さっぽろ地下鉄のなかでマルクスを呼吸する、世界を呼吸する

放送の公共性と消費者の知る権利(フジテレビの公共性)

「血液型と相性の関係。学校でも職場でも役立つ情報満載の内容です。」

フジテレビが昨年の秋に放送した番組の広告からです。見てませんけど、お笑い番組を情報満載というのでしょうかね。

血液型番組は批判されたので最近はまた別のネタらしいですけど、血液型番組の問題が別に解決されたわけでもないので、取りあげてみましょう。

古代社会で、政治を占いに頼ってするのは普通です。しかし、現代社会で、職場の人事管理を血液型性格分類によってやってしまっては、ただの愚かな経営どころか、プライバシーの侵害でしょう。というか、血液型を採用基準にしたら、まさに血液にもとづく差別です。ぜったいにやってはいけません。身分制社会に舞い戻りです。重大な犯罪です。

学生からの情報では、バイト先の面接で血液型を聞かれたという例がいくつかあるんですけどね。「べつに献血のバイトじゃないんですが(笑)」と学生が書いてくれてました。

国際消費者機構による権利と責任という宣言では、消費者の責務として、「批判的意識」「問題意識」をもつことがあげられ、消費者の権利として、知らされる権利と、教育を受ける権利があげられています。

⑦ 消費者教育を受ける権利 ― 基本的な消費者の権利及び責任と如何に行
動するかを知る以外にも、情報を与えられ、自信を持って商品やサービスを選
ぶのに必要な知識と能力を得られること

① 批判的意識 ― 商品やサービスの用途、価格、質に対し、敏感で問題意識
をもつ消費者になるという責任

放送番組を「商品」と考えると、欠陥商品をつかまされ被害を受けたばあい苦情を適切に処理される権利が、視聴者にはあることになりますね。血液型番組が原因でいじめを受けたらこれにあたるんじゃないでしょうか。
もちろん受けなくたって、「意見表明権」が視聴者にはあります。この点テレビ局も、個人も対等です。
また、消費者の責務を視聴者の責務として考えると、批判的に番組を見ろ、弱者に与える影響を考えろ、というように敷衍できそうです。自分の権利を実現するには、訓練が大切なんだ、といえるでしょうか。

さて、血液型は遺伝によりますが、遺伝による分類学を放送するのが、公共的なんでしょうか。ナチの優生学をもちだしたら刺激的に聞えましょうが、おなじです。ちがいますかねえ。
まさか、番組を作っている賢い方々が、血液型分類が、科学の装いをした疑似科学だってわかってないわけないですよね。バラエティというくくりがあれば、消費者がよろこぶなら、何を放送したって公共的なんですね。きっと。

そうではなくて、わかってなくて正しい、と主張してるのでしょうか。そうではなさそうですね。だってニュースでは絶対、心霊なんて出てきませんから。

それともユーモアのつもりなんでしょうか。

タブロイド紙で「人魚が生きてた!」とかいうおふざけとわかっている記事を読者が楽しむ、というような一種ひねった楽しみかたを視聴者がしているのでしょうか。そうはおもえませんけど。女性誌の占いコーナーの読者が全員、占いをバイトさんがテキトーに書いていると知って読んでいると思えないのと同じです(まあ、バイトが書いても占い師が書いても、信じたい人はすがれるものがあれば何でもいいんでしょうけど。街の占い屋さんも未経験歓迎のバイト募集の公告出してるし。占い師が占ったところで、占い自体はすべて、無関係なものを連想によって結びつけるだけのことですから。占いよりも、占い師の話術、聞き上手さ、権威みたいなものがおそらく重要なはずですから)。

アニメの主人公がへんてこりんな能力を発揮しても作り話ってわかるでしょうが、血液型はけっこう科学のトレーニングを受けないと見破れなかったりするのではないかな。都市伝説というかうわさ話のたぐいだとように冷静に見ることをしない人がいるから、定着しているのではなかろうか。

さてさて、科学を装って科学を否定するのが、放送の公共性なのでしょうかねえ。およそ近代社会では私人の商品として売られているオカルトを、公共の電波で売るんですかね。信仰の自由とは、公認の知識から信仰が切り離されることを意味してます。多チャンネルのオカルトチャンネルなんですか、フジって。
差別を助長する可能性のある疑似科学をつかって、芸能人がけなしあうような番組づくりが公共的なのでしょうかねえ。もう少しきつい言い方をすれば、「霊感商法」販売人が、「放送の公共性」なんて恥ずかしくて口が裂けても言えないでしょう。言わなきゃかわいいんですけど。

もちろん、個人がどんな愚かな思想を持つのも自由だし表現するのも自由。フジテレビという一組織も、愚かな思想を信じる個人と同格の、愚かな思想を表現する主体だと言いたければ言えばよいでしょう。本当かどうか判断するのは視聴者。視聴者間の親子の対話の場もつくった、といえばいいでしょう(でもあたかも「ほんとう」のことのようにつくるから、メディアの信頼は低いんですぜ)。

