さっぽろ地下鉄のなかでマルクスを呼吸する、世界を呼吸する

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televisionのglobalな一有用性

新年数時間すぎました。おめでとうございます。

最近居酒屋のカウンターに座ってのこと。

食事を終えて帰ろうとする若いカップルが、調理中少し手の空いた料理人に、カメラを向けてます。板さんがにっこりすると「かわいい」。

東京から来た若者の旅行かと思っていたんですが、あとでこの板さんが教えてくれたところでは、「台湾からのお客さん」だったとのこと。

「日本語はテレビを見ておぼえたそうですよ。すごいですね」

好きこそものの上手なれ、か。

労働は犠牲なりとするスミスや、負効用とする需給論は、歴史的に規定された資本主義的労働の形態を労働の永遠不滅の本質と取り違えており、労働を生きた総体から切り離された一領域として見るだけで、労働から社会を介して多様に展開する人間性の本質をとらえることができない。労働は人間の人間的生命発現であり、それ自体歓びをもたらす欲求実現であって、学ぶという活動ももちろん同様。

労働が剰余価値の生産・蓄積の手段に転じ、非労働時間も豊かさの尺度ではなく蓄積の外で蓄積に従属する一分肢におとしめられている現在、人間の生命欲求としての学びも労働力売買・剰余価値生産の手段となって疎外されますが、同時に学びはそれ自体、現在の社会を狭隘な制約とみなす普遍的個人の形成であり、社会変革の要因であって、労働における人間的解放に先行して、矛盾する労働する個人における自覚的・主体的モメントをなすのであります。

自己の生命欲求の実現として生き生きと、社会的自由を実現する主体として、普遍的世界人として、積極的にともに学ばんと思います。
by kamiyam_y | 2013-01-01 01:48 | 学問一般

マルクスの未来社会:大谷禎之介『マルクスのアソシエーション論』によせて(2)

こうして労働する諸個人において資本のシステムは自己を批判する意識です。資本のシステムの真相を諸個人は見抜く。革命的です。内奥から遊離した表層があってそれが内奥を隠す表層という2世界の棲み分けが永続して資本が永続する、というようにはならない。資本による物神崇拝の不断の完成は、物神崇拝の不断の突破でしかない。労働する諸個人はまさに現システム止揚の、意識する担い手となっていく。未来社会を孕み産みおとすのは資本のシステムそのものなのです。

対立的な形で未来社会を潜在的に産出しつづけその自己を解体するのは資本主義そのものなのです。未来社会は資本のシステムにおいて産まれ、資本のシステムをその狭隘な外皮として突破するまでに成長します。諸個人がその産出を担い旧システムは眠り込む。

資本のシステムの秘密を諸個人はそのシステムの展開のうちに見抜く。

資本主義はますます社会を解体し人間を堕落させ窒息させて終り、なのではありません。そうした悲観物語は理論的にはさきの対象把握と理想の二元論の1つの帰結にすぎません。変革への悲観論というものは、個人の振る舞いとしては、他者にケチをつけて優位に立ちたいコンプレックスを隠しもっているとか、自己の劣化に気づかなくことなく出しゃばって人の足を引っ張るインテリの自己確認であったりとか。理論的には二元論。資本主義美化論の裏返し。

「現存社会主義」はそんなこと言ったって社会主義で、市場を導入しつつ資本主義国に反対しているじゃないか。公有・計画から、新たなシステム、社会主義市場経済に方向転換したじゃないか。そう思う人もいるかもしれません。「現存社会主義」の諸国は「市場」を導入しながら、資本主義からの離脱を果たしつつある、あるいはより発展した社会主義へと進歩しつつある。どうなんでしょうかねえ、そういう考えは。

確認しておけばもちろん、高度な資本主義であれ、途上国であれ、「現存社会主義」であれ、世界の諸個人の変革のチャレンジ、努力、熱意、工夫は有機的に結びあい、理論はそれを鼓舞する批判的営為であります。そのうえで、「市場」について簡単な指摘だけしておきましょう。

商品は、総体的に発展すれば、価格変動と流通によって、生産手段と労働力を配分するシステムです。商品のシステムは、交換価値による総労働の規制という物象的な生産関係のシステムです。直接には私的諸労働に参入する諸個人に対して、かれらから独立しかれらを翻弄する社会的力の運動が商品のシステムです。

