さっぽろ地下鉄のなかでマルクスを呼吸する、世界を呼吸する

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Worldwide Anti-Trump Protests : Women's March on Washington

20日に開かれたロンドンの米国大使館前のProtestに参加したLily Allenが、早速 24日の日付でそのときの熱気をおさめた動画をMVに用いてカヴァー曲をYou Yubeにアップしていました。

リリー・アレンが金曜日の集会に出席したことは例えば次の「イブニング・スタンダード」の記事。

Stand Up To Racismが準備した”NO TO RACISM NO TO TRUMP"というプラカードがこの映像では目立っていますが、"STOP TRUMP'S NUCLEAR ARMS RACE"、"TRUMP:CLIMATE DISASTER"などもあります。"Don't scapegoat migrant"という文字も見えます(02:51)。"THIS PUSSY GRABS BACK"と書かれた横断幕も素晴らしい(02:19)

Trump Tower前のmarchではRihannaも"THIS P***Y GRABS BACK"という文字をあしらったピンクのファッションで参加してます(リアーナのインスタhttps://www.instagram.com/rihannadaily/。ピンクといっても多くの種類がありどれかはわからないのですが、RよりもBよりの薄い桜のような感じ。キャップと合わせている服はパーカーとチュチュを合体させたみたいなもので、これまた何と呼んでいいのかよくわからん。爪がキュート。

2017年1月の最も人類史的に進歩的で有意義な記憶にとどめておくべき出来事は、頭に詰めた被害妄想をデマ口撃で吐き出すTrumpという低劣な個性の就任ではなく、LAで、アトランタで、NYで、ボストンで、アトランタで、オースティンで、パリで、メルボルンで、プラハで、Tokioで、自由平等を、Human Rightsを希求する真に人間的な人々が女性大行進として意思を表したこと、人間の愛的本質、人間の尊厳、個人の尊厳を踏みにじるセクシズム、レイシズム、ゼノフォビア、ホモフォビアに対してNoを突きつける大行進に、世界各地で開催され連帯するAnti Trumpの大行進に無数の諸個人が集まったことです。Guardianで見てみましょう。

63年の大行進の精神は2017年の女性大行進において世界中で立ち上がり、世界的な自由な諸個人がその実在を力強く証明しています。万人の自由と平等はまさに万人の自由と平等であるという民主主義の気高い精神は、ここでは抽象化された姿態ではなく、人間の類的本質の現実性として遍く意識されています。21日のワシントン女性大行進を写したロイターのスライドショーをご覧下さい。とくに20枚目がいい。

23枚目は腰に手を当て堂々としたポーズの卵巣卵管膣子宮ですね。自己決定権の象徴。鮮やかなのは5枚目。行進をピンクに染めるpussy hats /pink hats。次の記事の言葉を借りれば、"Pussy Power"は世界を変革する。性的自己主張が闘いの武器。

Pussy Powerという言葉は、ロイターのスライドの37枚目にも出てきましたが、プロジェクトのサイトにPower of Pussyの解説があります。

Pussy hatはこうやって編みましょう。

Madonnaの"The Revolution starts here"(02:21)はまさにその通りだと共感します。また、"Fuck You"(03:47)という言葉にこれほどの感動を覚えたこともありません。Trumpに集約される非人間的な力に反対し、個人の尊厳を、人間の人間たるゆえんを取り戻すことを訴え、自由な個性と自由な友愛との同一を証しているこの空間の共有において、Maddonaが自由と平等、unityを求める無名の私たちを代表しているともに、私たちもまたMadonnaと同じく人類("Love")を代表しています。

ちっぽけでちんけな妄想にとらわれたグロテスクな個性が、人間が生存競争に駆り立てられ引き裂かれている畜群的様相を表出するのとは対照的に、疎外された、自己分裂に引き裂かれる現実のなかでも光を放つ人間本質の実在を女性大行進は誇り高く示しているのです。

by kamiyam_y | 2017-01-26 21:54 | 現代グローバリゼーション

歴史的に形成された総過程Gesamtprozessとしての世界市場Weltmarkt 

諸範疇を1つの社会的総体の諸分肢として規定しながらそこを通過する円環運動、それが社会システムの根源の能動的運動である、特定の社会的形態における労働する諸個人の生産という運動です。封建制における商業であれば、封建的生産に媒介された総体の器官としてそれは有機的なものの要素として存立しているのであって、現代の発展した産業資本の形態としての商業資本とそれを比べたりしても、それが対象の概念的把握ではなく、見る人の関心を満たす行為にすぎないことはあまり理解されてはいない1つの真実です。「生産、分配、消費、交換」は「1つの総体の諸分肢をなしており、1つの統一体の内部での諸区別をなしている」(『マルクス資本論草稿集1』大月書店、MEGA Ⅱ/1.1 S.35)。「資本はいっさいを支配するブルジョア社会を経済力である」(S.42)という『経済学批判要綱』「序説」の言葉は社会システム総体を把握の対象としています。

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『資本論』第3部は、平均利潤の成立、商業資本と利子生み資本、土地所有といった範疇を理論的、概念的に把握するのですが、それは、第2部での社会的総資本の再生産および流通の理論的把握のうえに、資本がその外部にひきついだ総体の諸姿態を自己の必然性の浸透した、自己を内容とする形態として再産出していく運動を追求しています。

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実体的な共同体を想定しない孤立的・排他的・私的な諸主体間の疎外された社会的生産の運動である商品流通が地球全体を覆う物象的相互依存関係を形成することを前提にして、現在、資本の運動は株式会社の形態にいたるまで地球規模で不断に反復しています。生産過程の個々の分肢が国境を越えた協業を形成し、資本の循環の諸要素が地球規模で流動し、流動を否定し、多様な国民的出自の資本が分裂、統合を繰り返し、科学技術をその大気として架空資本が全地球的を駆け巡り、株式会社が世界市場を舞台とする超国籍的な企業の形態となり、自由な個人の私的所有と物象的に拡張する世界的生産との矛盾を世界的に開示しています。資本の運動は私的な形態における社会的生産の展開として国家を超え、個別的な生産過程をますます社会的な生産過程に転化し、その人類史的な存在理由である生産力の増大を遂行し終えようとしています。

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相互依存関係の決定的な確立は、一国主義をもはや不可能なものとし、国際協調なしでは人類が存在できない時代を生み出してます。真の選択肢は、国際協調というにとどまらず、成長のための成長にとらわれたこれまでの生産力発展からの転換として見いだされています。生産関係の物象化と自由な諸人格との分離した統一というプラットフォームから出発した現代は、制御されざる物象的に編成される生産発展そのものを止揚することを課題とする地平にまで自身を超出しているのです。自由な諸人格の協同的な制御の対象は世界市場という総体であり、この総体の主体的モメントとして諸人格は世界的諸問題に立ち向かう時代の課題において自己を自覚し、この総体自身の主体的形態として総体自身の自己否定を成し遂げようとしています。

国際協調を資本の形態にとどまるものとする従来の道に対して、自由な諸人格という生産発展の目的を対自化した真の選択肢としての国際主義とが明確に区別され自覚されねばなりません。国際協調を国際協調の資本主義的形態から区別せず、国際協調そのものを否定するのは、現代のラダイットというべき未成熟な態度として克服されねばなりません。「機械をその資本主義的充用から区別し、したがって攻撃の的を物質的生産手段そのものからその社会的利用形態に移すことを労働者がおぼえるまでには、時間と経験が必要だったのである」(『資本論』第1部、大月書店、S.452)。あるいは外部の敵対関係として現れる資本を外部そのものに放置した批判は資本の巧妙な反転運動の内部にとどまる疎外された理解というべきでしょう。

およそ資本主義という私たちの疎外された労働のシステムが達成したすべてのものを疎外とともに捨て去ることほどばかげた、また不可能かつ非人間的なことはありません。個人の古典的な、また社会的な自由、多様な欲求の実現と多様性の承認、寛容と共生、自由な個性、それらを支える国際化と生産発展、科学と民主主義の発展、この数世紀の人類の努力がもたらしたすべての成果を私たちは受け継ぎ、発展させていくことができるし、そうしていくことが未来の私たちと共存する現在の私たちの責務です。そしてこのことが資本主義というシステムの内部でもはやこのシステムを狭隘な外皮として脱皮するほかないないほどまでに発展した即自的な未来社会を顕在化すること、自由な人間社会の形成として実現することなのです。人類史を世界史として実在化した歴史の頂点を私たちは生きています。「それは、生産過程の物質的諸条件および社会的結合を成熟させるとともに、生産過程の資本主義的形態の矛盾と敵対関係とを、したがってまた同時に新たな社会の形成要素と古い社会の変革契機とを成熟させる」(『資本論』第1部、S.526)。工場立法の一般化についてこのように19世紀に語られた資本の運動の弁証法は現代においてこそますます豊かな内容をもってリアルなのです。

by kamiyam_y | 2017-01-25 21:14 | 資本主義System(資本論)

