さっぽろ地下鉄のなかでマルクスを呼吸する、世界を呼吸する

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「成形肉」ということば

今回の「フォルクス」で知られるようになりましたね。

「成型肉」とは、内臓の肉などを繋ぎあわせてつくる肉のこと。ダイエー傘下のステーキ・チェーン「フォルクス」が、この「成形肉」を使っていることを表示しないで「ステーキ」を販売したとして、15日、公正取引委員会が、景品表示法違反(優良誤認)で排除命令を出しました。

「優良誤認」とは、不当景品類及び不当表示防止法(昭和37年5月15日法律第134号)にいう「商品又は役務の品質、規格その他の内容について、一般消費者に対し、実際のものよりも著しく優良であると示」す不当な表示のことらしいです。

(不当な表示の禁止)
第4条 事業者は、自己の供給する商品又は役務の取引について、次の各号に掲げる表示をしてはならない。
一 商品又は役務の品質、規格その他の内容について、一般消費者に対し、実際のものよりも著しく優良であると示し、又は事実に相違して当該事業者と競争関係にある他の事業者に係るものよりも著しく優良であると示すことにより、不当に顧客を誘引し、公正な競争を阻害するおそれがあると認められる表示


公正取引委員会景品表示法トップページ株式会社フォルクスに対する排除命令について.pdfをみますと、4条1項1号(優良誤認)規定に違反する事実が認められたので、排除命令を出したとあります。フォルクスのメニューが別添としてつけられているのがちょっと笑えます。

フォルクスのHPにはお詫びが発表されているだけではなく、成形ステーキの説明もあります。それをみると、BSE問題が背景にあって、豪州産のハラミを加工したものを売る選択肢を取ったことが、説明されています。みなさんはどう思います?食を巡る規制と企業の側の情報公開のありかたとしてちょっと考えさせられるところがあります。

フォルクスのサラダバーけっこう充実してて好きなんですけどね。北海道には店舗がないみたい。

参照;
「成型肉」をステーキと表示、「フォルクス」に排除命令・公取(日経新聞11/15)

誰もが食べているもどき食品(日刊ゲンダイ11/16)
“偽ステーキ”を販売し、公取委から排除命令を受けたステーキ店大手のフォルクス。牛の内臓肉とあぶら身をつなぎ合わせた「成型肉」を「ステーキ」として売っていたからビックリだが、これで驚いてはいけない。他にも、本物と見分けがつきにくい“もどき食品”は山ほどある。

by kamiyam_y | 2005-11-19 20:43 | 消費者の権利と社会的労働 | Trackback(1) | Comments(0)

日本は、労働時間に関するILOの条約を批准するべき

国連の専門機関である ILO(International Labour Oraganization国際労働機関)は、労働における諸権利を国際的に実現していくための組織です。

何ともなさけないことに日本は、労働時間に関するILO条約46本を1つも締結していません。

厚労省が確かに賃金未払残業に対する是正勧告を増やしているとはいえ、それはまだ日本社会において残業が野放しにされていることの裏返しにすぎません。

労働時間を社会的に規制することは、豊かな成熟社会をつくりだすうえで不可欠なのですから、ILO条約未締結という野蛮状態から早く脱すべきです。

ILO駐日事務所  ILO第1号条約 

森岡孝二『働きすぎの時代』岩波新書、2005年8月、154頁、参照。
by kamiyam_y | 2005-11-07 21:42 | 企業の力と労働する諸個人 | Trackback | Comments(0)

インリン、めっちゃかっこいい!

そういえば、インリンめっちゃかっこいいです。
 
JOYTOYアルバム「愚民の戀」ももってます。

好きだからです。

かわいいだけでなく、発言も面白くてさ。

ブッシュに対しても小泉に対しても批判してたし。

インリンのブログの記事
S cawaiiから引用させていただきます。みなさん、ぜひ原文みてください。

日本の侵略戦争を否定して美化してる人達が作った歴史教科書を杉並区が採用したんです(>_<)

日本人は過去の過ちを認めて反省して教えて、そしてアジアの国と平和な未来を築くべきだと思います。

今の若者に過去の責任はないけれど、過去の過ちを正しく知る権利と義務があると思います。


もちろん侵略を美化する異様な歴史観が支持されるわけもなく、この教科書の採択率は当然低い。

ホリエモンがなぜ自民党に擦り寄ったのかはわからないけど、靖国は行かないとか、天皇制はめんどうとか、そういう発言はわりと若い人の気分を表わしているのではと思う。

自分を日本国と同一視しちゃうヤツってイタすぎ。

嘘で事実をごまかすのでは、日本人も含めた戦争犠牲者がかわいそう!

嘘の教育をしたら、また、未来の戦争犠牲者と加害者を作るだけです!



だから、女の子がセクシーで目標のある自立した人生を生きる為に、

絶対に守らなければならないこと

それは平和と自由と平等ってことなんですよね☆


自分の考えを言える女性はセクシーだぜ。

「セクシーで目標のある自立した人生」っていいじゃないですか。


私は私だからね!
から;

世の中にはいろんな感じ方考え方があるので、私と違う意見もたくさんあって当たり前、いいと思います。
みんな責任をもって自由に発言すれば良いと思います☆
けど、匿名で、他人を差別したり、他人を傷つけたりする人、嘘を言う人は嫌いです。
私はそんな卑怯な人の意見にはまったく興味ないです。

で、このタイミングに言っておきますけど「私と同じ意見でTBを残した人のブログを荒らす非常識な行為は、世の中の迷惑なのでやめてください!!!!」
とにかく、自分が誰か名乗らずに、他人に迷惑かけるなんてサイテーな人間だと思います。
こういう時いつも思うんです、その人達は自分の考えに自信がなくて、他人を傷つけることで欲求不満をぶっつけてるんだろうな~って。


「そんな卑怯な人の意見にはまったく興味ないです」

そういう連中は腐敗物を食うただの蛆以下です。なんて言ったら生態系でちゃんと役割を果す蛆に対して失礼ですね。

欲求不満を他人への攻撃で解消しようとするネクラな弱い奴ら、コミュニケーション能力のない連中の意見など説得力はゼロ。匿名で差別発言をするような糞みたいなヤツが何を言っても説得力はゼロ。蛆どうしが集まるだけのことです。蛆が集まるのはたしかに気持ち悪いですが、そんなもの蛆を育てるエサの面積によって制限されてます。

参照しました。
インリン様、おつおい(;´Д`):踊る新聞屋-。

◇ 坂本龍一もブログでいろんな発言しているんですね。
 メディア・ファシズム
by kamiyam_y | 2005-09-18 02:29 | 民主主義と日本社会 | Trackback | Comments(3)

白紙委任ではない 3

TBから。

stochinaiさんの記事おもしろかったです。淡々と語られていますが、有権者の行動は本当に自分の意志によるのか?という深い問題です。宿主の行動を支配する寄生虫(小泉さんは選挙民の行動を支配したのか) :5号館のつぶやき


なぜ自民党は敗北したのか?
: ◆木偶の妄言◆

北海道でなぜ自民党が敗北したのか意見を求めています。
TBがたくさん集まっていて参考になります。

解散については、恫喝解散は、憲法典の欠缺の利用か
を書くとき調べ、どう考えても違憲だよな、という感想を持ったのですが、

nqk52550さんからのトラックバックで「解散違憲」訴訟がおこされたことを知りました。「郵政解散は違憲」 選挙無効求め提訴
:釈の記録

dketさんの記事、
選挙の効力に異議がある選挙人は・・・:とくらBlog 
が解散違憲論を紹介しています。やはり正しい議論がブログから発信されています。

この問題について、付け足しです。自分のエントリーに対するコメントでもあります。

-----------------------------------------------------------------
第7条 天皇は、内閣の助言と承認により、国民のために、左の国事に関する行為を行ふ。
1.憲法改正、法律、政令及び条約を公布すること。
2.国会を召集すること。
3.衆議院を解散すること。
4.国会議員の総選挙の施行を公示すること。
5.国務大臣及び法律の定めるその他の官吏の任免並びに全権委任状及び大使及び公使の信任状を認証すること。
6.大赦、特赦、減刑、刑の執行の免除及び復権を認証すること。
7.栄典を授与すること。
8.批准書及び法律の定めるその他の外交文書を認証すること。
9.外国の大使及び公使を接受すること。
10.儀式を行ふこと。
-----------------------------------------------------------------
第69条 内閣は、衆議院で不信任の決議案を可決し、又は信任の決議案を否決したときは、10日以内に衆議院が解散されない限り、総辞職をしなければならない。
-----------------------------------------------------------------

これが憲法の規定です。解散=国会の自立解散論もあるくらいで、どう読んでも無限定な解散権を首相が持つとは読めません。  

ここに並べられた天皇の行為には、もちろん天皇独自の実質的政治権、政治的意思はあってはならず、単なる「象徴」による形式にすぎません。

中学校の社会科の教科書では、解散とは、不信任決議に対する解散であると書いてあるはず。

しかも、衆議院の解散は受け身の文章で、衆議院が自分たちで解散するとも読めます。不信任決議を可決したのに内閣が辞職しないなら、議会が自ら解散してやろうではないか、とも読めます。

当然のことながら、今回のような解散を、曇りなき正統な権限の行使として支持するような学説はありません。

解散は、小泉さんの心意気といったくだらない精神論の問題に解消すべきものではなく、全くの税金の無駄遣いであり、資源の浪費であり、社会的正統性というリソースに裏付けられない執行権の肥大です。

まあ、自己相対化できない薄っぺらな信念とやらへの共感で脳みそをいっぱいにしてしまい、本質的な問題から目をそらす人たちには、何を言っても無駄でしょうけどね。

三権分立の理念は、立法権(立法権力)の絶対的優越性と司法権(司法権力)の独立性という原則にあります。ちょっと私とは立場はちがいますが、滝村隆一という人がたしか三権分立はただの相互チェックじゃないんだ、と昔言ってましたが。

執行権(執行権力)の自立化は、人民による国家権力のコントロールという近代の理念を空洞化する現象でしかありません。立法権に制御されず、司法権に制御されない執行権力の存在は、人民による国家権力のコントロールという「市民革命」の理念からの逆行です。

現代企業では株主民主主義が崩壊し「経営者支配」現象があらわれます。

同じように、国家においても立法府の空洞化と行政国家、警察国家、官僚国家といった執行権の独立化がおきます。

ただし、企業のばあいは、経営者権力を民主主義によって正当化するシステムは、世界のどこにも存在していません。社会的生産総体を民主主義が包摂するシステムは、現在の人類の段階では存在していません。

それに比べると、国家権力の民主主義的形態そのものは、その一歩手前の課題として、一応はクリアされた問題。経済活動の自由、私的経済の存立は、国家の封建的生産からの解放としてなりたったので。

いまやまた、それが問題化するのも、経済システム全体の維持、グローバルな連関の維持という公共的なものへの対応によって、国家権力の機動性という形で、執行権が民主主義と衝突しているのです。たぶん。

三権分立の理念が批判の拠点でしょう。形の上では人類史的に解決済みの、すでに主権在民としてシステム化した枠組みを、徹するということ。ここに現代的課題があります。政治的民主主義は徹することで現代に展開する。

