さっぽろ地下鉄のなかでマルクスを呼吸する、世界を呼吸する

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デモへ!Go!

泊が止まり、この列島の密集原発すべてを停止に追いこみ、労働者階級の日本における一つの勝利がもたらされた。人類史上の大きな栄誉を、このうえない悲劇の結果ではあれ、この地の人民は獲得した。

と思ったのですけど、もちろん甘くはない。勝利は一時的。すぐにまた野田総理による再開の強行がなされ、非倫理的な技術に固執しそれで利潤を得ようとする精神による反動がやってきたというわけです。

しかしこれまた反対の声がまたすぐに途絶えることなくあげられ持続していることが人類史的に、人民の力を証してすごい。

デモを自由にできる社会づくり、国づくりって日本社会にとってとてつもなく大きな前進だと思います。

めっちゃおもろしろいのは、SNSによる自主的・自発的な行動。ハードな組織の上からの動員もそれなりの意義はありますけどねえ、見て心を揺さぶられ、結集して連帯の高揚感を堪能できるのは、ネットを通した、ゆるやかに、かつ自主的・能動的に能動的にかかわれる「アソーシエイト」したデモ以外にはねえべ。

http://gendai.net/articles/view/syakai/137244

http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2012062302000162.html

http://mainichi.jp/select/news/20120623k0000m040067000c.html

写真はいろいろアップされてますけど、年齢層に幅があって、若い人が自由に参加しているのがほんとうにすばらしい。

http://mainichi.jp/graph/2012/06/23/20120623k0000m040067000c/001.html

http://www.webdice.jp/dice/detail/3551/

Kaori Nawaさんの撮った写真に付された文章に「右からデモ」の感謝すべき偉大な活躍ぶりが書かれているように、脱原発のテーマだけに絞ってほかのイデオロギー、信条はいっさいがっさい問わないところが成功の鍵のように思えます。デモの自由よ、このニホン社会で、徹底して生きよ! 
by kamiyam_y | 2012-06-27 02:58 | 民主主義と日本社会

マルクスの未来社会:大谷禎之介『マルクスのアソシエーション論』によせて(2)

こうして労働する諸個人において資本のシステムは自己を批判する意識です。資本のシステムの真相を諸個人は見抜く。革命的です。内奥から遊離した表層があってそれが内奥を隠す表層という2世界の棲み分けが永続して資本が永続する、というようにはならない。資本による物神崇拝の不断の完成は、物神崇拝の不断の突破でしかない。労働する諸個人はまさに現システム止揚の、意識する担い手となっていく。未来社会を孕み産みおとすのは資本のシステムそのものなのです。

対立的な形で未来社会を潜在的に産出しつづけその自己を解体するのは資本主義そのものなのです。未来社会は資本のシステムにおいて産まれ、資本のシステムをその狭隘な外皮として突破するまでに成長します。諸個人がその産出を担い旧システムは眠り込む。

資本のシステムの秘密を諸個人はそのシステムの展開のうちに見抜く。

資本主義はますます社会を解体し人間を堕落させ窒息させて終り、なのではありません。そうした悲観物語は理論的にはさきの対象把握と理想の二元論の1つの帰結にすぎません。変革への悲観論というものは、個人の振る舞いとしては、他者にケチをつけて優位に立ちたいコンプレックスを隠しもっているとか、自己の劣化に気づかなくことなく出しゃばって人の足を引っ張るインテリの自己確認であったりとか。理論的には二元論。資本主義美化論の裏返し。

「現存社会主義」はそんなこと言ったって社会主義で、市場を導入しつつ資本主義国に反対しているじゃないか。公有・計画から、新たなシステム、社会主義市場経済に方向転換したじゃないか。そう思う人もいるかもしれません。「現存社会主義」の諸国は「市場」を導入しながら、資本主義からの離脱を果たしつつある、あるいはより発展した社会主義へと進歩しつつある。どうなんでしょうかねえ、そういう考えは。