国境を越える人権と未来のアソシエーション社会-人権の国際化と自由な諸個人のアソシエーション

2月11日、ヒューマンライツ・ナウ、SACOM(Students and Scholars Against Corporate Misbehaviour)、 LAC(Labour Action China)という3つのNPOが、ユニクロとその中国下請工場に労働条件・労働環境の改善を求める共同声明を発表しました。
【共同声明】 短期的改善策を超える抜本的解決をファーストリテイリング社とその製造請負工場に求める |ヒューマンライツ・ナウ

企業が労働環境を改善するための行動計画の制定・実行・検証に対して「市民社会」が「知る権利」をもつという点が重要です。資本主義企業の私的排他的行動は、市民をそこに結合し、市民の社会的共同的空間を内包していくがゆえに、私的消費過程を社会的生産過程として実現するがゆえに、民主的共同管理の運動に対して企業の私的内部を公開する結果を導きます。私的所有的正当化と無媒介に企業は日々公共化しているのです。公共的というのはウソでほんとは私的だろ、という幼稚な批判ではなく、企業自身がつくる企業の実体によって企業が自己批判する運動を自覚化するのが理論です。

市民という普遍的性格において工場内の労働者は社会的に連帯しています。人権によって企業を制御することが、人間の尊厳が尊重される人間らしい社会づくりの基本にほかなりません。

民主的な労働組合の設立を勧告している点も見逃せません。働く人々の農奴的根性を払底し個人を主体化するためにも、組合において諸個人が自覚的にアソーシエイトすることが重要であり、民主的な新しい協同は自然発生的共同体や企業の再封建化された位階秩序に埋もれることからは生まれてはきません。市民のアソシエーションが社会的生産過程を包摂していく過程に、結社の自由の実現も含まれています。

この3NPOは先月、広東省のユニクロ下請工場の労働実態を調査し、報告書を公表していました。
ユニクロ:「残業月134時間」NGOが中国での問題指摘 - 毎日新聞

次の頁からpdfファイルを入手できます。
【声明・報告書・記者会見@15日・16日】ユニクロ中国国内製造請負工場における過酷な労働環境 NGOが潜入を含む調査報告書を公表|ヒューマンライツ・ナウ

NPOによる記者会見。
【イベント・記者会見】1/15・16・17開催!ユニクロ:中国製造請負工場における労働環境問題~調査団体の来日・記者会見・イベントのご案内�|�ヒューマンライツ・ナウ
ユニクロ"残酷工場"で何が起きているのか | トレンド | 東洋経済オンライン | 新世代リーダーのためのビジネスサイト

関連記事の一覧が同サイトにあります。
【メディア】ユニクロ記事掲載|ヒューマンライツ・ナウ

報告書は、ユニクロの生産物の生産過程を担うPacific Textile Ltd.およびDonguang Luenthai Garment Co. Ltd.を調査し、できるかぎり少ない資本とできうるかぎり最大の生きた労働を交換しようとする資本の衝動がひきおこす惨状が両工場においてどのように過酷に現れているのか、描き出しています。労働力の低い買取(低賃金)、労働力の長時間の酷使、そして、多数の罰則制度など人格否定的な私的専制の支配や、排水のフロア漏洩、高温、埃にみられるような、労働者の身体的健康・精神的健康・命・安全に配慮しない工場内の環境が具体的に伝えられています。

ここで確認しておきたいのは、資本がグローバルに搾取すれば、それに対する対抗もグローバルになることです。労働者の国際主義なんてありえないと悲観主義に酔った眼差しでは決してみえてこない現実です。資本を単に外部としてしかとらえない疎外された意識でしかない一国主義的共同体主義からは理論化できない現実です。私たちの自覚的社会関係に先行して無意識的に資本の諸連関として形成される労働過程の国際的諸連関があるがゆえに、私たちはそれを自己の対象として制御しようとするのです。

この工場がまったく孤立して運営されているのなら、そこで何が起きても私たちには関係ありません。ユニクロのサプライ・チェーンに束ねられているからこそ、労働者としても消費者としても学生としても研究者としても中国の工場に関心を寄せる。広東省の南沙区と東莞市にあるこの工場は、諸個人の労働が対象化する普遍性の分肢体をなし、私たちの共同の環境に位置しています。

市民的人権として抽象的だが産出された人間の普遍的な個人性は、労働する諸個人の人権の展開として生産的内容を再獲得して内容的に発展させられねばならず、この発展を着実に遂行すること以外に、未来の協同体が生みだされることなど断じてありえません。

やや硬い表現で恐縮ですが、端折って説明するとこうです。資本主義的生産諸関係の成立は、貨幣がまとめあげていく圏域を政治的権力としての共同体から分離させ、政治的国家から、人格的諸関係から経済を自立化させ、政治的権力から宗教的装飾を洗い流して宗教的権力を世俗的なもの、世俗的利己主義の形態に転換し、国家を宗教から解放し、経済を国家から解放し、人間を利己的排他的諸関係に解体され貨幣化された利己的物象的存在と、抽象的な人類、抽象的な人格的存在、抽象的共同体の幻想的な成員(自由平等な公民)とに分裂させます。神的権力であった共同体の権力を公民の幻想的共同体に、近代的政治権力に転換するこの第一の変革、市民/ブルジョアによる民主主義革命は、即座に、資本主義の確立によって、政治権力の本体に、自己に関係する貨幣、運動する貨幣を見いだし、この運動を制御しようとする変革に転換します。

資本主義の成立は、人間の個別性と普遍性の神的なものとしての調和の試みを、人間の分裂を前提する市民社会のなかでの恣意、利己的行為、選択の対象に縮小する一方、政治権力を人間が意図して契約したもの、人間個人が(抽象的に)主体として現れる領域になりたつものに転換し、公的世界を無差別的に普遍的な自由平等な人間を主体とする領域としてつくりだします。国家の正当化は社会契約論という人間の自己認識においてなされ、市民社会のあらゆる組織も自立的個人の合意の産物、アソシエーションとして正当化されるようになります。この第一の変革に対して、国家は絶えず個別性を押しつぶす普遍性として現れようとし、社会契約論的正当化が、絶えず現れてくるこの全体の論理に対して諸個人が闘う唯一の拠点として鍛えられていきます(註1)

第一の変革に対して、第二の変革は企業が労働する市民に対して正当化されざる全体として現れることによって必然化します。これを論じるのが、『資本論』第1部第7編第22章「取得法則の転回」論(=「所有法則と取得法則の分離」論)および第3部第5編第23章・第27章の「所有と機能の分離」論です。この議論は、搾取の露出を直接には主題化しているわけですが、最初期のマルクスの「政治的国家と市民社会の分離」論からの徹底として読まないと、おそらく、このようには理解できないでしょう。

諸個人から自立した全体の力がその真相を明かすのは、企業に形態化した運動する貨幣においてです。資本は、国家を抽象的に個人の集合体に還元しつつ、真の社会統合力は我にありとして振る舞いますが、その現象、現れ出ることが、諸個人にとっての対象としての現出を意味します。諸個人は、自己の社会的労働の力を資本という他者に見いだす。自己の共同の環境を他人の所有の向こう側の私企業の連関に見いだす。

他人の所有の力において、労働する諸個人の普遍性の対立的自立化が媒介され、諸個人に対して、彼ら自身の自己の社会的労働が対立します。

科学を体現する自動機械体系が連動しあう社会的労働のシステムを資本が収奪することにおいて、労働する諸個人の、自由な人格一般の、市民一般の社会的空間が実在化しながら、この社会的空間が他者の私的な領域でもあるという矛盾が生きています。私的労働、私的所有という前提の内部でこの前提を資本は止揚しています。この資本の自己解体的運動は、私的領域とされた資本の内部に見いだされた現実的な公民の世界に対して、この協同性にふさわしい民主的な社会的ルールの網をかぶせていく運動として実現します。

政治権力の制御にとどまることなく、企業の権力を諸個人が社会的共同的に制御することが現実の課題となるのです。労働する諸個人が自己の普遍性を自己の普遍性として自己の対象とすることが、私的諸前提の対立性のなかで出現しています。労働する諸個人の自己疎外は労働する諸個人が産出した対象をみずから獲得する運動に転回します。人権を発展させる主体としての諸個人(註2)が、資本という物象的な自立化の運動に対して、共同的な制御を試みるのは必然的です。