このシステムはその中身が資本のシステムとなることで生きています。資本とは大量商品でありかつ大量貨幣であり、瞬時に両契機に移行している運動。それは労働力という商品によって価値増殖実現しますが、それも労働力がたえず生産物(生産手段・生活手段)・対象的諸条件から分離し、これら生産物がたえず資本の商品形態として存在しているからです。現在の商品大量は、疎外された労働、賃労働によって不断に息を吹きこまれ運動している資本のシステムの自己形態以外のなにものでもありません。労働する諸個人は労働の実現諸条件から分離しており、この分離を資本の再生産がたえず再生産することによって、商品のシステムも全面的となり生きています。

資本の商品生産物の市場価格の変動を介して、利潤を介して、競争する諸資本の相互関係において、資本の社会的配分が実現し、生産手段と労動力の配分が規制されます。全面的な商品流通である市場は、諸資本がおりなすシステムの自己形態です。生産手段と労働力の社会的配分は、価格の運動に屈折した諸資本の運動によって物象的に、非人格的に実現しています。

というように(舌足らずですけどまあ)、「市場」の根源的把握は、資本の理解、商品と資本の理解につきるというわけですね。

現代の把握に内在する未来社会論について世界的運動の一分子となりたく考えてみました。

さて、本書は、現在のシステムが孕む《胎児》がどのようなものであり、それがどのような成人になろうとしているのか、マルクスの全テキスト群から詳細に引用を行い立証しマルクスのアソシエーション論を摘出しようとする労作です。

で、先日著者の大谷氏をお招きして合評会を開催しました。多くの質問が出され有意義な研究会がもてたと思います。著者からなされた貴重なリプライのなかから、1つだけ記しておきましょう。

それは、modernという言葉についてです。次のような趣旨のご説明でした(どのような質問に対してなされたのかは省略)。

マルクスは「モダン・モデルン」をよく使うが、そこでどういうことを考えていたのか。既訳ではこれが「近代」と訳され、それでは落ち着かないところだけ「現代」とされている。しかしマルクスは「modernなブルジョア社会」という表現において「現代」という意味でこれを使っているし、『資本論』第1部第25章「modernな植民理論」もそうである。

モダンは「近代」と読まれることが多い。日本史ではあるところから「近代」から「現代」になる。ウィキペディアでも現代の前の時代を、古代、中世に続く「近代」としている。

このような「現代」の前の「近代」という意味で読むことは、資本主義そのものが変る、と考えることである。マルクス経済学では従来、国家独占資本主義、グローバル資本主義などと論じられてきたが、それは「いつから」という議論なのであった。

これに対して、マルクスは「最もmodern」とはいうが、modernのあとには区切らない。

modernは、「近代化」「ポストモダン」というようにもちいられる「近代」ではない。

一定の社会的生産有機体がたえず生きているかぎり、たえず「現代」なのである。現代をmodernというならそれはマルクスのmodernなのである。

こういう内容のご発言だったのですが、面白く思いました。

「近代」と理解したばあい、「現代」がそれに対するものとして想定されています。この理解が資本主義の時間的輪切りという形をとったのが資本主義の前後2「段階論」であり、これはマルクスの資本主義空間を私たちの資本主義空間から切断する役割をするどく果します。マルクス経済学が理論において現状肯定に陥ってしまうというどうしようもなく皮肉な理論的迷走。

こうした「現代」は「近代」の「最も」発展した姿ではなく、「近代」の後に来る「現代」という抽象物なのであります。資本主義の段階変化論は、資本主義という社会的生産有機体が定義する時間を無視して、恣意的に主観が区切っているだけ。資本主義はその自己再生産によって同一の生命的循環であり、かつ発展しますが、この発展が否定的な自己実現であり、有限な性格を露呈します。発展は「段階」じゃあないのですね。

大学生の頃、マルクス経済学のテキストでよく「国家独占資本主義段階における~~」という枕詞が出てきたのですが、うそくさいと思ってました。マルクスを読んでも彼はそういう問題の立て方をまったくしていないので。

資本主義を前後に二分する。そうすると、こんどは後半部分を二分割する。2分の1→4分の1→8分の1。まったくもってわけがわからなくなりますね。

19世紀の理論、20世紀の理論、21世紀の理論。これまた20世紀後半の理論、21世紀初頭の理論、とつくりたくなってしまう。

これでは理論は、生きた存在の根っこから切り離された事実を無批判に後追いをして説明する虚しい行為。それがあるからある、という確信。非実践的なオウム返し。

そもそも理論ってつくるもんじゃないです。

こういう抽象的知の悪循環に気づかずに素朴に「段階」が語られるばあい、セットとして、「現実」なるものが素朴にまた便利な言葉として持ちだされたりします。「理論」は座して行う空想で、自分にとって見たい、またはたまたま見た事実に立脚して「現実」と称した抽象をふりかざすというように。そうした研究大家的そぶりの背後には、ある「事実」を選ぶユニークな思考の持主たることを自慢する卑しい動機が潜伏しているようにすら思われます。

