さっぽろ地下鉄のなかでマルクスを呼吸する、世界を呼吸する

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Worldwide Anti-Trump Protests : Women's March on Washington

20日に開かれたロンドンの米国大使館前のProtestに参加したLily Allenが、早速 24日の日付でそのときの熱気をおさめた動画をMVに用いてカヴァー曲をYou Yubeにアップしていました。

リリー・アレンが金曜日の集会に出席したことは例えば次の「イブニング・スタンダード」の記事。

Stand Up To Racismが準備した”NO TO RACISM NO TO TRUMP"というプラカードがこの映像では目立っていますが、"STOP TRUMP'S NUCLEAR ARMS RACE"、"TRUMP:CLIMATE DISASTER"などもあります。"Don't scapegoat migrant"という文字も見えます(02:51)。"THIS PUSSY GRABS BACK"と書かれた横断幕も素晴らしい(02:19)

Trump Tower前のmarchではRihannaも"THIS P***Y GRABS BACK"という文字をあしらったピンクのファッションで参加してます(リアーナのインスタhttps://www.instagram.com/rihannadaily/。ピンクといっても多くの種類がありどれかはわからないのですが、RよりもBよりの薄い桜のような感じ。キャップと合わせている服はパーカーとチュチュを合体させたみたいなもので、これまた何と呼んでいいのかよくわからん。爪がキュート。

2017年1月の最も人類史的に進歩的で有意義な記憶にとどめておくべき出来事は、頭に詰めた被害妄想をデマ口撃で吐き出すTrumpという低劣な個性の就任ではなく、LAで、アトランタで、NYで、ボストンで、アトランタで、オースティンで、パリで、メルボルンで、プラハで、Tokioで、自由平等を、Human Rightsを希求する真に人間的な人々が女性大行進として意思を表したこと、人間の愛的本質、人間の尊厳、個人の尊厳を踏みにじるセクシズム、レイシズム、ゼノフォビア、ホモフォビアに対してNoを突きつける大行進に、世界各地で開催され連帯するAnti Trumpの大行進に無数の諸個人が集まったことです。Guardianで見てみましょう。

63年の大行進の精神は2017年の女性大行進において世界中で立ち上がり、世界的な自由な諸個人がその実在を力強く証明しています。万人の自由と平等はまさに万人の自由と平等であるという民主主義の気高い精神は、ここでは抽象化された姿態ではなく、人間の類的本質の現実性として遍く意識されています。21日のワシントン女性大行進を写したロイターのスライドショーをご覧下さい。とくに20枚目がいい。

23枚目は腰に手を当て堂々としたポーズの卵巣卵管膣子宮ですね。自己決定権の象徴。鮮やかなのは5枚目。行進をピンクに染めるpussy hats /pink hats。次の記事の言葉を借りれば、"Pussy Power"は世界を変革する。性的自己主張が闘いの武器。

Pussy Powerという言葉は、ロイターのスライドの37枚目にも出てきましたが、プロジェクトのサイトにPower of Pussyの解説があります。

Pussy hatはこうやって編みましょう。

Madonnaの"The Revolution starts here"(02:21)はまさにその通りだと共感します。また、"Fuck You"(03:47)という言葉にこれほどの感動を覚えたこともありません。Trumpに集約される非人間的な力に反対し、個人の尊厳を、人間の人間たるゆえんを取り戻すことを訴え、自由な個性と自由な友愛との同一を証しているこの空間の共有において、Maddonaが自由と平等、unityを求める無名の私たちを代表しているともに、私たちもまたMadonnaと同じく人類("Love")を代表しています。

ちっぽけでちんけな妄想にとらわれたグロテスクな個性が、人間が生存競争に駆り立てられ引き裂かれている畜群的様相を表出するのとは対照的に、疎外された、自己分裂に引き裂かれる現実のなかでも光を放つ人間本質の実在を女性大行進は誇り高く示しているのです。

by kamiyam_y | 2017-01-26 21:54 | 現代グローバリゼーション

国際立憲主義International Constitutionalismの徹底へ

減少傾向が確認されたとのことですが、撲滅すべきものですから撲滅しましょう。減ったとはいえ、その被害者の心の痛みを思うとつらい。
ヘイトスピーチ、3年半で1152件 政府が初の調査:朝日新聞デジタル

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樋口陽一・小林節『「憲法改正」の真実』(集英社新書、②小林哲夫『シニア左翼とは何か』(朝日新書)、③『世界 別冊 2015年安保から2016年選挙へ』と3冊新刊を買いました。①で思ったのは、近代の乗り越えではなく、ポスト近代の乗り越えだということ(90頁以下参照)。「個人」抜きというのは危険なんですよ。③は冒頭の小沢と志位の対談など面白そう。

