さっぽろ地下鉄のなかでマルクスを呼吸する、世界を呼吸する

はじめに

「地下鉄」という限られた時空においてでもマルクスを学びたいという気持ちからタイトルを適当につけました。じっさいは地下鉄では寝てるか、人を観察してるか、スマホ見てるかなにかしてますけど。やや理屈をつけくわえると【理論は現実の外の机上にある非現実的なものではなく、それ自体、人間的生命が発現する生きた総体の生きた要素にほかならない】という理論観をも一応こめたつもり(「世界の中心で愛をさけぶ」にひっかけたみたいなタイトルになってしまいましたが、「愛」という言葉が示すのは人間的本質の実現、相互承認であり、人格的協働であって、学問とはその点からすればまさに愛の理論的実現ですから似ているのもしかたない。いやそんなことないか)。

研究・休息・仕事・遊びをじゃましないかぎりで気がむいたら投稿・更新させていただきます。やる気無くてすみません。覚書・雑感・素材など。

kamiyamaY(kamiyam_y)
# by kamiyam_y | 2005-04-01 00:00 | このブログについて

サービス残業は、概念的にドロボーとおなじ

Excite エキサイト : 社会ニュース [ 03月24日 17時23分 ] 共同通信

サービス残業をさせ、割増賃金を払わなかった疑で、会社の幹部が労基法違反で書類送検という事件。

「サービス残業」なんて言い方、あたかも無報酬の奉仕活動みたいですね。
実態は賃金不払。だれもがわかる搾取・収奪のたぐいです。労働者が、いやいややってもよろこんでやっても、賃金泥棒にかわりありません。

厚労大臣がいったようにちゃんと「賃金不払残業」ってハッキリ言いましょう。

もし、ある日いっせいに「サービス残業」やーめた、と働く者がみんなやめたら機能停止になる会社ばかりではないのでしょうか。

これで会社が、取引先に納品できず、商品を供給できなくなったとしてもそれは「会社」の責任です。サラリーマンは単に労働力をレンタルしてるだけです。それを時間内で使えるかどうかは、会社の仕事なんですから。会社を代表する経営者の責任です。経営者の下で独自に行われる時間配分は、サラリーマン一般の責任ではない。
時間内で、買ってきた材料(労働力、原料、道具)をうまく組み合わせて、生産物をつくれるかどうかは、生産者である「会社」の仕事である。

「サービス残業」をやめて業務が滞るなら、責任は「経営」にある。

また、いっせいに「サービス残業」やめたら機能停止になる会社ばかりだとしたら、一体だれがこんな体制をつくりあげてきたのでしょうか(さらに、「だれ」という問題から一歩進んで考えるべきなのですけど)。

日本的な仕事習慣や雇用慣行は、私有財産制っぽくない。それはそれなりの美点もあれば、強さもあったといえましょう。
まったくもって、労働者がこの「サービス」をやめたら企業が崩壊するなら、企業はすべて労働者のものですね。

日本的な経営は、資本主義の日本における成熟において意味をもっていたわけですが、反面で賃金不払残業という泥棒を、負の遺産として蔓延させてしまったこともたしかです。

賃金不払残業……は、労働基準法に違反する、あってはならないものである。……
 しかしながら、現状をみると、未だ労働時間の把握に係る自己申告制……の不適正な運用など使用者が適正に労働時間を管理していないことを原因とする割増賃金の不払いなどの状況もみられるところである。(厚労省「賃金不払残業総合対策要綱 」2003.5.23)


労働時間の長時間化傾向も、地域によってちがった現れ方をする

日本的経営の特徴として、いろんな場所でいろんな作業を従業員にやらせてみるというのがあります。これはこれでいい面もあるわけですが、どこの部署に行っても、特定技術系以外はみんな素人ばかり、っていう生産性の低さもあるような気がします。契約社会でないあいまいさはいい面もあるけれど、残業に関していえば、ヨーロッパとの違いは知っておいた方がいいと思います。

たとえば欧州ですと、労働者は他の労働者の職域に踏み込まない。電気工に、機械工の道具の片付けを命じると拒否されるという(藤本正『労働契約・就業規則・労働協約』学習の友社、36-37頁)。

ドイツでは労基署の抜き打ち検査もあり、労働時間を短くする工夫がされているという報告はたとえば、熊谷徹「ドイツの会社生活」NHKドイツ語会話 2003年1月号

労働者が私有財産制を武器に

労働者は、私有財産の持ち主としては、会社と対等です。会社に、労働力というモノを、時間決めで貸し出してるわけです。レンタルの条件は普通の人は守ります。CDだって、車だって、遅れたら延滞料金払うはず。壊したら弁償するはず。

労働力も同じです。洗濯機をレンタルで借りるとして、いっぺんに5キロまでしか洗濯してはいけないのに、毎日8キロ洗濯していて、標準耐久時間より早く壊したら、カネはたくさん払わなきゃならないでしょう。一日8時間使うと普通にもつ労働力を1日16時間使うのは不当です。