そうした非実践的、観想的態度に対して、実践的・革命的・批判的なのは、一定の社会的生産有機体をたえず再生産している1事実、すなわち現在の本質的矛盾においてたえず諸個人が行っている労働、これにもとづいて把握することです。本書が立脚点として強調するのも「労働にもとづく社会把握」なのでした。(完)
by kamiyam_y | 2012-06-26 07:30 | 資本主義System(資本論) | Trackback

マルクスの未来社会:大谷禎之介『マルクスのアソシエーション論』によせて(1)

久々に風邪ひいただす。疲れてるのに中島公園の祭りに行ってそのあと家で眠るときにも、気温が上がってきてるので風邪ひかねえよおれは、とおもって油断してたら、翌朝鼻の奥が乾いて倦怠感に襲われました。でも経験上マスクして暮せば治る程度のものだと感知しそのとおり、もう治った(かな)。明日からは北海道も雨で寒いらしいじゃないですか。台風4号のせいらしく。

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マルクスに学びその未来社会論をつかむことは、生きた現代世界そのものの、私たちの人類そのものの、私の本質そのものの巨大な運動です。その微細な1分子たらんとして、マルクス的把握において未来社会論がまさに現代社会の把握にほかならないことを少し考えてみます。

なによりもまずマルクスの知的苦闘の対象は、今現在のシステムなのであります。

現在が未来を限定する。これは労働の実践的ありかたの1つの発現であり、巨大な変革のうねりも労働の発展です。

マルクスのこの格闘、現在のシステム把握は、その総括において大きく人類史を示します。それが「否定の否定」の構図。

疎外という産出過程をその頂点にまで高めるのが現在であり、そこでは、諸個人がその個別的自己から普遍的な自己(自然・社会)を分裂させ、その疎遠な力のもとに包摂されて、この普遍的な環境をつくりだしています。全面的に飛躍的に、エネルギッシュに。

自然から産まれおちた人類は、形成途上のシステムとして、自然発生的に、疎外された普遍性の能動化を介してまとまっている。生産する諸個人は自己に疎遠に対象を生みだす。生産の対立性が人間の諸力を、社会を形づくる。この過渡的ありかたを完成しているのが現在です。

現在という矛盾の運動は、それが止揚した、生まれたばかりの人類の起点を普個の直接的な一体性として私たちに想起させ、未来を指向してはその自己否定的自己存立において、現在を止揚した人類社会を示します。マルクスが論じるのはあくまでも現在のシステムにほかならず、未来社会も、現在のシステムがその大枠を規定している総体の性格においてのみ述べられています。マルクスはこの点厳格に禁欲的。

マルクスが記述する資本主義後の社会は、対象認識とされたものの外部に接ぎ木された単なる「理想」なんてものではありません。彼の理論的格闘は、理論から価値観やイデオロギーを分断・二元化して主張する態度を徹頭徹尾退けています。

マルクスの未来社会記述は、未来システムの具体的諸分肢、具体的諸形態を描く夢想ではありません。現在の資本主義から離脱した資本主義後の具体的な諸関係は、新たな社会的生産が限定していくもの。その限定において自由とでもいいましょうか。可能性を閉じるようなことはしない。マルクスは未来社会の具体図を、現在の自己(生きた総体)の徹底という以外に細かく描くようなことは一切しないんですね。それをしたら、実践的認識から分離した夢や願いに等しいものになってしまいますから。

社会的生産有機体としての生きた社会システムが、その根源の労働のありかたを変え、新たな有機体へと転化するとき、その有機体の諸器官・諸姿態は、古い社会から受けついだものの転換だったり、新たに生みだされたものだったりします。多様な諸関係をその姿態にしていきます。未来社会の具体的な諸姿態もまた、新たな総体の性格のなかで総体が受け入れていくもの。現在のシステムの通過点性をマルクスが論じていることを論じているのに、未来社会の細かい具体図がないことをもって批判した気分になる、そういう態度もよくみられますが、それって実際は自分の空想性を他者に反映させているだけなんですよ。

