた人です。
『外国貿易によるイングランドの財宝(初期イギリス経済学古典選集1) 』渡辺源次郎訳、東京大学出版会、1965年。
http://www.utp.or.jp/bd/978-4-13-044051-6.html
A Discourse of Trade: From England Unto the East-Indies, 1621 - Thomas Mun - Google ブックス

第4章で彼は「商品貿易において貨幣を輸出するのは、わが国の財宝を増加する一手段である」という主張を行っています。

かれらは、貨幣が少しでも国外へ持ち出されるのをみると、手ひどく批判し、あげくにつぎのように断言する。すなわち、われわれはそれだけの貨幣を失ってしまったとか、……スペインさえもが……その輸出を禁止している、とかいうようなことである。(上記訳書、31頁)


マンが貿易の利点として強調しているのは、金銀貨幣を船積みして航海に出るところだけみると、イングランドの財宝を減らしているようにみえるが、遠隔地から買ってきて、それを売り時に近隣諸国に売れば、トータルで金銀貨幣が増える、ということです。マルクスはこれに関連してつぎのように書いています。

……トマス・マンは、『イギリスの対東インド貿易論』で、「重商主義」の基礎づけをおこなったさい、一国がもつことのできる唯一の真の富は貴金属であると認めながらも、同時に、国際収支が輸出国民にとって順調である場合には貴金属の輸出を許してもさしつかえないと、強調せざるをえなかった。この意味で彼は、東インドからの輸入品はおもに他国に再輸出されるものであって、そこからインドで支払に要したよりもはるかに大量の金銀地金が獲得されると強調したのである。……(マルクス「東インド会社-その歴史と成果」大月書店『全集9』146頁)


資本主義が世界史に登場する大きな前提の1つが、貿易による世界貨幣の獲得、貨幣の貯めこみでした。

つぎは、ウィリアム・ペティ(William Petty,1623-1687)
The Economic Writings of Sir William Petty, 2 vols. - Online Library of Liberty

『政治算術Political Arithmetick』の訳書で松川七郎がこう述べているのは注目に値します。

市民社会における富の真実の状態ないしはその実体の認識……という究極の目的に焦点をあわせるならば……政治的解剖は、そのための市民社会の解剖学として、その基本構造の分析を志向する方法であり、また政治算術は、市民社会の諸現象の数量的観察(計算)・比較にもとづくすぐれて実証的な経験的・帰納法的方法である、といえるであろう。そしてこのばあい、「政治的尾(poiltical)」とは、「社会的(social)」というのと同義と考えてさしつかえないであろう。(松川七郎「解題」『政治算術』大内兵衛・松川七郎訳、岩波書店、1955年、163-164頁。引用に際して、旧字体を変更した)


大谷禎之介『図解 社会経済学』(桜井書店)のⅢ頁に、なぜpolticalが社会なのか、説明されていますが、それを補強しているといえましょう。

『租税貢納論』はペティそのものとは関係ないですけど、大内兵衛の「序」が面白い。戦火で大原社研から逃げ出して、戻ってみたら土蔵のなかで訳稿が無事であったが、もちろん出版どころではなかったという話。

ペティは労働価値論の提起者として知られますが、関心のある方は上記岩波文庫で。

3人目は、ジョン・ロック(John Locke, 1632- 1704)。いわずとしれた社会契約説の古典『統治二論』。
統治二論
Locke: Two Treatises of Government | Texts Political Thought | Cambridge University Press

「前篇」はロバート・フィルマーの王権神授説に対する批判。資本主義が自分をあるべき姿としてみせるなら、それは商品生産です。王権神授説が古い共同体的世界のイデオロギー(社会的意識)であるのにたいして、社会契約説は、商品生産の理想化であり、古い共同体の解体から出てくる理論です。個人が社会をつくる主体として認められたという人類史の偉大な一歩。交換する個人という限界のなかでの解放とはいえ、個人が共同体の付属物である状態が商品交換によって破壊されてはじめて法的にではあれ、個人は自由になります。

「後篇」の第5章が「所有権について」です。「共有状態」にたいする「労働」の「投下」が「所有権」を成立させる「自然法」を論じています。

……自然が供給し、自然が残しておいたものから彼が取りだすものは何であれ、彼はそれに自分の労働を混合し、それに彼自身のものである何ものかを加えたのであって、そのことにより、それを彼自身の所有物とするのである。(『完訳統治二論』加藤節訳、岩波書店、2010年、326頁。傍点は省略)


スミスを思わせるところがありますね。市民的個人が理想の時代。

資本主義は資本それ自体の本性を肯定するようなイデオロギーをもちません。資本主義の基本的な上部構造は、交換に由来する自由で自立した個人の社会的意識であり、ここにおいては、搾取による蓄積という資本主義の本体は、合意されるものではないからです。資本主義が自己の理想を述べる自己認識は、社会契約論にまでこの意識を高めたジョン・ロックにおいては、個人的労働による個人の所有として成立しています。絶対王制を批判する社会契約論者ロックと経済学者ロックは一体です。
by kamiyam_y | 2016-05-21 00:40 | 資本主義System(資本論)

国際立憲主義International Constitutionalismの徹底へ

減少傾向が確認されたとのことですが、撲滅すべきものですから撲滅しましょう。減ったとはいえ、その被害者の心の痛みを思うとつらい。
ヘイトスピーチ、3年半で1152件 政府が初の調査:朝日新聞デジタル

