さっぽろ地下鉄のなかでマルクスを呼吸する、世界を呼吸する

協業と機械-スミス『国富論』とマルクスの《資本の生産力》(5)

チャップリンの「モダンタイムズ」をなぜかみました。中学生のとき名画座で400円でみて以来です。邦題は「モダンタイムス」らしいんですけど。字幕の訳も変だなあと思うところがあったのですが、ふれないでおきます。

有名な冒頭の工場のシーンだけではなく、貧しい少女(ポーレット・ゴダード)がでてからの方が場面が外になって生き生きした感じを受けました。酒場のシーンとか、やっぱり面白いです。

監視社会、大衆消費社会と貧困、失業といった、疎外された現代社会の要因がほぼでています。思想性がそれほど深いのかと問われると即答はできませんけれども、ともあれ、資本主義批判を素材とした、しつこいくらいのドタバタ喜劇であり、プロレタリア文学のお笑い版であることはたしか。ちゃんと笑わせてくれます。

この映画、機械文明を批判したとよくいわれますよね。それってどうなんでしょう。

この映画が批判しているのは、「機械」や「機械文明」ではないでしょ。そうではなくて資本主義システムでしょう。

「機械」そのものを批判してるわけではありません。ラダイト運動(1810年代のイギリスでおきた機械打ち壊し運動)じゃないんですから。「文明」だって変です。「機械文明」の反対は「道具文明」なのですか(笑)。

機械ではなく、機械という形をとった資本主義システムが問題なのです。機械の資本主義的利用が問題なのです。飽くなき貨幣追求のために機械が利用されるからこそ、それは労働者の健康を破壊し、天然の自然を破壊し、労働者の社会関係を破壊します。

機械そのものが悪だったら機械をなくすか、人間は永遠に不自由だと考えるかってことになってしまいます。資本主義的な生産を太古から続き未来永劫続く永遠の生産とみなすようなもんです。チャップリンがとらえたものの意味は、機械の背後の生産関係にあります。

スミスの「労働の生産力」をみましたが、こんどは、マルクスの「労働の生産力」をみてみましょう。

「・・・[略]・・・労働の社会的生産力、または直接に社会的な、社会化された(共同的な)労働の生産力(ただこのような社会化された労働だけが数学などのような人間の発展の一般的な所産を直接的生産過程に応用することができるのであるが、他方ではまたこれらの科学の発展は物質的生産過程の一定の高さを前提するものである)、このような、個々人の多かれ少なかれ孤立的な労働などに対比しての社会化された労働の生産力の発展、またそれとともに、社会的発展の一般的な所産である科学の直接的生産過程への応用、これらはすべて資本の生産力として現われ、労働の生産力としては現われず、または資本と同じであるかぎりでの労働の生産力として現われるだけであって、・・・[略]・・・。資本関係一般のうちに存在する欺瞞は、今では資本のもとへの労働の単なる形態的包摂の場合にそうだったよりも、また、そうでありえたよりも、はるかに発展する。」(『直接的生産過程の諸結果』岡崎次郎訳、国民文庫、86-87頁。強調は省略。)


チャップリンの風刺は、人間が機械によって支配され、機械に支配される労働者が貧困を強要される転倒を笑っています。

機械の付属物に人間がなってしまうのは、機械文明やら機械そのものという歴史的規定性を欠いた要因によってではなく、資本主義システムだからです。労働の矛盾、すなわち、労働の産物が労働者のものではなく、労働が労働者にとって苦痛であり、労働する関係が労働者を圧迫するような、労働の矛盾があるからです。労働は、人間が協同で生産するという社会的な活動ですから、この社会的活動から人間が疎外されるのは、人間が自分自身を失うことであり、自分の社会的な本質を失うことです。資本主義的機械工業では、人間は社会的本質を、まさに社会的本質の喪失として実現しているのです。

資本主義的な転倒においては、労働者の労働は彼等のものではない力です。労働者はベルトコンベアの横で働きますが、かれらの社会的連続性は、機械システムという形をとって、かれらによっては制御できない法則として存在しています。資本の競争の関係が、人間によって制御できない力になっているのです。

資本主義は労働が孤立しあっている私的生産を前提しますが、この私的生産、私的利益の追求は、《直接に社会化された労働》を存在条件にしてしまう。つまり、私的生産は、私的生産を不要とするような社会的生産に依存する。なんて矛盾でしょう。

直接に社会化された、とは、孤立した個人のあいだを交換が結ぶのではなく、人と人とが直に結びつくことを意味します。実体としての共同労働の成立です。この社会的な労働において科学が適用され、科学の適用がこの社会的労働、機械を共同で用いる労働のいわば本質です。

機械は、労働者の社会的に組織された労働において、科学を応用することによって成りたっている社会的な労働手段です。この機械によって、労働は社会的に組織されてしか作用しないものとなります。