最近のストリートデモクラシーで脚光を浴びているのが、学生やフリーターやママです。華があって絵になりますし、戦略的にも見せ方を考えて行っているわけで。③が着目しているのは、この新たな潮流に感激してデモにやってくるシニア層。70年安保世代やさらにそのうえの戦前を生きた60年安保世代などです。ほんとにSEALDsがめんこくて(=かわいくて)しかたないんですよ。私の知人もスピーチを繰り返し見ては涙を流し、先生の授業なんかより大事ですよと暴言を吐いてました(笑)。かれらがSEALDsを評価する理由が挙げられているのですが(59頁以下)、また自分たちのかつての運動に対する反省もこめていたり、謙虚です。ちなみに評価しない2割の理由として挙げられているのは、「民主主義」「学者」を敵視するような何の進歩のない決まり文句でした。SEALDsが警察にお礼をいうことに対しては、みな賛成しないらしいですが、ここは微妙。権力に対して卑屈だとでも思うのかな。ただの権力組織の末端の個人につっかかることを権力との対峙とか権力に対する闘いと勘違いしてるなら、今時バカすぎるでしょでおしまい。警察の力を利用するくらいの度量が必要ということを若い人たちは分っていると推察する知性が望まれるところでしょうか。むろん権力による思想統制、政治活動の統制には十分警戒しなければいけないのは当たり前であり、警察がデモを押さえこんだりする側面があること、それには抗議すべきことは当然として。また、警察が安全確保の業務を行うのはただのなすべき仕事であり、それを行わせるのは国民の権利ですし、感謝するというマナーのよさ、よき道徳をアピールポイントにすることには賛同できないという視点もありうるわけですが。ともあれ不要につっかかるべきではなく、また自然にありがとうと口に出るならそれもよろしい。警官と雑談したって権力の手下になるわけでない。

以下は関連してメモ。

国際立憲主義Constitutionalismの徹底へ

1 民主的諸個人の連帯の時代―国境を越える民主主義へ
あるべき未来への選択肢は、人権と民主主義の徹底である。労働が生み出した諸個人の対象的世界は、資本の力として諸個人に対立して自立化している。民主的・国際的・協同的に諸個人がこれを自己の対象・環境として制御することが、人類社会の創造である。

2 新自由主義は自律した体系として存立できない
一国的な社会的調整のハードルを下げ、企業拡大を世界市場的にめざす「新自由主義」的圧力は、破綻する。そこに現代の先端の問題が提起されている。

3 民主主義の真価
新自由主義の自由は、生きた個人の自由ではなく、資本の自由である。資本は、地球的生産発展の必然の力を秘めつつ、蓄積の一般的法則である貧困の蓄積をもたらす。民主主義はその経済的な対象をこれにより獲得している。

新自由主義は国家の権威主義的再編、偏狭な国家主義による統合と手を結んですすむ。「新自由主義」と「国家主義」の「マッチポンプ」(中野 22頁)がみられるようになる。日本の場合は「復古主義」(同上 25頁)が近年あらわである。

4 平和主義と国際主義の位置づけ


〔前文〕 日本国民は…われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。…これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
 日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
 われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
 日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。

第9条  日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
○2  前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

第97条  この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて…現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。


平和主義の徹底は、社会の原理を自由な個人を起点とする人民主権に転換する軸である。それは、「軍国主義を導いたしくみを徹底的に排除」するという「公共空間の再構築」(石川a 225頁)の土台をなしている。平和に生きる権利を国際協調に徹することで人類に実現しようとする意思は、立憲主義と民主主義の徹底である。

立憲主義は国際的に追究されねばならない。集団的自衛権は「国際立憲主義」構築において「消滅」すべきである(最上 110頁)。NGOによる国際貢献に対しても、危険を増す。「特定の国と軍事的に提携することは、NGO活動を助けるどころか、かえって危ういものにする」(磯田 83頁)

5 立憲民主主義constitutional democracyの危機

第99条  天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。


憲法空洞化は、権力が人民から独立した主人になろうとする衝動の端的な現れである。憲法違反を批判されても居直る、自由と民主主義の破壊(クーデター)を許してはならない。

現政権を貫く指向性は、「『権限濫用』の禁止と『自由濫用』の許容」から「『権限濫用』の許容と『自由濫用』の禁止」へという「まっとうな立憲主義」から「外見的立憲主義」への退行である(石川b 67-70頁)。実例は枚挙にいとまがない。