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樋口陽一・小林節『「憲法改正」の真実』(集英社新書、②小林哲夫『シニア左翼とは何か』(朝日新書)、③『世界 別冊 2015年安保から2016年選挙へ』と3冊新刊を買いました。①で思ったのは、近代の乗り越えではなく、ポスト近代の乗り越えだということ(90頁以下参照)。「個人」抜きというのは危険なんですよ。③は冒頭の小沢と志位の対談など面白そう。

最近のストリートデモクラシーで脚光を浴びているのが、学生やフリーターやママです。華があって絵になりますし、戦略的にも見せ方を考えて行っているわけで。③が着目しているのは、この新たな潮流に感激してデモにやってくるシニア層。70年安保世代やさらにそのうえの戦前を生きた60年安保世代などです。ほんとにSEALDsがめんこくて(=かわいくて)しかたないんですよ。私の知人もスピーチを繰り返し見ては涙を流し、先生の授業なんかより大事ですよと暴言を吐いてました(笑)。かれらがSEALDsを評価する理由が挙げられているのですが(59頁以下)、また自分たちのかつての運動に対する反省もこめていたり、謙虚です。ちなみに評価しない2割の理由として挙げられているのは、「民主主義」「学者」を敵視するような何の進歩のない決まり文句でした。SEALDsが警察にお礼をいうことに対しては、みな賛成しないらしいですが、ここは微妙。権力に対して卑屈だとでも思うのかな。ただの権力組織の末端の個人につっかかることを権力との対峙とか権力に対する闘いと勘違いしてるなら、今時バカすぎるでしょでおしまい。警察の力を利用するくらいの度量が必要ということを若い人たちは分っていると推察する知性が望まれるところでしょうか。むろん権力による思想統制、政治活動の統制には十分警戒しなければいけないのは当たり前であり、警察がデモを押さえこんだりする側面があること、それには抗議すべきことは当然として。また、警察が安全確保の業務を行うのはただのなすべき仕事であり、それを行わせるのは国民の権利ですし、感謝するというマナーのよさ、よき道徳をアピールポイントにすることには賛同できないという視点もありうるわけですが。ともあれ不要につっかかるべきではなく、また自然にありがとうと口に出るならそれもよろしい。警官と雑談したって権力の手下になるわけでない。

以下は関連してメモ。

国際立憲主義Constitutionalismの徹底へ

1 民主的諸個人の連帯の時代―国境を越える民主主義へ
あるべき未来への選択肢は、人権と民主主義の徹底である。労働が生み出した諸個人の対象的世界は、資本の力として諸個人に対立して自立化している。民主的・国際的・協同的に諸個人がこれを自己の対象・環境として制御することが、人類社会の創造である。

2 新自由主義は自律した体系として存立できない
一国的な社会的調整のハードルを下げ、企業拡大を世界市場的にめざす「新自由主義」的圧力は、破綻する。そこに現代の先端の問題が提起されている。

3 民主主義の真価
新自由主義の自由は、生きた個人の自由ではなく、資本の自由である。資本は、地球的生産発展の必然の力を秘めつつ、蓄積の一般的法則である貧困の蓄積をもたらす。民主主義はその経済的な対象をこれにより獲得している。

新自由主義は国家の権威主義的再編、偏狭な国家主義による統合と手を結んですすむ。「新自由主義」と「国家主義」の「マッチポンプ」(中野 22頁)がみられるようになる。日本の場合は「復古主義」(同上 25頁)が近年あらわである。

4 平和主義と国際主義の位置づけ


〔前文〕 日本国民は…われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。…これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
 日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
 われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
 日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。

第9条  日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
○2  前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

第97条  この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて…現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。


平和主義の徹底は、社会の原理を自由な個人を起点とする人民主権に転換する軸である。それは、「軍国主義を導いたしくみを徹底的に排除」するという「公共空間の再構築」(石川a 225頁)の土台をなしている。平和に生きる権利を国際協調に徹することで人類に実現しようとする意思は、立憲主義と民主主義の徹底である。

立憲主義は国際的に追究されねばならない。集団的自衛権は「国際立憲主義」構築において「消滅」すべきである(最上 110頁)。NGOによる国際貢献に対しても、危険を増す。「特定の国と軍事的に提携することは、NGO活動を助けるどころか、かえって危ういものにする」(磯田 83頁)

5 立憲民主主義constitutional democracyの危機

第99条  天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。


憲法空洞化は、権力が人民から独立した主人になろうとする衝動の端的な現れである。憲法違反を批判されても居直る、自由と民主主義の破壊(クーデター)を許してはならない。

現政権を貫く指向性は、「『権限濫用』の禁止と『自由濫用』の許容」から「『権限濫用』の許容と『自由濫用』の禁止」へという「まっとうな立憲主義」から「外見的立憲主義」への退行である(石川b 67-70頁)。実例は枚挙にいとまがない。