しかしこの《直接に社会化された労働の生産力》は労働者自身のものではなく、資本のものです。労働の社会的生産力は、資本においては、労働者自身の社会的なものとして制御されているわけではありません。それは、《資本の生産力》という転倒した姿をとって発展します。貨幣を増殖する力という逆立ちした力になっています。増殖する貨幣が労働を支配する力となっています。機械の採用は労働者の自由時間を増やす可能性を秘めているが、資本のもとでは逆に作用し、労働者の自由を圧迫するものとして作用します。

チャップリンはこの圧迫をおもしろおかしく誇張したわけです。
# by kamiyam_y | 2007-11-04 23:22 | 資本主義System(資本論)

カビをおさえる桶はなかった(補足2) 企業を渡り歩く「自由」と労働者の社会的責任

農水省の食品表示110番への情報提供が増えているそうです。『朝日新聞』の「食の偽装 発覚止まらず」(10月24日夕刊4版8頁、歌野清一郎・鈴木剛志という署名入り)という記事で知りました。

さっそく確認。

食品表示110番情報

ここにあげられている北海道農政事務所といえば、ミートホープの内部告発を門前払い・放置しておいたことが報道されてましたね。

asahi.com:「疑義特定できず」農政事務所が文書 ミート社内部告発 - 牛ミンチ偽装

ついでに内部告発をあつかう頁。

農林水産省/公益通報の受付窓口

「公益通報の手順について」では、いきなり「公益通報をされる際には、以下の情報が必要になりますのでご注意願います」。なんかエラソーなかんじです。

朝日の記事に戻りますと、同省担当者の分析として、「終身雇用が崩れて、従業員の感覚が『うちの会社』ではから『ここの会社』ではに変化しつつある」という言葉が紹介されています。

もしもかりに非正規雇用の増大が内部告発増大の背景にあるとすれば、非正規雇用化の進展は、企業による分断統治、差別的雇用体系によるコスト節約が、企業の予想しなかった企業批判の増大をもたらした、といえるのでしょうかねえ。

企業とは、人間と人間とを結びつける仲介者が、物=私的所有というかたちで人間から独立して、人間に対する重圧として作用するもの。

個々の企業の資本蓄積(拡大運動)が、それに依存する労働者の生活を大きく支配する。とすれば、正規雇用の従業員よりも、非正規雇用の従業員の方が、告発と企業崩壊とを天秤にかけたばあい、告発をとる可能性が高い。

内部告発する非正規従業員の存在は、労働者が個々の企業に対してより独立性をえているようにみえます。といっても労働者が個々の雇い主を変える「自由」(=強制)は、独立化した私的所有である資本の全体(「企業中心社会」)に対して、労働者がその鉄鎖に縛られているという逆立ちした実態を変えるわけではありませんけど。しかも、非正規雇用化は、資本蓄積が「貧困」の蓄積だという法則そのものですし。
# by kamiyam_y | 2007-11-02 23:28 | 消費者の権利と社会的労働

カビをおさえる桶はなかった(補足)

排除命令が22件は少ないのでは、ときのう書きましたが、「注意」が239件あることを思うと、それなりに仕事しているのでしょうね。

消費者をだます企業は、従業員をだます企業でもあります。先日朝日新聞で、ミート社の従業員の声が紹介されていましたが、従業員に対しても横柄で、労働法も守られていなかったよう。

消費者をだます生産者は、生産者をだます生産者でもあります。別の生産者のふりをして生産してるわけですから。

たとえば、S産の雲丹というブランドがあるとして、産地が全く別のHなのに、S産と偽って売るのは、Hの雲丹に対して失礼です。もちろん、S産でもないのにS産とウソとつくことですし、S産の生産者の利益を損なうことになります。

Hにすむ貧しい一家が、このウソ表示のおかげて仕事にありつけ、子供におやつを食べさせることができる、ということもあるかもしれませんが。

あらゆる生産者がこのようにだまそうとするならば、全体の利益は低下します。より一般化していうと、万人による万人の足の引っ張り合いにおいては、社会に媒介された個人の幸福は、引っ張り合いがなければ達成したであろう水準にとどかない。

他人を欺くことは、自分を否定することです。相手を否定することは人間を否定することであり、人間を否定することは自分を否定すること。だれもが相手の否定によって自分の肯定をしようとしたら、だれもが否定しあうことになります。

絆を引き裂かれた人間が、自分のためにすることが、全体として自分たちの首を絞める。これは企業もそうですが、労働者もそう。労働者が給与獲得競争に利己的に邁進すれば、給与は実質切り下げられ、全体の利益が低下する、というように。かといって、公正な給料というのは、公正な搾取というに等しいのですけど。
# by kamiyam_y | 2007-11-01 23:57 | 企業の力と労働する諸個人