さっぽろ地下鉄のなかでマルクスを呼吸する、世界を呼吸する

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古典派経済学(2)

社会契約説からスミスに至る社会理論の流れを概観すると、これは封建制的システムの解体という総体の変革が理論的認識という総体の一分肢に屈折したものとして把握することができます。

政治的国家と市民社会の分離という市民革命以降の世界は、神の威力としての社会的統一から解き放たれた孤立した諸個人に依拠した社会認識を求めます。王権神授説に対する社会契約説以降の理論的思考は国家権力の正当性の根拠をめぐる展開として整理可能です。

しかしこの展開は自律的とみえる市民社会を解放することであり、諸個人の政治的解放にすぎません。市民社会が自律的ではない(永続的ではない)というのが現代を劃する理論的思考であり、これはドラッカーの経営権力の正当性の議論に示されましょう。

とはいえ、マルクス以前の社会契約説と古典派経済学の偉大さに対して、マルクス以降の経営社会学的思考の卑小さは否めない気がします。
by kamiyam_y | 2012-10-31 23:37 | 資本主義System(資本論)

古典派経済学

重商主義と古典派経済学に追記。

『経済学批判』第1章「商品」A「商品の分析の史的考察」では、「古典派」経済学はイギリスではペティに始まりリカードに終り、フランスではボアギュベールに始まりシスモンディに終るとされ、その研究の「批判的最終成果」として、商品を私的労働の二重性に還元したことが評価されています(大月書店『全集』第13巻、S.37.)

ジェームズ・スチュアートはこの節では「ブルジョア経済学の全体系をつくりあげた最初のイギリス人」として取りあげられ、彼が「彼の先行者や後継者よりぬきんでていた点は、交換価値にあらわされる独特な社会的労働と使用価値を目的とする現実的労働とをはっきり区別したこと」にあると論じられています(S.43.)。商品の価値に対象化する労働が資本主義的な労働であり、それが封建制における労働と異なる独自の規定性におかれたものであることを観察において見抜いたってことでしょうか。

それから古典派経済学についてですけど、その「最終成果」としての労働価値論が、生産関係が物象化し神秘化されるブルジョア・システムにおいて外観を解消する学的批判的認識という意義を有する点は、「三位一体的定式」論における次の記述など参照してください。

「・・・古典派経済学は、利子を利潤の一部分に還元し、地代を平均利潤を越える超過分に還元して、この両方が剰余価値で落ち合うようにしているからであり、・・・そして最後に直接的生産過程で商品の価値と剰余価値とを労働に還元している・・・。それにもかかわらず・・・ブルジョア的立場からはやむをえないことながら、自分たちが批判的に解消させた外観の世界にやはりまだ多かれ少なかれとらわれており・・・」(大月書店『全集』第25巻、S.838.)
by kamiyam_y | 2012-10-26 00:41 | 資本主義System(資本論)

山の見える路

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by kamiyam_y | 2012-10-23 23:59

全体主義が拡大する地点

「新人警官の訓練のため」ってひでえな。

http://www.timeout.jp/ja/tokyo/feature/6279

『週刊プレイボーイ』も「風営法」によるあいつぐクラブ摘発を批判(第42号・2012年10月15日号、30-33頁)。グレーゾーンを用いた支配からグレーゾーンを摘発する支配への転換の動きにおいて、「スナック」も「アイドル」の「ヲタ芸」も、あらゆる業界が摘発対象化しているという危機を訴えています。市民の一部に発生してくる不安感を共犯関係的に利用しながら権力の権益拡大が、狙い撃ちしやすいところから進行してしまう。

問題圏の正確な理解はこれらの記事の前提となっている磯部涼編著『踊ってはいけない国、日本-風営法問題と過剰規制される社会』(河出書房新社、2012年)

京都市長選の中村候補と「素人の乱」の松本哉が脱原発のトークイベントで顔を合わせたのがきっかけで始まった「ダンス規制反対運動」については『日本の科学者』(日本科学者会議、2012年9月号)掲載の木原隆「2012年京都市長選挙とダンス規制反対運動」など。
by kamiyam_y | 2012-10-18 23:57 | 民主主義と日本社会

市場原理主義批判としてのアダム・スミス

佐伯啓思『経済学の犯罪』(講談社現代新書、2012年)を立ち寄った書店で買い、さしあたり第5章が面白そうにみえたので読んでみました。

著者は「市場主義」的主流派的経済学(いわゆる「新古典派」経済学)を批判する立場を鮮明にとってます。この線上で本章は「市場主義経済学」の創始者としてのスミスという像を市場主義的虚像として解体することを試みています。

重商主義は「グローバルな商業」と「グローバルな金融」による「金銀の争奪戦」にほかならず、これに対してスミスは「土地に働きかける労働」から始まる「自然秩序」を対置した。この「自然秩序」においてスミスは資本投下が「農業」から始まり「製造業」にいたり「外国貿易」は最後に出てくると考えて、「不確実な諸要素」に富をゆだねる重商主義を批判している。イギリスでは当時「貨幣的利益moneyed interest」「貨幣的人間」と「土地の利益landed interest」「土地的人間」とが対比され、スミスは後者の立場から前者を批判している。おおよそこのようなことを著者は論じています。

スミスによるこのような重商主義mercantile system 批判には、差額追求による「争奪」により増殖する流通にとどまる資本が、やがて労働にもとづく富の生産を包摂し資本主義システムを確立するという展開もうかがえ興味深いかもしれませんね。

また、資本の本源的蓄積をうながす要因として植民地、貿易、租税制度・国債制度・中央銀行などが展開され、この流れを重商主義政策がある程度表現していることはいうまでもないでしょう。ちなみに、moneyedという言葉は、マルクスが現実的資本蓄積に対する貨幣資本蓄積についてmoneyed capitalという言葉を用いたことを思いおこさせます。

本書のこのスミス理解の当否をあらためて検討する余裕も力もないですけど、スミスが単純な市場主義者でないことは『国富論』を実際に手に取れば明らかなことです。当時の労働における健康破壊や特有の産業病までとりあげる豊富な歴史的記述と労働価値論という軸を無視して「見えざる手」を都合よく取り上げるのは歪んだスミス像というほかはなく、これによってスミスへの回帰を説くのは、敵対的グローバリゼーションを虚像を権威にして正当化することであり、低成長によってあらわとなった資本の国家の行きづまりの表現、世界市場的資本のイデオロギー形態というべきでしょう。
by kamiyam_y | 2012-10-15 22:03 | 現代グローバリゼーション

Untitled. -Sapporo and Tokyo

Sapporo and Tokyo.



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Ricoh GR Digital Ⅲ, GXR・GR LENS A12 28mm F2.5
by kamiyam_y | 2012-10-13 21:59