引用文献
石川健治 a 「『非立憲』政権によるクーデターが起きた」(長谷部恭男・杉田敦編著『安保法制の何が問題か』岩波書店、2015年
   ― b 「環境権『加憲』という罠」(樋口陽一・山口二郎編著『安倍流改憲にNOを! 』岩波書店、2015年
磯田厚子「PKOの武力介入が失敗したソマリアの事例」(谷山博史編著『「積極的平和主義」は、紛争地になにをもたらすか?―NGOからの警鐘』合同出版、2015年
中野晃一 『右傾化する日本政治』(岩波書店、2015年。書評として、五野井郁夫「リベラルも小異捨て」『東京新聞』2015年9月13日
最上敏樹 「国際法は錦の御旗ではない」(長谷部・杉田編前掲書)

by kamiyam_y | 2016-04-30 22:55

Martin Niemöller

学生から「ファルージャ」と「新映像の世紀第3回」を是非みてくださいといわれ、後者をみました。かれはこのドキュメンタリーで出てくるマルティン・ニーメラーの言葉に感銘を受けたようでした。
NHKスペシャル | 新・映像の世紀第3集 時代は独裁者を求めた

教科書で文字で知っていたことも映像を伴うと強烈です。ナチスが全権委任法を通したときの映像など。ナチスの哲学部隊のハイデガーや映像部隊のリーフェンシュタールなども出てきます。

このドキュメンタリーで示されている、米国の大企業フォードやIBMがナチスを支えたという側面は重要。外部の破壊力は発展した資本主義の内部に同じ要因があります。

ちょこっとですが、ファシズム論から出発したドラッカーも出てくるわけです。
「経済人」の終わり | P・F・ドラッカー:著 上田惇生:訳 | 書籍 | ダイヤモンド社
ドラッカー / 経営学史学会 監修/河野大機 編著 / 文眞堂
by kamiyam_y | 2016-04-17 00:03

自由な諸個人free Individuals/freie Individuenの民主主義Democracy/Demokuratieの徹底

公園の樹木の枯れ枝にも新緑に育つ小さな芽が見えはじめ、冷気と氷雪に閉じ込められた数ヶ月から脱出したと思っていたら、今朝家を出ると一面の白の世界。吹雪いていて、氷点下6度ですが、とりたてて寒くはない。暖かい建物のなかにずっといれば、少し外に出る程度であれば、そんなん真夏の東京で時々冷房の効きすぎた部屋で寒い思いをするようなもんだ。というのは少し大袈裟かな。

イオンは生ラムがおいてなくて道民仕様になってないなと思っていたんですが、何日か前に鮮魚コーナーでまんまるのゴッコを4匹みました。鱗のないぬめったぶよぶよの姿はインパクトありますけど、唐揚げ美味そう。
函館の冬の味覚、ごっこ汁が味わえる店 | 函館市公式観光情報サイトはこぶら
ごっこ汁・唐揚げ・バター炒めが美味!道南の冬の味覚『ごっこ』とは? | 北海道ファンマガジン
今日見たら、解体されてパック詰めされてました。


喫茶店で何冊か読みました。

吉村武彦『蘇我氏の古代』(岩波書店、2015年)。古代王権による統治を支える社会的分業組織としての「人制」「部民制」の説明に興味をそそられました。つねに大枠しか見ないですけど、自然発生的な人格的依存関係の形態で社会的分業が形成される様をイメージできます。

田中浩『ホッブズ―リヴァイアサンの哲学者―』(岩波書店、2016年)。ホッブズの社会的意味づけはイギリス資本主義の発展が与えたと読みました。「忘れられた思想家」であったホッブズの受容をたどると、労働問題の深刻化など産業革命以降の諸問題によって彼が浮上・再評価されたことが分かる。「自由・平等」という「労働者階級の考え方」の水源は彼の「政治原理」にある(ⅺ頁)。マルクスと同じく、エピクロスに着目していたというのが面白かった(37頁)

大浜啓吉『「法の支配」とは何か―行政法入門―』(岩波書店、2016年)。ホッブズにおいて社会システムの原理を人間に転換した地平の転換を確認したつぎに、「敗戦後70年を経た今日、明治国家の齎した歴史の惨禍から、何を学ばなければならないのか」(ⅳ頁)を問う本書に目を通しました。「『法の支配』の根底にあるのは、『自由で平等な尊厳ある個人』と『社会』の観念」(ⅴ頁)。明治憲法下の「法治国家論」がまだ残存していること、日本の議院内閣制の抱える問題など関心をかきたてられます。

中野晃一/コリン・クラウチ/エイミー・グッドマン『いまこそ民主主義の再生を!― 新しい政治参加への希望 ―』(岩波書店、2015年)。この本のなかで、新自由主義を「企業の力による統治」と捉え、民主主義の復権という深刻な問題を「ポスト・デモクラシー」という言葉のもとに提起しているコリン・クラウチ「私物化される政治と国家」は、政党と社会運動とがお互いを敵視せず連携する必要を訴えて結んでいます(14頁)

この点からしても、北海道5区補選において「市民の会」の働きかけを介して候補統一ができたのは必然的といえましょう。統一の意義を十分に理解しない党員や支持者の無気力・サボり、古い世代の権威主義的人格の残存の影響を懸念していたのですが、野党すべてをまとめるにはいたらず、ベストであるとはいえないまでも、とりあえず、よかった。
北海道5区補選、野党一本化 共産、候補取り下げ池田氏支援 | どうしんウェブ/電子版(政治)