引用文献
石川健治 a 「『非立憲』政権によるクーデターが起きた」(長谷部恭男・杉田敦編著『安保法制の何が問題か』岩波書店、2015年
   ― b 「環境権『加憲』という罠」(樋口陽一・山口二郎編著『安倍流改憲にNOを! 』岩波書店、2015年
磯田厚子「PKOの武力介入が失敗したソマリアの事例」(谷山博史編著『「積極的平和主義」は、紛争地になにをもたらすか?―NGOからの警鐘』合同出版、2015年
中野晃一 『右傾化する日本政治』(岩波書店、2015年。書評として、五野井郁夫「リベラルも小異捨て」『東京新聞』2015年9月13日
最上敏樹 「国際法は錦の御旗ではない」(長谷部・杉田編前掲書)

by kamiyam_y | 2016-04-30 22:55

"WAR IS OVER" :Licht der Hoffnung

シールズを中核や革マルと一緒にするネトウヨ=バカウヨ=クソウヨの妄想/デマにはほんと腹を抱えて笑わされます。でも、検索しない方がいいですよ。気分が悪くなりますから。

安保法制の批判の激流を怖くてたまらない、違憲内閣のクソ安倍とそれに従うへ=自民党が街頭演説すらできないというこの愉快な現状も、野田つぶしの一因のようっすね。SNSで知った記事。

SEALDsはそのバランス感覚を発揮して、NHKだけではなく、文春、フジテレビなどいろいろ出てるみたいですけど、今日アップされてたこれお薦め。ele-kingでのインタビュー。
interview with SEALDs 温かく緩やかな「ユナイト」の兆し ―シールズ、インタヴュー | ele-king

「へ」のつく左翼がいちいち細かいことで自分の頭のよさを示そうと揚げ足取りするのが1つの敗因だったことは事実。上野千鶴子がシールズにけちつけた話とかさ。

ポップカルチャーとしてのデモという意義は大きい。胸くそ悪いバカウヨ・レイシストのヘイトデモの非文化性・汚らしさときれいに対照。

高校生の時からデモに行って友達が増えた、ってのがいいですね。現実世界でしなやかにたくましく生きてる。彼等をねたんでPC上で匿名で誹謗中傷を書き込むネトウヨ=クソウヨ=クソクソウヨ=バカウヨという不幸な連中全員には、心から極楽浄土を願うしかないわ。

「ほんっとにマジかちんと来ました。『勝手に決めるな!』って。」にも同感。アベのやつ、勝ってに約束してくるんじゃねえ、バカ、って私も思いましたから。


by kamiyam_y | 2015-09-10 18:24 | 民主主義と日本社会

"¡No pasarán!" "They shall not pass" "On ne passe pas" 「奴らを通すな!」

内閣不支持58%って、翻訳すれば、権力を私物化しやがって、「勝手に決めるな」ってこと。ウソを言うな、憲法壊すな、平和を壊すな、ってこと。人類の理性・知性を冒涜するな、生きた個人、庶民をコマ扱いするな、現実が変わったので憲法は解釈で空洞化しちまえという妄想にとりつかれた政治家を許すな、立憲主義も憲法も理解できない知性なき、悪質さこの上ない史上最低の腐臭漂う政権を、全体主義・国家主義の亡霊にすぎない最悪最低の政治家とその取り巻きどもを、放逐せよ、ってこと。
内閣不支持58% 全道世論調査 強行採決が影響 | どうしんウェブ/電子版(政治)

「勝手に決めるな」をはじめとして、私たちの思いを表した言葉がどんどん出てきます。真理も正義も、あるべき真の現実も、理想も、人間らしい感性も、共感力も、知性も、勇気も、未来も、友愛も、およそ人間的で理性的なもののすべてがこちらにあります。
7.15 SEALDs "This is what's DEMOCRACY looks like!" - YouTube
彼等の奮闘には毎日涙が出そうです。良心の備わったあらゆるまっとうな人々の心を揺さぶります。「それが民主主義の形でしょ」。民主主義の発展にとって、真に人間らしい社会づくりのために、新たな一歩を確実に刻んでいます。人類の歴史に彼等の経験は繰り込まれていきます。

1週間前ですが、中東学者も。
安保関連法案:研究者ら「中東やアジアの信頼打ち砕く」 - 毎日新聞

学術組織は、正義に反し真理に反する反民主主義の動きを批判し、止める力となるべき、社会の理性の砦です。アカデミックコミュニティは、民権をおしつぶそうとする愚昧政治のこの暴挙を、その社会的使命に則って、断じて見過ごすわけにはいきません。