人権が抽象的な交換の自由から、社会的労働における諸個人の人権として具体化することなしには、また、社会的労働が自由な搾取から搾取に制限をかける社会的労働へと陶冶されることなしには、この過程を通過することなしには、人間の自由な個別性と自由な普遍性とを媒介するアソシエーションが成立することはけっしてないでしょう。第一の変革である市民革命による自由な民主的諸個人の形式の成立と資本主義における彼ら諸個人による民主的管理を徹底する以外に未来が実在するわけではありません。「資本主義的発展のもっとも民主主義的な『形態』のための闘争のほかに、どこか純粋な『社会革命』のための闘争があるわけではない」(山口正之『社会経済学 なにを再生するか』青木書店、1994年、267頁)のです。

註1 「国家からの」身体的・精神的自由として表象されるブルジョア的市民的権利・基本的人権もまた内容的に労働する諸個人を中心的担い手として擁護されねばなりません。このことは、労働者の民主的連帯から逃亡した落伍者と、反知性主義・排外主義・差別主義の温床であるこれらの社会的屑を親衛隊にする専制とが表現の自由を圧殺しようとすることに対して、それと闘う国際的な連帯が高まる現在、とりわけ強調されねばならない論点の1つです。表現の自由を抑圧するファッショな動きを許容すれば、民主的で先進的な労働者を弾圧する道が築かれることになります。労働者としての人権の発展は、国際的な工場法の形成はいうまでもなく、第一の革命をも徹底する包括的で総体的なものでなければなりません。
註2 人権・民主主義をブルジョア的と嘲笑したり、それを西洋の普遍主義と侮蔑してすませる左派の一部分は、人権を国家の恩恵に解消する反動派、軍国主義的黴が脳髄に密集する憲法改悪派と変わらない学習能力に欠ける人々にちがいありません。

by kamiyam_y | 2015-02-13 21:50 | 資本主義System(資本論)

Big Love

宗教国家という共同体的人間を守ろうとする措置ですかね。近代国家は国家的宗教あるいは宗教国家の軛からの国家共同社会の解放として諸個人を自由な諸個人として解放し、この解放は政治において封建的領主による排他的差別的所有のごとき私的所有を廃止すること(すなわち、万人の自由平等)であり、この解放は私的所有を政治的国家という民主主義ではなくその経済的実体である市民社会においてその完成に向わせます。宗教も、私的所有という分裂における連帯にいわば格下げされます。私的所有物に、物象的連関に、孤立的主体の選択の対象となった共同性に宗教的隷属は落下しますので、人間解放の主たる対象ではなくなります。宗教的国家は世界市民にとって1つの恣意として現れるほかないはずです。
サウジアラビア:外国人も「日中は飲食控えて」…断食月 - 毎日新聞

めっちゃ面白い。3年前に40で亡くなったREI HARAKAMIに触れつつ、Living Togehterを説明してます。埋め込んであるyanokamiちょっと泣けるかも。
凡どどラジオ辞典
by kamiyam_y | 2014-06-30 04:19

グローバル銭湯 2

中国を旅してこないだ戻った人が「すごく楽しかった」と言ってました。

日本で風呂を楽しむ中国からの観光客もいれば(>グローバル銭湯)、中国で食を楽しむ日本からの旅行者もいる。日本の生産関係の成熟(>日本人民の・・・)だけではない。

殴られた日本人にネットで8万人の「ごめんなさい」。この『毎日新聞』の次の論説の最後の部分がいいですね。

上海交差点:8万件の「ごめんなさい」=隅俊之 2012年09月24日

平和の誓いは不可侵の大原則。

中国に行ったその人は「平和だった。みんなフレンドリーだった」と語ってました。当然でしょう。中国において帝国主義打倒というタテマエのもと政権への不満の捌け口が集団行動となり、それに乗じた粗野で野蛮な、資本主義による陶冶を経ていないかのような一部の暴力(窃盗!)が現れたりしたとしてもそれが恒久的普遍的事実であるわけがない。マスコミは平和な日常ではなく、センセーショナルな映像を繰り返ししつこく流しますから、それが一人歩きすると、想像力や考察力に欠けている人々においては、実践的・客観的なイメージ形成が妨げられます。

人権という表象上の共同体は、物象化された現実的な共同体である企業の諸連関、再生産過程の物象的世界の力に衝突しますが、これは生きた個人の自己分裂です。個人の普遍性がその表象性を脱し、現実的な共同性が個人の普遍性の客体化として完成することが、この分裂の示す課題です。暴力として発現する国家という共同性も、個人に包摂され、諸個人が自身の延長として制御する客体的普遍性へと変容しなければなりません。人権による企業の制御は、人権による国家の制御と不可分です。

中国においてもむろん人々は国家と個人を区別してふるまいます。国家という幻想的な共同体と現実的な生きた諸個人を区別するのは、平和な日常において通常の正常な行為なのですから。人間の普遍性は国家を超えて存在している。

排外主義的暴力を人民が全力をあげて根絶すべきであるということは、生きた個人1人1人を原点とする近代的理念に即しても大原則。

近代という分裂状況において、唯一といってもよい価値観、社会的正当化の共通の仕様は、国家と人民を区別し、国家は人民に由来してのみ正当であるというものであり、個人が社会の正当な主体とされるということです。しかしながら、分裂状況は、たえず近代以前ともいえる局地的幻想や、国家という全体による個人の簒奪をもたらします。国家でなく企業と企業の個人を区別できないふるまいすら私たちはいまだに止揚できていません。全体主義はつねにそこにある。だからこそ、私たちは生きた個人の尊厳という価値観の基盤にたえず立ちかえる必要があります。

23日のNHKスペシャル「対立を克服できるかで」で(その時間、ETV特集「シリーズ チェルノブイリ原発事故・汚染地帯からの報告 第2回」をメインで観ていてたたまたまチャンネルを変えたときにですが)、韓国の女の子がインタビューで「騒いでいるのはどちらの国も一部の人だけ。私は深刻に考えていない」という趣旨で答えていました。

「一部の人」ではないふつうの人々は、生身の人間どうしがじかに顔をあわせるということがなくても理解しているのであり、客観的に俯瞰できる力を発揮しており、想像力・共感力を人間的に用いているわけで、はじめから直接に、国境を越えた普遍的な存在といえましょう。

ふつうの人々は、幻想的国家と実際的人間を区別し、国家権力と人民・人民の生活を区別し、対立的な国家的共同性と生まれ育った社会への愛着とを区別し、国家的幻想と現実社会に暮らす人々とを区別し、疎外された組織とそのもとで矛盾を生きる個人とを区別できてます。

追記 かつて戦争の惨禍に苦しんだ諸国がその反省をふまえて1つのEUを形成しているのに比べると、東アジアはなんて遅れているんだと思わざるをえません。とはいえ、このアジア的分裂状況を大きく規定しているのも後発的諸資本主義の地域間格差のように思えます。経済的依存関係の深化によってもまだ乗り越えられていない。またやはり西欧が王権と民衆との対峙を軸とした社会形成を通じて社会的対話や民主主義を発展させてきたという環境もEUの努力を支える要因として大きいような気がします。
by kamiyam_y | 2012-09-25 20:16

グローバル銭湯

人民の意向は脱原発で確定。

http://www.asahi.com/politics/update/0827/TKY201208270101.html
http://www.asahi.com/politics/update/0825/TKY201208240650.html

「パブコメや世論調査から浮かぶのは政府に対する国民の怒りで、安全性を求める意見が多い」という小林傳司教授のコメントは適切。これだけの事故を起しておきながらの原発推進は人類への暴力でしょ。

つい先日の話。展望風呂に行くため乗ったエレベーターで、観光客の家族といっしょになりました。父と小学生くらいの息子、母と娘で仲のよい雰囲気で中国語で何か話してます。中国語ができれば話できたのにな。

エレベータ-から出ると左に男湯、右に女湯があります。親子より先に暖簾をくぐりました。

父子が入ってきて体をシャワーで洗い、湯船に。一足先に浸かっていた私は、ふだんはそんなことしないのに、日本の銭湯の入り方をレクチャーしたかったのか、変な日本を演じたかったのか、変な習慣に歓んでほしかったのか、まちがった日本の習慣を覚えてほしいという悪戯心か、なぜか、頭に手拭いをのせてました。