憲法違反勢力の国会支配を止めるには1人区の候補統一が不可欠。
クローズアップ2016:共産1人区取り下げ 参院選、7区で逆転も - 毎日新聞

本書の最後の論考である中野晃一「自由な個人の連帯へ」を読んで、私がとくに紹介したいと思うのは、「自由」概念の再考(52頁以下)という論点です。自由が「巨大企業」の自由に転換し「空疎」になっている(53頁)現状に対して、「個人の尊厳と密接不可分」なものとして再定義する意義を中野氏は政治学的に論じているといえましょう。氏は『経済』3月号のインタビューでも、昨年の安保法反対の運動について、「個人の尊重」を軸とする「多様な連帯」を実現したという新たな一歩を踏み出した点を評価しています(「安保法制廃止の運動と日本の民主主義」『経済』第246号、2016年、20頁)。SASPLのデモに参加したときの「衝撃」(22頁)も興味深い。「若いという凄さ」に素直に感銘を受けています。

中野氏の本からやや離れて、『資本論』に、自由な諸個人の存在諸条件の産出、システム総体の否定性の運動を理論的に表現する人類史的なシステムの自覚の書である『資本論』に敷衍してみましょう。「企業の自由」とは、労働する諸個人の普遍的諸力の客体的自立化が諸個人の意識に出現することであり、「資本の蓄積過程」論における「取得法則の転回」論がつかむ事柄にほかなりません。自然と人間の媒介、人間と人間の媒介を実践する諸個人の社会的労働の力は、そこから諸個人自身を分離・抽象すること(自己の客体的諸条件からの自由と、形式的だが自覚的な社会形成者としての自由である法的自由という二重の意味において自由である労働者の発生)から出発して、いまやグローバルな市場と企業の力として実現しており、ここに発展した社会的労働が、法的にのみ自由であった諸個人に対して、連帯しそれを自己の支えとして再吸収するように求める。真に豊かで自由な人間社会の形成とは、この諸個人とその普遍的諸条件との安定したシステム的統一の実現であり、疎外・矛盾という運動においてこの方向が顕在化する。この把握が「資本の蓄積過程」論であり、それは疎外の極限としての今現在の現代社会をつかんでいます。諸個人自身の個別性と社会性の分裂、社会的労働の個別性と社会性の分裂。この完全な展開、頂点が資本なのでした。他人の所有の領域に実現した生産諸力を、自然的社会的普遍的諸力を自己の延長として「自由な諸個人」が自己のもとに包摂しかえすことが、疎外を疎外する未来の産出なのでした。

社会形成の主体としての個人に定位する民主主義を、他として現れた自己の力である資本に対して徹底していくこと。これしかないのです。

by kamiyam_y | 2016-02-25 01:31 | 企業の力と労働する諸個人

Ausbildung in Universität

スプレー缶を捨てる際に穴を開けなくてもよくなるらしい。
http://dd.hokkaido-np.co.jp/news/society/society/1-0169415.html

たしかに危険ですね。私も缶詰を開けたものを焜炉の近くにおいていたりするので。

安倍の戦後レジームからの脱却という主張が、ヒトラーの宣伝とまったく同じ精神であることが、次の本を読むとよく分かります。『ヒトラーとナチ・ドイツ』(石田勇治):講談社現代新書|講談社BOOK倶楽部

13日の道新の内田樹のインタビュー(第14版第5面)を読み、これを買いました。「明治の日本では真の国民的統合は果たされなかった」という1点において賛成するので、確認作業としてです。戦前て、陸軍が勝手に動いたり、統一的システムの呈をなしていないですから。諸藩に分散していた封建的体制がそう簡単に転換できるわけないです。1868年から1945年て、わずか72年にすぎません。Kindleに落としたところ、文語体でしたが、読みにくくはないです。なかなかすごい自伝です。薩長に侵略されたときのくだりや、極寒のむつでの飢えをしのぐさまなど、胸に迫ります。

日文や史学の学生さんて、きっと文語体のものをいつも読んでるんでしょうね。偉いと思います。

これに対して、文系学部を無くせという文科省は野蛮の極みですな。ひどすぎる。これは日経による批判記事。

ジョン・ステュアート・ミル John Stuwart Mill は、スコットランドのセント・アンドルーズ大学の名誉学長就任演説において、大学とは職業教育ではなく、一般教育general educationに任ずる組織であることを訴えています。
J.S.ミル『大学教育について』竹内一誠訳、岩波文庫、2011年

あくまでも《普遍的に》学ばねば意味がないのであって、無知と権力の融合ほど恐ろしいものはありません。



by kamiyam_y | 2015-08-22 04:10 | 学問一般 | Trackback | Comments(0)

昭和11年(1936年)の北海中学校・札幌商業学校

韓国人は出て行けなどと主張する排外主義デモに参加する無職の男性32歳が模造刀を振るったという事件。ヘイトスピーチデモに参加する人の頭のおかしさをよく象徴しています。こういうデモをつぶすべく立ち上がった正義のカウンターに対してどれほど恐怖心を抱いているのかよく分ります。被害妄想をもちやすい人々。

傷害:外国人排斥反対と勘違い、模造刀で切りつけ 川崎 - 毎日新聞

今日のDoodleはびっくりしました。ひな祭りの次の日にすぐ吉田初三郎生誕130年。
http://newclassic.jp/archives/9342
http://www.pref.kyoto.jp/shiryokan/yoshida-index.html

