さっぽろ地下鉄のなかでマルクスを呼吸する、世界を呼吸する

剰余人口Surpluspopulation(4)

(続き)

第2の大地

この排除がまだ社会的力をつくりだし、この排除が社会的力を労働者に敵対させることで、労働者による社会的力の奪還を求める。なんていう解体的運動でしょう。

「[資本が前提する(引用者)]この集積は、一方では客体的形態での集積……。また他方では、主体的な形態での集積であって、労働力〔Arbeitskräfte〕の集積、そして一つの点への、資本の指揮下への、労働力の集積である。」(S.477)


そもそも、資本の大前提は、労働能力から切り離された形で、生産手段や生産物が集積することです。生産の客体的諸条件が労働者から分離することが大前提です。

人が大地に直接埋もれ、大地の恵みを享受していた状態は、労働者が人格的隷属の形で社会的労働を実現する状態です。労働者と大地とが切り離されることであり、労働者が労働能力の自由な売り手になること。これによって、資本は、孤立した労働能力を利用できるわけです。

資本はしかし、この孤立を否定する形で、労働能力を社会的労働組織に編成します。社会的労働組織の力が、私的所有の力に無媒介に転じていることが資本をなりたたせる。

ここで大地に直接依存した生産ではなく、大地の全体を対象とするような、科学を適用した生産が発展します。この資本にふさわしい生産によって、労働する諸個人は自らの社会的な土台を、第2の大地をつくりだしていきます。

賃銀労働者は、労働において、自分たちの労働そのものに対して疎遠であり、自分たちの対象に対して疎遠であり、自分たちの社会関係に対して疎遠であり、自分たちの人間的な本性に対して外面的にふるまっています。

この矛盾したふるまいを通じて、労働する諸個人は社会の土台を、第2の大地をつくりだし、自らに敵対させている。この敵対によって、労働者は自らの社会的集合力を取り戻すことを強制されつづけます。(続く)
# by kamiyam_y | 2007-09-06 02:15 | 資本主義System(資本論) | Trackback | Comments(0)

剰余人口Surpluspopulation(3)

宮沢章夫『東京大学[ノイズ文化論]』白夜書房・2007年7月)を読んでいたら、「3人デモ」という動画が講義の素材としてとりあげられていました(313頁)。

You Tubeで確認したら、えれえ面白い作品。若者3人が届け出てデモをするんですけど、公安に監視されちゃってる。YouTube - WE ARE THE THREE (ONLY!)

映画としても発表されるようです。
イルコモンズのふた。 : ▼映画「素人の乱」公式上映会

「3人デモ」を扱った評論をみつけましたが、ちょっとむずかしい。
I Get Around The Media 楠見清のメディア回游 - YouTube as a Guerrila Television

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(続き)

集積された生産へ

交換が集合するだけでも生きたシステムにはなりません。交換が引っぱってくるのは、労働能力です。

資本は、買い集めた労働能力を、労働者の人格から切り離して、集積します。労働者にとって他人の力として、労働能力の集合体が作用します。

「ここではもはや、一つの資本が彼らに対立して、交換の行為における社会的集合力として現れ、その結果この資本において多くの交換が一体化されている、というだけでなく、一つの資本が労働者たちを、一つの場所で自己の指揮のもとに、つまり一つのマニュファクチュアに集めるのである。」(S.478)


交換は自己労働にもとづく私有を前提していますが、交換の実現は、等価交換を止揚し、剰余価値の無償の取得を交換の土台にすることでした。この労働収奪は個々の労働者にとどまらず、組織された集合的な労働者からの収奪です。

交換は、社会が孤立しあう諸個人に分解することを前提しています。この前提に敵対して、諸個人は集合的労働力の一分肢として活動します。社会的分業は孤立しあう労働者の分業ではなく、資本の分業です。この意味でも市場は市場の前提を解体することでしか市場でありえない。もちろん、集合力は収奪として実現するから、この意味でも自由な市場は解体。

協業を立てることで、資本は集合的労働力の産物を無償で取得します。諸個人の孤立は生産のなかで強制的に止揚され、1つの指揮のもとに計画的に協働します。

資本が内部に社会をもった存在として、自分のなかに、労働者を結合する生産様式をつくりだします。労働能力の結合がもたらす働きを無償で資本はわがものにします。

「すなわち、資本はもはや、その眼前に見いだされる生産様式のなかに労働者を置いたままで、この基礎のうえに自己の力〔Macht〕をうちたてるのではなく、自己にふさわしい生産様式を、土台として自分のためにつくりだすのである。資本は、生産における労働者の一体化をつくりだすが、この一体化とは、さしあたりはただ、共通の場所で監督者たちのもとで〔生じる〕、一元的支配、規律の強化、〔労働の〕恒常性、生産そのもののなかで措定された資本への従属、にすぎないであろう。」(Gr.,S.478.補足〔〕は訳文のもの)
「労働者の協同〔Association〕-労働の生産性の基礎的条件としての協業および分業-は、いっさいの労働生産力がそうであるように、……資本の生産力として現われる。だからこそ、労働の集合力〔Collectivkraft〕が、労働の社会的労働としての性格が、資本の集合力なのである」(S.476)。
「労働諸力の結合(規則正しい労働様式をもっての)と科学力〔wissenchaftliche Power〕の適用が優勢であり、ここでは、労働の結合およびいわば労働の共同的な精神が機械等々のなかに移されている」(S.477)。