全国的にはまずこちら。
Association of Scholars Opposed to the Security-related Bills
安全保障関連法案に反対する学者の会

各大学もこれだけ動いてます。
各大学の取り組み一覧 - 安全保障関連法案に反対する学者の会

東大とか学生が呼びかけ人の半分以上です。
「東大人アピール集会」実行委員会

道内。
安保関連法案に反対する 札幌学院大学教職員有志 on Strikingly
北海道大学教員有志からの安全保障関連法案反対声明 : 5号館のつぶやき
安全保障関連法案に反対する北海道大学教員有志の声明
安保法制に反対する釧教大有志の会(@1976kyoiku)さん | Twitter
安保法案に反対する北海学園大学教員有志の会 | Facebook

※タイトルは、ファシズムに対する抵抗Resistanceを象徴する言葉。SEALDsのコールにも使われる。差別主義に対するカウンターでも用いられてきた。訳はWikipediaの各国語版を見た(解説そのものは今1つだが)。

by kamiyam_y | 2015-08-18 03:25 | 民主主義と日本社会 | Trackback | Comments(0)

Right to live in Peace

イスラエル/被占領パレスチナ地域/パレスチナ自治政府:ガザでの持続的停戦の鍵は3つの基本的人権 : アムネスティ日本 AMNESTY

つねに人権に立ち戻ることが社会づくりには欠かせません。人権は社会システムの産出過程の途上の最後である現システムにおける公認の原理であり、非公認の公認の原理である(資本のもとでの)社会的生産過程との対立において社会づくりの最大の武器として機能します。人権と民主主義の社会的現実(生産過程)への貫徹以外の選択肢を示すことは誰にもできないはず。

労働問題は諸個人の人権の深化であるし、平和の獲得もまた人権を原理にすることが重要であると思います。

土地所有を変革し賃労働を包摂する資本の成立(本源的蓄積)は、労働する諸個人が「二重の意味で自由な労働者」という規定を受け取ることでした。二重の意味で自由とは、1つは法的な自由人、自由な人格としての自由、もう1つは生産諸手段からの自由、すなわち自己の対象的世界の完成した喪失でした。自己の対象もそれにかかわる自己も、かかわることもすべて非自己。「疎外された労働論」をマルクスは物象化論に進化したので捨てたとか、物象化が疎外された労働よりも根本であって物象化によって疎外された労働が起きるとか、自分の頭のよさを示すそうとするためのくだらない解釈です。法的に自由な人格は、資本主義的社会の個別的な主体の形態であり、これに疎遠に社会的生産という彼らの普遍性が形成されていきます。自由な諸個人と、資本の生産力としての社会的労働の生産力との疎外された統一が資本主義的社会ですから、諸個人の社会的行為能力と実態としての社会的生産力の行為とが矛盾することが、「ブルジョア社会の自己批判」として現代を特徴づけています。

人格的自由を単なる物象の仮面にすぎないと単純化しないことが大切。現代において労働者を軸とする発展した人権主体がブルジョア社会を乗り越えて社会的な生産を包摂することが変革。

商品が商品所持者に対してじつは能動的であることは、資本において資本家という生きた人格に対しても資本が自立的に現われるというように発展します(現代株式会社現象)

マルクスが「ブルジョア民主主義」という言葉を用いているのは、『要綱』での次の1カ所(MEGA,Ⅱ/1.1, S.164-165)

単純につかまれた貨幣諸関係のなかでは、ブルジョア社会の内在的対立がすべて消し去られたようにみえ、またこの面からして、ブルジョア経済学者によって現存の経済的諸関係を弁護するための逃げ場とされる以上に(かれらはこのばあい少なくとも首尾一貫していて、交換価値と交換という、貨幣関係以上に単純な関係にさかのぼる)、ブルジョア民主主義によって、この貨幣関係がふたたび逃げ場に使われる。(資本論草稿集翻訳委員会訳『マルクス 資本論草稿集』①、大月書店)


単純流通は、等価交換として「平等」という法的規定を生み、異なる使用価値を得る「自由」の観念も、私的利害の追求という人間を手段とする転倒的な目的意識とともに、もたらします。資本主義的社会が諸個人に現存の生産の対立性を忘れさせるのは、そこでは、社会的な流れと拡がりから切り離されたものとして交換の諸観念が現れるからです。これをブルジョア的限界とみるのであって、民主主義一般をあざ笑うことは「ブルジョア民主主義」の裏返しにすぎず、社会変革の原動力には断じてなりえません。「人権」を人権派とか戦後民主主義などと揶揄する左派の一部は、まさにブルジョア的限界にとどまるのであって保守派と同質です。人権と民主主義の徹底という路線を認めない左派なるものは、ポル・ポトからソ連までの20世紀の自称社会主義の人権抑圧的専制諸国家を批判する資格はまったくなしと考えます。
by kamiyam_y | 2014-09-04 04:42 | 資本主義System(資本論)