確認しておけばもちろん、高度な資本主義であれ、途上国であれ、「現存社会主義」であれ、世界の諸個人の変革のチャレンジ、努力、熱意、工夫は有機的に結びあい、理論はそれを鼓舞する批判的営為であります。そのうえで、「市場」について簡単な指摘だけしておきましょう。

商品は、総体的に発展すれば、価格変動と流通によって、生産手段と労働力を配分するシステムです。商品のシステムは、交換価値による総労働の規制という物象的な生産関係のシステムです。直接には私的諸労働に参入する諸個人に対して、かれらから独立しかれらを翻弄する社会的力の運動が商品のシステムです。

このシステムはその中身が資本のシステムとなることで生きています。資本とは大量商品でありかつ大量貨幣であり、瞬時に両契機に移行している運動。それは労働力という商品によって価値増殖実現しますが、それも労働力がたえず生産物(生産手段・生活手段)・対象的諸条件から分離し、これら生産物がたえず資本の商品形態として存在しているからです。現在の商品大量は、疎外された労働、賃労働によって不断に息を吹きこまれ運動している資本のシステムの自己形態以外のなにものでもありません。労働する諸個人は労働の実現諸条件から分離しており、この分離を資本の再生産がたえず再生産することによって、商品のシステムも全面的となり生きています。

資本の商品生産物の市場価格の変動を介して、利潤を介して、競争する諸資本の相互関係において、資本の社会的配分が実現し、生産手段と労動力の配分が規制されます。全面的な商品流通である市場は、諸資本がおりなすシステムの自己形態です。生産手段と労働力の社会的配分は、価格の運動に屈折した諸資本の運動によって物象的に、非人格的に実現しています。

というように(舌足らずですけどまあ)、「市場」の根源的把握は、資本の理解、商品と資本の理解につきるというわけですね。

現代の把握に内在する未来社会論について世界的運動の一分子となりたく考えてみました。

さて、本書は、現在のシステムが孕む《胎児》がどのようなものであり、それがどのような成人になろうとしているのか、マルクスの全テキスト群から詳細に引用を行い立証しマルクスのアソシエーション論を摘出しようとする労作です。

で、先日著者の大谷氏をお招きして合評会を開催しました。多くの質問が出され有意義な研究会がもてたと思います。著者からなされた貴重なリプライのなかから、1つだけ記しておきましょう。

それは、modernという言葉についてです。次のような趣旨のご説明でした(どのような質問に対してなされたのかは省略)。

マルクスは「モダン・モデルン」をよく使うが、そこでどういうことを考えていたのか。既訳ではこれが「近代」と訳され、それでは落ち着かないところだけ「現代」とされている。しかしマルクスは「modernなブルジョア社会」という表現において「現代」という意味でこれを使っているし、『資本論』第1部第25章「modernな植民理論」もそうである。

モダンは「近代」と読まれることが多い。日本史ではあるところから「近代」から「現代」になる。ウィキペディアでも現代の前の時代を、古代、中世に続く「近代」としている。

このような「現代」の前の「近代」という意味で読むことは、資本主義そのものが変る、と考えることである。マルクス経済学では従来、国家独占資本主義、グローバル資本主義などと論じられてきたが、それは「いつから」という議論なのであった。

これに対して、マルクスは「最もmodern」とはいうが、modernのあとには区切らない。

modernは、「近代化」「ポストモダン」というようにもちいられる「近代」ではない。

一定の社会的生産有機体がたえず生きているかぎり、たえず「現代」なのである。現代をmodernというならそれはマルクスのmodernなのである。

こういう内容のご発言だったのですが、面白く思いました。

「近代」と理解したばあい、「現代」がそれに対するものとして想定されています。この理解が資本主義の時間的輪切りという形をとったのが資本主義の前後2「段階論」であり、これはマルクスの資本主義空間を私たちの資本主義空間から切断する役割をするどく果します。マルクス経済学が理論において現状肯定に陥ってしまうというどうしようもなく皮肉な理論的迷走。