賃金不払残業は、どろぼうです。レンタル商品をただで使っているのですから。


賃金未払残業は、近代社会の根幹を否定している

封建社会ですと、土地は王様のもの。王様は家来に土地を保有させ、家来はその家来やら領主に保有させる。農民は、土地から移動できず、領主のための労働を行う。

これに対して、人々が法的に自由になった近代社会では、誰もが私有財産の持主。土地を売るのも自由。自由に自分たちの労働の成果を商品交換しあう。こんな近代社会の原像からすれば、泥棒こそは、個人間の契約という自由の承認を否定すること。賃金不払分業は、近代社会の根幹と対立する。

しかし、資本主義の重要な法則の一つが「長時間労働の法則」である。
いま勝手に名づけただけですけど、個々の資本家は、自分の買った労働力は長く使いたい。それが壊れたって、代わりは買ってくればいい。

これに対して、労働者は、労働力の売り手としてこれを正常に使わせる権利があります。

両者の力比べの決着は、共同体(社会の理性)の登場です。つまり、8時間労働法というような法律によって、搾取の自由を制限する、あるいは、生産過程を制御することになります。

この法律は個々の資本家や会社や経営者を縛ります。
これがないと、経営者が「ウチは競争上、ほかの会社よりたくさん働いてもらう、
それがおまえらのためだ」といった説教をたれる世界になってしまいます。

こうした全体的な規制があるために、個々の会社にとってはこれが守るべき競争条件になります。守らない会社は取り締まりの対象になります。

しかし、この規制が全体の規制になっていなければ、一部の経営者が守るだけとなって、
守らない経営者が得をすることになります。つまり、規制を守らせる体制が必要となります。


労働力を売り買いするときの契約

すごく単純化してみると、日本は個人間の契約より共同体的な雰囲気が根強く、労働力のレンタルもなんかあいまいかもしれません。
これに対して欧米は私有財産権をもっと強く意識している、あるいは契約社会で契約が明快だとしましょう。とすれば、労働力のレンタルの契約も、「時間」「使い道」はっきりしていることになります。

「時間」を厳格に守るなら、着替えも休息もこのレンタル時間に入っており、レンタル時間を越えたら、労働者はすぐに職場から出るはずです。机の上が片付いていなくても、ねじを締める途中でも、労働者は時間契約をまもり、午後5時に会社の門を出るのです。

これに対して日本だと、労働者は仕事と一体化しているというか、時間になっても職場にいたりします。労働者が自分の無能がいけないんだと、残業を自分のせいにして心を病んだり、家族のためであれ、デートであれ、プライベートを大事にする人が、職場共同体の集団主義から攻撃を受けたりするかもしれません。日本の場合、「時間」単位で労務提供しているというよりも、自分に与えられた「仕事」をぜんぶこなさなきゃ、という意識が強いと思われます。

労働力の「使い道」を守るとは、契約外の労働をしないことです。たとえば、フォークリフト操作の女性が女性だからとホステス業務やウェイトレス業務をしないということ(お茶くみしないということ)。あるいは、手が空いたからといって、ほかの職種の作業員の片付けの手伝いをしたりしないことです。

これは、労働者が自分の意思で労働するのではなく、あくまでも会社という私有財産の持ち主の意思によって仕事することでもあります。

もちろん、ほかの労働者の尊厳を守るということ、職域を侵さないということでもあります。

生産の全体の管理や、納品は組立工の仕事じゃありません。

これに対して、日本だと、上司の指示に従うだけの従業員はやる気がないなんていわれるかもしれません。経営的な労働も、経営的な労働用につくられた労働力を買ってきてさせるのではなく、従業員共同体のなかから選出された人がしたりします。ほかの職種をしていた素人さんが年功で管理労働をおこなったりします。

日本だと、残業に対して、割増賃金を払うどころか、
「仕事があるんだからよかっただろう」
とお仕着せがましく、店長がどんどん店員の労働時間を延ばしてしまうことすら
(別にどこぞのコンビニの話じゃないです)。

日本だと、あまりに残業が一般化しているうえに、共同体的な雰囲気で、自分だけ抜けられない、という残業を断りづらくなる心理が働くでしょうし。

ある観光バスの会社では、ガイドさんから、休日を買うそうです。労働法上どうかと思いますが、休日一日2万円だそうです。これに給与が別にでるらしく、運転手よりガイドのほうが給料がいいばあいもあるんだと。しかし、給与がいいってのは、たいていとてもハードか、なんらかのリスクが高い職種にかぎられるでしょう。

「所定内労働」でのまっとうな給与を地道に要求するしかないんです。

残業しないと生活できないのは、賃金が切り下げられて、残業をあわせた時間が
実質の労働時間になってしまっているからです。

仕事が楽しい、職場に忠誠心を感じる、自分の成長のためだ、といった理由で
長時間労働も苦にならない人もいます。
しかし、こういう事実が、「所定外労働」を正当化する根拠になるわけではありません。

私はカネのために働いているのではない、人が喜べばいいのだ。
こうかんがえて、あえてカネにならないところに自分の力を集中することもあるでしょう。
しかし、会社はまずさしあったてはカネのために働くところです。カネのためではないなどと主張するのは犯罪的に迷惑です。資本主義企業は、カネと労働力の交換によってなりたつ場です。