もしそう言うのなら、だったら「公共性」って何だってことです。組織の力を独占し、電波を国の許可で(つまり税金投入して)、差別を助長する、あるいは子供の成長の可能性を奪う欠陥商品を売るんでしょうか。科学をきちんと主張する放送局もあるから、こちらはお笑いでいくって主張してるならいいかもしれんが、科学を偽装しておいて、「テロップで番組終了時に科学的に証明されたわけではない、っていってますから」とか、「バラエティーだからふつうの人ならわかるはず」と弁解するのも、とっても姑息で下品。
フジテレビの自由な番組づくりを応援するからこそ(うそ)、自主的な企業倫理が必要なわけですし、視聴者の異議申し立て権が保障されなきゃいけません。フジテレビは個人じゃありませんから、これは僕の独自の妄想、と主張するわけにはいかんのです。公共の電波使ってるんです。
主張には冷静な手続きが必要ですがもちろん、バラエティーは集団幻想にのっとった視聴率稼ぎですから、こんな面倒な手続きはしません。ずるいですね。

メディア独占体に対する個人の主張が大事です。だから、血液型番組を批判する個人を、もしもただのクレーマーや総会屋とおもうならまちがいだし、組織を批判する個人を集団でいやがらせ(自分が信じるものを批判されると、自分が楽しんでいるものを批判されると理性を失う人がたまにいるみたいです)するようなことがもしもあるとしたら、日本社会の未熟な面、市民社会の底の浅さでしょう。

もちろん、フジが次にどんな手でライブドアをおとしめようとするのか、見物だとかんじてる私も十分に俗物で愚かな消費者ですけど。

視聴率稼いで広告収入を得ること、つまりカネだけが民営放送の使命だ、中身がいくら低レベルでもいいのだ、ともしもフジテレビが主張するなら、ライブドアのカネの力路線に対して「公共性」を持ちだすのは、ご都合主義ですよね。そして「公共性」をやっぱり堂々と主張できないフジだからこそ、堀江氏から過去の遺物みたいな扱いを受けるのかもしれません。ネットは下らん意見も満載ですけど、血液型番組を批判してる人はフジテレビでではなく、ネットで発言してます。

このご都合主義こそ、資本主義の分裂した顔の使い分けなのではありますが。

ご都合主義といいましたが、それは、あわてふためくフジテレビだけでなく、突如外資を悪玉視しだした政治家だって同じにみえます。事実上、不良債権の清算を外資にゆだねているくせして、ライブドアやリーマンを批判するのは、いまさらってかんじです。市場整備の責任を転嫁してはいけません。

NHKと民放が設立した第三者機関「放送倫理・番組向上機構(BPO)」の『BPO報告』13号(2004年7月)では、「非科学的事柄を扱う番組の内容分類」に血液型(血液型別運勢/血液型別性格/病気/脳の働き等の検証)、カルト・民間信仰(アニメ等のキャラクター/宗教儀式等の描写)、心霊・霊能者、怪奇現象をあげ、議論がなされています。

カール・セーガン『人はなぜエセ科学に騙されるのか』(新潮文庫)は、一流の科学者が、民主主義発展のために、疑似科学や迷信がなぜ生まれ、それにどう対処すべきかを熱く語る魅力的な著作です。

「似非科学や迷信にはごく人間的なルーツがあることを認め、そこに共感をもとうとすれば、懐疑主義ももっとずっと広く受け入れられるのではないだろうか。/共感をもてば、宇宙人に誘拐されたという人たちや、星占いにお伺いを立てないと家から出られない人……たちの寄る辺なさや苦しみも感じ取られるはずだ」

「だまされやすい人をひっかける似非科学は、テレビで大量に放映されている」(下)

血液型性格判断を信じる人をバカにしても解決にはならないでしょう。そこにある人間的な意味、なぜそれに頼ってしまうのかを理解し、どこがおかしいのか説得的に展開しなきゃ、心を閉ざしちゃうでしょう。疑似科学がなぜ生まれるのか、解明する方が疑似科学を信じるより面白いこともわからせる機会が必要です。疑似科学を信じる人も、科学を研究する人も同じく豊かな感性と探求心をもっているのですから。何かを信じる心自体は労働する人間の実践の契機です。宗教は個人と社会の媒介項目として作用してます。血液型性格判断は迷信でもありますが、科学する人間の態度の中にひそむある特質を引き延ばしたものでもあります。心を血の成分で分類するのは、人間とは水の成分であるという、ものすごい(機械的)唯物論の主張、無意味にまでなった探求心、理性の発露です。

「だまされやすい人たちを陥れる紛いものの説明は、そこらじゅうにころがっている。一方、懐疑的な説はなかなか人々の目に触れない」(上)。

もちろんオカルト流行はテレビのせいだけではありません。見る側の方で受容する環境があるからです。宗教の人類史的意義は認めつつ、オカルトはそれと区別して論じられるべき対象でしょう、ひとまず。中学校の理科の知識程度でも、大人としての健康な理性や懐疑心があれば引っかからないものに引っかかる人が多いのは、資本主義の現代的発展がもたらす病理が蔓延しているからでしょう。それは簡単には論じられないので、カットしますが、


民放連放送基準108条で、

「占い、心霊術、骨相・手相、人相の鑑定その他、迷信を肯定したり科学を否定したりするものは取り扱わない」

とありますのは、ごくあたりまえの企業倫理であり、これを守るのは「企業のコンプライアンス」として重要なことでしょう。

この点はオカルト批判番組をつくったNHKのほうがメディアとしての社会的責任を果たしてます。

さらに。
血液型も遺伝するものですから、血液型で実験するなら、次のユネスコの宣言くらいは参照すべきでしょう。

フジが自らを「公共的なもの」と自認するなら。

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ヒトゲノムと人権に関する世界宣言

1997年11月11日第27回ユネスコ総会採択

第2条(a)何人も、その遺伝的特徴の如何を問わず、その尊厳と人権を尊重される権利を有する。
(b)その尊厳ゆえに、個人をその遺伝的特徴に還元してはならず、また、その独自性及び多様性を尊重しなければならない。

