さっぽろ地下鉄のなかでマルクスを呼吸する、世界を呼吸する

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相対的過剰人口論によるマルサス『人口論』批判

マルサスの『人口論』は、フランス革命の民主的な機運がイギリスに拡がったときに、それに対して生じた保守反動的頭脳の衝動であって、地主階級の土地所有・農地権益の人格的表現として、保護貿易、農業保護を主張した本です。

この有名な書物の中心的シェーマは、「算術級数的」食料生産と「幾何級数的」人口増大ですが、この図式というのは、『資本論』に出てくる転倒的諸観念を思い出して考えるとよいでしょう。商品の物神崇拝、「労賃」形態による剰余価値の隠蔽、剰余価値の利潤への転化による剰余価値の隠蔽、利子生み資本における利潤と利子の質的分割、「三位一体的定式」など、資本主義を正当化する物神性は、生産関係という媒介を捉えない迷信的態度、対立的諸関係を自然とみる神話的諸観念を意味します。

「算術級数的」食料生産増加を所与の技術とし、労働者階級の生殖・「幾何級数的」人口増加と直接結びつけて、貧困を自然とみなす抽象は、労働する諸個人の生産諸関係という媒介を見失うことであって、貧困を神の掟、調和的世界として永久化しようとする物象的利害の表現であり、システムの弁護論の1つの典型です。

資本の蓄積過程論は、転倒的諸観念を資本自身が解体する、この解体を諸個人が理解するってことで、諸個人が奴隷状態に閉じ込められてはいないというたいへん根底的で、かつ穏やかな正しい把握です。

マルクスの相対的過剰人口論では、マルサス『人口論』に対して、資本の蓄積運動が資本の平均的増殖欲求に比して労働者人口を過剰化することが対置されます。相対的剰余価値生産の諸方法、生産力の増大が、労働者人口を過剰化し労賃の運動を蓄積の要求内に限界づける手段に転じて、蓄積を条件づける。資本主義的蓄積の法則は貧困の蓄積の法則として貫かれ、蓄積の媒介におかれて過剰人口の存在は、『人口論』的表層から脱出して現れています。

生産の諸関係において存立する過剰人口現象を、生産の諸関係から切り離して直接的に問題の起点にする点でマルサスは俗物です。対照的に、労働価値論によって古典派の神髄は学として偉大です。
by kamiyam_y | 2013-01-31 21:29 | 資本主義System(資本論)

まっとうな社会的自由としてのデモ:技術と社会

野間易通『金曜官邸前抗議』(河出書房新社)、第6章の最後の節にある柄谷行人のせりふ、なかなかいいです。興味のある方は買いましょうということで、ここには書きませんけど。

その少し前の箇所に鎌田慧の指摘として、原発建設に対して反対し勝利したところがたくさんあるが「論理で危険だと訴えても、カネの力で推進してくるものには勝てなかった」と書かれてあります。

「カネの力」ですね。気になるので、大きな枠組みに入れ込んで「技術」への考え方を繰り返してみます。技術は合理的だから合理的に管理すれば安全、つまり安全という生活の権利は技術によって本質的に解決済み、安全の問題は技術の問題、とみるのが、私たちの思考にあって偽の安定性を求める態度でしょう。こういう態度においては、技術が人間のために利用されているか、労働者と環境破壊を破壊する非倫理的な技術を他の選択支に優先していないか、といった問を立てることができません。技術の非合理的利用・非合理的技術の普及という問題はあらかじめ排除されてます。廃棄物を処理できず壊滅的な事故に結びつく技術を、非合理的かつ非倫理的と呼ぶことにためらいは不要です。

鎌田が述べている「カネの力」の作動を媒介して考えるってことですし、「カネの力」を労働する諸個人の諸力の否定的な発現として捉えるということ。カネとして介在してくる経済的諸関係自身を私たちが管理できないというシステムのありかたを抜きにして、自然(技術)と生活(安全)が一致すると想定するのが私たちの思考の怠惰ですが、同時に、カネの力がモノに擬態して背景に溶けてしまうことを積極的にここではカネの力が自ら突破し、私たち自身の諸関係を私たちが管理することの必然が示されているともいえます。

私たちの集合力の諸関係が生活を破る威力として、制御を要するものとして出現し、私たちに問を投げかけることで、私たちが疑い、声をあげ、学び、自らの社会的開発を進めていくという必然。

ちなみに、技術そのものを社会的安定と混同するような、安全な原発という形容矛盾に固執する原発共同体的幻想の裏返しは、資本主義的利用から切り離された技術一般の未完成・根源的悪を主張するような反生産力主義ですね。