労働の相互のつながり、労働の社会的紐帯が、労働者に対して、直接他者の力として向かっています。機械システムを中心とする協業の全体が、労働者にとって他人の領域として、他人の私有物の力として、他人と富として、対立しています。労働者自身の一体性が、労働者によって社会的に制御されることなく、労働者の外部の威力として、つくりだされています。

労働する諸個人にとって、およそ労働の生み出す連関のすべてが、自分自身のなかに根拠をもたないような、彼自身の統一性・有機的諸条件ではないような、外からやってくる威力です。

市場は、労働者を社会を失った解体された個人として想定しつつ、労働者自身の社会的集合力をつくらざるをえない。社会的集合力は、労働によってつくられながらも労働者を排除する社会的力です。社会的力が労働者を排除。(続く)
# by kamiyam_y | 2007-09-06 01:50 | 資本主義System(資本論) | Trackback | Comments(0)

剰余人口Surpluspopulation(2)

(続き)

孤立的交換から集積された交換へ

資本というのは集積された交換です。連続した交換だし、交換を一身に集めたものです。個人のバラバラな交換じゃないです。

交換を孤立してとりあげるとたしかに同じ価値物の交換だし、同じ過去の労働の交換です。

しかし、交換価値は、持続することで交換価値として私たちの眼前にみえている。

持続するにはそれは、貨幣という目に見える交換価値から、生産手段(原料・機械)と労働能力に、そして商品に形を変えて、再び貨幣に戻らねばならない。

起点と終点はどちらも貨幣です。同じ物だから、量でしか区別されません。つまり、交換価値は、より多くの交換価値を目指す運動として生きています。

これが資本ですが、資本は労働能力との交換という独自の交換を経なければなりません。

「資本家が交換で手に入れるのは労働能力であって、これは彼が支払いをする交換価値である。生きた労働は、資本家にとってこの交換価値がもっている使用価値であり、そしてこの使用価値から剰余価値が生じ、また交換一般の止揚が生じるのである。」(『マルクス 資本論草稿集②』S.456)


一方の側は貨幣。他方は労働能力。2種の物象が登場し、私的所有者は、この所有物の内容によって、一方は資本家(会社)、他方は労働者です。

この交換では、対象化された労働(過去の労働の集積)である資本に対して、労働能力が交換されるべきものとして現れます。

この労働能力は、時間決めで買われます。奴隷じゃないので丸ごとじゃなく。

この労働能力の有益な働き、独自の使用価値が生きた労働です。生きた労働がこの労働能力がはたす働きであり、それは、交換価値を生み出すという働きです。

より多くの生きた労働からより多くの剰余価値を資本が獲得する。労働能力が買われるのも、この運動に役だつかぎりでのこと。

労働者は、労働能力を買われなければ、生活できず、剰余価値を生産しなければ、生活できない。資本主義システムにおいて労働者の生活はそのまま、労働能力を売れる状態にキープするという意味を帯びる。

このキープは、生活必需品を消費することによってなりたちます。労働能力に対して交換される紙や金属は、生活必需品の代表であり、労働能力の維持費です。

労働者は自分たちが生み出した生活必需品を、この代表と交換して、自分たちがつくった物を、資本家(会社)によって売りつけられないと、取り戻せないわけです。

労働者は、この自分たちが消費する必需品を越えて、剰余価値を体現した生産物を生み出しています。この剰余価値を生むかぎりで、労働能力を売ることができます。

労働者に対して交換に登場する貨幣(資本)は、社会的労働の集積です。労働者は孤立した売り手であるのに対して、買い手は社会的な力です。

「彼らは多くの人々と交換するかわりに、一人の資本家と交換する。だからそれは、資本による交換の集積である。資本は個別者として交換するのではなく、多くの人々の消費と必要を代表するものとして交換する。資本はもはや個別的な交換者として交換するのではなく、交換行為において社会を代表するのである。」(S.478)


資本が交換に現れるや、それは孤立した交換主体一般ではない。自由平等な個人の交換ではなく、資本において登場するのは社会です。(続く)
# by kamiyam_y | 2007-09-06 01:48 | 資本主義System(資本論) | Trackback | Comments(0)