第5条(a)個人のゲノムに影響を与える研究、治療または診断は、それに伴う潜在的な危険や利益の厳格な事前評価の後にのみ、国内法の定めるその他のすべての条件にしたがって、行うことができる。
(b)いかなる場合にも、当事者からの事前の、自由意志による、十分な説明を受けた上での同意を得なければならない。当事者が同意を与えることができる状況にない場合には、当事者の最善の利益に沿って、法の定める方法で同意または許可を得なければならない。
(c)遺伝子検査の結果やそれに由来する結果に関する説明を受けるか否かを決定する各人の権利は、尊重されるべきである。
(d)研究の場合には、さらに、関連する国内的及び国際的な研究の基準又は指針に従って、事前審査のために研究計画調書を提出しなければならない。
(e)法律上同意能力を持たない者の場合には、その者のゲノムに影響を与える研究は、法の定める許可及び保護条件に従って、その者の直接の健康上の利益のためにのみ行うことができる。直接の健康上の利益が期待されない研究は、最大限の抑制をもって、その者のさらされる危険及び負担を最小限度にとどめ、その研究が同年齢層又は同じ遺伝的状態にある他の物の健康上の利益に貢献することが意図されている場合に、法の定める条件に従って、かつそのような研究が個人の人権の保護に反しない限りにおいて、例外的に行うことができる。

第6条
何人も、遺伝的特徴に基づいて人権、基本的自由及び人間の尊厳を侵害する意図又は効果をもつような差別の対象とされてはならない。

第7条
特定可能な個人と結びついた遺伝データで研究目的又は何らかの他の目的で保存又は処理されるものは、法の定める条件に従って機密性が保持されなければならない。

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遺伝に関わる研究は、厳格・厳正な公共的ルールのもとで行われなければならない。バラエティー番組だから人権も個人情報も、遺伝に関わる検討も、適当に扱ってもいいとなるのでしょうか。

個人をその遺伝的特徴に還元してはならない。血液型番組はこれと抵触していないでしょうか。

遺伝に関わる研究は、上記に宣言されるように、そのルールは厳正でなければならず、個人をその遺伝的特徴に還元することは断じてしてはならない。

とすれば、血液型による人間分類など、軽々しくバラエティー番組で扱うべきではありません。フジテレビが「公共的」な責任にいかに無自覚であるか、こうした番組の存在が証明しているといえましょう。

血液型性格分類は普通の学問トレーニングを受けた研究者からは否定されています(佐藤達哉氏のページ長谷川芳典氏のページ)。

あと、血液型問題では、いろいろありますが、菊池聡『超常現象の心理学』平凡社新書がよみやすいし、何が問題なのか、面白く、そしてことの重大さを熱く、語っています。

それから、と学会による『トンデモ本』シリーズは笑いながらオカルトの本体を学べる楽しい本です。
山本弘「テレビはあなたを騙している」(皆神龍太郎・志水一夫・加門正一『新・トンデモ超常現象56の真相』太田出版)は、今回の記事にぴったりです。オカルト番組では「スタッフは嘘と知りつつデタラメを垂れ流す。UFOや幽霊や超能力に関する肯定的な情報は電波に乗るが、懐疑的な報道はたいていカットされてしまい、視聴者の目には届かない」(同)。ほんとうですよ。信じないように。お笑いとわかる作りになっていなくても、批判されたらお笑いとかバラエティだからと逃げるんですから。科学の専門家にもがんばってほしいところです。

Area202 フルスピード : 僕はB型同感です。
# by kamiyam_y | 2005-03-23 21:17 | メディア資本と情報化 | Trackback | Comments(0)

会社と株主

Excite エキサイト : 社会ニュース [ 03月23日 18時31分 ] 共同通信

東京高裁も、ニッポン放送の新株発行による買収阻止を「経営支配権確保が主要目的で著しく不公正な発行」として、ニッポン放送の抗告を棄却しました。

さらに今後の展開が気になりますね。
最初の地裁決定時に比べると、当たり前感が漂ってる感じです。

ちなみに。
日経新聞3月21日号「スイッチオンマンデー」のアンケート調査によると、「ニッポン放送新株差し止め『妥当』8割」だそうだ。「〈メディアウォーズ/追撃スクープ〉日枝フジテレビ会長『5億円豪邸』の謎」(『週刊ポスト』4月1日号)もこう記している。「市場をおもちゃにしているという意味で、ライブドアの堀江社長もまた『株主軽視』なのだが、少なくともそう悟られてはならないという『同時代性』がある。日枝氏にはそれすらない」。まことにごもっとも。

ついでに言えば、会社は株主のもの、という関係は、矛盾した作用をはたすだろう。
民主主義が、市民によって権力を制御するたえざる工夫だとすれば、会社の民主主義は、株主は市民として工夫をすることになる。

しかし、そんな株主はあんまりいない。株主オンブズマンはあるけど。

ではどこでどう会社を民主主義や、市民社会に調和させられるのだろうか。

会社が株主のものという実態は存在しない。むしろ、株主の私有財産のもとで、働く者は、単なるモノ(労働力)として生産過程に入る。労働の社会的富は他人のもの。

しかしまた、会社とは、実態としては、働く者の共同社会だ。というふうに回ってしまう。株主はただの投資家にすぎない。働く人たちが、みんなでクビ締めあってるわけです。日本の企業社会見たらわかります。一抜けたって止めるわけにはいきません。