あくまでも資本主義の否定性においてのみ未来社会・「社会主義」はとらえられるのであって、この否定性において私たちは資本主義が対立的にその内部に実体的に産出する人類・未来社会を透視することができる。

資本という分裂した自己において対立的に社会的生産過程が世界的交通において成立し、諸個人が社会的・世界的な諸個人として成長していくという巨大な進歩を、マルクスは資本主義のなかからつかみだして離しません。この壮大な発展・成長の歩みは、まさに資本主義をも自らの限界として突破していくような動的な産出にほかなりません。

現在のシステムである資本主義、これこそが唯一の理論的把握の対象であり、この把握こそが、未来社会をとらえる尺度となりえます。またこれが「現存社会主義」を把握する尺度でもあります。現存社会主義を社会主義と定義してそれに付随する「事実」を集め理論をつくりましょう、という話では断じてありえません。それは恣意的な観点が陥る非実践的な堂々巡りでしかない。

このシステムの運動は、人類史の疎外をまとめあげつつ完成した人類社会を産出するという、独自の強い意味での過渡的秩序をおりなしています。生きた矛盾のシステムの完成態であるがゆえに現在のシステムは、その内在的矛盾の止揚である未来社会の形態化を指し示します。新社会の産み落としという未来を明示します。現システムを超え出る新社会の出産を指示します。

未来社会の受胎、出産をマルクスが記述するのは、現代という矛盾のシステムに即してです。

彼のテキストにおいて、未来社会を表す用語は、社会主義、共産主義、社会的生産とかもありますけど、その多くが「アソシエーション」とそれに近い用語です。いろんな訳語があるために、同じ用語であることがわかりにくいのですが、「アソシエーション」です。自由な諸個人のアソシエーションです。えっ、生産手段の社会主義的所有じゃないの?社会主義国家の計画経済とか、共産主義の人民的所有とかじゃないの?これだけでも私たちの俗物的な常識は正しく転倒されてしまいましょう。

大谷禎之介『マルクスのアソシエーション論-未来社会は資本主義のなかに見えている-』(桜井書店、2011年)http://www.sakurai-shoten.com/content/books/074/bookdetail.shtml

本書はマルクスのテキスト群から、恣意的な抜き出しや訳語の当て方を避け、丁寧に彼が未来社会をどのように呼び、それがなぜなのかを論じています。

個人から分離した全体の力ではなく、あくまでも主体は個人。アソシエーションのふつうの用法にもそれはあります。会社や協会、連合とか。個人を飲み込む自然発生的共同性ではなく、個人の意識的・自覚的行動が生む共同性です。

資本主義の否定を成し遂げて社会的生産過程を自己のものとして制御するのは、自ら意識的に結びあう「アソーシエイトした」労働する諸個人。

諸個人が「アソーシエイト」して生産過程を制御することによって再建されるのが、「個人的所有」のもとに潜在していた個性の自由な発展。新社会が復興するのはまさに個人の発展です。

諸個人は私的労働を止揚して、生産関係を人格的・協同的に媒介し、個別的自己の力を1つの社会的力として意識的・自覚的に支出する。諸個人は賃労働を止揚し、労働の実現諸条件との分離を止揚して、それらを自己のものとします。自己から自立し他者化した自己の普遍性に包摂されるのではなく、諸個人がその普遍性の対象化を自己に包摂する。社会システムの真の根源的実体である自然=個人が生き生きとした主役となります。

「現存社会主義」なるものをみれば、いうまでもなくアソシエーションは実現していませんわな。そこでは、諸個人は疎外された労働を行い、諸個人から独立した力が「国有化」「計画」という名称のもとに、諸個人の疎外された労働を吸収し、それを覆いかくすシステムが成立していたというほかない。

資本主義的生産は、その歴史的任務である生産諸力の発展を世界市場の展開において遂行し、その文明化傾向を貫いて、諸個人を世界史的諸個人に転化し、労働する諸個人を社会的に鍛えあげます。資本の社会的生産の本体は諸個人の社会的生産であり、資本の生産力の本体は諸個人の社会的労働の生産力である。このことを資本のシステムは露出します。資本は、資本のものである社会的生産を、直接には他者においてある社会的生産を、われらの社会的生産と見抜くような意識を生みだす。資本の自己増殖そのものが、諸個人の社会的生産を阻害するもの、諸個人の発展を阻害するものとして現れており、資本のシステムは、自らの限界を露わにし諸個人にそれを自覚させるのです。対立を通して諸個人は自らの社会的諸力の奪還に向う覚醒した主体に転化するのです。(もう一回続く)
by kamiyam_y | 2012-06-20 00:40 | 資本主義System(資本論) | Trackback | Comments(0)