とすれば、やっぱり小泉自爆テロ解散批判は、大きな現代的な文脈にあるわけです。

司法権についてみても、誰もが知っているように日本の司法権は、上に行くほど執行権に従属しています。憲法の原則を否定する「企業献金」でさえ、最高裁が破廉恥な形で合法化している(「八幡製鉄事件」)というように。

裁判所は、行政に対して独立した判断を出すことにびびりまくているのか、あほなのか。洗脳されているのか。

この点、人工国家アメリカ合衆国の歴史において、先住民の所有権や奴隷制度といった問題が司法の場を舞台として政治問題化してきた(阿川尚之『憲法で読むアメリカ史」』PHP新書)のとは、対照的にみえます。

憲法は三権分立の理念の制度化をふくんでおり、解散権行使のような統治行為は、憲法の規定に明快かつ絶対的に依拠するべきです。それが法治国家としてまともな在り方です。

憲法への宣誓をするどころか、下僕であるはずなのに憲法の原理を絶対的な基準とせず、抜け道を探ろうとするような姑息な人物が首相として喝采を浴びる。変です。

執行権の私物化に対してなにも思わない人が多い現状をかえることこそ、真の「改革」かと。そうでない「改革」は実質的に何がもたらされようとも常に正統性に疵を伴い、大衆に学習させず、大衆の知的・人間的水準を上げません。

たしか宮台真司が「人民からの国家権力への命令」というような言い方をしていたかと思います(奥平康弘・宮台真司 『憲法対論―転換期を生きぬく力』 平凡社新書)が、近代憲法は、人民を主体とする共同体の統治形態です。国家権力への国民からの絶対的命令です。

拡大解釈によって解散権を振りかざすのは、法治国家原則の空洞化であって、執行権の恣意的拡大であり、事実上ファシズムと同質な領域に一歩足を踏み入れています。

首相が民意などという愚かな言説が流通していますけれど、何なんでしょうね?

首相が民意で、参議院はそれにしたがわないから良識の府ではないなどという驚くべき倒錯が平気で語られたりしてますが。

執行権に対して、無媒介に全体意思の実在を想定するのは、専制への屈服にすぎません。

それに、小泉は立法権に対しては、執行権を表わすが、その実体は官僚制なのですよ。小泉を官僚制から自由な英雄とみなす人には、呆れてものも言う気がしません。

この点、堺屋太一は『月刊現代』10月号で、「官僚主導政権の罪悪」をきちんと指摘しています(「『黄金の10年』へのラストチャンスを逃すな」)。官僚による大臣追い落とし(真紀子!)、官僚に大臣のポストを与えること、など、自民党や国会からの自由は官僚支配と同義です。堺屋は、解散についても、通りにくい法案を通すときは総理が自分が辞めると宣言することはあっても、衆議院を解散するとは言わなかったと述べています。

「参議院で通らなかったら衆議院を解散」した唯一の例が、戦前の大政翼賛会をつくった近衛文麿。「国家総動員法」を通した彼は「国民的人気」と「異常なほどの改革意識」の持ち主。堺屋はこのことを記していました。「改革」なんて言葉に酔わない人の言葉は保守主義者であろうと参考になりますな。今さらですけど、『現代』10月号の総選挙特集、森永卓郎、岩瀬達也などなかなか面白い論考あります。もちろんNHK改変問題へのつっこみもいいですよ。

それから、得票率。選挙制度のバイアスを介さないで、民意を得票率において確認すれば、郵政法案反対が過半数になります。バカどもめ。

ついでに、地域利害の調整から都市型の選挙になったというような言い回しも流行っているようですね。たしかに憲法上国会議員は町やら地域企業の代表ではありません。しかし実態として地域間調整を全体レベルでおこなうこと自体は合理性があります。

つまり地域密着の資金収集機械が不要なら、それこそ小選挙区などという票の詐欺はやめて、全国一区にすればいいのです。都市型云々で止めずにもっと自由にものを考えましょう。

要するに、小泉が民意などという民意は表象された民意、空想された民意にすぎません。

拡大解釈による解散権の乱用に対する批判が今回あまり提起されていないこと自体が、社会契約の未定着を示しているように思えます。事実上のファシズムの領域に権力の支援装置が入り込んでいるのではないか。少なくとも、今回のような暴力的な解散が強行されてしまう事態こそが、この社会風土の、法意識の低さ、憲法意識の低さを示していることはたしか。
民主主義にもとづく正統性を、社会システムの要として理解できない人が多いのでしょう。

憲法のグレーゾーンを利用しても小泉の責任ではないなどと主張する太鼓持ちもいますが、そんなこというヤツは、死んだほうがいいのではなかろうか。保守主義者ですら大好きな「自由と民主主義」は、法の厳格性、客観性、画一性を大前提とするのであって、憲法典に明確な規定のないインチキな解散が定着している日本の現状が、おかしいのです。それを何とも思わない感性こそファシズムの温床です。
誰のための「自由と民主主義」かという論議をする以前の水準の話です。

国家権力による人権侵害に鈍感な感性も、同じ感性です。

グレーゾーンを最大限利用する恣意的な行為は、お上の放埒を放置します。

私は、小泉に対しても、石原に対しても、国民に直接語るスタイルがすばらしいなどとほめることは死んでもしません。それだけなら排外主義的劣情を吸引するファシストの常套手段だからです。事実上のファシズムの感性の広がりだからです。

外国人に対する差別発言を繰り返す人物が都知事だなんて、都民の民度の低さを示すだけのこと。反吐が出そうです。靖国参拝だって同じです。そんないずれ消滅する腐敗物を取り上げる意味もないのでもう書きませんけど。

「改革」はファシストのセリフ。
by kamiyam_y | 2005-09-16 23:58 | 民主主義と日本社会 | Trackback(2) | Comments(3)

恫喝解散は、憲法典の欠缺の利用か

▽ テレビはあまり見ないなんてこのまえ書きましたが、NHKでいま放映されている自然スペシャル、ついみてしまいます。

雨期にジャングルに拡がったアマゾンの川面を、ナマケモノがゆったり泳ぐ姿など、めずらしい映像がいっぱいでおもしろいです。

アマゾンのカワウソが、ピラニアをむしゃむしゃ音を立ててむさぼり食う様子なんて、とっても癒されますよ。
自分の卑しい姿が大写しにされているようで、魂の救済を感じます。んなわけないか。

撮影スタッフのみなさん、ご苦労様。よくぞとったという映像が多く感心です。
政治家に弱いNHKも、情報の集積点としては公共性がありますな。

▽ お盆休みですね。

世間に合わせて、私も昼間からビールなんぞ飲んでみました。

幸せな気分ざんす。

最近の数日は、気分を盛り上げたいときは、湘南乃風のRockin'Wild~10-FEET REMIX~。

今日3回くらい聴いたな。

おなじCDに入っている「2005年4月6日、大日本警告JPNへの意義主張」って曲、すべて賛同するわけじゃないんですが、「アメリカが作るのか日本の政治は」とか「×××の幹事長の名前すらもわからねぇ」というフレーズ笑えます。

で、あっしの頭の中でこれをきいた妖精さんが、ささやいてきました、「政権のこと、あんたも、考えなかといけなか、酔い覚ましにどうかいな」。

▽ 今回の衆議院解散について、「郵政解散」というネーミングを定着させようとする小泉に対して、日刊ゲンダイは

「自爆解散」

なんて言ってます。私は「粛清解散」「恫喝解散」とでもよぶことにします。郵政法案反対議員に対する脅しの実行だからです。議員にとっての「落選」の恐怖にしても、それを脅しに使う取引にしても、政策や理念よりも貨幣の権力がものを言う顛倒があらわになっている、システムの亀裂にすぎません。

衆議院が内閣不信任決議をしたわけでもなく、ましてや衆議院では法案は通っている。

たかが郵政法案です。

衆議院解散という速報をきいてまずおもったのは、これって憲法に則っているのか、憲法のグレーゾーンの利用ではないのか、ということです。

衆議院解散には、内閣不信任決議に対する69条解散と、天皇の国事行為7条3号による解散とがある、というかんたんな説明だけではよくわかりません。手元にある憲法のテキストをみてみます。

辻村みよ子『憲法 第2版』(日本評論社2004年・初版2000年)から。

国会の召集権についてまず。

召集の決定権の所在については、……一種の憲法規範の欠缺であり、助言・承認権をもつ内閣に実質的決定権限があると考えるのがやむをえない帰結といえよう。

助言・承認が国事行為の実質的決定権を含まないという立場にたつと召集決定権者を確定することが困難となるからである。この点、学説では、国事行為には本来実質的決定権が含まれないとすると、7条以外に根拠を求めることが必要となるため、憲法53条が臨時会の召集について「内閣は、国会の臨時会の召集を決定することができる」と定めることから、すべての召集権が内閣にあると類推するものが多い。

しかし、常会(52条)や特別会(54条)については召集権の主体は明示されておらず、比較憲法的にみても国会の自律集会制度もありうる以上、類推によることは立憲主義に反することになる。そこで、7条2号を国会召集の原則的根拠規定と解さざるをえないとする見解(杉原・憲法Ⅱ500頁)も主張されるが、他方、天皇が実質的決定権を有すると考えることは象徴天皇制の構造自体から問題があり、……。(89頁。読みやすくするため行替えを入れた)


ふうん。天皇の国事行為として7条2号は、国会の召集をあげています。象徴天皇制であるから、天皇の国事行為には「実質的決定権限」は認められない。とすると、召集決定権は「助言・承認権」をもつ内閣にあるということになる。しかし7条以外に根拠を求めると、類推となり立憲主義に反する。そこで7条2項を国会召集の根拠規定とすることになるが、そうすると、天皇に実質的権限を認めることになってしまう。

いずれの見解も一貫しないというわけですが、この点を論評する必要はありません。興味深いのは、天皇の国事行為の「実質的決定権」が憲法規範に明記されていないことが、「憲法規範の欠缺(けんけつ)」とよばれている点です。

当然、7条3号による国事行為による衆議院解散にも、同様の憲法学上の論争があることになります。

解散は、議院に属する議員全員に対して、その任期満了前に議員としての地位を喪失させる行為である。議会解散権は、君主主権から国民主権への展開、近代の「純粋代表制」から「半代表制」への展開のなかで重要な機能を果たしてきた。(475頁)

現代の議会政治や議院内閣制においては、任期満了前の解散・総選挙によって民意を的確に反映させる機能や、内閣と議会との協調関係の破綻に対処して内閣を安定させる機能などがある。(同上)


解散が果たすこの役割そのものには異論はないとしておきましょう。
そうだとしても、学説状況は単純ではないのです。

憲法学説というのは、念のためいえば、現代社会の自身の自己認識であって、純スコラ的であっても、単なる机上の空論ではなく、システムの正統性という現実的な要因をなす現実的な力です。社会的な運動や対立が自覚的な姿をとる1つの頂点が、国家権力をめぐる憲法論にある、といってもいいでしょう。