賃金不払残業を自らサラリーマンがすることは、盗みに協力することです。

そうではない、自分の自由な気持ちからしているのだ、会社のために。
こういう気持ちをもつ人もいましょうが、これは自分の労働を安売りしています。
自分の仕事に対する誇りと敬意を欠いてしまうことにもなりかねません。

全く当たり前の権利でさえ、主張するのがはばかられたり、
賃金不払残業を当たり前のように思ってしまう。こういう日本の現状に対して、

けっこう大学生ですとそこらへんは賃金不払残業はおかしい、許せないと言うのですが、
実際に日本的雇用慣行のなかにはまって生活に追われている人は、
現状を変えていく気力もないのかもしれません。ともかく生活の糧を得られればよしとなってしまうはず。残業を断りづらい環境のなかで断るのは勇気もいるかもしれません。もう少し挑発的な言い方をすると、仕事をこなして組織の犯罪にいったん目をつぶらせることでメンバーを抜けられないようにする、告発する勇気をにぶらせるのは、軍隊やヤクザだけでなく、普通の会社もそうなのかもしれませんよ。

これはサラリーマン個人の問題ではありません。個人の疎外の結果であるシステムをどうするかです。少なくとも、日本の労働組合も、企業も政府もそれぞれ責任があるでしょう。

しかし、ともかく、人間としての豊かさはやはり自由時間をもつことが条件です。

そのためには、労働者が、生産の材料や道具にたいして、自分たちのものにたいするかたちでかかわることが必要です。働く者は自分のものによって自分の意思で働くときやはり生き生きとする。しかし、小土地所有者の社会だったら、生産が発展しない。資本家の手で生産を集中して発展する。しかし、それは働く者にとっては疎外なんです。

ともかく自由時間は人間の豊かさの泉です。

仕事が自己表現や自己実現とぴったり重なっているのでないとしたら、仕事のせいで友人とすごすこともできず、自分のすきなこともできず、恋人とすごすこともできないんじゃ、何のために生きているんですか。
体をこわしてまでしなきゃいけない仕事がそんなにあるわけはなく、またそういう特別な能力の持ち主もそんなにいるわけじゃありません。
自分が必要とされているという幻想を得たいがために仕事にしがみつくとしたら、おばかさん、
悲しいですよ。

でも、労働者の自由意思が限定されいるのが資本主義です。労働者の立場は実質的に弱い。特にこんな不況でしたら、仕事にしがみつかねばならなくなる。

だからこそ、賃金労働者は、対等の権利を会社に対して主張し、それを支援できる政策的な道具(労働法や労基署など)を使う正当な権利を持っています。

また企業内組合ではなく、企業を超えた労働組合が、労基署と協力して、残業に対して抜き打ち立ち入り検査をする権限をもつといった方法も考えられます。組織擁護よりも、市民として内部告発をできるよう制度を充実させること、市民の法律教育も大切です。

余談。労働時間を短縮すれば、サマータイムなんて導入しなくても(したら労働時間延長になるだけ)、消費にまわす時間は一応増えるし、ワークシェアリングにもなりまっせ。週35時間の成熟した社会に比べ、週60時間以上の日本はほんとどれだけ世界に貢献しているんでしょう。貢献してないとしたら、どこかで無駄に消費されてるんでしょう、労働の産物が。
前近代的な就労形態といえば、学校の教師ですね。
ドイツみたいに、午前中は授業、午後は次の日の授業の準備、というのが正しいです。
事務作業は別の職種に任せるべき。
学校の外でも生徒の家庭に踏み込んでいくドラマに出てくる教師たちって、正しい労働者じゃありません。


労働者が私有財産を武器にすると労働者も規律を要求される

賃金不払残業を窃盗として拒否することは、労働者が私有財産権を武器にして自分の生活を豊かにすることです。権利主体としての正しい行為です。

そもそも残業は会社が労働者に例外としてお願いするもんです。

しかしこれは労働者自身を鍛えることにもなります。
だって、昼間はのんべんだらりとサボっていながら、夕方あたりから仕事を始めて、残業手当をたくさんもらう連中いるでしょうから。そういうやつらは、残業解消に抵抗するかもしれないです。権利を主張するのはけしからんとか言い出すかもしれません。

私有財産制を厳密に守るということは、会社を「男の風呂場」だなどと言っているサラリーマンを追い出すことでもあります。先ほどの「時間」でいえば、契約時間をすぎているのに、サラリーマンが机を使ったら、不当な使用ですし、他人の私有地内に居座っていることになります。

私有財産制を守るってことは、ちょっとややこしいことも招きます。パソコンとインターネットの普及は、サラリーマンに会社の備品をあたかも自分のものかのように感じさせるでしょう。知的労働者は遊びが好きです。仕事中の気分転換にネットで遊ぶでしょう。

ところが、私有財産権からすれば、社内メールの抜き打ち検査で50人クビ、という米国の会社でおきていることも、程度はどうであれ、ありえます。会社の備品の消しゴムを私用に使ったら窃盗です。会社のパソコンと通信網を、仕事と関係のないことにつかったら、ややきつい言い方をすると、やはり他人のカネを横領するのと同じ。会社のパソコンは会社のものというこの関係からしたら、社内メールのプライバシー保護より、不正使用ということになるよう。