現代憲法の可能性

城南信用金庫、やっぱりおもしれーだす。自治体首長の脱原発会議。

http://bit.ly/Kkqstq

さて、憲法諸学説はまったく参照することなくただ思うに。

君主ではなく人民を国家の主体と宣言する人民主権、個人が生れながらにもつと想定される人権が公権力を規制すること、国家の争いを超える平和主義。このように表象される憲法の原理もまた、個人の労働と労働全体の媒介である経済の要素であるといえようか。

諸憲法の個性は存立しながら、近代憲法は資本のシステムの要素として、ある必然的な範囲のなかに意味をもってたえず再生産されている。

個人の労働という労働全体の要素を、労働全体から切り離されたものとして登場させる。それが商品生産である。

個人の労働と労働全体を媒介する前資本主義的な共同体が消失し、全面的な商品生産としての資本主義では、個人が全体から切り離されて現れる。

しかし個人という要素がそれだけで存在することはなく、要素を契機とする全体は、商品交換が実現していく。

全体は商品を原理とする。要素である個人は商品を内面化した全体の要素である。

個人は交換において、互いの交換物を目的としあい、相手も自分も物の手段におとしめている。交換に登場する個人は商品のいわば個人化である。

この個人の間で成立する社会は、原子による自覚的な共同性、すなわち契約的なものを中身とするものでなければならない。市民社会は商品を私的所持する個人の相互承認から拡がってくる。市民的個人は商品流通という社会的分業にその出生の秘密を有している。

封建制社会では社会的分業は、商品流通という物象的な形態ではなく、直接に共同的な掟の形態を取っていた。封建領主の行動原理の内容は土地所有であり、彼に支配される農奴の労働は、農奴という生産関係、封建制的諸関係において行われ、この諸関係を再生産してきた。土地という本源的自然の経済的形態、土地所有への個人の従属によって、社会的分業が実現してきた。共同体的掟による職業の規制、身分制による規制として、個人の労働の社会的労働への転換の封建制的形態をつかむことができる。個人はここでは全体に埋もれた存在であり、その手足である。

これに対して、資本主義では、社会的分業は商品によって規制され、商品は資本として自己を再生産する。資本の前提は、生産手段をもたない労働者が労働力を売り、全生産物が商品化することである。資本主義では、社会的分業、経済は労働力の売買により媒介され、その売買は商品所持者の相互承認、労働者と資本家との契約を手段とする。

資本の自己再生産という経済は、労働力の売買を手段とする目的であり、近代憲法を職業選択の自由に象徴させれば、それは労働力の売買のための手段として必然的となっているといえよう。労働全体の媒介の現実は、労働力の売買を手段とする資本にある。近代憲法は資本蓄積の不可欠の自己形態である。

しかし、資本に根ざして生まれでて経済から剥がれて現れる自由な法的個人、人民主権を担う個人は、資本自身を批判するモメントに転化する。

原生的な共同体を破壊する商品流通の普遍化、資本の文明化作用の意義なしに、変革はありえない。原生的共同体に依拠することはできない。人権主体としての自由な個人という形態を武器とすることなしに、地球経済として展開する資本を批判する生活の防衛も人間の防衛もありえないように思う。地球規模で深化する社会的生産過程を制御しうるのは自由な個人の民主主義(人権/憲法原理)の徹底以外にありえない。

現代憲法とは、個人が全体の犠牲となる経済の実態を批判する武器にまで、個人の人権と媒介されない裸の物象的世界を批判する武器にまで自身を鍛えあげ発展させざるをえない社会関係である。その線上で自身の限界を突破し、自身を支えていた土台をその限界を超出するように導く社会関係である。労働する諸個人の人権が資本を規制し、資本の規制は資本をその静かな、また決定的な眠りこみへと導引し全体化する。公権力の規制にとどまらず、私的諸資本という事実上の公共性を自由な労働する諸個人が制御すること。地球経済を協同制御すること。個別的労働と社会的労働の物象的媒介を人格的媒介へと、物象を原理とする経済による人間支配を人間を原理とする経済へと転換すること、現代世界をその真相の実現へと超出させる運動は、憲法的個人とよびうる自由な個人を梃とする。自由な個人は、資本の権力を導く単なる売買者というような孤立した抽象物にとどまらず、内面的充実、対象を包摂する鍛えあげを資本によって強いられる。協同する能力は原生的共同体の一員としてではなく、自由な人格を通して社会的労働を行う個人として鍛錬される。