そこで学説は、(I)衆議院自身が解散決定できるとする自律的解散説(①)と、(Ⅱ)内閣に実質的解散権があるとする他律的解散説に分かれ、その根拠をめぐって、後者(Ⅱ)はさらに、7条説(②)、65条説(③)、議院内閣制等の制度全体を根拠とする制度説(④)に分かれる。また、解散は69条の場合に限定されるとする69条限定説(A説)と、69条以外の場合にも解散を認める69条非限定説(B説)に分かれ、前者(A説)では解散権の根拠として69条をあげることになる(69条説⑤)。これに対して、後者(B説)では69条以外に根拠を求めることが必要となるため、学説状況は錯綜していた……。(同上)

これらのうち、解散の根拠を7条に求める②の7条説は、厳密には、天皇の解散は形式的・儀礼的な表示行為に限定されるため、実質的決定権は「助言と承認」を通して内閣にあるとする7条説(a)と、7条三号の解散は本来政治的なものであるとしても天皇は拒否権をもたないため結局内閣の「助言と承認」に拘束されると解する7条説(b)(杉原・憲法Ⅱ290頁)に区別される。……とくに7条説(a)については、内閣の「助言と承認」は天皇の形式的・儀礼的解散宣示行為についての「助言と承認」となるためそこから実質的権限は導かれないとする批判が提示される(杉原・憲法Ⅱ291頁、樋口・憲法I315頁参照)。(475-476頁。)



実質的解散権をどこに求めるかで、

Ⅰ ①衆議院による自律解散説
Ⅱ 内閣による他律的解散説

があり、後者は、その根拠によって、

 ②7条説
 ③65条説
 ④制度説

に別れる。7条説に対しては、「内閣の「助言と承認」は天皇の形式的・儀礼的解散宣示行為についての「助言と承認」となるためそこから実質的権限は導かれないとする批判が提示される」(476頁)。

解散も、

A説 ⑤69条限定説 69条の場合に限定されるとする
B説 69条非限定説 69条以外の場合にも解散を認める

とがある。

実際の運用では、憲法施行当初は野党が69条限定説をとって非限定説をとる政府と鋭く対立したが、結局、69条による解散は、1948年12月23日(第二次吉田内閣)、1953年三月14日(第4次吉田内閣)、1980年五月19日(第二次大平内閣)で実施されたのみで、それ以外の解散はすべて7条三号に基づいて実施され、69条非限定説(B説)が定着している。……

……憲法の明文上の限界や、主権者の意思を常時反映させるための解散の民主的な機能を重視する必要があることからすれば、解散の現代的機能を前提とした現代的な制度説(④')を構築することも意味があろう。……

……ただし、内閣による解散権の濫用や恣意的な運用を制約する意味では、69条限定説が重要な意味をもつことも否定できず、この立場を再考することも今後の課題といえる。(476-477頁。行替え引用者)


7条解散の既成事実化を追認する形で学説も、69条非限定説が定着したということでしょうか。明文上の規定との矛盾を回避するために、解散を民意の問い直しとして説明する見方も出てきたのでしょう。

しかし何をもって民意とみなすのか。内閣による解散権乱用は制限されねばならないし、ましてや、首相に解散権があるかのようにみなすのも、どういうもんなんじゃ?

隣国や現場公務員を悪玉にして、動員される思考停止、また終戦記念日に動員され、選挙にも動員されるのか。その程度の成熟なのか、この社会は。
スローガンは空疎であるほど社会的錯覚を増長する。オウム返ししやすい台詞ほど世論操作に効果を発する。改革の「信念」とかさ。保守メディアがこんなクーデター的喜劇を讃えるのも皮肉なものだ。

もっとも、無知の大河が歴史の振子を大きく揺らすのであれば、こうした喜劇も、雑多な政治団体を、新自由主義、保守主義、社会民主主義、第三の道等に振り分ける作用を果す可能性がないともいいきれないけど。

樋口陽一・大須賀明編『日本国憲法資料集 第4版』(三省堂)みてみましょう。

解散権濫用を戒める保利前衆議院議長の遺稿「解散権について」(1973・7・11)
〔1979年2月に死去した保利茂前衆議院議長が、在任中の前年7月に大平首相(当時)周辺から流された衆院の解散説に反発、解散権のありかたについて見解をまとめていたことが、死後明らかになった。以下その要旨〕

……内閣に衆議院の解散権があるといっても、内閣の都合や判断で一方的に衆議院を解散できると考えるのは現行憲法の精神を理解していないもので、適当ではない。

……現行憲法下で内閲が勝手に助言と承認をすることによって、7条解散を行うことには問題がある。それは憲法の精神を歪(わい)曲するものだからである。

……“7条解散”は憲法上容認されるべきであるが、ただその発動は内閣の恣意によるものではなく、あくまで国会が混乱し、国政に重大な支障を与えるような場合に、立法府と行政府の関係を正常化するためのものでなければならない。“7条解散”の濫用(らんよう)は許されるべきではない。……(1979・3・21朝日新聞)(156-157頁)


7条は解散権の根拠としては曖昧すぎ、厳格に運用すれば69条が根拠になるはずだが、さしあたり、7条解散説を仮に認めるとしても、郵政法案の参院での否決が、解散を要する異常事態を、「国政に重大な支障を与えるような場合」を意味するのでしょうかね。あるいは、立法府による内閣不信任を意味するのでしょうかね。否決した参院は元のままでっせ。

郵政の陰に隠されたサラリーマンの負担増(定率減税廃止、所得税控除縮小等々)、分配の変更なのだから、重大な国民的議題ではないですか。共謀罪だって終ったわけではなく監視が必要。重要法案ほかにもいろいろあるし。

冷静になって考えてみましょうよ。ワンフレーズポリティックスの支配から脱却できるよう、単純な敵味方論で煽られないよう。

国家機関における最高の権威は理念的には立法権にあります。

行政は、立法としての国民の意思を執行する機関です。執行権力を抑制するための理念的枠組みが、立法権の至上性にあるとすれば、仮に立法権が国民から大きく独立化しずれてしまったばあい、この立法権の再構成をする権限はどこにあるのかといえば、国民にあるはずです。首相の権限は、そうだとするとどこに由来するのでしょうか。

執行権力が世論を僭称することは、専制の正統性を主張しないかぎりは、いや、そういう主張をしてさえ、正常な民主政体においては筋の通らない話でしょう。議会解散権の実質的な決定権が首相のものとして無制限に承認されているわけではありません。また、多数派である自民党自体がもともと郵政をめぐっては分裂していたわけです。

立法権の空洞化も、憲法の空洞化も、現実の巨大な進展を背景にしている現象でしょう。とすれば、こうした空洞化も、現実的な基盤があり、それをどう変えていくのかが問われます。こうした空洞化も、いわばその反作用として民主主義を深め、内容を充填していくのであり、民主主義の発展という新たな現実性に道を開く歴史の契機です。

民意の反映、解散権の意味と国際比較、など考えたいことたくさんあるのですが、とりあえず、感じたのは、今回の解散を「粛清解散」と規定するとすれば、これは、あたかも、株主から選出された経営者が株主総会の意向はけしからん!と株主をクビにするようなものではないか、ということです。


衆議院解散とは、憲法上の根拠をめぐっては、こんなふうに論争のある大問題!だということでした。

▽ また酔いに行きます。じゃあ。

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追記 8月12日午前2時

帰宅してから読み直したら、文章が少し酔っている。根本的に直すのは無理なので、ちょっと加筆・修正しました。

追記2 11時48分

「単純な敵味方論で煽られないよう」と上に書きましたが、けさ朝日などの大新聞の社説をみると、おおかた小泉支持的で、敵味方をハッキリさせるのが小泉の手法なのだと、大衆の思考停止を利用するスタイルに無批判でした。大衆の無知を扇動するスタイルに無批判でした。

古い自民党を解体するというイデオロギーにとっては手法は何でも許されるのでしょうか。イデオロギーの勢いの前には、冷静さもふきとばされて当然なのでしょうか。

(このイデオロギーの背景には、じっさいに自民党が分裂的だということがある。理念的にも市場主義と国家主義が手を組んだりケンカしてみたり。地域的利害や産業的利害を代弁する集金組織の集合体、雑多な利害を集中する装置、共同体的利害組織としても、分裂的です。高度成長に役立った同じ要因が、重荷に転化している現状は、他の分野と同じです)

これに比べると、今日の「日刊ゲンダイ」は「『否決されたら解散する』と脅していたのは野党ではなく自民党内の……身内だ」「後任される前議員だって『法案には反対だが、いま解散されるのは困るから賛成した』というヤカラがゾロゾロいた」と論じていました(2面)。

いくつかおもしろいコメントも掲載していたのでちょっと引用しておきます。(日刊ゲンダイは、個人のエッセーはたまに???というのが載るんですけどね)。

「自民党から反対票が出たことは総裁としての指導力のなさの結果で、……党議拘束を破ったというなら、自民党規約にのっとって党紀委員会にかけて処分すればいいことです。なのに参院で否決されると『国民に信を問う』と問題をすり替えた」(政治評論家・本澤二郎)。

「ハナから小泉首相は『法案修正には応じない』と突っぱね、必要な作業を一切放棄してきた。……首相は立法権を侵害し、議会政治を否定していることを自覚すべきです」(明大教授・山田朗)。


5面の高橋乗宣「日本経済一歩先の真相」も

「郵政をめぐる国民投票」という理屈は「冷静に判断すればムチャクチャな論理」で「解散」ではなく「内閣総辞職の場面」

だと述べ、

7面の黒木亮「国際金融裏読み&深読み」も、候補者が選挙費用を制限されている英国とは異なり、

「日本では選挙に莫大な金がかかる。それゆえ使った金を取り戻そうと政治が腐敗するのだ」と論じる。黒木はまた、英国における官僚と政治家の接触禁止をあげ、「日本のように政治家が役人を呼びつけてさまざまな要求をし、選挙民も、公共事業や補助金を地元にもってきてくれる政治家がよい政治家と思っている国とは格段の違いがある」

としています。

ケインズ主義などとイメージされる資本の国家は、日本において妥当するさいには、日本的・共同体的(一種アジア的)な土壌において育ってきました。

貨幣の権力は皮肉なことに、法治国家というよりもこうした共同体的な人治国家においてむしろ、あからさまかつ野蛮です。

偉い議員さんといえば、地域や産業から金を引き出し、役人を「呼びつけ」中央から見返りをもってくる政治家とみなされるような風土において、天下の回りものである貨幣がもつ公共性は、奇妙に特殊利害として渦を巻き無秩序に妥当するのでした。

そんな諸利害のごった煮が、自民党であったわけです。


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追記3 8月22日

▽ 他の国の憲法を調べてみましたが、首相の解散権を憲法で定めているのは、ドイツ連邦共和国基本法。やっぱり天皇の国事行為による解散はあいまいです。

第68条 (1) 自己に信任を表明すべきことを求める連邦総理大臣の動議が、連邦議会議員の過半数の同意を得られないときは、連邦大統領は、連邦総理大臣の提案に基づいて、21日以内に連邦議会を解散することができる。

ちなみに戦前のワイマール憲法では「ライヒ大統領は、ライヒ議会を解散することができる」と無限定的だったようです。 (樋口陽一・吉田善明編『解説 世界憲法集』三省堂・第4版2001年)。