ところが父と息子はすぐに脱衣場に戻ってしまいました。あれれ。長湯の習慣は日本にしかないんだっけな。と思いきや、二人は単に(頭にのせる)手拭いを取りに行っただけででした。

この旅でいい想い出をたくさんつくってほしいと思いながら、またも先に、風呂から上がりました。私の方がカラスの行水。そういえば私はここ数年風呂桶にお湯を貯めずにほとんど朝夕シャワーですませてます。浴槽も使わないと汚れます。労働の炎によって生産物は生き生きと輝く。

その帰りにではないんですけど、中国から留学に来て日本で就職した卒業生にばったり会いました。世界中から多くの人々が日本に旅したり学んだり働いたりしてくれることは嬉しく誇らしい。

なにかの番組でニュースキャスターとかいう人が「固有の領土」とかいきなり言ってました。マスメディアが国益にとらわれず報道する日がいつ来るのだろうかとあきれるほかなかったです。資本主義が国民単位でシステム化するうえでそうした幻想が形成されるのだということまで述べよとは期待しないが、少なくともできるかぎり客観的に各国の主張を紹介するとか歴史的事実を伝えるとかいう姿勢のないメディアは危うい。カネで島を買おうとする試みが報道されてもいますが、経済的土地所有権と国家的領有権は違うよ、ということは無視しても、この試みが語るのは、これまでの歴史が生産手段の軍事的・人格的、経済的な奪い取りであったということにすぎません。

28日に「ワールドビジネスサテライト」のなかのニュースで、韓国からの観光客を手配・サポートしている旅行代理店では韓国からの観光客は減っていない、と放送されていました。

http://www.tv-tokyo.co.jp/mv/wbs/newsl/post_26018/

観光客へのインタビューで、一般の人には関係ない、と答えていたのが興味深く、また、大韓貿易投資振興公社KOTRAの人が「経済面での結びつきが以前より強くなったことで政治に左右されなくなった」と言っていたのもちょっと印象的でした。

日本と東アジア諸国との政治上の対立が経済的には何の利益ももたらさないとビジネス界が考えるのも、資本が国境を越え、経済的依存関係がますます緊密となり拡大しているからこそです。物象的依存関係の発展は、国家間の幻想的・政治的な軋轢の影響を抑えるよう作用します。

労働がそのグローバルな本性を発揮して国家を超えて展開しているという客観的条件の生成において、偏狭な国家主義・排外主義による内的諸矛盾の隠蔽に一部の疎外された人々が吸収されるのもグローバリゼーションが引き起こす軋みであって、国家権力どうしの振舞いに民衆の一部分が同調し(疎外された・幻想的な共同体に自己同一性を虚構し)いがみあうような非文明的・野蛮状態は、人類史的に進歩的な方向性の正反対。資本の文明化作用のもと諸個人が世界史的諸個人として陶冶されるのが資本主義時代です。

朝テレビつけたらたまたま横浜の鶴見が紹介されてました(「とくダネ!」)。

http://blog.fujitv.co.jp/tokudane/E20120831002.html

鶴見に沖縄料理や南米料理が集る地域があるって知らなかったんですけど、インタビューされてたペルーの人が美人でした。ペルー料理食べに飛んでいきたい。

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註記的覚書(9月8日)

脱原発について。もしもフクシマを忘却して原発推進に向かうなら、自由な人格の尊重が、物象的な剰余価値の運動に敗北したということであり、平たくいえば人間の論理が利潤の論理に敗北したということです。逆にいえば、誰の目にも、人間の生存こそが第一であり安全を第一に考えねばならないということが公開されており、民主的成熟がみられること。

グローバリゼーションがもたらす軋轢について。それが私たちに語っていることには、諸人民が各々の国家権力を相対化し平和と相互尊重のための共同の戦線を張らねばならないという人民的共同の客観的要請、国際協調のシステムの陶冶の必然性が含まれています。社会保障という人権の発展にとっても、生態系の保全にとっても、「ディーセントワーク」の実現にとっても、「社会的包摂」の実現にとっても、万国の自由な諸個人の連帯が不可欠の鍵となります。地域的・国家的・世界的な諸関係を連結する資本の運動をいかに私たちが制御していくのか。「持続可能な発展」Nachhaltige Entwicklung / Sustainable Development を国際スローガンにするまでに国際的公共性が深化している現代において、事柄の本体は、生産手段の非人間的・非人格的な集中によって推し進められてきたこれまでの対立的な発展のありかたを、グローバルな民主制による地球的生産過程の制御にもとづく、調和的に媒介された発展のありかたへと、人権がグローバルな内実を獲得した、対立性を止揚した発展のありかたへと転回していく、労働の人類史的な転換運動にほかなりません。疎外された労働は資本を介して、人間は資本という対立的自己によって、国家という統合を超えグローバルな類的本質を形態化しつつあります。

追記(9月26日)

続き書きました。グローバル銭湯 2
by kamiyam_y | 2012-09-01 03:32 | 現代グローバリゼーション

国家と市場。ケインズ主義的・国家独占資本主義的国家と新自由主義的国家

金曜デモの拡がりはめざましい。札幌の参加者にも様子を聞きました。北海学園関係者では本田さんがマイクを持ったそう。

政党でも旅行代理店でも何でも、各地の金曜デモに参加するツアーを組んだら面白いのに。

本題。エコロジカルフットプリントという考えがあります。

ウィキ

廃棄物の浄化と資源再生に要する面積が、すでに実際の地球の面積を超えているという話。

何が興味深いのかっていうと、資本のシステムが環境と両立しない点をイメージできること。

地球という私たちの根源的生存条件を維持するためには価値増殖のための価値増殖に進歩を委ねた疎外と孤立のシステムを止揚せい、ということを感覚的に示す一つの表示です。

環境維持の責任はとりあえず資本主義的国民国家にあったわけですが、この力はすでに資本の前にボロボロです。

20世紀の資本の国家を大恐慌に対して一般化した経済介入国家のように表象してみましょう。

と、これの中心って、私的資本の利潤低下に対して国家が経済活動によって肩代りして恐慌を先送りする方策ですね。 相対的過剰人口(不安定雇用・半失業・失業)という労働力価格押さえ込みと労働者の反抗を押さえる資本の生存条件を維持し、労働力再生産・供給という資本の生活条件を確保する、という福祉国家の裏の意味もありますけど。

先進資本主義システムが戦後高度成長を果すなかでのこの国家に対して、私的資本(民間企業総体)の振舞は、労働者を搾取しながら、かつ自分の利益を促進する国家にも価値を振り向ける、というものかな。成長、利潤蓄積によって税収が増えれば、国家による肩代りという方策が機能します。ビルトインスタビライザーの中身はこういうことでしょうね。

しかしながら、高成長によって大工業が普及して社会の実体的な土台が形成されれば、利潤率は低下するほかありません。

安価な労働力を求める海外直接投資の展開がすすむわけですが、これまた産業空洞化をすすめてしまう。

かくして私的資本の振舞は、国家に依存しない実体・公共物を自認して、自信ありげにあるいは余裕なく、税を納めず労働者を搾取するという精神に劇的に転換。この経済的内容の転換こそが国家の新自由主義的編成替えにほかならない、ようにおもえます。

ところが、資本主義的グローバリゼーション・新自由主義は、社会保障等を危機に陥れるがゆえに、一本立ちできる正当性根拠をもつことができません。持続可能ではないことがあらわです。

同時に、一国ケインズ主義は資本の矛盾を解消できず、新自由主義に転換しまた陰でそれを支えた自分自身を批判することに。ケインズ主義の破綻はそのまま新自由主義の破綻ですし、その逆もまたそう。

社会保障という人権と対立して、人々の幸福を支えずして、何のための経済なのか。おふざけでないよ。経済のための人間でなく、人間のための経済じゃないか。口先だけ、建前だけでなく、真に人間個人個人のための社会経済へ。あらためてわれわれは覚醒せざるを得ない。

地球環境問題は、個々の産業やどこかの企業の問題ではなく、地球資本主義を全面的に制御することを求めています。労働問題もまた、資本のシステムの根源を批判しつづける問題。グローバリゼーションの展開は、局限された共同体的なものとの摩擦によって、あるいは大工業・科学を用いた戦争等々によって、逆説的に人権の発展を国際的に課題とします。資本の経済国家・一国ケインズ主義の破綻、および、世界市場の資本・新自由主義の破綻は、資本主義という現在自己を解体しつつあるシステムの表現としてこのシステムの限界を露呈し、国際主義的/地域的/人権主義的な解決をこれらの破綻を乗り越えるものとしてますます必然化していくにちがいありません。
by kamiyam_y | 2012-07-23 04:03 | 現代グローバリゼーション