ニューヨーク・タイムズ社:電子メールの不正使用で23人を解雇 | Wired News


厚生労働省のつぎの文書、いいですよ。賃金不払残業をやめさせる立派な正当性にもなります。

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賃金不払残業総合対策要綱について
(平成15年5月23日)
(基発第0523003号)
(各都道府県労働局長あて厚生労働省労働基準局長通知)
(公印省略)

……

(別紙1)
賃金不払残業総合対策要綱
1 趣旨
賃金不払残業(所定労働時間外に労働時間の一部又は全部に対して所定の賃金又は割増賃金を支払うことなく労働を行わせること。以下同じ。)は、労働基準法に違反する、あってはならないものであり、その解消を図るために、「労働時間の適正な把握のために使用者が講ずべき措置に関する基準について」(平成13年4月6日付け基発第339号。以下「労働時間適正把握基準」という。)を発出し、使用者に適正に労働時間を管理する責務があることを改めて明らかにするとともに、労働時間の適正な把握のために使用者が講ずべき措置等を具体的に示したところであり、厚生労働省としても、その遵守徹底に努めてきたところである。
しかしながら、現状をみると、未だ労働時間の把握に係る自己申告制(労働者が自己の労働時間を自主的に申告することにより労働時間を把握するもの。以下同じ。)の不適正な運用など使用者が適正に労働時間を管理していないことを原因とする割増賃金の不払いなどの状況もみられるところである。……
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堀忠雄『快適睡眠のすすめ』〈岩波新書〉岩波書店、2000年を読んでいたら、昼寝の有用性について考えさせられました。建築関係の職場では安全管理として昼寝がとりいれられているように、昼寝が仕事を全うするのに必要な場合もあるといいます。また、本書では、それから夜型も立派な体質だとあって、自信を回復しました。朝ほんと弱いんです。それもあって「サマータイム」導入反対です。

寝る間を惜しむことを賛美するのは、不合理な根性主義です。

万国の労働者よ、昼寝せよ。

あ、それから、人材派遣会社のバイトのことで質問してきた学生さん、もうしわけないんですが、法律も労組も、自分で調べられること自分で調べておいてくださいな。派遣は派遣会社と契約した労働条件で働きます。労組もあります。
# by kamiyam_y | 2005-03-31 00:02 | 企業の力と労働する諸個人 | Trackback | Comments(0)

資本主義によって私有財産制はおしまい

えっ?資本主義経済って、みんなで私有財産をもって自由競争することでできてるんじゃないの?

あらためて、考えてみましょう。資本主義社会の特徴って何でしょう?
高校の政治経済の教科書なんかですと、「生産手段の私有財産制度」と「利潤追求」なんて書いてあったりします。

でも、「現代」をつかむときにはこれではたりません。もちろん、この2つの特徴はなくなりません。
しかし同時に、資本主義社会がすすむということは、それが、「生産手段の私有財産制度」と「利潤追求」という自分の特徴を否定していくことでもあります。利潤追求のためには私有財産がじゃまになる。利潤追求が人間にとってじゃまになる。ここに「現代」の舞台があります。

私有財産という城塞のなかから大資本家が、間接的に国家に影響を与え、社会を統制している。そんな私有財産図式も、私有財産をもつ原子論的個人の予定調和も、現代をとらえられません。

利潤追求が事実上いらなくなることは、成長主義の限界や、情報化や、成長の終焉がしめすはず。私有財産制度が事実上は終ってしまうこと、これもありとあらゆるところで出てきます。株主総会の形骸化など「会社」の問題もこういう文脈のなかでおきてきます。

ソフトバンク系がフジの筆頭株主になって、ライブドアの買収攻勢に対抗しているそうな。

Excite エキサイト : 経済ニュース [ 03月24日 21時55分 ] 共同通信

さて、ライブドア以外のニッポン放送の株主にとっては、フジに対する支配権がなくなっては、なんだかなあ~ということになる。
もともと、ニッポン放送はフジテレビの筆頭株主なのに、グループを統括しているのは実質フジ。こういうねじれにニッポン放送の株主は文句を言うべきだったし、このニッポン放送の株主としての権利を使おうとしたのがライブドアにすぎない。時間外取引も機関投資家が東証と結託してこそこそやっていたことにすぎない。

リーマン・ブラザーズが背後にいようがいまいが、日本の株式市場での外国人投資家の重みは増しているし、外資はけしからん、という政治家の反応も時代錯誤を露呈しただけだった。敵対的な買収を防ぐための規制を、という声もとても間抜けに聞こえる。

そして今回のこの手法も無限にインチキくさい。それだけではない。

貸株は空売りで使う手法として認知されてしまっているからと、仮にこのさき司法がこのフジのやりかたにお墨付きをつけることがあるとしても、である。やっぱり私有財産制をくつがえすという歴史の進歩はここでもかわらない。

結局このばあいでも、経営者が自分に友好的な株主に議決権を避難させただけだし、もっといえば、経営者の言うことを聞きそうな株主を経営者が選んでいるという倒錯だし(ソフトバンクが今度はフジを支配しようとすることもあるかもしれないが)、誰でも知っているのは、ライブドアを排除するためにとった手法だということだ。
個々の株主はやっぱり自分の意思を自分で表明できないペットのような存在で、株価があがればよころぶだろうと、経営者から配慮してもらう受動的な存在だ。株主どうし利害が衝突しあい、意思を否定しあう物象化された世界の住民におとされている。