▽ 付けくわえる点はないのですが、いくつかのブログを拝見して確認をひとつ。今回の解散劇はここに書いたように形式的にも問題のあるものであり、それを利用した小泉の行動は、形式上違法ではないとしても、少なくとも、内容的には、「国政に重大な支障を与えるような場合」ではないような出来事を、解散権行使の対象にすり替えたものです。形式的合法性だけではなく、内容上のすり替えこそ、内容上の正当性破綻こそ、冷静に見つめる必要があるかと。ファシスト的資質は合法的に貫徹されるのですから。
by kamiyam_y | 2005-08-11 19:40 | 民主主義と日本社会 | Trackback(5) | Comments(0)

言論封殺の暴力を許すな

ジャーナリストの山岡俊介が、7月3日の午前4時すぎに、自宅放火にあう事件が起きた。

自由な言論を封殺するための暴力は、人権と民主主義に対する最大の破壊行為だ。武富士取材も、カルト的団体の取材も、私たち一人一人にとって重要な公益性をもつ。自由な言論を死の恐怖によって封殺する試みは断じて許されない。生命を守ることは政府の義務である。言論を殺そうとする暴力がのさばることは、民主主義の根本的な破壊である。自由な個人の人権によって成り立ち、それを発展させる民主主義にとって、直接的な暴力による言論圧殺、暴力による卑劣な攻撃は絶対に許されてはならない。

ジャーナリズムの公益性を自覚して、社会のために取材し発表している山岡氏が、武富士取材では盗聴され、今回は放火である。映画鑑賞中という偶然がなければ、「暗殺」ではないか。


本紙・山岡自宅、早朝放火される。これは、言論に対する明らかな挑戦だ(from情報紙「ストレイ・ドッグ」(山岡俊介取材メモ))l
山岡さん方が放火!-山岡さんを勝手に応援します!!(情報流通促進計画 by ヤメ記者弁護士)
遅ればせながら、山岡さんを支援します(さしかえ)(from踊る新聞屋-。)
ジャーナリスト・山岡俊介氏宅放火(fromガ島通信)
スゴい人だー:山岡俊介氏リアル炎上(from猫手企画@新聞屋)
言論に対する暴力を止めるのは国家の責任だ(from5号館のつぶやき)
言論弾圧のテロリズム(from天河夢想)

「情報流通促進計画 by ヤメ記者弁護士」さんからのTBで事件の重大さ気づきました。

「踊る新聞屋-。」さんのリンク集とても役立ちました。

'あのジャーナリスト・山岡氏の自宅が放火される!' (from angle JAPAN)

参照したブログ、トラックバックさせていただきました。ご容赦のほどを。
by kamiyam_y | 2005-07-05 02:04 | 自由な個人の権利と国家 | Trackback(4) | Comments(0)

人権と監視社会化(1)

明快な基準もなく増え続ける監視カメラ。個人の映像を同意なく撮るカメラがルールもなく設置されている現状は、プライバシーや個人情報保護という権利の問題にとどまらず、私たちのつくってきた近代社会のありかたを再確認しながら、現代を考えるという大きな問題を提起しています。


1 監視機構の制御は民主主義のテーマ

監視カメラは、いまや一種の「権力」の装置といってよいでしょう。
それが私的防衛のためであろうと、公共的空間の監視であろうと、人々を管理し、人々の行動を抑制し、人々に対する公的団体の行動に利用されうるのだからです。

あらためていえば、近代社会において行為の正当性を判断する最上位のルールは、憲法です。「人権」を、社会的合意の唯一の基本原理として、権力の行為の正当性を判断する規範として承認し、人権主体である個人を権力の正当性根拠とする(主権在民)のが近代です。

監視システムが実態としてあらわれた権力のすがたであるとするならば、それはこうした原理にしたがって管理されなければなりません。
防犯の必要というあいまいな不安観念や、監視カメラ関連の売り上げが増大すること(犯罪の人類史的効果)を理由にして、近代の原理原則を捨て去るとしたら、愚行です。

私たちが成長する権利という近代社会の原則にてらして問を発することが重要です。監視テクノロジーの高度化が、既存のプライバシー保護の方式に収まらないかのようにみえるのならば、原理原則に立ちもどって検討しなければなりません。ほんとうに必要なのか、必要性と目的の明確化を議論すること、どのような基準で設置すべきか、目的外使用・乱用・誤用をチェックできるのか、など、正当性(理由や理念)と、運用・管理の智慧とルールを議論することが必要です。

「『民族』紛争の悲劇は、国家が強すぎるからではなく、社会契約の論理でとらえられたすがたでの国家――自然の所与(『大地と血』!)としての国家でなく、諸個人が契約によってとりむすんだ、人為の所産としてのものだったはずの国家――が弱すぎるから、ではないか」(樋口陽一『人権』三省堂、1996年、113頁。下線引用者)。


国家やら共同体やら会社やら何やらの実態的な力を、「社会契約」というフィクションによって規制するのが、近代の智慧です。権力とは人々を規制する社会的諸関係ですけれど、これを人々が制御するにはどうしたらいいのか。前近代だと人々は、土地やら道具やらと死ぬまで合体したままで、移動も職業も自由がなく、いわば権力のなかに埋もれたままです。近代は、個人を権力と切りはなして、「個人が権力の唯一の発生のもとだよ」という了解を普くひろめます。商品経済は人を私有財産の持主にして、自由な合意だけを人が従う権力にします。この状態をいわば民主主義の原始状態と考えると、資本主義という社会システムは、これに対して、これに収まらない経営者権力やら企業の権力、組織の力などなどをどんどんつくりだします。それが、諸個人による民主主義を「現代」民主主義という運動状態に発展させていくわけです。
警察や軍隊といった公共権力も同じです。こうした権力も、市民を根拠としてかれらの民主的管理の下にあるというタテマエをもっており、お上が「いいだろう」といって受け身の個人に(家父長的に)与えるものとして立てられているのではないにもかかわらず、実態として市民から独立し、かれらを抑圧する力としてあらわれてくるのですから。

奥平康宏は、日本では「市民的な自由との緊張関係を配慮して権力の限界を事前にきちんと明示するということがなかった」と述べています。権力の自己目的化を否定する智慧が蓄積されてこなかったといってもいいように思われます。

「奥平――……『権力』を、大目に、あいまいに残しておくことは……内務省に即して言うと、連綿と続く伝統的な手法であった。……目的がちゃんとはっきりしていて、『それはこういう目的です』と示し、かつそれに適合的な手段という、『目的達成に必要な最小限度規制手段』という原則が、今においても確立していないと思う」(奥平康宏・宮台真司『憲法対論』平凡社、2002年、90-91頁)。


権力をグレーゾーンにおいたままにすることが、予算拡大など権力の自己維持の手法なのです。権力がたとえば道徳の占有者として現われるという転倒と、自己保存がうむ腐敗。「権力の限界」を明示せず、その恣意的な運用が権力の自己増殖と腐敗を生む。自由な人民の主権(「憲法」)という正当性根拠を自覚しない権力は自己保存運動として腐敗する。

引用文に述べられているのは、日本的なものにおける権力のありようです。個人の解放を民衆による徹底した闘いの結果として共通の記憶としてはもたないためでしょうか、日本では、その市民社会の懐が浅いというか、成熟度の低いというか、公共性が無自覚な善意や、「お上」の意向としてあらわれるといえます。

くわえて、高度な資本主義社会に共通する問題ですが、テクノロジーの進展が、自由の拡大と、人権の抑圧とをないまぜにしてすすむことです。テクノロジーによる人権抑圧は、テクノロジーそのものの問題ではなく、テクノロジーの資本主義的なすがたにあります。監視システムとは資本のすがたのことです。

まさにこうした大きな問題の系列なかで「監視」問題も発生しています。


2 監視カメラ:北海道新聞特集「あなた見られてます 監視と安全のはざまで」によせて

北海道新聞(北海道新聞社ホームページ)で「あなた見られてます 監視と安全のはざまで」という特集がくまれていて、その第1部「カメラ」が4月20日から5回、まとめの記事が4月30日に掲載されていました。

参照   「監視」と「安全」:札幌から ニュースの現場で考えること

ひと月前の記事になりますが、とても面白く考えさせられるところ多しです。

以下同特集のうち「カメラ社会」、カメラによる「労務管理」、「街頭カメラ」について、覚書を記しておきます。


2-1 権力の乱用を防げるか

まず、第1部のまとめの記事(2005年4月30日土曜日、北海道新聞・朝刊8頁)から、私にとって興味深かった点のうちから5点ほどあげ、手がかりとしてみましょう。

第1に、行政の対応にばらつきがあること。「道管理のカメラに運用ルールをつくる必要はない」といいきっている道に比べ、運用要領によって、管理責任者・連絡先明記を義務づけている静岡県のほうが問題に自覚的です。

第2に、民間営利団体によるビデオ録画の警察への提供について。記事によれば、三月の名古屋高裁の判決で、コンビニでの撮影・録画は、店と関係のない事件のために警察に記録提供されたばあい「防犯目的に含まれるとみることはできず、肖像権やプライバシーの侵害が問題になる」と指摘されたとのこと。北海道のコンビニ「セイコーマート」は、記録の外部提供について、内規に従い任意要請を断ることもありうると説明しているそうです。

第3に、商店街振興組合など民間カメラの実態がまったく明らかにされていないこと。
民間のカメラ設置者が、もし公共的な利益を担っているのだと自認するのなら、きちんと憲法や法律にてらして根拠を示し、情報公開と公開的な議論に参加すべきとおもわれます。そうでないと「善意でしていることだから黙っていろ」という態度にもみえます。これでは、言葉は悪いですけど、「秘密警察」みたいですね。密かに撮影していて、それを警察に提供することもありうるのですから。

昨年度教えた学生が数人、商店街に取材に行き、監視カメラ設置についてレポートを書いてくれましたけど、それによると設置者は問題の所在がどうもわかっていないようでした。

民間による監視カメラは、それ自体は盗撮カメラと変わりません。公共的な目的のもとに設置されるのであれば、ルールづくりの議論が必要です。それを不要と見なし、「犯罪防止」というたてまえ以外しめせないようなカメラ設置こそ問題です。

第4に、対照的に、カメラ設置を秘密にしていない会社もあること。札幌市都市開発公社はモニター室の取材に応じたそうで、「数十メートル先の女性が手にした雑誌の文字まで映し出すほどの性能に驚いたが、それを『公開』する姿勢は評価すべき」と述べられています。こんな高精度だからこそ、情報公開する姿勢が重要です。

第5に、「政府に反対する人の監視に使われないか」という危惧。上智大の田島泰彦のコメントです。当然こういう監視にも使われているでしょう第4回によればNシステム(自動車ナンバー自動読取り機)が、裏金づくりを抗議していた元警部補を監視するのにつかわれたという証言も。

「監視の強化に対して、どれほど効率性の向上という目的が正当性を与えても、それ以外の欲望が同時に一役買っている。…[中略]…監視の新システムの設計やその実装において、倫理的検討や民主的参加はあるのだろうか。そのプロセスは不透明なまま、かつての秘密主義的な官僚政治的刊行がいまだに機能しているのだろうか」(デイヴィッド・ライアン『9・11以降の監視』田島泰彦監修・清水知子訳、明石書店、2004年、256頁)