Big Love

宗教国家という共同体的人間を守ろうとする措置ですかね。近代国家は国家的宗教あるいは宗教国家の軛からの国家共同社会の解放として諸個人を自由な諸個人として解放し、この解放は政治において封建的領主による排他的差別的所有のごとき私的所有を廃止すること(すなわち、万人の自由平等)であり、この解放は私的所有を政治的国家という民主主義ではなくその経済的実体である市民社会においてその完成に向わせます。宗教も、私的所有という分裂における連帯にいわば格下げされます。私的所有物に、物象的連関に、孤立的主体の選択の対象となった共同性に宗教的隷属は落下しますので、人間解放の主たる対象ではなくなります。宗教的国家は世界市民にとって1つの恣意として現れるほかないはずです。
サウジアラビア:外国人も「日中は飲食控えて」…断食月 - 毎日新聞

めっちゃ面白い。3年前に40で亡くなったREI HARAKAMIに触れつつ、Living Togehterを説明してます。埋め込んであるyanokamiちょっと泣けるかも。
凡どどラジオ辞典
by kamiyam_y | 2014-06-30 04:19

Urawa's Racist Banner

昨日のエントリーの続き。日本サッカー協会は浦和レッズに対して譴責と無観客試合という懲罰処分を迅速に下しました。この的確な処分によって事の重大さが伝えられます。

SOCCER/ Urawa to play at empty stadium over racist banner:The Asahi Shimbun Digital
差別横断幕:浦和に無観客試合 Jリーグ初の処分 - 毎日新聞
社説:差別的横断幕 「割れた窓」放置するな - 毎日新聞
Soccer: J-League chairman labels Urawa banner 'racist' - 毎日新聞

サッカー協会の基本規程を見てみましょうhttp://www.jfa.or.jp/jfa/rules/download/kitei.pdf

公益財団法人日本サッカー協会基本規程

第3条
4.人種、性、言語、宗教、政治又はその他の事由を理由とする国家、個人又は集団に対する差別は、いかなるものであれ、厳格に禁止されるものとし、これに反する場合には、本規程及びその附属規程に従って懲罰の理由とされることがある。

第197条
② 加盟団体に対する懲罰の種類は次のとおりとする。
(1) 戒告
(2) 譴責
(3) 罰金
(4) 没収
(5) 賞の返還
(6) 試合結果の無効(事情により再戦を命ずる)
(7) 得点または勝ち点の減点または無効
(8) 得点を3対0として試合を没収(ただし、すでに獲得された得失点差の方が大き
い場合には、大きい方を有効とする)
(9) 観衆のいない試合の開催
(10) 中立地における試合の開催
(11) 一定数、一定期間、無期限または永久的な公式試合の出場停止
(12) 一定期間、無期限または永久的な公的業務の全部または一部の停止
(13) 下位ディビジョンへの降格
(14) 除 名
③ 前2項各号の懲罰は、併科することができる。


基本規程の懲罰では(2)と(9)ですね。総則に謳われる「人種、性、言語、宗教、政治又はその他の事由を理由とする国家、個人又は集団に対する差別は、いかなるものであれ、厳格に禁止される」とする人権尊重は現代社会の基本原理であり、当然サッカー協会という社会組織の原理でもあります。これに反する、人間の尊厳を侮蔑する行為には今回のように迅速に毅然とした対応がとられねばなりません。欧州サッカー界の先進的な取り組みに日本サッカー界も連動しています。レイシズム撲滅のための、Football(Soccer)におけるグローバルな取り組みが他の日本国内のスポーツやインターネット産業やその他諸々の分野の先例となってほしい。

日本の未来/過去/現在のため、アジアの未来/過去/現在のため、世界の未来/過去/現在のため、レイシストどもの歪んだ人格と人間社会の最低のレイシズムに対して最大限の鉄槌を下し、差別主義的国家妄想に取付かれた全体主義を解消する理性的人間社会による闘いをさらに前進すべき時です。民間組織という諸個人の自発的組織が理性的規範(人権)を守るべくその内的諸規範によって対応することの重要さを痛感させられます。
by kamiyam_y | 2014-03-13 19:23 | 民主主義と日本社会