(革命記念日に寄せて)
by kamiyam_y | 2012-05-02 01:37 | 自由な個人の権利と国家

限界limit/Grenzeとしての資本主義capitalism /Kapitalismus(2)

先日NHKBS1「きょうの世界」で『グリーン・ゾーン』(Green Zone (film) - Wikipedia, the free encyclopedia)が紹介され、主演のマット・デイモンや、グリーングラス監督のインタビューが放映されてました(「米映画が描くイラク」)。

解説の市瀬卓氏も、イラク戦争について問うことができるようになった、という趣旨のことを述べてましたが、戦争が真にイラクのためのものだったのか問いかけるこの戦争を根本から批判する映画が作られていることは興味深い。戦争開始の正当化の主たる根拠とされた大量破壊兵器保持が事実でなかったことをはじめとして、戦争の大義名分は当初から揺らいでいましたし、戦争中も反対の声があげられていたのですが、いよいよ、アメリカ合衆国の大衆が戦争を冷静に本格的に振り返る時期に来たというべきなのですね。合衆国の市民社会がもつ自己批判の力というか、自己認識力を感じておきたい気がします。

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生産の発展は人間の自由な本質を実現する土台です。

とはいえ、このことを、労働する諸個人が既知のこととして知って労働を行ってきたわけではありません。

反対に、かれらにとってかれらがつくりだしてきた世界は、巨大な闇におおわれた不透明な、神秘的な威力なのでした。大地に原生した人間は、かれらの世界をかれら自身のものとしてではなく、原生的な群れを支配する権力として、大地の所有の力として、いいかえれば、封建領主に人格化される土地所有の力などとしてつくりだしてきました。労働がつくる世界は、人々を縛る世界として、かれらを飲み込む超えがたい力にみえます。

資本主義は、この疎遠な世界を、人による支配から切り離し、経済法則として純化して完成します。労働の疎外された力を、ゲマインシャフトの人格的依存から分離し、資本主義の無政府的経済法則に変えます。こうして、労働が生む世界が諸個人の対象として定立しており、このことを前提にして、労働という原点を諸個人がおもいだすのです。労働による世界形成が資本主義にまで発展の道を歩んではじめて、労働は、発見されるという仕方でもって自覚されるのだといってよいでしょう。

資本主義は労働の自己疎外的な発展を完成するという人類史における独自の役割をもってます。この完成において以前の歴史の真理が明かされます。原生的ゲマインシャフトにおける集団幻想的神話を統合の契機とするような生産は没落します。部族Aは、リンゴを育て生きているので、リンゴの神を信奉してまとまっており、部族Bは、馬に乗って他の部族から貢ぎ物を得て暮らしているので馬具を崇めており、といった人類の分裂状態は、産業ロボットの時代には現実的基盤を失います。

資本主義が社会的労働の関係を経済法則化するのは、商品生産の全面化によってです。ここで諸個人はまさに原子としての諸個人として規定されます。この諸個人としての規定の大きな意義は、かれらが、ゲマインシャフトの共同幻想に埋没した存在ではなく、自覚して対象を知る主体になることです。

かれらに対して、かれらの労働の世界が、ゲマインシャフトから脱した経済法則の網の目となって、相互に孤立するかれらを、かれらの地面の下で相互に世界的に結びつけていきます。かれらの労働は大工業としてその普遍性を開花し、大工業を手段とする剰余価値生産の流れは、生産と消費を全地球的にものへと変えていきます。

労働がこうして資本の世界市場にまで展開することによって、資本主義が完成しています。ここに労働する諸個人の疎外は完成しています。自覚して対象を知る存在である諸個人と、かれらに疎遠に形成されたかれらの自身の普遍的環境とが対立する、というかたちでです。

この対立こそが、諸個人に、社会の基礎が労働であることを、かれらがその労働と社会の主人公であることを認識させます。大工業は、人間自身の偉大な変革力をまさに人間自身のものとして、天上界の創造物ではなく、人間の産物としてかれらに理解させます。世界市場は原生的ゲマインシャフトの局地的な実践的迷信を解体し、人間のグローバルな本性を理解させます。労働する諸個人が対立する世界の内部に見いだすのはかれら自身が形成した世界です。