鮮やかな色彩に俯瞰の構図、引き込まれてしまいますわ。

そこで札幌を描いたものを見つけたので鑑賞してみましょう。国際日本文化研究センター所蔵「札幌市鳥瞰圖」。表側の左から37㎝あたりをクリックして拡大してください。
http://tois.nichibun.ac.jp/chizu/santoshi_2132.html

北海中学校と札幌商業学校ありますね。

世界のマルクス経済学史に名を残すべき野呂栄太郎が北海中学を卒業したのは1920年。
北海高校HP:http://www.hokkai.ed.jp/syokai/rekidai.html

「かかる緊切なる当面の要求に応じて生まれた本講座は、歴史的事実の単なる羅列、説明をもって能事おわれりとするものではない。いわんや、何らかの成心をもってあえて事実を虚構するがごときは、本講座の執筆者とはまったく無縁である。われわれの期するところは歴史の解釈ではなくしてその変革である。歴史を変革するとは、過去の歴史的事実を改変することではなくして、未来の歴史を創造することである。だが、われわれはそれを勝手に創ることはできない。すでに与えられたる一定の諸条件に基づいてのみ、歴史の変革も創造も可能にせられ、問題の真の解決は期待し得るであろう」

(「日本資本主義発達史講座趣意書」青空文庫作品ID:3064、http://www.aozora.gr.jp/cards/000287/card3064.html

むちゃくちゃかっこいいですね。

北海中学・札商から豊平川を超えると丸井呉服店や三越、拓銀、グランドホテル、麦酒会社、五番館、北海道帝国大学、藤高等女学校など今に連なる商店、学校などがみえます。宝栄座は今はなき映画館。現在と街の骨格はそれほど変っていないように思われます。

地図上北海中学校の少しうえを左右に走る鉄道を示す線は、定山渓と白石をつなぐ定山渓鉄道を表しています。定山渓鉄道は1969年まで存続していました。地図上豊平で別の路線と接続していますが、これは西創成小学校の前から豊平橋を直進しここを終着とする市電です。北海学園大学経済学部の広報誌「econ.」第26号、2012年に関連する特集記事。

http://econ.hgu.jp/books/pdf/econ26.pdf

歩兵25連隊、練兵場。高校生が戦争の訓練とは。

月寒高校の近くの松は兵営の門にあったものらしい。
http://www.city.sapporo.jp/ncms/shimin/heiwa/rekishi_senseki/senseki/senseki_16/index.html
by kamiyam_y | 2014-03-04 19:55

内面化した脱原発とその表現

喫茶店のはしごをしたら気持ち悪くなっただ。コーヒー飲みすぎ。

本屋で買った小熊英二編著『原発を止める人々―3.11から官邸前まで』(文藝春秋社、2013年)を読んでました(Amazon)。

「それぞれの証言」という記録は3.11以降の変化の貴重な資料です。

小熊英二「盲点を探りあてた試行」では、「日本の人々自身に自覚がない」が原発ゼロを達成していること(289頁)、再稼働反対が保守的日常感覚に浸透し、「要求」が「保守的」かつ「急進的」なものとなっていること(291頁)が論じられています。

原発依存からの脱却はすでに無自覚な共同精神であり、この方向性は本書のような形で自覚化されているといえましょう。
by kamiyam_y | 2013-12-19 20:51 | 民主主義と日本社会

フィジオクラシーphysiocracy:F.ケネーFrançois Quesnayの「経済表」Tableau Économique

ケネーですけど、「労働は富の父」で有名なウィリアム・ペティと少し似てます。平民から政治権力の中枢へ。医学から経済学political economy(社会経済学)へ。自然と労働に由来するものとしての社会的再生産の把握へ。古典派の創始者の一人として。あっ、マルクスが言ったのはイギリスはペティ、フランスはボアギュベールだった。リカードとシスモンディで終る古典派経済学(『経済学批判』MEW.Bd.13, S37.)

ペティは服屋の息子で軍に入り、いろいろあって解剖学教授となってクロムウェル軍の医者になります。地主階級の一員になっちゃう俗物。「まったく浮薄な一外科軍医」(『経済学批判』杉本俊郎訳、大月書店)。ではありますが彼の試みは社会経済学を切りひらいたもの。労働を基準に国民経済全体の生産を計測しようとしました。統計学の元祖としての「政治算術」ですね。社会を再生産過程の通過においてトータルなものとして捉えようとしたならばそれはまさしくpolitical economyといえよう、ってかんじですな。

重農主義(フィジオクラシー)の指導者フランソワ・ケネー(1694-1774)の「経済表」も自己再生産する社会システムを表象しうる興味深い著作です。

ケネーは外科医として活躍し、ポンパドゥール夫人、ブルジョア出身でルイ15世の寵姫となりヴォルテールの友人でもあったこの知的な美女に使える侍医としてヴェルサイユに。ここで啓蒙主義知識人ディドロなどと交友を深めます。常識的なこと並べてみました。

貧農に生れた彼の問題意識は農業にもとづく再生産を破壊している旧体制に向けられてます。1756年に『百科全書』に「借地農」を執筆した彼が乗り越えようとしたのは、農民が犠牲にされて荒廃した絶対主義下のフランス社会。工業品輸出のために穀物価格を抑え、農民に重税を課した重商主義政策に対して、彼が対置したのは、穀物輸出自由化による適正な価格の実現(資本蓄積を可能とする「良価」)と農民への重税の廃止(新村聡「市場経済の発展と古典派経済学」八木紀一郎・新村聡・中村達也・井上義朗『経済学の歴史』有斐閣、2001年、21-22頁)なのでした。