防犯や効率といったあいまいな大義のうらで、市民をいわば分断し、監視する欲望が実態としてあるのであって、これをおさえる人民の権利(民主主義的な管理)こそが、監視を監視する民主主義的参加こそが、求められていることの本体でしょう。効率性という正当性の背後にある欲望も明示されず、倫理を制度化する民主主義的な智慧づくりがされているのでしょうか。

以上5点あげましたが、問題は「現代」の大きな文脈の中にあるとかんがえます。個人の人権に疎遠な、外在的な形で出現した公共性、人々の人権を無視してあらわれた公共的なもの(註1)、人権外在的な公共性の出現に対して、人々がそれを、人権内在的な公共性(市民社会の論理で制御される権力、民主主義的な管理におかれた共同性)に転換する試みを強制される。「監視」もこういう現代の流れのなかでおきている問題だと思います。人権から公共性を切りはなして、人権よりも全体利益を、という態度は、実態としてあらわれた公共的な権力(個人を抑圧する権力肥大や、市民社会と対立する企業権力・経営者権力、民間監視システムから、世界市場まで)を、民主的な手続と情報公開とルール化、管理責任の明確化、等々によって制御していく道を閉ざすでしょう。そういう全体利益とは諸個人から浮き上がった威力なんですから。

「我々がもっとも注意しなければいけないことは、利便性という隠れ蓑に潜んで広がる監視のインフラ整備であり、現実の恐怖を前にして、なしくずし的に積み重ねられる監視の既成事実である」(江下雅之『監視カメラ社会』講談社、2004年、35頁)。

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註1 特に日本では公共性が人権抑制の論理として一人歩きする点は、国連から勧告まで受けている。「市民的及び政治的権利に関する国際規約(B規約)人権委員会 第64回会期 規約第40条に基づき日本から提出された報告の検討 B規約人権委員会の最終見解 日本」に言う。

8 委員会は、「公共の福祉」に基づき規約上の権利に付し得る制限に対する懸念を再度表明する。この概念は、曖昧、無制限で、規約上可能な範囲を超えた制限を可能とし得る。前回の見解に引き続いて、委員会は、再度、締約国に対し、国内法を規約に合致させるよう強く勧告する。


なお、同22では日本の「起訴前拘留」が、同25では「刑事裁判における多数の有罪判決が自白に基づくものであるという事実」が、人権侵害的なものとして問題とされている。植草さんの事件は日本社会のいわば構造的腐敗の露出にほかならない。
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つぎに、民間企業による従業員監視と街頭カメラについてみてみます。
by kamiyam_y | 2005-05-29 21:52 | 自由な個人の権利と国家 | Trackback(1) | Comments(0)

株主カメラ

今回の株式争奪をめぐり、日経新聞では「会社とは何か」という連載が始っています。その「第1部 大買収時代を生きる」の1「社員はヒトかモノか」という記事(3月25日)が、こんなふうに言ってました。ちょっとおもしろいです。

「『会社』が揺れている。ライブドアとニッポン放送の攻防劇がきっかけだ。株主のために利潤を追求する装置、社員に生活の糧を提供する共同体、そして社会の公器。」

「『資本市場では社員は単なるモノなのか……』」

「自らを社員といい、会社の一部と信じていたのは幻想だった……。今回の買収劇で多くのサラリーマンが単純な事実に気づいた。」

ここで私の秘密兵器、社会関係カメラをとりだしましょう。これは、複雑な現実から、特定の社会関係だけをみえるようにするカメラです。このカメラのレンズは、「私有財産のもちぬしの視線」「自然に働きかけモノをつくる労働のまなざし」「カネの視線」というような種類があります。それを装着すると、みえなかった流れがくっきりとみえてきます。

たとえば、「日本的会社」というフィルターをこのカメラにつけてながめてみます。そうすると、会社は、「社員に生活の糧を提供する共同体」としてくっきりみえます。

このカメラが見逃さないのは、日本の会社の古いしきたりです。「ウチの娘を御社で躾けてください」「はい、大切に預からせていただきます」なんて会話もとらえてしまいます(そんな会話ほんとにあるか知りませんけど)。娘の就職は、大名どうしの政略結婚みたいなもの。

ところがこのフィルターではよく写らなかった波が会社をおそいます。
マネーゲームという波です。別のフィルター「資本市場」で見てみましょう。それを通して見ると、会社はただのモノです。働くヒトの共同体なんてみえません。原料や道具に混じって、労働力もモノでしかなく、ただのコストです。
ニッポン放送の従業員は、自分たちを、フジ・サンケイグループの「社員」だと思っていたら、そうじゃなかった。ニッポン放送がフジテレビからソフトバンクの系列の手に渡っても、ニッポン放送従業員は蚊帳の外。

フィルターを替えるのは面倒です。万能の自動モードないんでしょうか。あります。「労働」に即するカメラです。現実の分裂を生み出しているものをとらえるカメラです。

ここでは、株主のカメラにこの分裂が写ってくるという話をしてみます。半分以上冗談ですからテキトーに読んでください。

株主マナザシのカメラからすると、株主があつまって経営者を選ぶ。利益は株主の配当になる。経営者の独自の意思も、会社の独自の行動もありません。主人公は私たちだけ。こうなります。サラリーマンはただの交換相手です。お金を渡す代わりに労働をもらう約束相手にすぎません。

つぎに、このマナザシで、実際に商品をつくり売る流れをみます。そうするとまさに、会社は株主のモノで、労働者のモノではない、こういう約束事しか、ここではみえません。

しかも、もっと絞ってみると、会社は、自分たちのカネで、労働力を、ほかのモノと同じように買ってきて、自分たちの意思のもとに使います。できたものは、私たち会社のつくったもの。

当然、サラリーマンの意思はこの過程の外です。かれらは、会社でつくりだしたものが自分たちの血と涙の結晶であることをわかっていても、それを自分たちで協同で管理することができません。会社は株主のものなのだから。

できた商品は、かけた費用を超える剰余価値(労働の産物)を含んでいます。そうじゃなきゃ企業も経済も成長しません。でも、剰余価値は労働者のものではなく、ぜんぶ会社のものです。

ところがです。株主を見てみましょう。株主の集団である会社と、労働者とは対等のはずでした。しかし、株主はなんにも頭も体も動かさないのに、配当を得ています。えっ、たんす預金もできたはずのものをわざわざ危険にさらしたんだから、分け前よこせって?でも、分け前をよこせというこの理屈からは、剰余価値である配当そのものは生まれません。株主はサラリーマンに払った以上のものを得ています。株主カメラでも剰余価値がみえちゃうんでした。

さらにところがです。株主は会社の肥大のなかでじゃまになってきます。配当よこせという株主の声もかき消されます。それどころじゃないですよ、他社も設備投資どんどん増やしてるんだから、待ってくださいよ。経営者は会社の内部留保に精を出し、利益も追加投資に回され、株主の意見もあってもなくてもいいのものになっていきます。ここでは株主カメラから見ると、会社は自分たちのものなのに、自分たちが閉め出されている、株主でもない経営陣のもとにある生産・流通からは、自分たちは完全に切り離されている。株主は自分たちの疎外を知ります。

しかし、経営者を見ても、彼は会社のもちぬしではありません。

ということは、会社は誰にも帰属しない、モノではない市民たち(株主も市民)の社会の要素なんだ、ということになります。会社経済の公共性をみとめざるをえません。

公共的なものには公共的なルール作りが必要です。
先の連載第3回(3月27日)では、証券市場のルール整備の遅れが、犯罪性資金に活躍の場を与える危険性が指摘されています。「外資系企業が制度のすきをつくくらいならばまだいい」と。
規制はいけない、市場に任せよ、というとんちんかんな話ではないのです。
by kamiyam_y | 2005-04-01 19:14 | 資本主義System(資本論) | Trackback | Comments(0)

サービス残業は、概念的にドロボーとおなじ

Excite エキサイト : 社会ニュース [ 03月24日 17時23分 ] 共同通信

サービス残業をさせ、割増賃金を払わなかった疑で、会社の幹部が労基法違反で書類送検という事件。

「サービス残業」なんて言い方、あたかも無報酬の奉仕活動みたいですね。
実態は賃金不払。だれもがわかる搾取・収奪のたぐいです。労働者が、いやいややってもよろこんでやっても、賃金泥棒にかわりありません。

厚労大臣がいったようにちゃんと「賃金不払残業」ってハッキリ言いましょう。

もし、ある日いっせいに「サービス残業」やーめた、と働く者がみんなやめたら機能停止になる会社ばかりではないのでしょうか。

これで会社が、取引先に納品できず、商品を供給できなくなったとしてもそれは「会社」の責任です。サラリーマンは単に労働力をレンタルしてるだけです。それを時間内で使えるかどうかは、会社の仕事なんですから。会社を代表する経営者の責任です。経営者の下で独自に行われる時間配分は、サラリーマン一般の責任ではない。
時間内で、買ってきた材料(労働力、原料、道具)をうまく組み合わせて、生産物をつくれるかどうかは、生産者である「会社」の仕事である。

「サービス残業」をやめて業務が滞るなら、責任は「経営」にある。

また、いっせいに「サービス残業」やめたら機能停止になる会社ばかりだとしたら、一体だれがこんな体制をつくりあげてきたのでしょうか(さらに、「だれ」という問題から一歩進んで考えるべきなのですけど)。

日本的な仕事習慣や雇用慣行は、私有財産制っぽくない。それはそれなりの美点もあれば、強さもあったといえましょう。
まったくもって、労働者がこの「サービス」をやめたら企業が崩壊するなら、企業はすべて労働者のものですね。

日本的な経営は、資本主義の日本における成熟において意味をもっていたわけですが、反面で賃金不払残業という泥棒を、負の遺産として蔓延させてしまったこともたしかです。

賃金不払残業……は、労働基準法に違反する、あってはならないものである。……
 しかしながら、現状をみると、未だ労働時間の把握に係る自己申告制……の不適正な運用など使用者が適正に労働時間を管理していないことを原因とする割増賃金の不払いなどの状況もみられるところである。(厚労省「賃金不払残業総合対策要綱 」2003.5.23)


労働時間の長時間化傾向も、地域によってちがった現れ方をする

日本的経営の特徴として、いろんな場所でいろんな作業を従業員にやらせてみるというのがあります。これはこれでいい面もあるわけですが、どこの部署に行っても、特定技術系以外はみんな素人ばかり、っていう生産性の低さもあるような気がします。契約社会でないあいまいさはいい面もあるけれど、残業に関していえば、ヨーロッパとの違いは知っておいた方がいいと思います。

たとえば欧州ですと、労働者は他の労働者の職域に踏み込まない。電気工に、機械工の道具の片付けを命じると拒否されるという(藤本正『労働契約・就業規則・労働協約』学習の友社、36-37頁)。

ドイツでは労基署の抜き打ち検査もあり、労働時間を短くする工夫がされているという報告はたとえば、熊谷徹「ドイツの会社生活」NHKドイツ語会話 2003年1月号

労働者が私有財産制を武器に

労働者は、私有財産の持ち主としては、会社と対等です。会社に、労働力というモノを、時間決めで貸し出してるわけです。レンタルの条件は普通の人は守ります。CDだって、車だって、遅れたら延滞料金払うはず。壊したら弁償するはず。