マルクスの未来社会:大谷禎之介『マルクスのアソシエーション論』によせて(1)

久々に風邪ひいただす。疲れてるのに中島公園の祭りに行ってそのあと家で眠るときにも、気温が上がってきてるので風邪ひかねえよおれは、とおもって油断してたら、翌朝鼻の奥が乾いて倦怠感に襲われました。でも経験上マスクして暮せば治る程度のものだと感知しそのとおり、もう治った(かな)。明日からは北海道も雨で寒いらしいじゃないですか。台風4号のせいらしく。

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マルクスに学びその未来社会論をつかむことは、生きた現代世界そのものの、私たちの人類そのものの、私の本質そのものの巨大な運動です。その微細な1分子たらんとして、マルクス的把握において未来社会論がまさに現代社会の把握にほかならないことを少し考えてみます。

なによりもまずマルクスの知的苦闘の対象は、今現在のシステムなのであります。

現在が未来を限定する。これは労働の実践的ありかたの1つの発現であり、巨大な変革のうねりも労働の発展です。

マルクスのこの格闘、現在のシステム把握は、その総括において大きく人類史を示します。それが「否定の否定」の構図。

疎外という産出過程をその頂点にまで高めるのが現在であり、そこでは、諸個人がその個別的自己から普遍的な自己(自然・社会)を分裂させ、その疎遠な力のもとに包摂されて、この普遍的な環境をつくりだしています。全面的に飛躍的に、エネルギッシュに。

自然から産まれおちた人類は、形成途上のシステムとして、自然発生的に、疎外された普遍性の能動化を介してまとまっている。生産する諸個人は自己に疎遠に対象を生みだす。生産の対立性が人間の諸力を、社会を形づくる。この過渡的ありかたを完成しているのが現在です。

現在という矛盾の運動は、それが止揚した、生まれたばかりの人類の起点を普個の直接的な一体性として私たちに想起させ、未来を指向してはその自己否定的自己存立において、現在を止揚した人類社会を示します。マルクスが論じるのはあくまでも現在のシステムにほかならず、未来社会も、現在のシステムがその大枠を規定している総体の性格においてのみ述べられています。マルクスはこの点厳格に禁欲的。

マルクスが記述する資本主義後の社会は、対象認識とされたものの外部に接ぎ木された単なる「理想」なんてものではありません。彼の理論的格闘は、理論から価値観やイデオロギーを分断・二元化して主張する態度を徹頭徹尾退けています。

マルクスの未来社会記述は、未来システムの具体的諸分肢、具体的諸形態を描く夢想ではありません。現在の資本主義から離脱した資本主義後の具体的な諸関係は、新たな社会的生産が限定していくもの。その限定において自由とでもいいましょうか。可能性を閉じるようなことはしない。マルクスは未来社会の具体図を、現在の自己(生きた総体)の徹底という以外に細かく描くようなことは一切しないんですね。それをしたら、実践的認識から分離した夢や願いに等しいものになってしまいますから。

社会的生産有機体としての生きた社会システムが、その根源の労働のありかたを変え、新たな有機体へと転化するとき、その有機体の諸器官・諸姿態は、古い社会から受けついだものの転換だったり、新たに生みだされたものだったりします。多様な諸関係をその姿態にしていきます。未来社会の具体的な諸姿態もまた、新たな総体の性格のなかで総体が受け入れていくもの。現在のシステムの通過点性をマルクスが論じていることを論じているのに、未来社会の細かい具体図がないことをもって批判した気分になる、そういう態度もよくみられますが、それって実際は自分の空想性を他者に反映させているだけなんですよ。

あくまでも資本主義の否定性においてのみ未来社会・「社会主義」はとらえられるのであって、この否定性において私たちは資本主義が対立的にその内部に実体的に産出する人類・未来社会を透視することができる。

資本という分裂した自己において対立的に社会的生産過程が世界的交通において成立し、諸個人が社会的・世界的な諸個人として成長していくという巨大な進歩を、マルクスは資本主義のなかからつかみだして離しません。この壮大な発展・成長の歩みは、まさに資本主義をも自らの限界として突破していくような動的な産出にほかなりません。

現在のシステムである資本主義、これこそが唯一の理論的把握の対象であり、この把握こそが、未来社会をとらえる尺度となりえます。またこれが「現存社会主義」を把握する尺度でもあります。現存社会主義を社会主義と定義してそれに付随する「事実」を集め理論をつくりましょう、という話では断じてありえません。それは恣意的な観点が陥る非実践的な堂々巡りでしかない。

このシステムの運動は、人類史の疎外をまとめあげつつ完成した人類社会を産出するという、独自の強い意味での過渡的秩序をおりなしています。生きた矛盾のシステムの完成態であるがゆえに現在のシステムは、その内在的矛盾の止揚である未来社会の形態化を指し示します。新社会の産み落としという未来を明示します。現システムを超え出る新社会の出産を指示します。

未来社会の受胎、出産をマルクスが記述するのは、現代という矛盾のシステムに即してです。

彼のテキストにおいて、未来社会を表す用語は、社会主義、共産主義、社会的生産とかもありますけど、その多くが「アソシエーション」とそれに近い用語です。いろんな訳語があるために、同じ用語であることがわかりにくいのですが、「アソシエーション」です。自由な諸個人のアソシエーションです。えっ、生産手段の社会主義的所有じゃないの?社会主義国家の計画経済とか、共産主義の人民的所有とかじゃないの?これだけでも私たちの俗物的な常識は正しく転倒されてしまいましょう。

大谷禎之介『マルクスのアソシエーション論-未来社会は資本主義のなかに見えている-』(桜井書店、2011年)http://www.sakurai-shoten.com/content/books/074/bookdetail.shtml

本書はマルクスのテキスト群から、恣意的な抜き出しや訳語の当て方を避け、丁寧に彼が未来社会をどのように呼び、それがなぜなのかを論じています。

個人から分離した全体の力ではなく、あくまでも主体は個人。アソシエーションのふつうの用法にもそれはあります。会社や協会、連合とか。個人を飲み込む自然発生的共同性ではなく、個人の意識的・自覚的行動が生む共同性です。

資本主義の否定を成し遂げて社会的生産過程を自己のものとして制御するのは、自ら意識的に結びあう「アソーシエイトした」労働する諸個人。

諸個人が「アソーシエイト」して生産過程を制御することによって再建されるのが、「個人的所有」のもとに潜在していた個性の自由な発展。新社会が復興するのはまさに個人の発展です。

諸個人は私的労働を止揚して、生産関係を人格的・協同的に媒介し、個別的自己の力を1つの社会的力として意識的・自覚的に支出する。諸個人は賃労働を止揚し、労働の実現諸条件との分離を止揚して、それらを自己のものとします。自己から自立し他者化した自己の普遍性に包摂されるのではなく、諸個人がその普遍性の対象化を自己に包摂する。社会システムの真の根源的実体である自然=個人が生き生きとした主役となります。

「現存社会主義」なるものをみれば、いうまでもなくアソシエーションは実現していませんわな。そこでは、諸個人は疎外された労働を行い、諸個人から独立した力が「国有化」「計画」という名称のもとに、諸個人の疎外された労働を吸収し、それを覆いかくすシステムが成立していたというほかない。

資本主義的生産は、その歴史的任務である生産諸力の発展を世界市場の展開において遂行し、その文明化傾向を貫いて、諸個人を世界史的諸個人に転化し、労働する諸個人を社会的に鍛えあげます。資本の社会的生産の本体は諸個人の社会的生産であり、資本の生産力の本体は諸個人の社会的労働の生産力である。このことを資本のシステムは露出します。資本は、資本のものである社会的生産を、直接には他者においてある社会的生産を、われらの社会的生産と見抜くような意識を生みだす。資本の自己増殖そのものが、諸個人の社会的生産を阻害するもの、諸個人の発展を阻害するものとして現れており、資本のシステムは、自らの限界を露わにし諸個人にそれを自覚させるのです。対立を通して諸個人は自らの社会的諸力の奪還に向う覚醒した主体に転化するのです。(もう一回続く)
by kamiyam_y | 2012-06-20 00:40 | 資本主義System(資本論) | Trackback | Comments(0)

原発利権の解体を

昨日30日『毎日新聞』2面(14版)に掲載されている「福島第1原子力発電所周辺の累積線量結果」という図をみてみます。浪江町国道沿いで年間の人口被爆限度の5倍の累積線量5.743ミリシーベルトが測定されたという文科省発表を伝える記事に付された図です。