ここで、資本主義は人類を1つの世界史にまとめあげ、諸個人を世界史的諸個人に転化させていきます。資本主義の完成という労働の全面的発展と全面的疎外、これが、世界の産出過程が労働による過程だったことを示します。労働する諸個人は、観念による歴史形成という神話から、労働による世界の産出に、知る根拠を転換します。産業の発展は、諸ゲマインシャフトの諸集団幻想・諸歴史神話の役割を消滅させ、掟の歴史、政治支配の歴史、などなどの歴史が記憶の恣意的結びつけにすぎなかったことを語ります。労働による世界の産出を諸個人が自覚できるようになります(直接には労働する個人において能動化している自然の自己産出が自覚的な人間的な形態を得るともいえましょうか)。

資本主義においても、社会の断片化された諸関係は、不透明なヴェールのなかで、法や政治、哲学、といった社会的諸関係それ自体の歴史を紡ぎだし、資本主義の弁護イデオロギーを分泌し、とりわけ経済的範疇(分配、所有など)をその主軸にしていく(「経済学批判」の対象)わけですが、資本主義はこのヴェールを脱ぎ捨てるということが重要です。

労働する諸個人が社会の主体として民主主義を獲得し、環境や労働などの地球的問題に対して、民主主義を徹底することによって解決しようと苦闘しているとき、かれらはかれらに対立する対象のうちに、かれら自身の産物を見いだし、それを再獲得しようとしています。たとえば民主主義と対立する企業権力に対峙するというかたちで資本主義に対峙するとき、諸個人は、世界的生産過程はだれのものか、問うているのであり、かれらの自由の土台を奪還しなければならないという客観的要請を示しているのです。

この苦悩する諸個人に対して、資本主義は大人しくさせるべき対象としてあらわれており、資本主義はその発展の最前線においてその対立性を諸個人の限界として示し、暴走する資本主義自身の持続可能性の限界を、暴走する資本主義がみずからを超え出ていくべきという要請を示しているといえます。
by kamiyam_y | 2010-04-01 23:05 | 資本主義System(資本論) | Trackback

限界limit/Grenzeとしての資本主義capitalism /Kapitalismus(1)

東京新聞の社説を紹介しておきます。

東京新聞:長官銃撃時効 歴史的失態を猛省せよ:社説・コラム(TOKYO Web)

見苦しく一方的で卑怯な弁解という以上に、時効が成立し容疑者不詳の事件について、捜査機関が犯人を断定する発表をするとは、民主的法治国家の手続きを無視し、人権を蹂躙する許されない越権行為です。法治のルールを超える「公益」性の代表を武器を持った権力が自称するとはクーデターでしょうか。

東京新聞:ビラ配布無罪 言論封殺の捜査にクギ:社説・コラム(TOKYO Web)

社説がいうように「戦前の暗い風景を思い起こさせる」異常な取り締まりぶりです。「微罪」を隠れ蓑にした言論弾圧一般を批判する良心的な判決というべきでしょう。

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水族館でイワシの群を見ました。光の破片をふりまきながら群れ全体が1つの生き物のように右に、左に反転しながら泳ぎつづける様子をしばらく観察してました。

ちょっと検索。http://www.youtube.com/

イワシ@新江ノ島水族館 (sardines-at-enoshima-aquarium)

Epic journey of sardines - BBC wildlife

上の方が私の見たイメージに近いです。BBCのもきれいですけど。

人も集い、いっしょに腕を動かして、1つの生き物として動きます。腕のたくさんある巨大なムカデ、いや失礼、集合労働者になったりします。

イワシの群れがどんなに美しくても、それを美しいと批評するのは人間です。人間のばあいは、自覚して美を追究して集合労働者になることができます。パラパラとか、よさこいとか、噛むとフニャン(佐々木希のCM)とか。

ロッテ Fit's 新CM :: 佐々木希 佐藤健 噛むとフニャン♫

イワシ群も、集合労働者もどちらも自然が展開されたものですけど、人間のほうは意識的活動です。イワシが自然に埋もれているのに対して、人間においては、人間という自然と対象という自然に自然が自己分割しています。人間は対象を科学という形で知ることで、対象との同一性を観念的に獲得し、対象を生産手段へと変えることで現実的な統一をはたします。踊りのような遊びでも、イワシにはない偉大さがつらぬかれています。

そういえば人間も集団で泳ぎますね。シンクロで検索。

Synchronized Swimming(ImprovEverywhere)

タイトルはシンクロでもハイレベルな修業の成果ではないものですね。イワシよりも動きがばらばら。とはいえ、しかしイワシにはない自由さがある。といってもイワシとは比べられたくないか。