「経済表」は1758年に最初のものが作成され、1763年、1767年と改訂されます。岩波文庫の訳書をみると、収められているのは第1版の図式、第2版の全部、「経済表の分析」「重要事項」「農業国の経済的統治の一般原則」です(ケネー『経済表』戸田正雄・増井健一訳、岩波書店、1933年)

では第1版の表からと思ったのですが、これは眺めておしまい。図も文字も細かすぎるので。2本の直線が中央で交差しては両端で折り返し菱形を重ねていく図も細かいですけど、この図の両サイドにある説明もまた活字がルビみたいに小さくて虫眼鏡がないと読めません。

で、「経済表の分析」という論文が完成型の「範式」を含んでいてこれを読むのがよいかと。「農業国民の年支出の分配に関する経済表の算術的範式の分析」と始まり、階級区分の説明がなされます。ケネーもまた後のリカード同様三大階級区分ですが、中身は異なっており、リカードは地主・資本家・労働者。確立した資本主義を反映してます。対して、ケネーは耕作者、領主、商工業者。経済表的に述べれば、生産階級classe productive、地主階級classe des propriétaires、不生産階級classe stérile。国民のこの階級分割は、十分に発達した資本主義的階級分化ではありません。

このなかで唯一生産的なのは生産階級すなわち耕作者とされます。生産階級の売上が「国民の富の年再生産の価値」を規定するとされてます。土地=自然こそが富の起点ってわけです。農業という形に限定されているとはいえ、この労働の発見は、重商主義に対して大きな社会認識の前進です。

地主階級は10分の1税を徴収する教会、地主、主権者(国王)を含み、生産階級のもたらす「純収益」によって暮す。不生産的階級は農業以外の従事者からなるすべての人民、商工業者。加工する人たち。でも生産的でない。「純収益」を生産するのは農民としての生産階級です。純収益すなわち〈剰余価値〉をつかんだ、しかしまだ農業という形に限定された姿で、ともいえるし、農業という限定された形に着目して剰余価値をつかんだ、ともいえる。

「経済表」が示す世界は「農業が最高度に発達」している「1つの大きな王国」での再生産であり、そこでは農業が毎年50億フランの価値を再生産するとされます。「経済表」は三大階級のもとでの富を配置を記し、階級間の「取引」を分析し、年々の再生産を表現していきます。

生産階級は「年前払」20億を用いて、50億を生産。

「年前払」20億は生産階級が「耕作労働」のために行う毎年の支出です。種子やら食糧。

これに対して「原前払」と呼ばれるものは、耕作に要する「創設の資本」「経営資本」を指します。これは「修復」を要し、また「大厄災に対処するため」の「予備」が必要であり、こうした費用を「原前払の利子」と呼びます。「前払」ってのは要するに資本投下のことで、「年前払」は原材料など1年ごとに回転する流動資本を指し、「原前払」は用具などに投下される固定資本部分を表現する、と読み込んでもいいでしょう。100億の原前払があってこれは全面更新に10年かかり、年にその10分の1ずつかかる。この流れの部分を「利子」と呼び「原前払の利子」が毎年10億回収されなきゃならんってわけ。

地主階級は20億の収入。生産階級が納める地代に由来。剰余価値の形態ですな。消費されるだけの部分。貨幣20億が国王・教会などが消尽する消費資料(生産・不生産両階級の産物)に支出される。

不生産階級は10億の前払。貨幣資本として準備されています。

ということで、50億の価値の「生産物」と30億の貨幣が存在しています。

「範式」(1767)に手を入れ簡略化してみました(図を局面ごとにばらして並べ貨幣の還流を矢印で示したりしたものもつくりましたが、5本の線に番号を振って説明すればやっぱり足りるのでアップはやめときます)

番号を照らしあわせつつご覧ください。

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①生産階級が生産物10億を地主階級に売る。地主階級の手に、消費すべき農産物。貨幣10億が地主階級から生産階級に。
②生産階級が生産物10億を不生産階級に売る。不生産階級はこれを工作物の原料とする。貨幣10億が不生産階級から生産階級の手中に。
③地主階級は不生産階級から工作物10億を買う。地主が消費する消費手段が彼らのもとに。不生産階級の手に10億の貨幣。
④不生産階級は地主階級が支出したこの10億の貨幣を生産階級に折り返し、生産階級から生産物を買う。不生産階級内に、消費すべき農産物。
⑤生産階級は30億販売しその手中に30億の貨幣をもつが、そのうち20億を地主に対価なく地代として収める。残り10億は不生産階級の手に渡し、彼らから工作物(労働手段)を買い入れ固定資本(原前払)の補填。不生産階級は10億の貨幣で「前払の回復」。ふたたび10億の貨幣形態の元本。