政府が「自主避難」を促した半径20~30キロ圏内にある広野町の地点では1時間あたり平均線量0.0031ミリシーベルト、測定時間120時間の累積線量が0.372ミリシーベルト。

浪江町の30キロ圏外にある放射線量の高いスポットでは、1時間あたり0.0484ミリシーベルト、測定時間118時間で累積線量5.743ミリシーベルト。

ネット版(毎日jphttp://mainichi.jp/)の数値で確認すると、浪江の同じスポットは1時間あたり0.0503ミリシーベルト、測定時間95時間、累積線量4.813ミリシーベルト(更新3月30日3時23分)。
放射性物質:ヨウ素、福島で2万3000ベクレル - 毎日jp(毎日新聞)

政府の半径20キロ圏内避難指示は現状の危機に対応していない。きめ細かい観測にもとづく汚染分布の把握や、地形・風向き・天候など多様な要因を考慮したシミュレーションの利用など科学的評価にもとづいて住民の安全を最大限に確保しなければならない。ところが、崩壊した原発が放射能を吐き続け、廃炉の見通しも立たないなかで、東電・政府の「安心」発表、「直ちに健康に影響はない」発表、過小評価発表が繰り返されており、後手後手の対応に住民大衆も国際社会も翻弄されてます。専門家の見解をいくつか確認。

『毎日新聞』22日の記事での矢ケ崎克馬琉球大名誉教授のコメント。
福島第1原発:放射線の蓄積、注視必要 累積被ばく問題も - 毎日jp(毎日新聞)
〔略〕【須田桃子、下桐実雅子、神保圭作】〔略〕一方、放射性物質を吸い込むことで起こる「内部被ばく」に詳しい矢ケ崎(やがさき)克馬・琉球大名誉教授(物性物理学)は「政府の『直ちに健康に影響しない』という発言は、その後の影響がまるでないように言っており問題だ。放射性の微粒子が体に入ると、体にとどまるため継続して被ばくを受ける。吸い込みを防ぐためにはマスクをする以外にない。野菜などの食品も水でよく洗ってから食べて」と話す。〔略〕


ベラルーシでチェルノブイリ事故の医療支援を行っていた菅谷昭松本市長。
東日本大震災:福島第1原発事故 国の対応は後手後手 松本・菅谷市長が批判 /長野 - 毎日jp(毎日新聞)
〔略〕菅谷市長は、米国など諸外国が同原発から約80キロ圏内の在住者に避難を呼びかけたことについて、「海外の方が危機意識が高く、日本や東電は浅い」と指摘。避難範囲について「思い切って広げるというのも一理ある。人命の問題であり、やりすぎということはない」などと語った。〔略〕【大平明日香】

「子供にヨード剤を!」チェルノブイリ現地支援の菅谷昭医師 (1/2) : J-CASTテレビウォッチ

『毎日新聞』(25日朝刊)、野口邦和日大歯学部専任講師(放射線防護学)のコメント。避難・屋内退避エリアを検討しなおす必要があることを述べてました。
雑草からセシウム265万ベクレル 飯舘村

『北海道新聞』3月30日16版3面「(ニュース無視めがね)プルトニウム漏れの影響は」から京大原子炉実験所小出裕章助教。
〔略〕京大原子炉実験所の小出裕章助教(原子核工学)は「プルトニウムも含め放射性物質が大量に放出されていることが問題。現場の作業員や住民の今後の健康に影響が出る恐れがある〕と話す。(森栄一郎)


今中哲二京大原子炉実験所助教(原子炉工学)の土壌汚染試算。
ヘッドライン | 科学・環境 | 医療・健康 | 汚染レベルは「チェルノブイリ強制移住」以上 京大助教が試算 - 47NEWS(よんななニュース)

「飯館村の汚染レベルが、チェルノブイリ原発事故による強制移住レベルを超えている」。

一人一人の命を守るために政府がなすべきことは見積もり最小限ではなく、データとありうべきシナリオの公開、最大限の危機までを想定した対処にほかなりません。専門家の批判的見解をはじめとする叡智を集め、人々の力を合わせていかねばなりません。

『北海道新聞』も連日一面は原発関連の記事を大きく掲載していて、今朝は会長の謝罪会見。紙媒体とネットでは細かいところに違いもありますが、ご覧ください。
福島1~4号機は廃炉へ 原発安定めど立たず-北海道新聞[道外]

ようやく廃炉表明。遅いんだってば。

経営不安で東電国有化案も浮上 政府、混乱回避へ支援-北海道新聞[政治]

原子力損害賠償補償契約に関する法律では、事故の損害賠償を国が肩代わりすることが規定されてます。ずるい感じも受けますが、危機管理という社会的共同利益を担う能力に欠けており、賠償責任も自分で果すことはできない東電に大胆な公共的関与が必要なことはわかりきっています。欧米では東電国有化のシナリオが論じられており、フィナンシャルタイムズが「破綻」「国有化」「原子力事業切り離し」のどれかまたはすべてが取られるだろうと述べているらしいですが(春名幹男「国際情報を読む」『日刊ゲンダイ』3月25日号・発売24日)、言うまでもなく東電という会社が何千回、何万回破綻しようが、放射能で汚染された故郷は戻ってこないかもしれず、原発事故が人間・社会・自然に深刻な破壊的影響を与えた事実は消えず、事故が直接に間接に人々の生活、生命に刻んだ傷は癒えない。

30日朝刊『毎日新聞』の一面では汚染水は数千トンと伝えています。
福島第1原発:汚染水は数千トン 除去作業難航 - 毎日jp(毎日新聞)

26日には2号機内の汚水から「測定作業ですぐに針が振り切れた」ほどの放射線が検出された。
asahi.com(朝日新聞社):2号機汚染水、15分で被曝上限 放射能大量流出の恐れ - 東日本大震災

24日の3号機作業員3名の被爆。汚水から被爆し、さらに内部被曝。
asahi.com(朝日新聞社):被曝作業員の放射線量は2~6シーベルト やけど治療も - 東日本大震災
時事ドットコム:高放射線量、作業員に周知せず=東電「3人の被ばく防げた」-2号機に真水注入作業

〔略〕東電は26日、1号機の同建屋地下で18日の時点で高い放射線を検出しながら、現場の作業員に周知していなかったことを明らかにした。1号機も3号機同様、地下に高濃度の放射性物質を含む水たまりがあり、東電は「しっかりと注意喚起していたら、今回の被ばくは防げた」と認め、謝罪した〔略〕


社会的労働過程における最大級の人権侵害が進行してます。放射能を流出させ人間と環境を破壊する企業であれば、内部の安全管理体制も杜撰で、労働現場における人間の安全に対しても無責任で配慮できない。NHKの水野倫之解説委員が「作業員の被爆管理のありかたに問題がある」とコメントしてましたがその通り。環境破壊も、秘密主義も、労働する一人一人の安全という人権を蔑ろにするのもすべて同根。

「協力会社」という言い方、東電と対等のパートナーが作業しているみたいな言い方がされてますけど、東電の正規雇用従業員ではない労働者が東電と名づけられた資本の身体となって、疎外された共同体の手足となって、高い放射線量を教えられることもなく被爆したんです。最も危険な場所には東電の従業員ではない労働者も送り込まれ決死の作業を続けている。東京新聞の次の記事が、「底辺にいる下請けが危険な仕事を任されるとの見方は根強い」として「原発ジプシー」の存在を紹介していました。

東京新聞:下請け協力会社の悲哀 福島原発:社会(TOKYO Web)

作業にあたっているのは450人で東電「社員」は「約380人」。

時事ドットコム:第1原発に作業員450人=食事は1日2回、雑魚寝状態-福島

労働する諸個人450人が人々の命を守るべく自分を犠牲にして過酷な最前線で決死の労働を遂行しています。事故が人々の生活、生命をこれ以上破壊するの食い止めるための闘いに身を投じています。自分たちの労働のもたらした悲惨な破滅的結末に苦悩し会社に対して怒りを覚えながらも、被災しながらも決死の労働に自らを酷使しているような東電の正規従業員もまた、下請労働者とともに放射能汚染された破壊された環境のなかで悲劇的で英雄的な協働を壮絶に遂行し、自己を犠牲にし持てる力を尽しているにちがいありません。深い敬意を覚えます。

1100年前の地震の解析にもとづき巨大地震が来ることが指摘されたにもかかわらず、東電は無視したらしい(『毎日新聞』27日朝刊3面)。いかに人の命を守ることに無関心か。

福島第1原発:東電「貞観地震」の解析軽視 - 毎日jp(毎日新聞)
東京電力福島第1原発の深刻な事故原因となった大津波を伴う巨大地震について、09年の経済産業省の審議会で、約1100年前に起きた地震の解析から再来の可能性を指摘されていたことが分かった。東電は「十分な情報がない」と対策を先送りし、今回の事故も「想定外の津波」と釈明している。〔略〕


巨大な危険を想定して対策することには熱意がない東電は、嘘の報告にも余念がなかったよう。BBCの次の記事。

BBC News - Is Tokyo Electric Power becoming Japan's BP?