まっとうな社会的自由としてのデモ:技術と社会

野間易通『金曜官邸前抗議』(河出書房新社)、第6章の最後の節にある柄谷行人のせりふ、なかなかいいです。興味のある方は買いましょうということで、ここには書きませんけど。

その少し前の箇所に鎌田慧の指摘として、原発建設に対して反対し勝利したところがたくさんあるが「論理で危険だと訴えても、カネの力で推進してくるものには勝てなかった」と書かれてあります。

「カネの力」ですね。気になるので、大きな枠組みに入れ込んで「技術」への考え方を繰り返してみます。技術は合理的だから合理的に管理すれば安全、つまり安全という生活の権利は技術によって本質的に解決済み、安全の問題は技術の問題、とみるのが、私たちの思考にあって偽の安定性を求める態度でしょう。こういう態度においては、技術が人間のために利用されているか、労働者と環境破壊を破壊する非倫理的な技術を他の選択支に優先していないか、といった問を立てることができません。技術の非合理的利用・非合理的技術の普及という問題はあらかじめ排除されてます。廃棄物を処理できず壊滅的な事故に結びつく技術を、非合理的かつ非倫理的と呼ぶことにためらいは不要です。

鎌田が述べている「カネの力」の作動を媒介して考えるってことですし、「カネの力」を労働する諸個人の諸力の否定的な発現として捉えるということ。カネとして介在してくる経済的諸関係自身を私たちが管理できないというシステムのありかたを抜きにして、自然(技術)と生活(安全)が一致すると想定するのが私たちの思考の怠惰ですが、同時に、カネの力がモノに擬態して背景に溶けてしまうことを積極的にここではカネの力が自ら突破し、私たち自身の諸関係を私たちが管理することの必然が示されているともいえます。

私たちの集合力の諸関係が生活を破る威力として、制御を要するものとして出現し、私たちに問を投げかけることで、私たちが疑い、声をあげ、学び、自らの社会的開発を進めていくという必然。

ちなみに、技術そのものを社会的安定と混同するような、安全な原発という形容矛盾に固執する原発共同体的幻想の裏返しは、資本主義的利用から切り離された技術一般の未完成・根源的悪を主張するような反生産力主義ですね。

という話はあくまでも問題の一般的な枠組みです。日本における原発の拡大という個別的事情はその諸要因を歴史的に探求すればよい。ここでは細かいことは無視ってことで。

野間さんの本から逸れてしまいましたが、本書はデモする社会というあたりまえの民主主義について考えさせてくれる歴史的証言です。
by kamiyam_y | 2013-01-28 23:57 | 労働論(メタ資本論)

ヴェブレンを読み返した

突然の体の不調で、病院にお世話になってきました。いろいろやらねばならないことがあるので、はやく治したいです。不調の一因がスーパーで衝動買いしたあるものにあるにちがいないと睨んでいるので、今後気をつけることにします。確証がないし、調べる気もしないのでこれ以上書きませんが。

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ヴェブレンを読み返した

『国連人間開発報告書』の理論的支柱であるcapabilityアプローチを提起しているアマルティア・センは「貧困」を社会現象としてとらえ独自の人間発展論において課題としているし、ケインズは学生時代ムーアの反功利主義的な倫理学に影響を受けのちに「自由放任の終焉」を書いているし絵の収集家だし、ケインズと同い年のシュンペーターはウィーンで歴史や法学を学びオーストリア・マルクス主義者と交流し社会化委員となり大蔵大臣を引受け『資本主義・民主主義・社会主義』を書いたのだし、アダム・スミスのテーマはモラルフィロソフィーであり市民社会の自律的形成を課題とした、というように面白い、偉大とされる経済学者というのは、エコノミクスの範囲のなかで収まらない人物ばかりです。こうした経済学者たちは、経済学者というより社会理論の探求者です。

ソーンスタイン・ヴェブレン、1857年ノルウェーの移民の子として生れ、1884年に哲学博士となるもしばらくは職に就かず本を読んで暮らしていた奇人、ハイルブローナーの『入門経済思想史 世俗の思想家たち』(八木甫・松原隆一郎・奥井智之・浮田聡・堀岡治男訳、ちくま学芸文庫、2001年)の第8章を参考にしながら、彼の1899年の『有閑階級の理論』(髙哲男訳、ちくま学芸文庫、1998年)と1904年の『営利企業の理論』(小原敬士訳『企業の理論』勁草書房、1965年)を読み返してみると、『営利企業の理論』のよく知られた、「産業」Industryと〈営利〉Businessとの対立という構図が、前者『有閑階級の理論』の、平和愛好的で労働に敬意が払われる社会と、〈掠奪〉を軸とし非労働が有閑階級によって誇示される(「顕示的閑暇」等)ような〈野蛮〉社会との対比を踏まえていることがわかります。