こう考えたら、株主のもの論が虚構で限界があることは明白です。

しかし、会社を公共的なものとして認知したら(すでに「八幡製鉄政治献金事件の最高裁判決」がそう認知しているけど)、その公共性の担保や手続がないという問題が出てくる。というか、出ている。それが資本主義の最前線だといってもいいかも。



株主のもの論をもしも、アトム(孤立した市民)が私有財産制度をつうじて支配している、と素朴に考えたらまちがい。資本主義は先祖還りできない。

よく言われるのは「市場の声」が企業統治に大切というもの。これはじつは、市場の公共性をさしている。

だって、「市場」が意見表明でもするの?「市場関係者」ってだれよ。
おもうでしょ。

市場の声とは、資本の競争の声です。つまり、資本の競争が、個別の資本(会社。かたちを変えて太るカネ)を規制するってことですね。

証券市場が経営者を規制するとは、経営者も勝手な意志で経営できるわけじゃござんせん、といってるわけですが、これってほんとは、証券市場以前にそうなんですよ。株主総会が無意味なお飾りになる。そうか、これは経営者が権力をもってきたってことだ。

しかし、経営者もじつは、資本蓄積の道具だったんでした。経営者を商品として売買できると言うことは、はじめから資本主義のなかにあったものをハッキリさせること。

証券市場が経営者を規制するとは、経営者を物象化された世界に落とせ、という声。経営者の意志を否定せよ。

ここで逆転。経営者のもとに成りたつ公共的なものをどうルールづくりして制御するか。今問われている本体はここにあると言っていいでしょう。

私たち一人一人にとって、会社や経済がどうあるべきなのか。

*******

話のついでに。

アメリカ合衆国を株主価値重視型と名づけても、それがアメリカを一元的におおっているんじゃござんせん。株式市場での短期的な利ざや目当の売買と、長期的な企業の蓄積や再生産とが一致するという保障はもちろんないですし、市場によって企業統治がすべてうまくいくわけでもありません。

商品偽装などの企業不祥事による企業の倒産だって、株式市場以前に、企業の社会性が広く認知されているから起きるのです。

株主価値重視といわれがちな米国合衆国も、株主総会形骸化にかわりはなくって、米国モデルに好意的な論者もその点は指摘しています(田村達也『コーポレート・ガバナンス――日本企業再生への道』中央公論社、2002年、49頁)。コーポレート・ガバナンスは日本で「流行」になった観があるが、「総じて株主権強化の道は遠く」「『経営者天国』的なフレームに大きな変化は生じない」「経営者優位の時代が延長される結果」184-185頁。

そもそも「経営者支配」問題は米国が本家本元のようなもの。
近年のものとしては、マーク・ロー『アメリカの企業統治――なぜ経営者は強くなったか』北条裕雄・松尾順介監訳、東洋経済新報社、1996年(Mark J. Roe, Strong Manager, Weak Owners : The Political Roots of American Corporate Finance,1994)。ケネディは、「株主価値運動」によるビジネスの変貌のうちに、企業が、投資家優遇のために他の利害関係者を搾取したこと、彼等への負担の転嫁をみるとともに、利害関係者による反撃と、関係逆転の萌芽を見いだしています。「株式市場は必ずしも世界における最も合理的な場所ではない」235頁。
 米国でも、投資家中心の株主価値運動に対して、従業員の解雇によって株価を上げるのは、従業員からの所得移転である、とする論議もあります。
# by kamiyam_y | 2005-03-23 21:07 | 資本主義System(資本論) | Trackback | Comments(0)

公共性の分裂:道警・フジ・ライブドア

道警への確認監査やり直し 3月中の取りまとめ延期 :共同通信03月18日 17時25分

裏金問題、道警が虚偽文書を強要 複数の現職警官に 監査妨害か :北海道新聞2005/03/18(金)

 道警による補足調査の過程で、受け取ってもいないのに旅費を受け取ったとするウソの文書にサインするよう道警が現職警察官に強要していたそうだ。もしほんとうなら文書偽造、公金横領、立派な犯罪行為。

 《組織》が犯罪主体として立ちあらわれるのは、オウムや、企業犯罪だけではない。警察もそうなのだ。個人を抑圧する権力を解体するという近代の課題が現代の課題としてあらわれている。戦前の警察や江戸時代の代官やら奉行とはちがって、いちおう今の警察は民主国家の民主警察というタテマエにある。だからこそ、この権力を諸個人に開くことが現実の課題であり続けている。

 「およそ官庁という公費を扱う組織はみな同じである」「仮に一度でも偽造領収書を作成したり、ヤミ手当的に裏金の分配を受けたりしたことのある者を全員事件として立脚したら、警視庁職員の大半が逮捕されてしまう」(大内顕『警視庁裏ガネ担当』講談社、2002年)。

 単なる警察トップのモラルの問題ではない。モラルを堕落させる組織のありようが問題なのである。また、警察だけではなく、公金吸収・利権吸収システムは日本村の公権力のさまざまな部分につくられている。警察はその非公開性において別格だが、日本の社会のもつある負の遺産を象徴している。
 道警の裏金問題は、北海道新聞がじつによく調べたと感心する。

「道新--……警察の場合、一握りの高級幹部のみが美味しい思いをして、そのために圧倒的多数の警察官や警察職員に、書類偽造などをさせています。これら『上納』と『私的流用』の構造を明確に表に出さない限り、警察の改革はありえません」(北海道新聞取材班・大谷昭弘・宮崎学『警察幹部を逮捕せよ』旬報社、2004年。