という話はあくまでも問題の一般的な枠組みです。日本における原発の拡大という個別的事情はその諸要因を歴史的に探求すればよい。ここでは細かいことは無視ってことで。

野間さんの本から逸れてしまいましたが、本書はデモする社会というあたりまえの民主主義について考えさせてくれる歴史的証言です。
by kamiyam_y | 2013-01-28 23:57 | 労働論(メタ資本論)

East Town



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Ricoh GR Digital Ⅱ
by kamiyam_y | 2013-01-27 23:40

ヴェブレンを読み返した

突然の体の不調で、病院にお世話になってきました。いろいろやらねばならないことがあるので、はやく治したいです。不調の一因がスーパーで衝動買いしたあるものにあるにちがいないと睨んでいるので、今後気をつけることにします。確証がないし、調べる気もしないのでこれ以上書きませんが。

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ヴェブレンを読み返した

『国連人間開発報告書』の理論的支柱であるcapabilityアプローチを提起しているアマルティア・センは「貧困」を社会現象としてとらえ独自の人間発展論において課題としているし、ケインズは学生時代ムーアの反功利主義的な倫理学に影響を受けのちに「自由放任の終焉」を書いているし絵の収集家だし、ケインズと同い年のシュンペーターはウィーンで歴史や法学を学びオーストリア・マルクス主義者と交流し社会化委員となり大蔵大臣を引受け『資本主義・民主主義・社会主義』を書いたのだし、アダム・スミスのテーマはモラルフィロソフィーであり市民社会の自律的形成を課題とした、というように面白い、偉大とされる経済学者というのは、エコノミクスの範囲のなかで収まらない人物ばかりです。こうした経済学者たちは、経済学者というより社会理論の探求者です。

ソーンスタイン・ヴェブレン、1857年ノルウェーの移民の子として生れ、1884年に哲学博士となるもしばらくは職に就かず本を読んで暮らしていた奇人、ハイルブローナーの『入門経済思想史 世俗の思想家たち』(八木甫・松原隆一郎・奥井智之・浮田聡・堀岡治男訳、ちくま学芸文庫、2001年)の第8章を参考にしながら、彼の1899年の『有閑階級の理論』(髙哲男訳、ちくま学芸文庫、1998年)と1904年の『営利企業の理論』(小原敬士訳『企業の理論』勁草書房、1965年)を読み返してみると、『営利企業の理論』のよく知られた、「産業」Industryと〈営利〉Businessとの対立という構図が、前者『有閑階級の理論』の、平和愛好的で労働に敬意が払われる社会と、〈掠奪〉を軸とし非労働が有閑階級によって誇示される(「顕示的閑暇」等)ような〈野蛮〉社会との対比を踏まえていることがわかります。

勤労の世界、生産過程は、〈制作者本能〉が支配する機械的性格(技術者による調整を含んだ有機的な統一性)をもつのに対して、株式会社金融などによる〈不在所有〉が発展し、営利は機械的過程における調整の解体から生じるという捉え方において、営利は〈野蛮〉の徹底なんですね、たぶん。こういう捉え方には常識を辛辣に、あるいはからかうようにひっくり返してみせる痛快さがある。

「有閑階級という制度がその最高の発展を遂げているのは、例えば封建時代のヨーロッパや封建時代の日本のように、野蛮時代の文化が高度化した段階においてのことである」(前掲『有閑階級の理論』高訳)

たとえば、資本主義のなかにいる人間には、金儲けのための競争は人間の元来の性質なのだ、とする幻想を信じている人がいるでしょう。しかしこれは、マルクス的な言い方に近づければ土地所有が支配する封建制社会において土地所有のための殺戮、これが疑われるどころか褒め称えられるのと同じこと。すでに生産関係によって媒介されそれを前提にして存在していながら、媒介をうしない直接の起点となったブルジョア的原子、これに固執することに対して、社会的な全体によって諸主体が規定されていることを対置する批判性がヴェブレンのような議論の妙味ではあります。

「社会一般にたいして概して無益であったり有害であったりする事業……不生産的な仕事の収益は、他の仕事の総生産物から生れるものである。……産業的にみて寄生的な種類の企業の成長には限度がある。大部分の広告業や……寄生的産業の不釣り合いな成長は、軍事支出や……とともに、その社会の有効な生活力をいちじるしく低下せしめ……」(前掲『営利企業』小原訳)