勤労の世界、生産過程は、〈制作者本能〉が支配する機械的性格(技術者による調整を含んだ有機的な統一性)をもつのに対して、株式会社金融などによる〈不在所有〉が発展し、営利は機械的過程における調整の解体から生じるという捉え方において、営利は〈野蛮〉の徹底なんですね、たぶん。こういう捉え方には常識を辛辣に、あるいはからかうようにひっくり返してみせる痛快さがある。

「有閑階級という制度がその最高の発展を遂げているのは、例えば封建時代のヨーロッパや封建時代の日本のように、野蛮時代の文化が高度化した段階においてのことである」(前掲『有閑階級の理論』高訳)

たとえば、資本主義のなかにいる人間には、金儲けのための競争は人間の元来の性質なのだ、とする幻想を信じている人がいるでしょう。しかしこれは、マルクス的な言い方に近づければ土地所有が支配する封建制社会において土地所有のための殺戮、これが疑われるどころか褒め称えられるのと同じこと。すでに生産関係によって媒介されそれを前提にして存在していながら、媒介をうしない直接の起点となったブルジョア的原子、これに固執することに対して、社会的な全体によって諸主体が規定されていることを対置する批判性がヴェブレンのような議論の妙味ではあります。

「社会一般にたいして概して無益であったり有害であったりする事業……不生産的な仕事の収益は、他の仕事の総生産物から生れるものである。……産業的にみて寄生的な種類の企業の成長には限度がある。大部分の広告業や……寄生的産業の不釣り合いな成長は、軍事支出や……とともに、その社会の有効な生活力をいちじるしく低下せしめ……」(前掲『営利企業』小原訳)

これも寄生的企業への富の移転が社会的にはマイナスでありうるとする批判で、合理的経済人の主観と財という抽象からすれば無関心な問題を取りあげています。

新古典派的なものを批判する理論的制度派の思考って、「諸個人とは社会である」とか「諸個人はその基盤を社会とし、社会が進化する」とするもの。取引コスト論のようなものを新制度派とよぶこともありますが、そちらは原子論的社会観の修正版と見た方がいいでしょう。

ブルジョア的私人・交換する個人は、資本主義的システムを自己の媒介において定義するような能動的原理ではなく、その自立性はじつは非自立性なのだが、この自立性の内部にとどまるのが新古典派的発想。

制度派的捉え方もまた、その社会による諸個人の包摂は、現在の対象自身の対象を捉えるものではなく、生産関係によって捉えるわけではなく、原子論同様に定義されない前提なんですけどね。原子論の方はまず社会契約説。社会に先立つ契約主体としての個人を想定してもそれ自体すでに社会的存在であり、そうした個人の想定が社会的な約束事であることは実際的に知られているといえます。生れながらにして天賦人権を人間はもつわけではなく、人権は社会関係なのですから。「社会の実体は諸個人である」が人権論的想定といえそう。

とはいえ、人権論は、封建制社会において領主権力に従い、共同体に埋没して生きていた諸個人を解き放つ革命の思想的契機です。原生的共同体の支配から現代的個人の自立へ転換させた人権論は、今度は、個人から独立した社会的生産を批判する武器に転じます。企業や経済法則が個人を飲み込む全体である以上、人権論は王権の批判からこうした全体の批判に具体化します。批判対象の発展が人権を実在化するのだよ。

原子論は古典派経済学のなかの功利主義的想定としてもちろん弁護論的に機能します。孤立した個人を起点とする調和的市場観では、資本家も労働者もその物象的対立的諸関係を脱色されて、利己的主観的利益を計算する同権的主体へと漂白され偽りの姿で現れます。生産関係なき財と主観の関係の世界ですから、個人と一致しない社会はここでは存在しない、というか、社会ではなく個人のみが存在することになります。

諸階級は、孤立的契約において「日労働の価格」という不合理な観念において、〈労賃〉形態において、自由平等な市民として等質化されて現れます。地主も資本家も労働者も単に収入をもたらす物、源泉が違うだけで平等なのだという三位一体的幻想、三大階級の非階級化ですが、これはエコノミクスにおける調和的市場観の原型といってよい。金に社会的支配力を与えている生産の媒介が断ち切られた幻想では、自然物金に支配力の原因をみる。こうしたフェティシズムは、貨幣が利子をもたらす等々の三位一体的幻想にまで具体化しています。
by kamiyam_y | 2013-01-23 21:49 | 労働論(メタ資本論)