こうした「現代」は「近代」の「最も」発展した姿ではなく、「近代」の後に来る「現代」という抽象物なのであります。資本主義の段階変化論は、資本主義という社会的生産有機体が定義する時間を無視して、恣意的に主観が区切っているだけ。資本主義はその自己再生産によって同一の生命的循環であり、かつ発展しますが、この発展が否定的な自己実現であり、有限な性格を露呈します。発展は「段階」じゃあないのですね。

大学生の頃、マルクス経済学のテキストでよく「国家独占資本主義段階における~~」という枕詞が出てきたのですが、うそくさいと思ってました。マルクスを読んでも彼はそういう問題の立て方をまったくしていないので。

資本主義を前後に二分する。そうすると、こんどは後半部分を二分割する。2分の1→4分の1→8分の1。まったくもってわけがわからなくなりますね。

19世紀の理論、20世紀の理論、21世紀の理論。これまた20世紀後半の理論、21世紀初頭の理論、とつくりたくなってしまう。

これでは理論は、生きた存在の根っこから切り離された事実を無批判に後追いをして説明する虚しい行為。それがあるからある、という確信。非実践的なオウム返し。

そもそも理論ってつくるもんじゃないです。

こういう抽象的知の悪循環に気づかずに素朴に「段階」が語られるばあい、セットとして、「現実」なるものが素朴にまた便利な言葉として持ちだされたりします。「理論」は座して行う空想で、自分にとって見たい、またはたまたま見た事実に立脚して「現実」と称した抽象をふりかざすというように。そうした研究大家的そぶりの背後には、ある「事実」を選ぶユニークな思考の持主たることを自慢する卑しい動機が潜伏しているようにすら思われます。

そうした非実践的、観想的態度に対して、実践的・革命的・批判的なのは、一定の社会的生産有機体をたえず再生産している1事実、すなわち現在の本質的矛盾においてたえず諸個人が行っている労働、これにもとづいて把握することです。本書が立脚点として強調するのも「労働にもとづく社会把握」なのでした。(完)
by kamiyam_y | 2012-06-26 07:30 | 資本主義System(資本論) | Trackback

権力と新聞:高田昌幸『真実 新聞が警察に跪いた日』によせて

NHKでたまたま歌舞伎「勧進帳」を観たんですが(にっぽんの芸能 芸能百花繚乱「徹底解剖!勧進帳」)、弁慶を止める関守・富樫左衛門がとてもかっこよかった。張りのある声で繰り出される文語のリズムにほれぼれしました。市川海老蔵。プライベートに何があってもどうでもいいですよね。別に彼だけじゃないですけどさ。

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憲法記念日の頃読みました。

高田昌幸『真実 新聞が警察に跪いた日』(柏書房、2012年)。(紀伊國屋書店BookWeb丸善&ジュンク堂Amazonhontoネットストア

前線で活動する新聞記者の苦闘を伝え多くのことを考えさせられるとともに、読み物としても秀逸。ですが、ここでは民主主義論のテキストとして紹介してみたい。「メディアと公権力」「国家権力組織と報道組織」「組織と個人」といった本質的な主題を考察する恰好の素材です。

警察裏金問題において北海道新聞が果した大きな役割は関心のある道民なら誰もが認めるところであり、道新がその後方向転換してしまったこともよく知られているといってよいでしょう。その取材班の代表を務めた著者が今再び訴えています。

北海道警察の裏金問題は、旭川中央署の捜査報償費不正支出疑惑をテレビ朝日の『ザ・スクープ』が2003年11月に報じて火がつき、2004年2月には元釧路方面本部長の原田宏二氏が裏金づくりの組織的実態を記者会見で証言するなどして、深化・拡大。

北海道新聞は地方の公権力の不正と対決し組織的裏金づくりという実態を暴いていきます。市民の崇高な武器としての報道の力が発揮された瞬間のように思えます。記者たちがどれだけの精力を注いだかは、2003年11月から2005年6月の間になんと1400本以上もの記事を掲載したこと(13-14頁)に示されています。この「調査報道」の一部分は講談社の文庫本『追求・北海道警「裏金」疑惑』で読めます。

地域権力の根深い不正の実態と向き合いそれを丹念かつ精力的に解明しようとする取材班の格闘は大変高く評価され、2004年に日本ジャーナリスト会議大賞、新聞協会賞、菊池寛賞の三賞を受賞。