ここでホリエモンがニッポン放送株を売ったら、「やっぱマネーゲーム」といわれるからそれはできない見方もあるだろうけど、最初からマネーゲームでしょう。ホリエモンが損をすれば誰かが得をする。他人の利益を積極的につぶすことが自分のためという万人の争いの世界、じかに富をつくるのではなくカネを移転させる世界なのだから。
# by kamiyam_y | 2005-03-28 23:28 | 資本主義System(資本論) | Trackback | Comments(0)

放送の公共性と消費者の知る権利(フジテレビの公共性)

「血液型と相性の関係。学校でも職場でも役立つ情報満載の内容です。」

フジテレビが昨年の秋に放送した番組の広告からです。見てませんけど、お笑い番組を情報満載というのでしょうかね。

血液型番組は批判されたので最近はまた別のネタらしいですけど、血液型番組の問題が別に解決されたわけでもないので、取りあげてみましょう。

古代社会で、政治を占いに頼ってするのは普通です。しかし、現代社会で、職場の人事管理を血液型性格分類によってやってしまっては、ただの愚かな経営どころか、プライバシーの侵害でしょう。というか、血液型を採用基準にしたら、まさに血液にもとづく差別です。ぜったいにやってはいけません。身分制社会に舞い戻りです。重大な犯罪です。

学生からの情報では、バイト先の面接で血液型を聞かれたという例がいくつかあるんですけどね。「べつに献血のバイトじゃないんですが(笑)」と学生が書いてくれてました。

国際消費者機構による権利と責任という宣言では、消費者の責務として、「批判的意識」「問題意識」をもつことがあげられ、消費者の権利として、知らされる権利と、教育を受ける権利があげられています。

⑦ 消費者教育を受ける権利 ― 基本的な消費者の権利及び責任と如何に行
動するかを知る以外にも、情報を与えられ、自信を持って商品やサービスを選
ぶのに必要な知識と能力を得られること

① 批判的意識 ― 商品やサービスの用途、価格、質に対し、敏感で問題意識
をもつ消費者になるという責任

放送番組を「商品」と考えると、欠陥商品をつかまされ被害を受けたばあい苦情を適切に処理される権利が、視聴者にはあることになりますね。血液型番組が原因でいじめを受けたらこれにあたるんじゃないでしょうか。
もちろん受けなくたって、「意見表明権」が視聴者にはあります。この点テレビ局も、個人も対等です。
また、消費者の責務を視聴者の責務として考えると、批判的に番組を見ろ、弱者に与える影響を考えろ、というように敷衍できそうです。自分の権利を実現するには、訓練が大切なんだ、といえるでしょうか。

さて、血液型は遺伝によりますが、遺伝による分類学を放送するのが、公共的なんでしょうか。ナチの優生学をもちだしたら刺激的に聞えましょうが、おなじです。ちがいますかねえ。
まさか、番組を作っている賢い方々が、血液型分類が、科学の装いをした疑似科学だってわかってないわけないですよね。バラエティというくくりがあれば、消費者がよろこぶなら、何を放送したって公共的なんですね。きっと。

そうではなくて、わかってなくて正しい、と主張してるのでしょうか。そうではなさそうですね。だってニュースでは絶対、心霊なんて出てきませんから。

それともユーモアのつもりなんでしょうか。

タブロイド紙で「人魚が生きてた!」とかいうおふざけとわかっている記事を読者が楽しむ、というような一種ひねった楽しみかたを視聴者がしているのでしょうか。そうはおもえませんけど。女性誌の占いコーナーの読者が全員、占いをバイトさんがテキトーに書いていると知って読んでいると思えないのと同じです(まあ、バイトが書いても占い師が書いても、信じたい人はすがれるものがあれば何でもいいんでしょうけど。街の占い屋さんも未経験歓迎のバイト募集の公告出してるし。占い師が占ったところで、占い自体はすべて、無関係なものを連想によって結びつけるだけのことですから。占いよりも、占い師の話術、聞き上手さ、権威みたいなものがおそらく重要なはずですから)。

アニメの主人公がへんてこりんな能力を発揮しても作り話ってわかるでしょうが、血液型はけっこう科学のトレーニングを受けないと見破れなかったりするのではないかな。都市伝説というかうわさ話のたぐいだとように冷静に見ることをしない人がいるから、定着しているのではなかろうか。

さてさて、科学を装って科学を否定するのが、放送の公共性なのでしょうかねえ。およそ近代社会では私人の商品として売られているオカルトを、公共の電波で売るんですかね。信仰の自由とは、公認の知識から信仰が切り離されることを意味してます。多チャンネルのオカルトチャンネルなんですか、フジって。
差別を助長する可能性のある疑似科学をつかって、芸能人がけなしあうような番組づくりが公共的なのでしょうかねえ。もう少しきつい言い方をすれば、「霊感商法」販売人が、「放送の公共性」なんて恥ずかしくて口が裂けても言えないでしょう。言わなきゃかわいいんですけど。