 『世界』3月号特集「警察はどうなってしまったのか」では、元道警の原田宏二さんへのインタビューや、道新の佐藤一さんの「警察といかに向き合うか」と犯罪学者浜井浩一による「『治安悪化』と刑事政策の転換」といった興味深い論考が寄せられている。浜井の議論では、暴力によって殺害された者が長期的には減少傾向にあること、暴力によって殺害された児童も減少していること、暴力犯罪認知件数の増加が被害の増加ではなく通報率の上昇によることなどが論じられている。不安感と信仰に依存した警察権力の増大に対して冷静な議論をしなければならないことをあらためて確認した。

道警問題では、そのほか、自殺者まで出した道警警部による覚醒剤・拳銃事件である稲葉事件のルポも参考になる。曽我部司『北海道警察の冷たい夏』 講談社文庫 。織川隆『北海道警察 日本で一番悪い奴ら』 講談社。

 警察報道に頼っているためか裏金問題に消極的な全国紙とは対照的な道新の取材をみると、フジ・サンケイグループとライブドアとの株式争奪戦のなかで主張されるメディアの公共性なるものもそらぞらしくきこえなくもない。
 日刊サッポロ3月19日号からの孫引きで申し訳ないが、『アエラ』2月21日号ではホリエモンはこういっているという。「『新しい教科書』をつくったりしても世の中変わりませんよ」「あのグループのオピニオンは異色でしょ。……もっと芸能エンタメ系を強化した方がいい。ボクだったら……ボクら世代の愛読誌である……『SPA !』。そういうのを合わせてエンタメ系の強力な新聞・出版社にしたい」。

 団塊の世代や新人類・オタク世代、アエラ読者を意識して発言しているのかもしれない。フジ・サンケイグループの国粋主義的で対米追随的なオピニオン部門がホリエモンはきらいなようだ。

ホリエモンに対する批判として、「外資によってメディアが支配されるのは好ましくない」「メディアは公共的なものだからカネの力で支配されてはならない」「ホリエモンは巨額の不労所得を右から左に流してそこから富を得る賭博師である」「フジを買う大金はもっとほんとうに困っている人たちのために使うべきだ」「ホリエモンはラジオもテレビも好きではないし、理念もない。こんな奴に愛すべきメディアをわたしたくない」「ホリエモンが放送局を指揮できるわけない」「ホリエモンは金の亡者で下品である」「外資に乗っ取られたらフジ・サンケイグループの社員もリストラでやる気が失せつまらん番組が増える」「合法的だとしても倫理が欠如している」「経済といっても人間の世界なのだからカネだけでうまくいくわけない。人の気持ちを無視してはいけない。取引っていうのは人間関係が大事なんだ」といった主張がある。ライブドアが乗っ取るとニッポン放送の企業価値が下がるという森本卓郎の主張もわかる気がする。

 カネをもつ自由と生産の世界とが、あるいは交換価値の抽象的な請求権の市場と局地的な共同的なものとが、個人と組織とが、伝統と野蛮とが、シャッフルされることで熱を得ているのが近代だとイメージすれば、こういう一筋にまとまらない文脈で事件がおきている以上、人々の反応もぶつかりあう泡沫のように多様だ。そしてこうした批判には十分な正当性があるといってよい。
 定着した企業体は、顧客や地域、従業員や取引先、その他さまざまのプレーヤーのエネルギーを集めていく装置として安定的に作用しているのだから、突然外から金の力で大きな転換を強要されたらそれは大変な話だ。ものすごい不安を招くだろう。

 今朝テレビをつけたら、爆笑問題が司会してる「サンジャポ」で、デーブ・スペクターが、LBOは企業が築いた文化を破壊する、アメリカでは非倫理的と批判されている、自分は株主でもあるが、株主のためというのは働かない者のためということだ、株でもうけようとするのは働かないで稼ごうとすることだ、最低だ、社会の寄生虫だ、という趣旨を熱く語っていた(先週も堀江批判に回っていたっけ)。マネーゲームが崇拝される風潮に腹を立てているのかもしれない。これは単に株式投資に対する倫理的批判というよりは、株式会社というシステムそのものが示す資本主義の亀裂である。マルクスが、【株式には剰余価値が裸になって示されている】ということを述べたのも、この亀裂を指している。

 しかしここでもう少し反対の方向から考えてみよう。
 ホリエモンに支配されることが可能なら、すでに誰かが支配しているのである。あるいは、カネの力で支配されてはならないのなら、フジ・サンケイグループはもともとカネの力で財界の肝いりでつくられたんじゃないのか。
 誰が支配しようとも、むしろメディアの複合的な独占体の存在自体が問題なのではないか。
 経済を攪乱するようなマネーゲームを批判する意識は重要である。しかし、マネーゲームとは資金配分につきものであり、そもそも産業自体がマネーの増殖という原理によってたてられているのが資本主義である。

 とすれば、ホリエモン的行動は資本主義そのものではないのか。資本主義の日本的共同体的な形成体に対して、もっと資本主義へ。これがホリエモンの行動であり、私たちに示しているものではないのか。もっと資本主義へ。これが私たちに多くのことを考えさせる。それはけっして、White Knightだの、Pac Manだの、Crown Jewel売却だの支配権争奪・企業防衛のへんてこりんな言葉の数々がお茶の間にながれこんでいることだけではない。