現代憲法の可能性

城南信用金庫、やっぱりおもしれーだす。自治体首長の脱原発会議。

http://bit.ly/Kkqstq

さて、憲法諸学説はまったく参照することなくただ思うに。

君主ではなく人民を国家の主体と宣言する人民主権、個人が生れながらにもつと想定される人権が公権力を規制すること、国家の争いを超える平和主義。このように表象される憲法の原理もまた、個人の労働と労働全体の媒介である経済の要素であるといえようか。

諸憲法の個性は存立しながら、近代憲法は資本のシステムの要素として、ある必然的な範囲のなかに意味をもってたえず再生産されている。

個人の労働という労働全体の要素を、労働全体から切り離されたものとして登場させる。それが商品生産である。

個人の労働と労働全体を媒介する前資本主義的な共同体が消失し、全面的な商品生産としての資本主義では、個人が全体から切り離されて現れる。

しかし個人という要素がそれだけで存在することはなく、要素を契機とする全体は、商品交換が実現していく。

全体は商品を原理とする。要素である個人は商品を内面化した全体の要素である。

個人は交換において、互いの交換物を目的としあい、相手も自分も物の手段におとしめている。交換に登場する個人は商品のいわば個人化である。

この個人の間で成立する社会は、原子による自覚的な共同性、すなわち契約的なものを中身とするものでなければならない。市民社会は商品を私的所持する個人の相互承認から拡がってくる。市民的個人は商品流通という社会的分業にその出生の秘密を有している。

封建制社会では社会的分業は、商品流通という物象的な形態ではなく、直接に共同的な掟の形態を取っていた。封建領主の行動原理の内容は土地所有であり、彼に支配される農奴の労働は、農奴という生産関係、封建制的諸関係において行われ、この諸関係を再生産してきた。土地という本源的自然の経済的形態、土地所有への個人の従属によって、社会的分業が実現してきた。共同体的掟による職業の規制、身分制による規制として、個人の労働の社会的労働への転換の封建制的形態をつかむことができる。個人はここでは全体に埋もれた存在であり、その手足である。

これに対して、資本主義では、社会的分業は商品によって規制され、商品は資本として自己を再生産する。資本の前提は、生産手段をもたない労働者が労働力を売り、全生産物が商品化することである。資本主義では、社会的分業、経済は労働力の売買により媒介され、その売買は商品所持者の相互承認、労働者と資本家との契約を手段とする。

資本の自己再生産という経済は、労働力の売買を手段とする目的であり、近代憲法を職業選択の自由に象徴させれば、それは労働力の売買のための手段として必然的となっているといえよう。労働全体の媒介の現実は、労働力の売買を手段とする資本にある。近代憲法は資本蓄積の不可欠の自己形態である。

しかし、資本に根ざして生まれでて経済から剥がれて現れる自由な法的個人、人民主権を担う個人は、資本自身を批判するモメントに転化する。

原生的な共同体を破壊する商品流通の普遍化、資本の文明化作用の意義なしに、変革はありえない。原生的共同体に依拠することはできない。人権主体としての自由な個人という形態を武器とすることなしに、地球経済として展開する資本を批判する生活の防衛も人間の防衛もありえないように思う。地球規模で深化する社会的生産過程を制御しうるのは自由な個人の民主主義(人権/憲法原理)の徹底以外にありえない。

現代憲法とは、個人が全体の犠牲となる経済の実態を批判する武器にまで、個人の人権と媒介されない裸の物象的世界を批判する武器にまで自身を鍛えあげ発展させざるをえない社会関係である。その線上で自身の限界を突破し、自身を支えていた土台をその限界を超出するように導く社会関係である。労働する諸個人の人権が資本を規制し、資本の規制は資本をその静かな、また決定的な眠りこみへと導引し全体化する。公権力の規制にとどまらず、私的諸資本という事実上の公共性を自由な労働する諸個人が制御すること。地球経済を協同制御すること。個別的労働と社会的労働の物象的媒介を人格的媒介へと、物象を原理とする経済による人間支配を人間を原理とする経済へと転換すること、現代世界をその真相の実現へと超出させる運動は、憲法的個人とよびうる自由な個人を梃とする。自由な個人は、資本の権力を導く単なる売買者というような孤立した抽象物にとどまらず、内面的充実、対象を包摂する鍛えあげを資本によって強いられる。協同する能力は原生的共同体の一員としてではなく、自由な人格を通して社会的労働を行う個人として鍛錬される。

(革命記念日に寄せて)
by kamiyam_y | 2012-05-02 01:37 | 自由な個人の権利と国家