労働力も同じです。洗濯機をレンタルで借りるとして、いっぺんに5キロまでしか洗濯してはいけないのに、毎日8キロ洗濯していて、標準耐久時間より早く壊したら、カネはたくさん払わなきゃならないでしょう。一日8時間使うと普通にもつ労働力を1日16時間使うのは不当です。

賃金不払残業は、どろぼうです。レンタル商品をただで使っているのですから。


賃金未払残業は、近代社会の根幹を否定している

封建社会ですと、土地は王様のもの。王様は家来に土地を保有させ、家来はその家来やら領主に保有させる。農民は、土地から移動できず、領主のための労働を行う。

これに対して、人々が法的に自由になった近代社会では、誰もが私有財産の持主。土地を売るのも自由。自由に自分たちの労働の成果を商品交換しあう。こんな近代社会の原像からすれば、泥棒こそは、個人間の契約という自由の承認を否定すること。賃金不払分業は、近代社会の根幹と対立する。

しかし、資本主義の重要な法則の一つが「長時間労働の法則」である。
いま勝手に名づけただけですけど、個々の資本家は、自分の買った労働力は長く使いたい。それが壊れたって、代わりは買ってくればいい。

これに対して、労働者は、労働力の売り手としてこれを正常に使わせる権利があります。

両者の力比べの決着は、共同体(社会の理性)の登場です。つまり、8時間労働法というような法律によって、搾取の自由を制限する、あるいは、生産過程を制御することになります。

この法律は個々の資本家や会社や経営者を縛ります。
これがないと、経営者が「ウチは競争上、ほかの会社よりたくさん働いてもらう、
それがおまえらのためだ」といった説教をたれる世界になってしまいます。

こうした全体的な規制があるために、個々の会社にとってはこれが守るべき競争条件になります。守らない会社は取り締まりの対象になります。

しかし、この規制が全体の規制になっていなければ、一部の経営者が守るだけとなって、
守らない経営者が得をすることになります。つまり、規制を守らせる体制が必要となります。


労働力を売り買いするときの契約

すごく単純化してみると、日本は個人間の契約より共同体的な雰囲気が根強く、労働力のレンタルもなんかあいまいかもしれません。
これに対して欧米は私有財産権をもっと強く意識している、あるいは契約社会で契約が明快だとしましょう。とすれば、労働力のレンタルの契約も、「時間」「使い道」はっきりしていることになります。

「時間」を厳格に守るなら、着替えも休息もこのレンタル時間に入っており、レンタル時間を越えたら、労働者はすぐに職場から出るはずです。机の上が片付いていなくても、ねじを締める途中でも、労働者は時間契約をまもり、午後5時に会社の門を出るのです。

これに対して日本だと、労働者は仕事と一体化しているというか、時間になっても職場にいたりします。労働者が自分の無能がいけないんだと、残業を自分のせいにして心を病んだり、家族のためであれ、デートであれ、プライベートを大事にする人が、職場共同体の集団主義から攻撃を受けたりするかもしれません。日本の場合、「時間」単位で労務提供しているというよりも、自分に与えられた「仕事」をぜんぶこなさなきゃ、という意識が強いと思われます。

労働力の「使い道」を守るとは、契約外の労働をしないことです。たとえば、フォークリフト操作の女性が女性だからとホステス業務やウェイトレス業務をしないということ(お茶くみしないということ)。あるいは、手が空いたからといって、ほかの職種の作業員の片付けの手伝いをしたりしないことです。

これは、労働者が自分の意思で労働するのではなく、あくまでも会社という私有財産の持ち主の意思によって仕事することでもあります。

もちろん、ほかの労働者の尊厳を守るということ、職域を侵さないということでもあります。

生産の全体の管理や、納品は組立工の仕事じゃありません。

これに対して、日本だと、上司の指示に従うだけの従業員はやる気がないなんていわれるかもしれません。経営的な労働も、経営的な労働用につくられた労働力を買ってきてさせるのではなく、従業員共同体のなかから選出された人がしたりします。ほかの職種をしていた素人さんが年功で管理労働をおこなったりします。

日本だと、残業に対して、割増賃金を払うどころか、
「仕事があるんだからよかっただろう」
とお仕着せがましく、店長がどんどん店員の労働時間を延ばしてしまうことすら
(別にどこぞのコンビニの話じゃないです)。

日本だと、あまりに残業が一般化しているうえに、共同体的な雰囲気で、自分だけ抜けられない、という残業を断りづらくなる心理が働くでしょうし。

ある観光バスの会社では、ガイドさんから、休日を買うそうです。労働法上どうかと思いますが、休日一日2万円だそうです。これに給与が別にでるらしく、運転手よりガイドのほうが給料がいいばあいもあるんだと。しかし、給与がいいってのは、たいていとてもハードか、なんらかのリスクが高い職種にかぎられるでしょう。

「所定内労働」でのまっとうな給与を地道に要求するしかないんです。

残業しないと生活できないのは、賃金が切り下げられて、残業をあわせた時間が
実質の労働時間になってしまっているからです。

仕事が楽しい、職場に忠誠心を感じる、自分の成長のためだ、といった理由で
長時間労働も苦にならない人もいます。
しかし、こういう事実が、「所定外労働」を正当化する根拠になるわけではありません。

私はカネのために働いているのではない、人が喜べばいいのだ。
こうかんがえて、あえてカネにならないところに自分の力を集中することもあるでしょう。
しかし、会社はまずさしあったてはカネのために働くところです。カネのためではないなどと主張するのは犯罪的に迷惑です。資本主義企業は、カネと労働力の交換によってなりたつ場です。

賃金不払残業を自らサラリーマンがすることは、盗みに協力することです。

そうではない、自分の自由な気持ちからしているのだ、会社のために。
こういう気持ちをもつ人もいましょうが、これは自分の労働を安売りしています。
自分の仕事に対する誇りと敬意を欠いてしまうことにもなりかねません。

全く当たり前の権利でさえ、主張するのがはばかられたり、
賃金不払残業を当たり前のように思ってしまう。こういう日本の現状に対して、

けっこう大学生ですとそこらへんは賃金不払残業はおかしい、許せないと言うのですが、
実際に日本的雇用慣行のなかにはまって生活に追われている人は、
現状を変えていく気力もないのかもしれません。ともかく生活の糧を得られればよしとなってしまうはず。残業を断りづらい環境のなかで断るのは勇気もいるかもしれません。もう少し挑発的な言い方をすると、仕事をこなして組織の犯罪にいったん目をつぶらせることでメンバーを抜けられないようにする、告発する勇気をにぶらせるのは、軍隊やヤクザだけでなく、普通の会社もそうなのかもしれませんよ。

これはサラリーマン個人の問題ではありません。個人の疎外の結果であるシステムをどうするかです。少なくとも、日本の労働組合も、企業も政府もそれぞれ責任があるでしょう。

しかし、ともかく、人間としての豊かさはやはり自由時間をもつことが条件です。

そのためには、労働者が、生産の材料や道具にたいして、自分たちのものにたいするかたちでかかわることが必要です。働く者は自分のものによって自分の意思で働くときやはり生き生きとする。しかし、小土地所有者の社会だったら、生産が発展しない。資本家の手で生産を集中して発展する。しかし、それは働く者にとっては疎外なんです。

ともかく自由時間は人間の豊かさの泉です。

仕事が自己表現や自己実現とぴったり重なっているのでないとしたら、仕事のせいで友人とすごすこともできず、自分のすきなこともできず、恋人とすごすこともできないんじゃ、何のために生きているんですか。
体をこわしてまでしなきゃいけない仕事がそんなにあるわけはなく、またそういう特別な能力の持ち主もそんなにいるわけじゃありません。
自分が必要とされているという幻想を得たいがために仕事にしがみつくとしたら、おばかさん、
悲しいですよ。

でも、労働者の自由意思が限定されいるのが資本主義です。労働者の立場は実質的に弱い。特にこんな不況でしたら、仕事にしがみつかねばならなくなる。

だからこそ、賃金労働者は、対等の権利を会社に対して主張し、それを支援できる政策的な道具(労働法や労基署など)を使う正当な権利を持っています。

また企業内組合ではなく、企業を超えた労働組合が、労基署と協力して、残業に対して抜き打ち立ち入り検査をする権限をもつといった方法も考えられます。組織擁護よりも、市民として内部告発をできるよう制度を充実させること、市民の法律教育も大切です。

余談。労働時間を短縮すれば、サマータイムなんて導入しなくても(したら労働時間延長になるだけ)、消費にまわす時間は一応増えるし、ワークシェアリングにもなりまっせ。週35時間の成熟した社会に比べ、週60時間以上の日本はほんとどれだけ世界に貢献しているんでしょう。貢献してないとしたら、どこかで無駄に消費されてるんでしょう、労働の産物が。
前近代的な就労形態といえば、学校の教師ですね。
ドイツみたいに、午前中は授業、午後は次の日の授業の準備、というのが正しいです。
事務作業は別の職種に任せるべき。
学校の外でも生徒の家庭に踏み込んでいくドラマに出てくる教師たちって、正しい労働者じゃありません。


労働者が私有財産を武器にすると労働者も規律を要求される

賃金不払残業を窃盗として拒否することは、労働者が私有財産権を武器にして自分の生活を豊かにすることです。権利主体としての正しい行為です。

そもそも残業は会社が労働者に例外としてお願いするもんです。

しかしこれは労働者自身を鍛えることにもなります。
だって、昼間はのんべんだらりとサボっていながら、夕方あたりから仕事を始めて、残業手当をたくさんもらう連中いるでしょうから。そういうやつらは、残業解消に抵抗するかもしれないです。権利を主張するのはけしからんとか言い出すかもしれません。

私有財産制を厳密に守るということは、会社を「男の風呂場」だなどと言っているサラリーマンを追い出すことでもあります。先ほどの「時間」でいえば、契約時間をすぎているのに、サラリーマンが机を使ったら、不当な使用ですし、他人の私有地内に居座っていることになります。

私有財産制を守るってことは、ちょっとややこしいことも招きます。パソコンとインターネットの普及は、サラリーマンに会社の備品をあたかも自分のものかのように感じさせるでしょう。知的労働者は遊びが好きです。仕事中の気分転換にネットで遊ぶでしょう。

ところが、私有財産権からすれば、社内メールの抜き打ち検査で50人クビ、という米国の会社でおきていることも、程度はどうであれ、ありえます。会社の備品の消しゴムを私用に使ったら窃盗です。会社のパソコンと通信網を、仕事と関係のないことにつかったら、ややきつい言い方をすると、やはり他人のカネを横領するのと同じ。会社のパソコンは会社のものというこの関係からしたら、社内メールのプライバシー保護より、不正使用ということになるよう。

ニューヨーク・タイムズ社:電子メールの不正使用で23人を解雇 | Wired News


厚生労働省のつぎの文書、いいですよ。賃金不払残業をやめさせる立派な正当性にもなります。

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賃金不払残業総合対策要綱について
(平成15年5月23日)
(基発第0523003号)
(各都道府県労働局長あて厚生労働省労働基準局長通知)
(公印省略)