 ホリエモンという存在は、単に会社乗っ取りの方法論や、法律論や、メディアの公共性に光を当ててるだけではない。ホリエモンの行動は本人の意識とは別に、いわば逆説的に、企業の連続体のうちに存在する人々の公共的な富を自覚させてしまう。どう公共的なルールを構築するのか。会社は誰のものか。会社はモノであるけど、モノではない。会社は株主のものか。会社の連続体のうちにあるのは、社会的労働の結晶という人々の生活基盤だ。古くて新しいが、本質的で、巨大な問題が、ホリエモン騒動のなかみではないか。

 労働者の生みだした富の請求権が、彼等の預かることのできない圏域で再分配されている。だれが会社の持主になろうとも誰かがなれば確実に労働者は搾取される。だからといってホリエモンがフジを乗っ取ったならましになるという保証など全くないが。

 ホリエモンを巨大組織に戦いを挑む個人とみなす物語には、ホリエモンは果たして巨大組織ではないのか、大企業体制のなかで呼吸しベンチャーしているのではないのか、冷静に考えてみる必要がある。逆に、市場整備の官庁の責任や、これまでも株式持ち合いによる企業集団経営を問わずに、「ネクタイしないガキが生意気な」という反応は、事の本質を結局は人の好き嫌いの問題に解消し、共同体的なシステムの解体過程から目を背けさせるだけだろう。
 政府の広告を無批判に垂れ流すメディア独占体と、カネを基準に動く外国金融資本とどちらが日本社会にとってより好ましいのだろうか。自由な言論にとって、働く人々にとってどちらがましなんだろうか。いささか大ざっぱすぎる問いの立て方ではあるけど。
 もしフジとライブドアがともに一般大衆に向かって「俺たちのほうにに金を貸してくれ」と頼むのなら、どうするだろう。どっちのプレゼンが魅力的だろうか。フジテレビはすでにわかっている。ライブドアは未知である。たぶん私はライブドアだろうな。特異なイデオロギーをふりまく部分を切って捨て「SPA!」を強化する路線のほうに一票を投じてみたいからだ。排外主義的な共同体幻想(国家主義)よりカネの亡者(?)のほうが進歩的だからだ。これまた大ざっぱな対比だけど。フジ・サンケイグループ全体が国粋主義なわけじゃないですからね。

そういえば、堀江氏の『100億稼ぐ仕事術』(ソフトバンクパブリッシング)買って読んだんだが、今手元にないんで触れられないけど、これ2003年の出版なんですね。

 それからメディアの公共性というなら、「人権擁護法案」におけるメディア規制の危険性や、憲法問題のほうが大きいでしょう。
竹山徹朗氏のメールマガジン「PUBLICITY」(パブリシティー) (登録申込先:http://www.emaga.com/info/7777.html、E-mail:freespeech21@yahoo.co.jp、blog:http://takeyama.jugem.cc/)1122号がつぎのように言うとおり、堀江騒動も重大事から関心をそらす機能を果たしている。

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それは、お察しのとおり、この買収合戦報道によって、たとえば「憲法改正国民投票法案」(今国会提出予定。日本ペンクラブが白紙撤回を求める声明を発表)のトンデモぶりも、NHKに対する政治圧力の問題(NHKの予算成立前だったから、その点で、やっぱり圧力がかかったとみるべきだろう)も、内部告発の価値も、“結果的に”不問に付されてしまうことだ。
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 以下は一週間くらい前に書いたメモを「ですます」調になおしたもの。とりあえず出しときます。細かい具体的な話はいろいろネットで見てください。ここでは抽象的に見えても、【意味】だけ思考実験してます。

ライブドアという拡大鏡1:物神崇拝

 やんごとなきことあって先週実家によったらば、ばあさんがライブドア堀江社長のことを口を極めて蔑み、ののしっておりました。フジテレビとライブドアによるニッポン放送株争奪戦もばあさんの話題にまでなっているようです。NHKに対する政治介入より、こっちのほうが面白いらしい。なんだかなあ。堀江社長の自信過剰ぶりに通俗さ、人間理解の浅さを感じるのはいいけどさ。

 まあ、ホリエモンという個性を取りはらって冷静に事態をみれば、彼もシステムのなかを泳ぐ一個人にすぎないことがわかります。

 「カネで買えないものはない」という思想を仮にですけど、ホリエモン的な思想とすれば、また仮にですが、ともかくカネの力で事業を買い取ってもうけようとする行動を、敵対的M&Aを平気で行う行動をホリエモン的行動とすれば、それって、資本主義社会のなかでどこにでもころがっているものでしょう。
 あるいは、金儲けを、個人の才能と努力の産物と思いこむのも資本主義のなかにはびこっているただのオカルト。こんなオカルトを唾棄するために経済学はあるんですよ。ホリエモンとは単に資本主義というシステムをマンガにして見せている人格なんです。いいじゃないですか、単純で。
 自分の行動のいやな部分を拡大してくれている存在に、人は嫌悪感を感じるようですが、自分もホリエモンも、そしてフジの日枝ださんも、同じ精神を呼吸している我々の連続体なんですよ。この連続体のうちの一人の個人の現実性が実在するんですよ。