こうしてもとに戻りました。ちょっと感動しますね。1枚の静止した表はこうして私たちに立体的に循環を表象させています。

最後の結果において最初の状態に回帰し、終着点が出発点となる再生産。これこそ時間的空間的変化放散を否定して自己を維持する社会システムの本体です。

かくのごとくに「生産物が価値・素材の両面から、いかに補填されつつ、再生産=物的、階級的双方の生産条件の再生がおこなわれるか」(藤田勝治郎「ケネーの経済表」『世界の古典名著』自由國民社、2001年、99頁)を「経済表」は提示したといえそう。

5本の線によって生産物の流通が示され、3部門間での総生産物の素材的補填関係が、価値の制約のもと成立した。階級関係の再生産でもある社会的再生産を縛る条件が5本の流れを介して示された、とでもいえましょうか。

生産階級の価値額50億「年回収」は、(原前払利子10+年前払20)+純収益20。生産物の素材形態としては、地主向け10(①)、不生産階級向け原料10(②)、不生産階級向け農産物(生活手段)10(④)、生産階級内20。不生産階級の工作物は、生産階級の原前払利子に充てられる工作物10(⑤)、地主向け工作物10(③)。不生産階級は生産階級から農生産物10を買い消費し、貨幣10を次年度前払に残す。

「経済表」の「意義と限界」は、屋嘉宗彦『新版 マルクス経済学と近代経済学』(青木書店、2003年、34-37頁「経済表の意義と限界」)など参照して下さい。

----追記--------------
補足をしました(>「経済表」(ケネー)6/17)。
by kamiyam_y | 2013-05-15 03:26 | 資本主義System(資本論)

まっとうな社会的自由としてのデモ:技術と社会

野間易通『金曜官邸前抗議』(河出書房新社)、第6章の最後の節にある柄谷行人のせりふ、なかなかいいです。興味のある方は買いましょうということで、ここには書きませんけど。

その少し前の箇所に鎌田慧の指摘として、原発建設に対して反対し勝利したところがたくさんあるが「論理で危険だと訴えても、カネの力で推進してくるものには勝てなかった」と書かれてあります。

「カネの力」ですね。気になるので、大きな枠組みに入れ込んで「技術」への考え方を繰り返してみます。技術は合理的だから合理的に管理すれば安全、つまり安全という生活の権利は技術によって本質的に解決済み、安全の問題は技術の問題、とみるのが、私たちの思考にあって偽の安定性を求める態度でしょう。こういう態度においては、技術が人間のために利用されているか、労働者と環境破壊を破壊する非倫理的な技術を他の選択支に優先していないか、といった問を立てることができません。技術の非合理的利用・非合理的技術の普及という問題はあらかじめ排除されてます。廃棄物を処理できず壊滅的な事故に結びつく技術を、非合理的かつ非倫理的と呼ぶことにためらいは不要です。

鎌田が述べている「カネの力」の作動を媒介して考えるってことですし、「カネの力」を労働する諸個人の諸力の否定的な発現として捉えるということ。カネとして介在してくる経済的諸関係自身を私たちが管理できないというシステムのありかたを抜きにして、自然(技術)と生活(安全)が一致すると想定するのが私たちの思考の怠惰ですが、同時に、カネの力がモノに擬態して背景に溶けてしまうことを積極的にここではカネの力が自ら突破し、私たち自身の諸関係を私たちが管理することの必然が示されているともいえます。

私たちの集合力の諸関係が生活を破る威力として、制御を要するものとして出現し、私たちに問を投げかけることで、私たちが疑い、声をあげ、学び、自らの社会的開発を進めていくという必然。

ちなみに、技術そのものを社会的安定と混同するような、安全な原発という形容矛盾に固執する原発共同体的幻想の裏返しは、資本主義的利用から切り離された技術一般の未完成・根源的悪を主張するような反生産力主義ですね。

という話はあくまでも問題の一般的な枠組みです。日本における原発の拡大という個別的事情はその諸要因を歴史的に探求すればよい。ここでは細かいことは無視ってことで。

野間さんの本から逸れてしまいましたが、本書はデモする社会というあたりまえの民主主義について考えさせてくれる歴史的証言です。
by kamiyam_y | 2013-01-28 23:57 | 労働論(メタ資本論)

ヴェブレンを読み返した

突然の体の不調で、病院にお世話になってきました。いろいろやらねばならないことがあるので、はやく治したいです。不調の一因がスーパーで衝動買いしたあるものにあるにちがいないと睨んでいるので、今後気をつけることにします。確証がないし、調べる気もしないのでこれ以上書きませんが。

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ヴェブレンを読み返した

『国連人間開発報告書』の理論的支柱であるcapabilityアプローチを提起しているアマルティア・センは「貧困」を社会現象としてとらえ独自の人間発展論において課題としているし、ケインズは学生時代ムーアの反功利主義的な倫理学に影響を受けのちに「自由放任の終焉」を書いているし絵の収集家だし、ケインズと同い年のシュンペーターはウィーンで歴史や法学を学びオーストリア・マルクス主義者と交流し社会化委員となり大蔵大臣を引受け『資本主義・民主主義・社会主義』を書いたのだし、アダム・スミスのテーマはモラルフィロソフィーであり市民社会の自律的形成を課題とした、というように面白い、偉大とされる経済学者というのは、エコノミクスの範囲のなかで収まらない人物ばかりです。こうした経済学者たちは、経済学者というより社会理論の探求者です。