……

(別紙1)
賃金不払残業総合対策要綱
1 趣旨
賃金不払残業(所定労働時間外に労働時間の一部又は全部に対して所定の賃金又は割増賃金を支払うことなく労働を行わせること。以下同じ。)は、労働基準法に違反する、あってはならないものであり、その解消を図るために、「労働時間の適正な把握のために使用者が講ずべき措置に関する基準について」(平成13年4月6日付け基発第339号。以下「労働時間適正把握基準」という。)を発出し、使用者に適正に労働時間を管理する責務があることを改めて明らかにするとともに、労働時間の適正な把握のために使用者が講ずべき措置等を具体的に示したところであり、厚生労働省としても、その遵守徹底に努めてきたところである。
しかしながら、現状をみると、未だ労働時間の把握に係る自己申告制(労働者が自己の労働時間を自主的に申告することにより労働時間を把握するもの。以下同じ。)の不適正な運用など使用者が適正に労働時間を管理していないことを原因とする割増賃金の不払いなどの状況もみられるところである。……
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堀忠雄『快適睡眠のすすめ』〈岩波新書〉岩波書店、2000年を読んでいたら、昼寝の有用性について考えさせられました。建築関係の職場では安全管理として昼寝がとりいれられているように、昼寝が仕事を全うするのに必要な場合もあるといいます。また、本書では、それから夜型も立派な体質だとあって、自信を回復しました。朝ほんと弱いんです。それもあって「サマータイム」導入反対です。

寝る間を惜しむことを賛美するのは、不合理な根性主義です。

万国の労働者よ、昼寝せよ。

あ、それから、人材派遣会社のバイトのことで質問してきた学生さん、もうしわけないんですが、法律も労組も、自分で調べられること自分で調べておいてくださいな。派遣は派遣会社と契約した労働条件で働きます。労組もあります。
by kamiyam_y | 2005-03-31 00:02 | 企業の力と労働する諸個人 | Trackback | Comments(0)

公共性の分裂:道警・フジ・ライブドア

道警への確認監査やり直し 3月中の取りまとめ延期 :共同通信03月18日 17時25分

裏金問題、道警が虚偽文書を強要 複数の現職警官に 監査妨害か :北海道新聞2005/03/18(金)

 道警による補足調査の過程で、受け取ってもいないのに旅費を受け取ったとするウソの文書にサインするよう道警が現職警察官に強要していたそうだ。もしほんとうなら文書偽造、公金横領、立派な犯罪行為。

 《組織》が犯罪主体として立ちあらわれるのは、オウムや、企業犯罪だけではない。警察もそうなのだ。個人を抑圧する権力を解体するという近代の課題が現代の課題としてあらわれている。戦前の警察や江戸時代の代官やら奉行とはちがって、いちおう今の警察は民主国家の民主警察というタテマエにある。だからこそ、この権力を諸個人に開くことが現実の課題であり続けている。

 「およそ官庁という公費を扱う組織はみな同じである」「仮に一度でも偽造領収書を作成したり、ヤミ手当的に裏金の分配を受けたりしたことのある者を全員事件として立脚したら、警視庁職員の大半が逮捕されてしまう」(大内顕『警視庁裏ガネ担当』講談社、2002年)。

 単なる警察トップのモラルの問題ではない。モラルを堕落させる組織のありようが問題なのである。また、警察だけではなく、公金吸収・利権吸収システムは日本村の公権力のさまざまな部分につくられている。警察はその非公開性において別格だが、日本の社会のもつある負の遺産を象徴している。
 道警の裏金問題は、北海道新聞がじつによく調べたと感心する。

「道新--……警察の場合、一握りの高級幹部のみが美味しい思いをして、そのために圧倒的多数の警察官や警察職員に、書類偽造などをさせています。これら『上納』と『私的流用』の構造を明確に表に出さない限り、警察の改革はありえません」(北海道新聞取材班・大谷昭弘・宮崎学『警察幹部を逮捕せよ』旬報社、2004年。

 『世界』3月号特集「警察はどうなってしまったのか」では、元道警の原田宏二さんへのインタビューや、道新の佐藤一さんの「警察といかに向き合うか」と犯罪学者浜井浩一による「『治安悪化』と刑事政策の転換」といった興味深い論考が寄せられている。浜井の議論では、暴力によって殺害された者が長期的には減少傾向にあること、暴力によって殺害された児童も減少していること、暴力犯罪認知件数の増加が被害の増加ではなく通報率の上昇によることなどが論じられている。不安感と信仰に依存した警察権力の増大に対して冷静な議論をしなければならないことをあらためて確認した。

道警問題では、そのほか、自殺者まで出した道警警部による覚醒剤・拳銃事件である稲葉事件のルポも参考になる。曽我部司『北海道警察の冷たい夏』 講談社文庫 。織川隆『北海道警察 日本で一番悪い奴ら』 講談社。

 警察報道に頼っているためか裏金問題に消極的な全国紙とは対照的な道新の取材をみると、フジ・サンケイグループとライブドアとの株式争奪戦のなかで主張されるメディアの公共性なるものもそらぞらしくきこえなくもない。
 日刊サッポロ3月19日号からの孫引きで申し訳ないが、『アエラ』2月21日号ではホリエモンはこういっているという。「『新しい教科書』をつくったりしても世の中変わりませんよ」「あのグループのオピニオンは異色でしょ。……もっと芸能エンタメ系を強化した方がいい。ボクだったら……ボクら世代の愛読誌である……『SPA !』。そういうのを合わせてエンタメ系の強力な新聞・出版社にしたい」。

 団塊の世代や新人類・オタク世代、アエラ読者を意識して発言しているのかもしれない。フジ・サンケイグループの国粋主義的で対米追随的なオピニオン部門がホリエモンはきらいなようだ。

ホリエモンに対する批判として、「外資によってメディアが支配されるのは好ましくない」「メディアは公共的なものだからカネの力で支配されてはならない」「ホリエモンは巨額の不労所得を右から左に流してそこから富を得る賭博師である」「フジを買う大金はもっとほんとうに困っている人たちのために使うべきだ」「ホリエモンはラジオもテレビも好きではないし、理念もない。こんな奴に愛すべきメディアをわたしたくない」「ホリエモンが放送局を指揮できるわけない」「ホリエモンは金の亡者で下品である」「外資に乗っ取られたらフジ・サンケイグループの社員もリストラでやる気が失せつまらん番組が増える」「合法的だとしても倫理が欠如している」「経済といっても人間の世界なのだからカネだけでうまくいくわけない。人の気持ちを無視してはいけない。取引っていうのは人間関係が大事なんだ」といった主張がある。ライブドアが乗っ取るとニッポン放送の企業価値が下がるという森本卓郎の主張もわかる気がする。

 カネをもつ自由と生産の世界とが、あるいは交換価値の抽象的な請求権の市場と局地的な共同的なものとが、個人と組織とが、伝統と野蛮とが、シャッフルされることで熱を得ているのが近代だとイメージすれば、こういう一筋にまとまらない文脈で事件がおきている以上、人々の反応もぶつかりあう泡沫のように多様だ。そしてこうした批判には十分な正当性があるといってよい。
 定着した企業体は、顧客や地域、従業員や取引先、その他さまざまのプレーヤーのエネルギーを集めていく装置として安定的に作用しているのだから、突然外から金の力で大きな転換を強要されたらそれは大変な話だ。ものすごい不安を招くだろう。

 今朝テレビをつけたら、爆笑問題が司会してる「サンジャポ」で、デーブ・スペクターが、LBOは企業が築いた文化を破壊する、アメリカでは非倫理的と批判されている、自分は株主でもあるが、株主のためというのは働かない者のためということだ、株でもうけようとするのは働かないで稼ごうとすることだ、最低だ、社会の寄生虫だ、という趣旨を熱く語っていた(先週も堀江批判に回っていたっけ)。マネーゲームが崇拝される風潮に腹を立てているのかもしれない。これは単に株式投資に対する倫理的批判というよりは、株式会社というシステムそのものが示す資本主義の亀裂である。マルクスが、【株式には剰余価値が裸になって示されている】ということを述べたのも、この亀裂を指している。

 しかしここでもう少し反対の方向から考えてみよう。
 ホリエモンに支配されることが可能なら、すでに誰かが支配しているのである。あるいは、カネの力で支配されてはならないのなら、フジ・サンケイグループはもともとカネの力で財界の肝いりでつくられたんじゃないのか。
 誰が支配しようとも、むしろメディアの複合的な独占体の存在自体が問題なのではないか。
 経済を攪乱するようなマネーゲームを批判する意識は重要である。しかし、マネーゲームとは資金配分につきものであり、そもそも産業自体がマネーの増殖という原理によってたてられているのが資本主義である。

 とすれば、ホリエモン的行動は資本主義そのものではないのか。資本主義の日本的共同体的な形成体に対して、もっと資本主義へ。これがホリエモンの行動であり、私たちに示しているものではないのか。もっと資本主義へ。これが私たちに多くのことを考えさせる。それはけっして、White Knightだの、Pac Manだの、Crown Jewel売却だの支配権争奪・企業防衛のへんてこりんな言葉の数々がお茶の間にながれこんでいることだけではない。

 ホリエモンという存在は、単に会社乗っ取りの方法論や、法律論や、メディアの公共性に光を当ててるだけではない。ホリエモンの行動は本人の意識とは別に、いわば逆説的に、企業の連続体のうちに存在する人々の公共的な富を自覚させてしまう。どう公共的なルールを構築するのか。会社は誰のものか。会社はモノであるけど、モノではない。会社は株主のものか。会社の連続体のうちにあるのは、社会的労働の結晶という人々の生活基盤だ。古くて新しいが、本質的で、巨大な問題が、ホリエモン騒動のなかみではないか。

 労働者の生みだした富の請求権が、彼等の預かることのできない圏域で再分配されている。だれが会社の持主になろうとも誰かがなれば確実に労働者は搾取される。だからといってホリエモンがフジを乗っ取ったならましになるという保証など全くないが。

 ホリエモンを巨大組織に戦いを挑む個人とみなす物語には、ホリエモンは果たして巨大組織ではないのか、大企業体制のなかで呼吸しベンチャーしているのではないのか、冷静に考えてみる必要がある。逆に、市場整備の官庁の責任や、これまでも株式持ち合いによる企業集団経営を問わずに、「ネクタイしないガキが生意気な」という反応は、事の本質を結局は人の好き嫌いの問題に解消し、共同体的なシステムの解体過程から目を背けさせるだけだろう。
 政府の広告を無批判に垂れ流すメディア独占体と、カネを基準に動く外国金融資本とどちらが日本社会にとってより好ましいのだろうか。自由な言論にとって、働く人々にとってどちらがましなんだろうか。いささか大ざっぱすぎる問いの立て方ではあるけど。
 もしフジとライブドアがともに一般大衆に向かって「俺たちのほうにに金を貸してくれ」と頼むのなら、どうするだろう。どっちのプレゼンが魅力的だろうか。フジテレビはすでにわかっている。ライブドアは未知である。たぶん私はライブドアだろうな。特異なイデオロギーをふりまく部分を切って捨て「SPA!」を強化する路線のほうに一票を投じてみたいからだ。排外主義的な共同体幻想(国家主義)よりカネの亡者(?)のほうが進歩的だからだ。これまた大ざっぱな対比だけど。フジ・サンケイグループ全体が国粋主義なわけじゃないですからね。