 どんなにカネが嫌いで愛を叫ぶ人でも、ある限定された局面では、ホリエモン同様「カネがすべて」という物神崇拝(『資本論』第1章)的なふるまいをせざるをえません。
 また同様に、ホリエモンとて、カネですべてが買えるという思想を貫き通すことなんてありえません。彼は、先々週だかの『週刊ポスト』のインタビューで「一日八時間は寝る、うまいもの食って寝たいだけ寝なければ何のために生きてるかわからない」という趣旨のことを語ってました。とてもいい発言だと思いますが、これってカネの自己目的化の否定でしょう。「信じられるのはカネだけ」とおもっている多くの人々だって、結局カネというかたちの「社会関係」を信じているわけですし。

 もちろん、物づくりではなく、他人のカネを右から左に流してカネを太らすやりかたを「不労所得」的なものとして批判する意識も正当です。しかし、これは別に堀江に独自なふるまいでは全くない。

ライドドアという拡大鏡2:企業体を社会がどうてなづけるのか

システムの深刻な亀裂

 所有者が自分のカネで労働者を雇って自分で監督やらカネ勘定やら判子押しやらの労働をするよりか、所有者たちのカネを一カ所に集中して、専門的な経営労働者に任せてそれを増やさせる方が、資本主義の競争のなかでは強い。だから、株式会社というのが定着するわけです。株主と経営者という二階級制によって「交換価値」の自己肥大化(資本蓄積)をうながすわけですな。
 株式会社は民間のなかの近代民主国家みたいなもんでした。理想としては、株主が集まる株主総会は、最高の機関としての国会。国会が「経営者」を選びます。株主は、利潤を自分たちのものとして分け合う権利と、この国会で議決する権利をもちます。
 でも株主は所詮は浮気者。会社の存続にとっては入れ替わってもよい存在です。ですから、彼等のもつ権利の証書、つまり株券が、売り買いされることになります。

 で、株主民主主義という理想を守れる人はあんまりいません。株式が投機の対象となり(つまり会社が売買される商品となり)、株主の議決権が、経営者が自分を続投させるための道具や、会社が会社をコントロールするための道具、合併吸収のための道具、でしかなくなってしまう、これが現実です。競争のなかでは株主はいらない、こうなります。特に日本では株主なんて、従業員は意識しません。アメリカだって個人の株主資本主義なんて叫んでますけど、株主民主主義なんて理想実在してるわけじゃないです。だからこそSECの監視も厳しく、企業の社会的責任論が強調されてるんですからね。
 まあ、今の国会と内閣・官僚の関係と同じですよね。私たちの一票ではなく、貨幣の権力が、執行権力が偉くなっちゃうんですから。下僕のはずの人たちが何であんな偉そうに広告してるんでしょうかね。
 株主民主主義は企業に対する歯止めです。

 でも同時に、株主のものという関係性は、経済は諸個人の公共性だという実態を画面上から消そうとする権力です。
 株主主権とはだれもがウソとわかっている虚構です。じっさいは、これまた虚構めいて聞えますけど、会社という関係性が生きた人間を支配する物象化された世界です。この歪みのなかに、働く人たちが交換価値の蓄積というかたちで、労働の社会的呼吸体を発展させています。株式会社の死に体のうちに、マルクスは未来の種を発見したといってもいい。

 会社経済では、公共権力が事実上存在している。しかし、そのくせ、これは、市民一人一人のコントロールが及ばない。公共権力が経営者権力というすがたをとっている。法律も株主の力も及ばないなら、経営者の「倫理」がこの公共性を制御するキーワードだ。まあ、今背後にある文脈はこんなかんじです。

フジテレビという権力

 で、堀江氏がニッポン放送という会社を買ってフジテレビまで傘下におさめようとするのも、株主の権利を道具として使っているわけです。しかしこのことが同時に、株主一人一人をかけがえのないものと考える土俵の崩壊でもあるんです。細かい話は解説がいくらでもありますから省略しますが、たとえば、ライブドアに資金を用意したリーマン・ブラザーズは、ライブドアの株価が下がるほど得します。ライブドアの一般株主には困ったことですね。

 もちろん、ニッポン放送がフジテレビを引受先に新株予約権を大量に発行するというフジテレビ側の奇襲は無限に経営者権力の保身のための手段です。司法の判断は妥当です。フジには外資と闘う使命があるのかな。さすが国家主義。
 ライブドアを排除するためだけの「発行済み株式2.4倍化」なんて、いくら自民党がフジを応援したとしても、司法が認めるとは考えにくい。経営者の自己保身のための株式発行を許すなんて、世界資本主義のスタンダードからはずれますからね。
 一般株主は訴訟という手もあるけれど、やっぱり迫害され続けるといっていい。少数株主の権利が尊重されていないこの点を問題視しているのは、日経新聞2月27日「経済解説」の末村篤「『裏技』欧州の買収合戦」。
 笑えるのは、『週刊プレイボーイ』3月15日号に「ホリエモンを総理大臣に」という記事。「政官財をあげての」「ホリエモン包囲網」に対して堀江を擁護し、「ホリエモン叩き」の1つ1つの論拠に反論しています。堀江に批判的な論調としては『週刊ポスト』3月25日号「堀江vs日枝『疑惑の土俵際』」が面白かった。『週刊ポスト』3月11日号で高木勝が「株主の平等性、公平性に反する」とこのニッポン放送の乗っ取り防止策を批判しているのも当然のことと思いました。

ライドドアという拡大鏡3:企業の公共性

公共性の分裂

 フジテレビがそんなに公共的な存在だったとは知らなかったという人も多いでしょう。若造がメディアを支配するのかとこわがるのなら、もともと誰かが支配していたというほかはなく、フジテレビが公共的だというなら、ライブドアが大株主になったって公共的なのです。問題は公共性のあり方でしょう。そのうえで、ライブドアが支配株主になると非公共化されるのかですけど。私が考えたってまあ勝手に進行しちゃうんですけど。