ところが事態は反転してしまいます。地元捜査権力を対象としその不正を調査し公開する道新の姿勢は崩れてしまう。これを象徴するのが2006年1月の「お詫び社告」掲載でした。

この屈服がどのようにもたらされたのか。この敗北が何を契機としてもたらされたのか。あるいはどこで足下を掬われたのか。

本書は背後に進んでいた新聞社幹部と警察元幹部の裏取引、「和解」交渉の過程を明らかにしています。しかも、この道警元幹部が自ら裁判所に提出した文書を用いながらです。

この「和解」取引において道新内部では幹部よる記者への締め付けが行われ、これに対し記者たちも抵抗。この経緯を著者は生き生きと描きだしており、一気に読まされます。新聞資本の組織の力がその内側の諸個人を分断し抑圧するように用いられていく。これに対して、記者たちは死守すべきものを死守しようと闘う。

諸個人の社会的自由の発展において、かれらによる権力への制御の試みは基盤をなすともいえ、報道による権力監視はその大きな武器として機能しなければなりません。

諸個人に対して、かれらに先だつ既成の怪物として聳え立つ共同体-権力は、この全体主義的契機において、人民主権という現代の根本的合意が自らに浸透してくるのを防ごうとします。あるいはそのような不断の傾向におかれているといってよく、公共物を自称する力は、人民主権という建前の裏側で自立を果そうとします。しかしこの自立も偽のもの。主体は諸個人です。

しかも、公権力の由来として想定される現代の諸個人に対して、権力は自らの中身をかれら諸個人ではなく、かれらから自立したかれらの共同の力、つまり資本に依拠しますから、これまた権力は個人抑圧的に作用し、人民主権的理念の契機から逃走します。

しかし主体は諸個人なのですから、公を自称する自立態はかれらの批判の対象となります。権力が人民の下僕であるという理念が実在的となるのも、諸個人のこうした不断の自覚的営為によってでしょう。諸個人のこのたえざる社会的覚醒において、メディアもその存在意義を実現しなければなりません。

とはいえ、メディア自身また資本のシステムという生態系で生育し、貨幣を栄養としながら生きています。メディアにとって貨幣が組織と報道を支えると同時に、貨幣の支配力がまたメディアを押さえ込む。でしょ?権力に頼った安上がりの金銭第一主義的報道が、メディアの瑞々しく躍動的な批判精神を枯れさせてしまうように。

さらには、諸個人を抑圧する権力とメディアがもたれあい合作しメディアが権力の手足となるのは過去の話ではないですよね。ファシズムの芽はいつでもそこにある。

公開的であるべき権力が非公開的であることはまたそれゆえにメディアの意義を生みだしています。権力の閉じた存在に対して、メディアは真実を明かすべく調べ歩き考え、諸個人に対して重要な事実を公開していく責任を負うわけです。批判的取材報道を支える現実的力はたえず存在するはずですし、敗北に終らないメディアの使命が生きているはず。

丁寧に取材し調べあげ報道し「権力の監視」を遂行するメディアは諸個人の力であり、その復権は現在の切実な課題の1つです。

道警が執拗に抗議をかけてくるきっかけとなった「泳がせ捜査失敗」記事についても、本書は当時の記事内容が捉えきれていなかったその隠されていた全貌を、稲葉圭昭氏の証言から復元しています。驚愕すべきこの事件については、稲葉圭昭『恥さらし 北海道警悪徳刑事の告白』(講談社、2011年)、佐藤一+取材班「元敏腕『悪徳刑事』が激白!北海道警の闇」(『週刊朝日』2011年12月9日号)が理解を補強します。あわせて一読を。

で、高田さんは今高知新聞なんですね。

http://newsnews.exblog.jp/17904704/

高知新聞を買うかな。

TBSラジオの「DigTag 青木理のニュース侍」で本書が紹介されたようですね。紀伊國屋書店札幌本店で高田氏、青木氏、原田氏による刊行記念のトークセッションも(3月28日)開かれたよう。you tubeを検索して知りました。

http://www.youtube.com/watch?v=ZK9Qva-yc5Y
http://www.youtube.com/watch?v=QtY5M4_P3t8