そういえば、堀江氏の『100億稼ぐ仕事術』(ソフトバンクパブリッシング)買って読んだんだが、今手元にないんで触れられないけど、これ2003年の出版なんですね。

 それからメディアの公共性というなら、「人権擁護法案」におけるメディア規制の危険性や、憲法問題のほうが大きいでしょう。
竹山徹朗氏のメールマガジン「PUBLICITY」(パブリシティー) (登録申込先:http://www.emaga.com/info/7777.html、E-mail:freespeech21@yahoo.co.jp、blog:http://takeyama.jugem.cc/)1122号がつぎのように言うとおり、堀江騒動も重大事から関心をそらす機能を果たしている。

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それは、お察しのとおり、この買収合戦報道によって、たとえば「憲法改正国民投票法案」(今国会提出予定。日本ペンクラブが白紙撤回を求める声明を発表)のトンデモぶりも、NHKに対する政治圧力の問題(NHKの予算成立前だったから、その点で、やっぱり圧力がかかったとみるべきだろう)も、内部告発の価値も、“結果的に”不問に付されてしまうことだ。
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 以下は一週間くらい前に書いたメモを「ですます」調になおしたもの。とりあえず出しときます。細かい具体的な話はいろいろネットで見てください。ここでは抽象的に見えても、【意味】だけ思考実験してます。

ライブドアという拡大鏡1:物神崇拝

 やんごとなきことあって先週実家によったらば、ばあさんがライブドア堀江社長のことを口を極めて蔑み、ののしっておりました。フジテレビとライブドアによるニッポン放送株争奪戦もばあさんの話題にまでなっているようです。NHKに対する政治介入より、こっちのほうが面白いらしい。なんだかなあ。堀江社長の自信過剰ぶりに通俗さ、人間理解の浅さを感じるのはいいけどさ。

 まあ、ホリエモンという個性を取りはらって冷静に事態をみれば、彼もシステムのなかを泳ぐ一個人にすぎないことがわかります。

 「カネで買えないものはない」という思想を仮にですけど、ホリエモン的な思想とすれば、また仮にですが、ともかくカネの力で事業を買い取ってもうけようとする行動を、敵対的M&Aを平気で行う行動をホリエモン的行動とすれば、それって、資本主義社会のなかでどこにでもころがっているものでしょう。
 あるいは、金儲けを、個人の才能と努力の産物と思いこむのも資本主義のなかにはびこっているただのオカルト。こんなオカルトを唾棄するために経済学はあるんですよ。ホリエモンとは単に資本主義というシステムをマンガにして見せている人格なんです。いいじゃないですか、単純で。
 自分の行動のいやな部分を拡大してくれている存在に、人は嫌悪感を感じるようですが、自分もホリエモンも、そしてフジの日枝ださんも、同じ精神を呼吸している我々の連続体なんですよ。この連続体のうちの一人の個人の現実性が実在するんですよ。

 どんなにカネが嫌いで愛を叫ぶ人でも、ある限定された局面では、ホリエモン同様「カネがすべて」という物神崇拝(『資本論』第1章)的なふるまいをせざるをえません。
 また同様に、ホリエモンとて、カネですべてが買えるという思想を貫き通すことなんてありえません。彼は、先々週だかの『週刊ポスト』のインタビューで「一日八時間は寝る、うまいもの食って寝たいだけ寝なければ何のために生きてるかわからない」という趣旨のことを語ってました。とてもいい発言だと思いますが、これってカネの自己目的化の否定でしょう。「信じられるのはカネだけ」とおもっている多くの人々だって、結局カネというかたちの「社会関係」を信じているわけですし。

 もちろん、物づくりではなく、他人のカネを右から左に流してカネを太らすやりかたを「不労所得」的なものとして批判する意識も正当です。しかし、これは別に堀江に独自なふるまいでは全くない。

ライドドアという拡大鏡2:企業体を社会がどうてなづけるのか

システムの深刻な亀裂

 所有者が自分のカネで労働者を雇って自分で監督やらカネ勘定やら判子押しやらの労働をするよりか、所有者たちのカネを一カ所に集中して、専門的な経営労働者に任せてそれを増やさせる方が、資本主義の競争のなかでは強い。だから、株式会社というのが定着するわけです。株主と経営者という二階級制によって「交換価値」の自己肥大化(資本蓄積)をうながすわけですな。
 株式会社は民間のなかの近代民主国家みたいなもんでした。理想としては、株主が集まる株主総会は、最高の機関としての国会。国会が「経営者」を選びます。株主は、利潤を自分たちのものとして分け合う権利と、この国会で議決する権利をもちます。
 でも株主は所詮は浮気者。会社の存続にとっては入れ替わってもよい存在です。ですから、彼等のもつ権利の証書、つまり株券が、売り買いされることになります。

 で、株主民主主義という理想を守れる人はあんまりいません。株式が投機の対象となり(つまり会社が売買される商品となり)、株主の議決権が、経営者が自分を続投させるための道具や、会社が会社をコントロールするための道具、合併吸収のための道具、でしかなくなってしまう、これが現実です。競争のなかでは株主はいらない、こうなります。特に日本では株主なんて、従業員は意識しません。アメリカだって個人の株主資本主義なんて叫んでますけど、株主民主主義なんて理想実在してるわけじゃないです。だからこそSECの監視も厳しく、企業の社会的責任論が強調されてるんですからね。
 まあ、今の国会と内閣・官僚の関係と同じですよね。私たちの一票ではなく、貨幣の権力が、執行権力が偉くなっちゃうんですから。下僕のはずの人たちが何であんな偉そうに広告してるんでしょうかね。
 株主民主主義は企業に対する歯止めです。

 でも同時に、株主のものという関係性は、経済は諸個人の公共性だという実態を画面上から消そうとする権力です。
 株主主権とはだれもがウソとわかっている虚構です。じっさいは、これまた虚構めいて聞えますけど、会社という関係性が生きた人間を支配する物象化された世界です。この歪みのなかに、働く人たちが交換価値の蓄積というかたちで、労働の社会的呼吸体を発展させています。株式会社の死に体のうちに、マルクスは未来の種を発見したといってもいい。

 会社経済では、公共権力が事実上存在している。しかし、そのくせ、これは、市民一人一人のコントロールが及ばない。公共権力が経営者権力というすがたをとっている。法律も株主の力も及ばないなら、経営者の「倫理」がこの公共性を制御するキーワードだ。まあ、今背後にある文脈はこんなかんじです。

フジテレビという権力

 で、堀江氏がニッポン放送という会社を買ってフジテレビまで傘下におさめようとするのも、株主の権利を道具として使っているわけです。しかしこのことが同時に、株主一人一人をかけがえのないものと考える土俵の崩壊でもあるんです。細かい話は解説がいくらでもありますから省略しますが、たとえば、ライブドアに資金を用意したリーマン・ブラザーズは、ライブドアの株価が下がるほど得します。ライブドアの一般株主には困ったことですね。

 もちろん、ニッポン放送がフジテレビを引受先に新株予約権を大量に発行するというフジテレビ側の奇襲は無限に経営者権力の保身のための手段です。司法の判断は妥当です。フジには外資と闘う使命があるのかな。さすが国家主義。
 ライブドアを排除するためだけの「発行済み株式2.4倍化」なんて、いくら自民党がフジを応援したとしても、司法が認めるとは考えにくい。経営者の自己保身のための株式発行を許すなんて、世界資本主義のスタンダードからはずれますからね。
 一般株主は訴訟という手もあるけれど、やっぱり迫害され続けるといっていい。少数株主の権利が尊重されていないこの点を問題視しているのは、日経新聞2月27日「経済解説」の末村篤「『裏技』欧州の買収合戦」。
 笑えるのは、『週刊プレイボーイ』3月15日号に「ホリエモンを総理大臣に」という記事。「政官財をあげての」「ホリエモン包囲網」に対して堀江を擁護し、「ホリエモン叩き」の1つ1つの論拠に反論しています。堀江に批判的な論調としては『週刊ポスト』3月25日号「堀江vs日枝『疑惑の土俵際』」が面白かった。『週刊ポスト』3月11日号で高木勝が「株主の平等性、公平性に反する」とこのニッポン放送の乗っ取り防止策を批判しているのも当然のことと思いました。

ライドドアという拡大鏡3:企業の公共性

公共性の分裂

 フジテレビがそんなに公共的な存在だったとは知らなかったという人も多いでしょう。若造がメディアを支配するのかとこわがるのなら、もともと誰かが支配していたというほかはなく、フジテレビが公共的だというなら、ライブドアが大株主になったって公共的なのです。問題は公共性のあり方でしょう。そのうえで、ライブドアが支配株主になると非公共化されるのかですけど。私が考えたってまあ勝手に進行しちゃうんですけど。

 グループ(経営者権力)維持のためのタテマエとして働くフジテレビの公共性なるものと、メディアという公共物を投機家に握らせ、外資に握らせるかもしれない市場の公共性とを比べてみましょう。フジの公共性には建前だけじゃない実質が確かにあります。それはしかし、ライブドアが支配すると消失するものなのかはわかりません。
 グローバル市場に開かれている分だけ、ライブドアの行動の方が愚かしくもまた進歩的にみえるのですが、どうでしょうか。進歩というのは現実の悲惨をさらけだしてしまうことで私たちに考えさせるという皮肉な意味も込めて言ってますけど。
 こんな週刊誌ネタも、レーニンが述べたようにギャンブラーを利するまでに社会的労働の果実がもたらされている事態そのもの、進歩という悲喜劇そのものではないか、と感じた次第です。

企業の社会的責任

 共同通信によるインタビュー(2月28日)によれば(北海道新聞3月1日)堀江はこう語っています、「投資家にとって邪道かどうかは関係ない。ずるいと言われても合法だったら許される。倫理観は時代で変わるから……」と。

 さっき述べた経営者権力という権力を倫理観で規制する限界をついているとおもいます。倫理は実態をかくす隠れ蓑にもなります。「企業統治」のありかたを企業が自ら問い、企業の自主ルールが、いわば従うべき標準となっていく流れは、確かに進歩ですが、法律的規制をいわば避けるというその空洞に、堀江氏は入っていくわけです。
 「倫理」に対しては堀江氏的な利己主義も、資本主義の正常な分泌物です。個人の利己心を保障しながらそれを社会的に有効にするのが、倫理より市場、そして法律だとするならば、ともかく合法ならいい、制度設計は自分の仕事ではない、自分は金儲けするだけだ、金儲けが市場によって社会的に有意義になるんだ、という主張は1つの権利でしょう。もちろんこの主張だけでは完結しないのが現代であり、この主張では企業の実質的に公共的なルールづくりができないのが現代です。金銭的インセンティブでうごく受動的な個人で終わらないのが現代だし、社会に対して積極的に権利主体として関わる個人へと個人を鍛える必要があるのが現代だからです。
by kamiyam_y | 2005-03-20 19:46 | 自由な個人の権利と国家 | Trackback(4) | Comments(2)