動きだしてしまった利権の運動体は嘘を身にまといながら進む。虚偽報告はお手の物だったのだ。

東電の反社会的隠蔽体質はもちろん東電が自分一人でつくりだしたものではありません。政府も財界も東電同様の安全軽視の秘密主義に浸ってきたのです。

日本政府という名の共同体の権力機構もまた人民の安全を確保する義務を遂行することには前向きではなく、危機管理という社会的共同利益を担う計画的能力に欠けています。原発の耐震基準についてIAEAからなされた警告を無視したと報道され、欧州委員からは今回の対応に「信じられないほど場当たり的」と批判され、いまや日本政府の不透明さが国際社会の問題として浮上しているかの感がありますね。

時事ドットコム:「日本の原発耐震基準は時代遅れ」=IAEAが08年に警告か-ウィキリークス
【ベルリン時事】英紙デーリー・テレグラフは17日までに、内部告発サイト「ウィキリークス」が入手した米外交公電の内容として、国際原子力機関(IAEA)が2008年12月、日本の原発の耐震基準は時代遅れで、大規模な地震が発生した場合、「深刻な問題」が生じる恐れがあると警告していた。〔略〕


Japan earthquake: Japan warned over nuclear plants, WikiLeaks cables show - Telegraph

原発事故対応は場当たり的 制御不能とEU欧州委員 - 47NEWS(よんななニュース)

電力会社と政治家と官僚と御用学者からなる委員会が「産業上の司令官」となって原発建設を国策化して推進してきたのであって、私たちはこのことを忘れてはなりません。

諸個人の安全に対して配慮しない価値増殖、蓄積のための蓄積の無計画な本性が原発推進にも貫かれているのです。安全対策を節約する資本の対立性が人命を奪う事故を招くのは産業革命以来続いているわけですが、環境保全対策を怠る資本のこの対立性は、現代科学の発展、生産諸力の発展とともに巨大な環境破壊をもたらしうるものとなり、科学にもとづく現代的協業の力、生産諸力を社会的民主的管理のもとにおくことを絶えず根底から要請することになります。

「大手重電の元技術者たち」が「自己批判と原発政策の告発」を「事故以来」「続けている」と伝える『北海道新聞』の記事(23日朝刊2面)。これは驚きです。

「会社はコスト優先」 原発の元技術者ら ネットで自己批判-北海道新聞[暮らし・話題]

原発の設計に「津波を想定しない米国の設計図をコピー」することから始めたのだと。政官財学の複合体は、人民の安全よりも何よりも原発建設を早くしたくてしかたなかった。

「コスト優先」とはこの場合、生産諸力の理性的に管理された発展ではなく、諸個人の人権・生活・生命と調和しない無計画で無政府的な発展であり、社会的に必要なコストを理性的、協同的に勘案することではありません。「想定外」とはこの無政府性の弁解の声にすぎない。放射性廃棄物の処理を将来の世代に押しつけてることにも明白なように、なによりもまず原発建設ありきであって、安全は二の次だったというべきでしょう。

ちなみに「インターネット放送」。
後藤政志さん、田中三彦さん 記者会見部抜粋, MB13 Ustreamに保存されたビデオ:110312原子力資料情報室記者会見 政治

前出「会社はコスト優先」(北海道新聞)から。

東京のNPO環境エネルギー政策研究所顧問竹村英明さん(59)は「日本には許認可権を持つ経産省、学者、電力会社などで作る原発ムラがある」という。
「原発ムラ」とは言い得て妙というべきですね。排他的で、局限された共同性は民主的に制御できず、暴走します。政官財の利権共同体が東電の隠蔽体質・杜撰な管理体制を育て上げたといってもいい。虚偽報告に騙される通産省(経産省)の無責任体制とともに。また東電の隠蔽体質に同調する政府の不透明性とともに。社会のムラ的ありようもまた不透明な原発建設を許容してきた。

資本という無政府的成長は、日本的「原発ムラ」という1つの歴史的な姿をまとった。地方に札ビラを撒き「地域振興」や「雇用」で人々を誘引して原発を立地してきた自民党政権、許認可権や各種のカネの力で資本の間に縄張りをつくる官僚、原発推進のための天下り団体、排他的価値増殖体の集合物の人格的姿である財界・電力会社・電力会社の貨幣に頼るテレビ局は、みな貨幣の力に平伏す物神崇拝信者であって、貨幣がかぶる醜悪な仮面として機能し、それが、安全な生活という人々の基盤を壊した。政府が人民を被爆させ、官僚が人民を被爆させ、財界が人民を被爆させた。政官財の無計画で無責任な複合体が放射能汚染をもたらした。

経団連会長はこれだけの大惨事なのに原発を讃えています。無責任のかぎり。
原発「津波に耐え素晴らしい」 原子力行政「胸を張るべきだ」 経団連会長が発言-北海道新聞[経済]

人間一人一人の命を守るための安全確保策を講じるという社会にとって不可欠の支出(費用・負担・コスト)が、私企業の空間内で私的コストの節約、「コスト優先」によって切り捨てられた。社会的支出としての労働を利潤という形で自らに吸収することには抜け目がない資本、安全確保という諸個人の人権保障・社会的必要をコスト節約と称して蔑ろにすることには長けている資本という生産関係のその対立性が破壊的な形で露呈している。

資本は、労働の吸収度を高めるべく労働生産力の発展をもたらし、同一量の商品生産に要する労働時間の短縮をもたらし、このことによって、潜在的に、人々の労働時間の合理的配分と自由時間の増大の可能性をもたらしました。しかし、同時に、資本は収奪にもとづく無政府的な生産であって、安全・安心の実現という社会的に媒介されるべき諸個人の根源的な欲求と対立しています。

資本のもとに解体され飲み込まれていた諸個人は、社会的・自覚的主体として、生産体の秘密主義、人権抑圧、環境破壊、利権の力を克服しなければなりません。安全・安心の実現を社会的に媒介するべく民主主義的主体として自らを鍛えていかねばなりません。資本の無政府的な発展を諸個人の協同のもとにおかれたものへと転換し労働の理性的配分と自由時間を現実のものとしていくことを人類史的課題として担います。

政府は原発から半径20~30キロの屋内退避エリアに「自主避難」を呼びかけるこれまた後追い的な方針転換をしましたが、「自主」って、人民の安全を保障する政府の義務を放棄して、共同性を解体された孤立的個人に事態を委ねてしまうんでしょうか。政府の支援なしに移動できる人は移動し、重点的に移動を確保するのであればさしあたり分りますが。実際入院患者など移動が難しい人は政府による移送が行われてはいますけど。

福島第1原発:避難圏内にまだ百数十人 自力移動が困難 - 毎日jp(毎日新聞)

しかし、慣れ親しんだ好きな土地であれば簡単に去っていけるわけもなく、自分の風景、記憶の素材から切り離されるのは苦痛であり、大切な家や墓や畑を後にするのも大きな悲しみが伴うわけですから、移動に躊躇う人も出てきます。この危機において政府が住民を翻弄してはなりません。

福島第1原発:自主避難「政府に不信感」南相馬に残る市民 - 毎日jp(毎日新聞)

在日米軍関係者は80キロ圏内から出るように国防総省から命令を受け避難し、米政府は80キロ圏の外に退避するように自国民に勧告。避難をめぐる基準はどちらが正しいのか。菅谷松本市長が日本は危機意識が低いと述べたように、安全の確保として日本の対処には大きな欠陥があります。

救出活動中の被爆を発表 米第7艦隊 (オルタナ) - Yahoo!ニュース
米国 / 米軍、福島原発80キロ圏内からの避難命令 / The Wall Street Journal, Japan Online Edition - WSJ.com
米政府、自国民に原発半径80キロ圏内からの退避勧告 | 国内 | 特集 東日本大震災 | Reuters

科学にもとづく判断が国家によって左右されないことからすれば、また命を守るための社会的理性的判断が最優先されねばならないとすれば、避難地域が政府によって異なるのは、おかしな話です。転倒した現実です。日本政府と米政府どちらが科学的判断にもとづいており、人命尊重の精神を体現し、有効な安全対策を実行しているのか。