もちろん、個人がどんな愚かな思想を持つのも自由だし表現するのも自由。フジテレビという一組織も、愚かな思想を信じる個人と同格の、愚かな思想を表現する主体だと言いたければ言えばよいでしょう。本当かどうか判断するのは視聴者。視聴者間の親子の対話の場もつくった、といえばいいでしょう(でもあたかも「ほんとう」のことのようにつくるから、メディアの信頼は低いんですぜ)。

もしそう言うのなら、だったら「公共性」って何だってことです。組織の力を独占し、電波を国の許可で(つまり税金投入して)、差別を助長する、あるいは子供の成長の可能性を奪う欠陥商品を売るんでしょうか。科学をきちんと主張する放送局もあるから、こちらはお笑いでいくって主張してるならいいかもしれんが、科学を偽装しておいて、「テロップで番組終了時に科学的に証明されたわけではない、っていってますから」とか、「バラエティーだからふつうの人ならわかるはず」と弁解するのも、とっても姑息で下品。
フジテレビの自由な番組づくりを応援するからこそ(うそ)、自主的な企業倫理が必要なわけですし、視聴者の異議申し立て権が保障されなきゃいけません。フジテレビは個人じゃありませんから、これは僕の独自の妄想、と主張するわけにはいかんのです。公共の電波使ってるんです。
主張には冷静な手続きが必要ですがもちろん、バラエティーは集団幻想にのっとった視聴率稼ぎですから、こんな面倒な手続きはしません。ずるいですね。

メディア独占体に対する個人の主張が大事です。だから、血液型番組を批判する個人を、もしもただのクレーマーや総会屋とおもうならまちがいだし、組織を批判する個人を集団でいやがらせ(自分が信じるものを批判されると、自分が楽しんでいるものを批判されると理性を失う人がたまにいるみたいです)するようなことがもしもあるとしたら、日本社会の未熟な面、市民社会の底の浅さでしょう。

もちろん、フジが次にどんな手でライブドアをおとしめようとするのか、見物だとかんじてる私も十分に俗物で愚かな消費者ですけど。

視聴率稼いで広告収入を得ること、つまりカネだけが民営放送の使命だ、中身がいくら低レベルでもいいのだ、ともしもフジテレビが主張するなら、ライブドアのカネの力路線に対して「公共性」を持ちだすのは、ご都合主義ですよね。そして「公共性」をやっぱり堂々と主張できないフジだからこそ、堀江氏から過去の遺物みたいな扱いを受けるのかもしれません。ネットは下らん意見も満載ですけど、血液型番組を批判してる人はフジテレビでではなく、ネットで発言してます。

このご都合主義こそ、資本主義の分裂した顔の使い分けなのではありますが。

ご都合主義といいましたが、それは、あわてふためくフジテレビだけでなく、突如外資を悪玉視しだした政治家だって同じにみえます。事実上、不良債権の清算を外資にゆだねているくせして、ライブドアやリーマンを批判するのは、いまさらってかんじです。市場整備の責任を転嫁してはいけません。

NHKと民放が設立した第三者機関「放送倫理・番組向上機構(BPO)」の『BPO報告』13号(2004年7月)では、「非科学的事柄を扱う番組の内容分類」に血液型(血液型別運勢/血液型別性格/病気/脳の働き等の検証)、カルト・民間信仰(アニメ等のキャラクター/宗教儀式等の描写)、心霊・霊能者、怪奇現象をあげ、議論がなされています。

カール・セーガン『人はなぜエセ科学に騙されるのか』(新潮文庫)は、一流の科学者が、民主主義発展のために、疑似科学や迷信がなぜ生まれ、それにどう対処すべきかを熱く語る魅力的な著作です。

「似非科学や迷信にはごく人間的なルーツがあることを認め、そこに共感をもとうとすれば、懐疑主義ももっとずっと広く受け入れられるのではないだろうか。/共感をもてば、宇宙人に誘拐されたという人たちや、星占いにお伺いを立てないと家から出られない人……たちの寄る辺なさや苦しみも感じ取られるはずだ」

「だまされやすい人をひっかける似非科学は、テレビで大量に放映されている」(下)

血液型性格判断を信じる人をバカにしても解決にはならないでしょう。そこにある人間的な意味、なぜそれに頼ってしまうのかを理解し、どこがおかしいのか説得的に展開しなきゃ、心を閉ざしちゃうでしょう。疑似科学がなぜ生まれるのか、解明する方が疑似科学を信じるより面白いこともわからせる機会が必要です。疑似科学を信じる人も、科学を研究する人も同じく豊かな感性と探求心をもっているのですから。何かを信じる心自体は労働する人間の実践の契機です。宗教は個人と社会の媒介項目として作用してます。血液型性格判断は迷信でもありますが、科学する人間の態度の中にひそむある特質を引き延ばしたものでもあります。心を血の成分で分類するのは、人間とは水の成分であるという、ものすごい(機械的)唯物論の主張、無意味にまでなった探求心、理性の発露です。