ソーンスタイン・ヴェブレン、1857年ノルウェーの移民の子として生れ、1884年に哲学博士となるもしばらくは職に就かず本を読んで暮らしていた奇人、ハイルブローナーの『入門経済思想史 世俗の思想家たち』(八木甫・松原隆一郎・奥井智之・浮田聡・堀岡治男訳、ちくま学芸文庫、2001年)の第8章を参考にしながら、彼の1899年の『有閑階級の理論』(髙哲男訳、ちくま学芸文庫、1998年)と1904年の『営利企業の理論』(小原敬士訳『企業の理論』勁草書房、1965年)を読み返してみると、『営利企業の理論』のよく知られた、「産業」Industryと〈営利〉Businessとの対立という構図が、前者『有閑階級の理論』の、平和愛好的で労働に敬意が払われる社会と、〈掠奪〉を軸とし非労働が有閑階級によって誇示される(「顕示的閑暇」等)ような〈野蛮〉社会との対比を踏まえていることがわかります。

勤労の世界、生産過程は、〈制作者本能〉が支配する機械的性格(技術者による調整を含んだ有機的な統一性)をもつのに対して、株式会社金融などによる〈不在所有〉が発展し、営利は機械的過程における調整の解体から生じるという捉え方において、営利は〈野蛮〉の徹底なんですね、たぶん。こういう捉え方には常識を辛辣に、あるいはからかうようにひっくり返してみせる痛快さがある。

「有閑階級という制度がその最高の発展を遂げているのは、例えば封建時代のヨーロッパや封建時代の日本のように、野蛮時代の文化が高度化した段階においてのことである」(前掲『有閑階級の理論』高訳)

たとえば、資本主義のなかにいる人間には、金儲けのための競争は人間の元来の性質なのだ、とする幻想を信じている人がいるでしょう。しかしこれは、マルクス的な言い方に近づければ土地所有が支配する封建制社会において土地所有のための殺戮、これが疑われるどころか褒め称えられるのと同じこと。すでに生産関係によって媒介されそれを前提にして存在していながら、媒介をうしない直接の起点となったブルジョア的原子、これに固執することに対して、社会的な全体によって諸主体が規定されていることを対置する批判性がヴェブレンのような議論の妙味ではあります。

「社会一般にたいして概して無益であったり有害であったりする事業……不生産的な仕事の収益は、他の仕事の総生産物から生れるものである。……産業的にみて寄生的な種類の企業の成長には限度がある。大部分の広告業や……寄生的産業の不釣り合いな成長は、軍事支出や……とともに、その社会の有効な生活力をいちじるしく低下せしめ……」(前掲『営利企業』小原訳)

これも寄生的企業への富の移転が社会的にはマイナスでありうるとする批判で、合理的経済人の主観と財という抽象からすれば無関心な問題を取りあげています。

新古典派的なものを批判する理論的制度派の思考って、「諸個人とは社会である」とか「諸個人はその基盤を社会とし、社会が進化する」とするもの。取引コスト論のようなものを新制度派とよぶこともありますが、そちらは原子論的社会観の修正版と見た方がいいでしょう。

ブルジョア的私人・交換する個人は、資本主義的システムを自己の媒介において定義するような能動的原理ではなく、その自立性はじつは非自立性なのだが、この自立性の内部にとどまるのが新古典派的発想。

制度派的捉え方もまた、その社会による諸個人の包摂は、現在の対象自身の対象を捉えるものではなく、生産関係によって捉えるわけではなく、原子論同様に定義されない前提なんですけどね。原子論の方はまず社会契約説。社会に先立つ契約主体としての個人を想定してもそれ自体すでに社会的存在であり、そうした個人の想定が社会的な約束事であることは実際的に知られているといえます。生れながらにして天賦人権を人間はもつわけではなく、人権は社会関係なのですから。「社会の実体は諸個人である」が人権論的想定といえそう。

とはいえ、人権論は、封建制社会において領主権力に従い、共同体に埋没して生きていた諸個人を解き放つ革命の思想的契機です。原生的共同体の支配から現代的個人の自立へ転換させた人権論は、今度は、個人から独立した社会的生産を批判する武器に転じます。企業や経済法則が個人を飲み込む全体である以上、人権論は王権の批判からこうした全体の批判に具体化します。批判対象の発展が人権を実在化するのだよ。

原子論は古典派経済学のなかの功利主義的想定としてもちろん弁護論的に機能します。孤立した個人を起点とする調和的市場観では、資本家も労働者もその物象的対立的諸関係を脱色されて、利己的主観的利益を計算する同権的主体へと漂白され偽りの姿で現れます。生産関係なき財と主観の関係の世界ですから、個人と一致しない社会はここでは存在しない、というか、社会ではなく個人のみが存在することになります。

諸階級は、孤立的契約において「日労働の価格」という不合理な観念において、〈労賃〉形態において、自由平等な市民として等質化されて現れます。地主も資本家も労働者も単に収入をもたらす物、源泉が違うだけで平等なのだという三位一体的幻想、三大階級の非階級化ですが、これはエコノミクスにおける調和的市場観の原型といってよい。金に社会的支配力を与えている生産の媒介が断ち切られた幻想では、自然物金に支配力の原因をみる。こうしたフェティシズムは、貨幣が利子をもたらす等々の三位一体的幻想にまで具体化しています。
by kamiyam_y | 2013-01-23 21:49 | 労働論(メタ資本論)