命の重みに差はないという原理を承認するのであれば、グローバルな人権と科学にもとづく判断にのっとって、安全対策こそは国際社会の協調によって遂行されねばなりません。日本政府の非公開的で後追い的な対応のもとで悲劇を拡大してはならない。国際社会の強力な外圧と迅速な介入もまた有効で必要。

上杉隆が「いったい日本人だけが放射能に強いのだろうか」と述べているのももっともです。
海外諸国と日本政府、避難範囲50kmの差 ――枝野官房長官に「安全デマ」を問い質す|週刊・上杉隆|ダイヤモンド・オンライン

国家という疎外された共同性が取り結ぶ熱い絆の擬制性、国家という疎外された局地的な共同性の利己的本質がみえる気がしますね。等しくその生命を尊重されるはずの人間諸個人が国家という共同性によって分断されている。世界史的個人であり人類の一員であるはずの諸個人が、所属共同体によって全く異なる安全保障を受ける、ある人々は80キロ圏外への避難を命じられ、ある人々は20キロ圏内からの避難を指示されるというように。危険な場所が日本政府と米政府では異なるという不思議です。海外政府は、現地政府の20キロ圏内に限って避難を求める措置に同意するふりをしながら情報隠蔽を疑いこの措置を信頼せず、独自の調査・判断によって自国民にだけは80キロ圏内からの避難を勧告し、直接の担当者である現地政府は、自らの対策を実質的に否定する「盟友」の対応を表向き否定することもなく自国民には30キロ圏外安全を主張して恥じない。国際社会は日本に対して外圧による変革を。
by kamiyam_y | 2011-03-31 12:03 | 民主主義と日本社会

連帯の絆を

情報の正確かつ迅速な公開。これこそが決定的に重要な課題として自覚されています。『日経』の17日の社説も「政府や東京電力の情報収集や提供も要領を得ず〔中略〕混乱が広がっている」と冒頭で述べていました。公権力の情報公開はいうまでもなく企業が内部で集めた情報を社会に発信することが今生死を分ける問題として切実に要求されているのです。情報公開の要求として自覚されている事柄の中身は、より立ち入って捉えれば、私的形式の生産体が内部情報を開示しなければならないということ、私的資本が内部の情報を社会的なものとして公開しなければならないという現実自身の要請であり、現代システムの運動様式、矛盾にほかならないといえましょう。

正確な情報の共有を求める声はいまや国際的に拡がっています。報道によれば、IAEA(国際原子力機関)の天野之弥事務局長が18日経済産業大臣に伝えたとして「国際社会は連携して取り組むべきだとの提案が多くの国からある。各国はもっと詳しい情報を欲しいとも言っている」と伝えたそうです。

首相「原発情報を全世界へ開示」 IAEAの天野事務局長に - 47NEWS(よんななニュース)

危機に対して行動しようとしている国際社会が情報の滞留によって焦燥感を抱かされているのですね。

現代システムの私的・排他的分断が、事態の協同的解決に対する妨げとして鋭く露出していると思われます。私的諸資本としての私的所有・私的生産という孤立と排除、あるいは排除という疎外された統一、これはまさに現代システムを形成し存立させる運動なのですが、これが危機解決のための社会的聯繋の裏に蠢く私的諸利害の衝突となり連絡を断ち切る亀裂として現れています。現代システムの不安定で流動的な有り様そのものが人々の連帯を遮っている、私的・排他的存在への不断の分解と分裂において生産を社会的生産に転じ社会を存立させる現代社会の存在の仕方そのものが、諸個人の協同的行動を抑圧する力に転じているのではないでしょうか。

徹底されるべきは、社会的なものを社会的にふさわしい形で管理していくこと、諸個人の協同の形態化でしょう。私的に分断された組織の幹部の裁量に事態を委ねるべきないことは、現在誰の目にも明らかです。ましてや東電の社会的管理能力、事故の解決を担当する社会的能力に欠落があることは疑えないのですから。東電と政府との責任の押し付け合いとみえる混迷に多くの人々がおそらく感じとっているのは、現在の社会的危機・緊急事態を社会的に超克していく取組みを私的組織の偶然的な能力に放置するべきではないことにちがいありません。

電力供給事業は企業の形をとっても、その中身は社会的生産過程の社会的機械設備における協業であり、この社会的設備は、個々の労働手段の作動に遍く活力を与え、労働対象に変化をもたらし、個人の直接的な生活の生産において消費・享受される生活手段(消費手段)に息を吹き込みます。同時に、そこに実現する自然諸法則の利用、自然諸力は広範囲に及ぶ深刻な自然破壊・人間破壊をもたらしうるものです。電力会社の政策は必ず国民(人民)的政策でなければなりません。

公的機関および民間諸組織を深く広く連結で結び、専門家をはじめとする諸個人の叡智を国境を越えて集め、情報を分けあい、事態の打開に向け鼓舞しあい、連帯を呼びかけあい、連帯の絆を緩めることなく力を合わせていくこと、人間の本質諸力の発揮しうるすべてを困難の突破のために発揮していくことが私たちの急務です。先の『日経』17日社説にも「内外の知恵と人員、機材を総動員し、一刻も早く事態を鎮静しなければならない」とありました。

この社説がまた米政府の支援チームやGEによる電源車提供の表明に関して「危機を乗り切るため支援受け入れをためらうべきではない」と主張するのもまっとうであろうと判断します。仮に何らかの思惑のために機会を利用する利己主義が隠れていようとも、国際的支援の力が不可欠であることは言うを俟ちません。世界的労働の諸力を、被災地の一人一人のために最大限に発現することが求められているのです。多国籍の軍事的諸力もまた社会的労働の生産諸力の一存在形態なのであり、この部分を人間の生存の危機を打開するために転用することに躊躇は不要なはず。被災した人民のために諸力を結集することは民主社会における生産諸力の共同的管理の一形態ともいえます。東電の最前線の労働者をはじめとする労働者階級の無名の一員の、(こういう言葉を用いるとすれば)英雄的な、気高い献身を最大限に活かし、あらゆる力を集結して危機の回避、救出、救援を遂行していくためには、「透明性」「公開性」が原則として徹底され、内外の諸組織が有機的に結びあっていかねばなりません。

内外の諸組織が聯繫しあい、救助活動、被災者支援、復旧活動に、可能な限りの物質的手段と人々の生きた活動とを投入し、被災して苦しいなかで支えあう人々に、医薬品、食料、寝具、衣類、住居などの物資と、医療をはじめとする活動・サービスを集中していくことを望んで止みません。市場は社会的生産過程へと融合した生産過程であり分配の装置ですから、これをうまく規制しながら活用し物資とサービスが被災地に流れていく工夫や方略を私たちは見いだしていかねばならないように思えます。痛ましい事態にあっても分かちあう優しい人々の手元に彼等が求めるものが届くように、商業労働や運輸労働など様々の関連する労働がその社会性を充分に発揮できるように、また被災者のために人々がその高い倫理性を行動において発揮できるように、智慧を集めさらなる方策が進むことを願っています。

資本にもとづく生産がもたらす最大の成果は世界史的諸個人、すなわち人類である一人一人、生きた人類です。資本主義という外皮を剥ぎ取ればそこには人類としての諸個人が生成している。人類の協働の社会的生産過程が地球規模で人類自身のための土台として成立しつつあり、人々の意識もまた人類的なものへと陶冶されていきます。

高嶋哲夫「一人ではない」(『日本経済新聞』3月18日12版32面)は、阪神・淡路大震災のとき「なにより心の支えになったのは、人との絆を感じたときだ。〔中略〕そしてそれは、今では世界的な広がりで伝わってくる」と述べ、ネット上に書き込まれた世界各地の人々のメッセージを紹介しています。高嶋が「一番感動した言葉」として紹介している声がすばらしいのですが、どのようなものであるかは手に取る機会があったら読んでみてください。

被災地の無数の無念の思い、呻きと声にならない叫び、同じ時を過した大切な人との予期せぬ別離の落涙と悲嘆、苦しみのなかでの分かちあい、無数の助けあい、無数の励ましあい、そして無数の慟哭。これらに呼応して世界のいたるところで悲しみが共有され、世界の隅々に悲哀が運ばれ、数知れぬ願いと祈りが発せられ、連帯の絆が結ばれ、励ましの声が響き合い木霊していく。

惨劇の中にも、人々の希望を、人々の絆を、愛という人間本性を見いだす。そんな思いがします。
by kamiyam_y | 2011-03-20 18:47 | 企業の力と労働する諸個人