「だまされやすい人たちを陥れる紛いものの説明は、そこらじゅうにころがっている。一方、懐疑的な説はなかなか人々の目に触れない」(上)。

もちろんオカルト流行はテレビのせいだけではありません。見る側の方で受容する環境があるからです。宗教の人類史的意義は認めつつ、オカルトはそれと区別して論じられるべき対象でしょう、ひとまず。中学校の理科の知識程度でも、大人としての健康な理性や懐疑心があれば引っかからないものに引っかかる人が多いのは、資本主義の現代的発展がもたらす病理が蔓延しているからでしょう。それは簡単には論じられないので、カットしますが、


民放連放送基準108条で、

「占い、心霊術、骨相・手相、人相の鑑定その他、迷信を肯定したり科学を否定したりするものは取り扱わない」

とありますのは、ごくあたりまえの企業倫理であり、これを守るのは「企業のコンプライアンス」として重要なことでしょう。

この点はオカルト批判番組をつくったNHKのほうがメディアとしての社会的責任を果たしてます。

さらに。
血液型も遺伝するものですから、血液型で実験するなら、次のユネスコの宣言くらいは参照すべきでしょう。

フジが自らを「公共的なもの」と自認するなら。

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ヒトゲノムと人権に関する世界宣言

1997年11月11日第27回ユネスコ総会採択

第2条(a)何人も、その遺伝的特徴の如何を問わず、その尊厳と人権を尊重される権利を有する。
(b)その尊厳ゆえに、個人をその遺伝的特徴に還元してはならず、また、その独自性及び多様性を尊重しなければならない。

第5条(a)個人のゲノムに影響を与える研究、治療または診断は、それに伴う潜在的な危険や利益の厳格な事前評価の後にのみ、国内法の定めるその他のすべての条件にしたがって、行うことができる。
(b)いかなる場合にも、当事者からの事前の、自由意志による、十分な説明を受けた上での同意を得なければならない。当事者が同意を与えることができる状況にない場合には、当事者の最善の利益に沿って、法の定める方法で同意または許可を得なければならない。
(c)遺伝子検査の結果やそれに由来する結果に関する説明を受けるか否かを決定する各人の権利は、尊重されるべきである。
(d)研究の場合には、さらに、関連する国内的及び国際的な研究の基準又は指針に従って、事前審査のために研究計画調書を提出しなければならない。
(e)法律上同意能力を持たない者の場合には、その者のゲノムに影響を与える研究は、法の定める許可及び保護条件に従って、その者の直接の健康上の利益のためにのみ行うことができる。直接の健康上の利益が期待されない研究は、最大限の抑制をもって、その者のさらされる危険及び負担を最小限度にとどめ、その研究が同年齢層又は同じ遺伝的状態にある他の物の健康上の利益に貢献することが意図されている場合に、法の定める条件に従って、かつそのような研究が個人の人権の保護に反しない限りにおいて、例外的に行うことができる。

第6条
何人も、遺伝的特徴に基づいて人権、基本的自由及び人間の尊厳を侵害する意図又は効果をもつような差別の対象とされてはならない。

第7条
特定可能な個人と結びついた遺伝データで研究目的又は何らかの他の目的で保存又は処理されるものは、法の定める条件に従って機密性が保持されなければならない。

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遺伝に関わる研究は、厳格・厳正な公共的ルールのもとで行われなければならない。バラエティー番組だから人権も個人情報も、遺伝に関わる検討も、適当に扱ってもいいとなるのでしょうか。

個人をその遺伝的特徴に還元してはならない。血液型番組はこれと抵触していないでしょうか。

遺伝に関わる研究は、上記に宣言されるように、そのルールは厳正でなければならず、個人をその遺伝的特徴に還元することは断じてしてはならない。

とすれば、血液型による人間分類など、軽々しくバラエティー番組で扱うべきではありません。フジテレビが「公共的」な責任にいかに無自覚であるか、こうした番組の存在が証明しているといえましょう。

血液型性格分類は普通の学問トレーニングを受けた研究者からは否定されています(佐藤達哉氏のページ長谷川芳典氏のページ)。

あと、血液型問題では、いろいろありますが、菊池聡『超常現象の心理学』平凡社新書がよみやすいし、何が問題なのか、面白く、そしてことの重大さを熱く、語っています。

それから、と学会による『トンデモ本』シリーズは笑いながらオカルトの本体を学べる楽しい本です。
山本弘「テレビはあなたを騙している」(皆神龍太郎・志水一夫・加門正一『新・トンデモ超常現象56の真相』太田出版)は、今回の記事にぴったりです。オカルト番組では「スタッフは嘘と知りつつデタラメを垂れ流す。UFOや幽霊や超能力に関する肯定的な情報は電波に乗るが、懐疑的な報道はたいていカットされてしまい、視聴者の目には届かない」(同)。ほんとうですよ。信じないように。お笑いとわかる作りになっていなくても、批判されたらお笑いとかバラエティだからと逃げるんですから。科学の専門家にもがんばってほしいところです。

Area202 フルスピード : 僕はB型同感です。
# by kamiyam_y | 2005-03-23 21:17 | メディア資本と情報化 | Trackback | Comments(0)