イワシらは、あつまって計画をたてることもなく、おれも参加すっか、と自由意思をもって参加することもなく、練習の成果だねと、喜びあったりすることもない。

魚群のきらめきという、環境と個別生命とのコラボレーションは、環境そのものの運動でしかない。対して、人間と環境のコラボレーションは、それ自体人間の対象です。

これが自由な自己意識としてふるまうことです。人間は目的によってコラボレーションを制御し、対象を手段・媒体にします。対象的な活動は自己意識の自由を実現する、人格性実現である、といってもよいでしょう。

1匹のイワシは、海や土を変革しません。海や土に、かれの人格性を刻印しません。また、イワシ個体は、相互に、個性的存在たることの相互承認もしません。人間の労働は個性の承認です。労働において人間は、個性を承認し、同時に、自分の労働が人類の一員としての労働であることを自覚しています(類的本質)。

しつこいですけど、イワシは、お互いの成長を讃えるなんてこともない。イワシの生きた活動がかれの自主的修業やかれら一族の学校教育制度のたまものであるなどいうこともない。

『資本論』の有名な蜜蜂の話です。ミツバチは「その密房の構造によって多くの建築士を赤面させる」(MEW.Bd.23, S.193)。

ミツバチの巣は精密です。

蜂の巣は食べると美味しいらしいです(野中健一『昆虫食先進国ニッポン』亜紀書房、2008年>Amazon)。

しかし、精密とか、美味しいとかは人間による評価です。

かれらの行動は本能的であり、そこに発展した人格性を見ることはできません。計画性もなければ、対象との対話による教養発展もない。個体差はあっても、行動の中心は、本能にインプットされたものを反復することでしょう。

ついでにいえば、プーさんはハチミツが好きですが、プーさんのモデルになった動物は、ハチを育ててミツをとるなんてしません。

イモを洗うサルが反論してきそうです。たしかに、人に近い生命なら、木の実を石でこすって皮をむくなんて芸当もできましょう。

といったところで、そういう動物文化があったとしても、それはしょせん群れで偶発的に受け継がれる孤立したものでしょう。すでに人間がいるんだから、今のサルが今から人間社会をつくることはできないです。

道具としての石は、自然物石一般からそれほどかけはなれた姿にはなっていません。対象変革の程度が低い。この道具を使う生命体の意識の水準も、この石という道具のレベルにみあったものにとどまっています。石という道具がこの生命の社会組織や、知的能力や感性、個性の水準を劃しているわけです。

労働する個人labouring individual/arbeitendes Individuumは自然総体を自己の対象とします。かれ自身が、自然の法則性を利用できる自然力として作用する自然です。かれによる対象変革の行為の連鎖には、かれと同じ他の個人も参加します。対象的自然に対する変革は、変革された自然(道具)を媒介として実現し、この対象に関わる諸個人の関係がまたこの変革を媒介します。諸個人の生産行為は、人格的自由の実現です。諸個人の人格的自由の実現は、変革された自然と、この変革をなかだちする他の人間との関係によって、劃されています。

ミツバチの生活が本能の反復のなかに固定されているのに対して、人間はその自由と個性において人間として生活しており、生産(自然と社会の生産)にもとづいて人間の生活は自由な人格性の確証にほかなりません。

自由な人格的存在という人間本質の実現を条件づける土台として生産の発展があるということです。

つけたし。この前のことですが、居酒屋で、グラスにささっている棒をストローだと思って口にしたら、吸えません。「ストローとまちがえていれたのかな」という顔をしてみたら、店員さんから「マドラーですよ、ストローじゃないですよ」と笑われました。まちがってたのはこっちでした。こちらも笑ってごまかしました。

ストローもマドラーも天然の自然には存在しません。素材はすべて自然界からとってくるわけですが(念じたって物質は生まれません)、ストローだ、マドラーだ、という道具は、それを造形した人間どうしの関係において道具として存在してます。ストローは唇の延長として、人間の自由を拡大する自然と人間とのコラボレーションの産物。中が空洞になったこの筒状の加工物は、これに対して、これがストローだとして関わる個人のふるまいにおいて、ストローです。このふるまいは諸個人に共通していて、これがストローだよという共同の理解が存在しています。この共同の知識を介して人間は自由な個性的活動を実現しています。イワシは、ストローとマドラーを区別できませんが、人間界では、その似た形状の物を取り違えると、滑稽と言われます。
by kamiyam_y | 2010-03-31 22:15 | 労働論(メタ資本論) | Trackback