 グループ(経営者権力)維持のためのタテマエとして働くフジテレビの公共性なるものと、メディアという公共物を投機家に握らせ、外資に握らせるかもしれない市場の公共性とを比べてみましょう。フジの公共性には建前だけじゃない実質が確かにあります。それはしかし、ライブドアが支配すると消失するものなのかはわかりません。
 グローバル市場に開かれている分だけ、ライブドアの行動の方が愚かしくもまた進歩的にみえるのですが、どうでしょうか。進歩というのは現実の悲惨をさらけだしてしまうことで私たちに考えさせるという皮肉な意味も込めて言ってますけど。
 こんな週刊誌ネタも、レーニンが述べたようにギャンブラーを利するまでに社会的労働の果実がもたらされている事態そのもの、進歩という悲喜劇そのものではないか、と感じた次第です。

企業の社会的責任

 共同通信によるインタビュー(2月28日)によれば(北海道新聞3月1日)堀江はこう語っています、「投資家にとって邪道かどうかは関係ない。ずるいと言われても合法だったら許される。倫理観は時代で変わるから……」と。

 さっき述べた経営者権力という権力を倫理観で規制する限界をついているとおもいます。倫理は実態をかくす隠れ蓑にもなります。「企業統治」のありかたを企業が自ら問い、企業の自主ルールが、いわば従うべき標準となっていく流れは、確かに進歩ですが、法律的規制をいわば避けるというその空洞に、堀江氏は入っていくわけです。
 「倫理」に対しては堀江氏的な利己主義も、資本主義の正常な分泌物です。個人の利己心を保障しながらそれを社会的に有効にするのが、倫理より市場、そして法律だとするならば、ともかく合法ならいい、制度設計は自分の仕事ではない、自分は金儲けするだけだ、金儲けが市場によって社会的に有意義になるんだ、という主張は1つの権利でしょう。もちろんこの主張だけでは完結しないのが現代であり、この主張では企業の実質的に公共的なルールづくりができないのが現代です。金銭的インセンティブでうごく受動的な個人で終わらないのが現代だし、社会に対して積極的に権利主体として関わる個人へと個人を鍛える必要があるのが現代だからです。
# by kamiyam_y | 2005-03-20 19:46 | 自由な個人の権利と国家 | Trackback(4) | Comments(2)

学問に王道はない

「王道」とは近道、楽な道のことです。

「学問には平坦な大道はありません。そして学問の険しい坂道をよじのぼる労苦をいとわないものだけに、その明るい頂上にたどりつく見込みがあるのです」(マルクス「フランス語版序文および後記」『資本論』大月書店)

あ~、やっぱりほんと、学問は面白いですよ。続けててよかったと何度でも思います。

学問がないと、ついちっぽけな自分にとらわれて煩わしい気持ちになったりする。しかし、学問にもどると、そこから解放される。事物を深く捉え、広い視野で見る。この歓びがあればどんな不幸にも耐えられる。そう思ったりもします。

なんか宗教みたいですね。きっと好きなことって一番の宗教なのかも。

人を知り、自然を知り、宇宙を知り、それらにかかわって自分を生き生きとさせることを、「自由」と定義する。と、まさに学問とは、自由な鼓動なんですね。

自由な精神とは、よーく考えると、「労働」なんです。そんな苦しいことが、と思うかもしれませんが、労働こそ、人と環境とを自分と同じ存在と認め、それらに関わって、自分を変えていく自由で偉大な営みなんですから。

労働するってことは、呼吸すること、つまり命が宿っていることの、人間的なありようなのです。この労働の大きな武器が知性です。つまり、理論って人間的な呼吸なのです。

というわけで(どういうわけで?)、学問の面白さは、簡単にわかるものじゃありません。

と同時に、やはり環境。その道の専門家から直に学べるってすばらしいことです。

さて、

できあいの安手の「癒し」ならそこらじゅうで売られてます。そうした癒しのなかには、私たちの目をふさぎ、耳をふさぐさまざまな威力が隠れているかもしれません。私たちをもっとも抑圧し疎外している大きな力が、そうした癒しを私たちの目の前にぶらさげているのかもしれません。

こうした障碍とたたかうこと、社会に参加しかえていくことによって自分を、自分に続く諸世代をより解放すること、真実を見つめ、真実を主張する勇気をもつこと、これもまた学問なのです。
# by kamiyam_y | 2005-02-25 22:41 | 学問一般 | Trackback | Comments(0)

凡例(マルクスからの引用)

マルクスからの引用する場合。

『マルクス=エンゲルス全集』大月書店、からであれば、原典のMEW(Karl Marx-Friedrich Engels Werke,Diez Verlag) の頁を、資本論草稿集翻訳委員会訳『マルクス 資本論草稿集』大月書店、および『資本論』第3部第一稿であれば、MEGA(Karl Marx-Friedrich Engels Gesamtausgabe)の頁を、引用文の後に括弧で閉じ附記する。訳文は文脈に合わせて多少変更する場合があることを断っておく。原文の強調は省略する。……は引用者による中略を、〔 〕は補足を示す。『資本論』はD.K.、『経済学批判要綱』は『要綱』あるいはGr.などと略記する。

このようにするかもしれないし、しないかもしれません。
# by kamiyam_y | 2005-02-21 19:22 | このブログについて | Trackback | Comments(0)