会社と株主

Excite エキサイト : 社会ニュース [ 03月23日 18時31分 ] 共同通信

東京高裁も、ニッポン放送の新株発行による買収阻止を「経営支配権確保が主要目的で著しく不公正な発行」として、ニッポン放送の抗告を棄却しました。

さらに今後の展開が気になりますね。
最初の地裁決定時に比べると、当たり前感が漂ってる感じです。

ちなみに。
日経新聞3月21日号「スイッチオンマンデー」のアンケート調査によると、「ニッポン放送新株差し止め『妥当』8割」だそうだ。「〈メディアウォーズ/追撃スクープ〉日枝フジテレビ会長『5億円豪邸』の謎」(『週刊ポスト』4月1日号)もこう記している。「市場をおもちゃにしているという意味で、ライブドアの堀江社長もまた『株主軽視』なのだが、少なくともそう悟られてはならないという『同時代性』がある。日枝氏にはそれすらない」。まことにごもっとも。

ついでに言えば、会社は株主のもの、という関係は、矛盾した作用をはたすだろう。
民主主義が、市民によって権力を制御するたえざる工夫だとすれば、会社の民主主義は、株主は市民として工夫をすることになる。

しかし、そんな株主はあんまりいない。株主オンブズマンはあるけど。

ではどこでどう会社を民主主義や、市民社会に調和させられるのだろうか。

会社が株主のものという実態は存在しない。むしろ、株主の私有財産のもとで、働く者は、単なるモノ(労働力)として生産過程に入る。労働の社会的富は他人のもの。

しかしまた、会社とは、実態としては、働く者の共同社会だ。というふうに回ってしまう。株主はただの投資家にすぎない。働く人たちが、みんなでクビ締めあってるわけです。日本の企業社会見たらわかります。一抜けたって止めるわけにはいきません。

こう考えたら、株主のもの論が虚構で限界があることは明白です。

しかし、会社を公共的なものとして認知したら(すでに「八幡製鉄政治献金事件の最高裁判決」がそう認知しているけど)、その公共性の担保や手続がないという問題が出てくる。というか、出ている。それが資本主義の最前線だといってもいいかも。



株主のもの論をもしも、アトム(孤立した市民)が私有財産制度をつうじて支配している、と素朴に考えたらまちがい。資本主義は先祖還りできない。

よく言われるのは「市場の声」が企業統治に大切というもの。これはじつは、市場の公共性をさしている。

だって、「市場」が意見表明でもするの?「市場関係者」ってだれよ。
おもうでしょ。

市場の声とは、資本の競争の声です。つまり、資本の競争が、個別の資本(会社。かたちを変えて太るカネ)を規制するってことですね。

証券市場が経営者を規制するとは、経営者も勝手な意志で経営できるわけじゃござんせん、といってるわけですが、これってほんとは、証券市場以前にそうなんですよ。株主総会が無意味なお飾りになる。そうか、これは経営者が権力をもってきたってことだ。

しかし、経営者もじつは、資本蓄積の道具だったんでした。経営者を商品として売買できると言うことは、はじめから資本主義のなかにあったものをハッキリさせること。

証券市場が経営者を規制するとは、経営者を物象化された世界に落とせ、という声。経営者の意志を否定せよ。

ここで逆転。経営者のもとに成りたつ公共的なものをどうルールづくりして制御するか。今問われている本体はここにあると言っていいでしょう。

私たち一人一人にとって、会社や経済がどうあるべきなのか。

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話のついでに。

アメリカ合衆国を株主価値重視型と名づけても、それがアメリカを一元的におおっているんじゃござんせん。株式市場での短期的な利ざや目当の売買と、長期的な企業の蓄積や再生産とが一致するという保障はもちろんないですし、市場によって企業統治がすべてうまくいくわけでもありません。

商品偽装などの企業不祥事による企業の倒産だって、株式市場以前に、企業の社会性が広く認知されているから起きるのです。

株主価値重視といわれがちな米国合衆国も、株主総会形骸化にかわりはなくって、米国モデルに好意的な論者もその点は指摘しています(田村達也『コーポレート・ガバナンス――日本企業再生への道』中央公論社、2002年、49頁)。コーポレート・ガバナンスは日本で「流行」になった観があるが、「総じて株主権強化の道は遠く」「『経営者天国』的なフレームに大きな変化は生じない」「経営者優位の時代が延長される結果」184-185頁。

そもそも「経営者支配」問題は米国が本家本元のようなもの。
近年のものとしては、マーク・ロー『アメリカの企業統治――なぜ経営者は強くなったか』北条裕雄・松尾順介監訳、東洋経済新報社、1996年(Mark J. Roe, Strong Manager, Weak Owners : The Political Roots of American Corporate Finance,1994)。ケネディは、「株主価値運動」によるビジネスの変貌のうちに、企業が、投資家優遇のために他の利害関係者を搾取したこと、彼等への負担の転嫁をみるとともに、利害関係者による反撃と、関係逆転の萌芽を見いだしています。「株式市場は必ずしも世界における最も合理的な場所ではない」235頁。
 米国でも、投資家中心の株主価値運動に対して、従業員の解雇によって株価を上げるのは、従業員からの所得移転である、とする論議もあります。
# by kamiyam_y | 2005-03-23 21:07 | 資本主義System(資本論) | Trackback | Comments(0)