これも寄生的企業への富の移転が社会的にはマイナスでありうるとする批判で、合理的経済人の主観と財という抽象からすれば無関心な問題を取りあげています。

新古典派的なものを批判する理論的制度派の思考って、「諸個人とは社会である」とか「諸個人はその基盤を社会とし、社会が進化する」とするもの。取引コスト論のようなものを新制度派とよぶこともありますが、そちらは原子論的社会観の修正版と見た方がいいでしょう。

ブルジョア的私人・交換する個人は、資本主義的システムを自己の媒介において定義するような能動的原理ではなく、その自立性はじつは非自立性なのだが、この自立性の内部にとどまるのが新古典派的発想。

制度派的捉え方もまた、その社会による諸個人の包摂は、現在の対象自身の対象を捉えるものではなく、生産関係によって捉えるわけではなく、原子論同様に定義されない前提なんですけどね。原子論の方はまず社会契約説。社会に先立つ契約主体としての個人を想定してもそれ自体すでに社会的存在であり、そうした個人の想定が社会的な約束事であることは実際的に知られているといえます。生れながらにして天賦人権を人間はもつわけではなく、人権は社会関係なのですから。「社会の実体は諸個人である」が人権論的想定といえそう。

とはいえ、人権論は、封建制社会において領主権力に従い、共同体に埋没して生きていた諸個人を解き放つ革命の思想的契機です。原生的共同体の支配から現代的個人の自立へ転換させた人権論は、今度は、個人から独立した社会的生産を批判する武器に転じます。企業や経済法則が個人を飲み込む全体である以上、人権論は王権の批判からこうした全体の批判に具体化します。批判対象の発展が人権を実在化するのだよ。

原子論は古典派経済学のなかの功利主義的想定としてもちろん弁護論的に機能します。孤立した個人を起点とする調和的市場観では、資本家も労働者もその物象的対立的諸関係を脱色されて、利己的主観的利益を計算する同権的主体へと漂白され偽りの姿で現れます。生産関係なき財と主観の関係の世界ですから、個人と一致しない社会はここでは存在しない、というか、社会ではなく個人のみが存在することになります。

諸階級は、孤立的契約において「日労働の価格」という不合理な観念において、〈労賃〉形態において、自由平等な市民として等質化されて現れます。地主も資本家も労働者も単に収入をもたらす物、源泉が違うだけで平等なのだという三位一体的幻想、三大階級の非階級化ですが、これはエコノミクスにおける調和的市場観の原型といってよい。金に社会的支配力を与えている生産の媒介が断ち切られた幻想では、自然物金に支配力の原因をみる。こうしたフェティシズムは、貨幣が利子をもたらす等々の三位一体的幻想にまで具体化しています。
by kamiyam_y | 2013-01-23 21:49 | 労働論(メタ資本論)

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Bessa-T・SUPER WIDE-HELIAR 4.5/15 Aspherical Ⅱ
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by kamiyam_y | 2013-01-10 21:33

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RICOH GR DIGITAL Ⅱ
by kamiyam_y | 2013-01-03 16:35

televisionのglobalな一有用性

新年数時間すぎました。おめでとうございます。

最近居酒屋のカウンターに座ってのこと。

食事を終えて帰ろうとする若いカップルが、調理中少し手の空いた料理人に、カメラを向けてます。板さんがにっこりすると「かわいい」。

東京から来た若者の旅行かと思っていたんですが、あとでこの板さんが教えてくれたところでは、「台湾からのお客さん」だったとのこと。

「日本語はテレビを見ておぼえたそうですよ。すごいですね」

好きこそものの上手なれ、か。

労働は犠牲なりとするスミスや、負効用とする需給論は、歴史的に規定された資本主義的労働の形態を労働の永遠不滅の本質と取り違えており、労働を生きた総体から切り離された一領域として見るだけで、労働から社会を介して多様に展開する人間性の本質をとらえることができない。労働は人間の人間的生命発現であり、それ自体歓びをもたらす欲求実現であって、学ぶという活動ももちろん同様。

労働が剰余価値の生産・蓄積の手段に転じ、非労働時間も豊かさの尺度ではなく蓄積の外で蓄積に従属する一分肢におとしめられている現在、人間の生命欲求としての学びも労働力売買・剰余価値生産の手段となって疎外されますが、同時に学びはそれ自体、現在の社会を狭隘な制約とみなす普遍的個人の形成であり、社会変革の要因であって、労働における人間的解放に先行して、矛盾する労働する個人における自覚的・主体的モメントをなすのであります。

自己の生命欲求の実現として生き生きと、社会的自由を実現する主体として、普遍的世界人として、積極的にともに学ばんと思います。
by kamiyam_y | 2013-01-01 01:48 | 学問一般