そういえば本書を買ったのは、紀伊國屋だったな。
by kamiyam_y | 2012-06-23 00:58 | 民主主義と日本社会 | Trackback | Comments(0)

マルクスの未来社会:大谷禎之介『マルクスのアソシエーション論』によせて(1)

久々に風邪ひいただす。疲れてるのに中島公園の祭りに行ってそのあと家で眠るときにも、気温が上がってきてるので風邪ひかねえよおれは、とおもって油断してたら、翌朝鼻の奥が乾いて倦怠感に襲われました。でも経験上マスクして暮せば治る程度のものだと感知しそのとおり、もう治った(かな)。明日からは北海道も雨で寒いらしいじゃないですか。台風4号のせいらしく。

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マルクスに学びその未来社会論をつかむことは、生きた現代世界そのものの、私たちの人類そのものの、私の本質そのものの巨大な運動です。その微細な1分子たらんとして、マルクス的把握において未来社会論がまさに現代社会の把握にほかならないことを少し考えてみます。

なによりもまずマルクスの知的苦闘の対象は、今現在のシステムなのであります。

現在が未来を限定する。これは労働の実践的ありかたの1つの発現であり、巨大な変革のうねりも労働の発展です。

マルクスのこの格闘、現在のシステム把握は、その総括において大きく人類史を示します。それが「否定の否定」の構図。

疎外という産出過程をその頂点にまで高めるのが現在であり、そこでは、諸個人がその個別的自己から普遍的な自己(自然・社会)を分裂させ、その疎遠な力のもとに包摂されて、この普遍的な環境をつくりだしています。全面的に飛躍的に、エネルギッシュに。

自然から産まれおちた人類は、形成途上のシステムとして、自然発生的に、疎外された普遍性の能動化を介してまとまっている。生産する諸個人は自己に疎遠に対象を生みだす。生産の対立性が人間の諸力を、社会を形づくる。この過渡的ありかたを完成しているのが現在です。

現在という矛盾の運動は、それが止揚した、生まれたばかりの人類の起点を普個の直接的な一体性として私たちに想起させ、未来を指向してはその自己否定的自己存立において、現在を止揚した人類社会を示します。マルクスが論じるのはあくまでも現在のシステムにほかならず、未来社会も、現在のシステムがその大枠を規定している総体の性格においてのみ述べられています。マルクスはこの点厳格に禁欲的。

マルクスが記述する資本主義後の社会は、対象認識とされたものの外部に接ぎ木された単なる「理想」なんてものではありません。彼の理論的格闘は、理論から価値観やイデオロギーを分断・二元化して主張する態度を徹頭徹尾退けています。

マルクスの未来社会記述は、未来システムの具体的諸分肢、具体的諸形態を描く夢想ではありません。現在の資本主義から離脱した資本主義後の具体的な諸関係は、新たな社会的生産が限定していくもの。その限定において自由とでもいいましょうか。可能性を閉じるようなことはしない。マルクスは未来社会の具体図を、現在の自己(生きた総体)の徹底という以外に細かく描くようなことは一切しないんですね。それをしたら、実践的認識から分離した夢や願いに等しいものになってしまいますから。

社会的生産有機体としての生きた社会システムが、その根源の労働のありかたを変え、新たな有機体へと転化するとき、その有機体の諸器官・諸姿態は、古い社会から受けついだものの転換だったり、新たに生みだされたものだったりします。多様な諸関係をその姿態にしていきます。未来社会の具体的な諸姿態もまた、新たな総体の性格のなかで総体が受け入れていくもの。現在のシステムの通過点性をマルクスが論じていることを論じているのに、未来社会の細かい具体図がないことをもって批判した気分になる、そういう態度もよくみられますが、それって実際は自分の空想性を他者に反映させているだけなんですよ。

あくまでも資本主義の否定性においてのみ未来社会・「社会主義」はとらえられるのであって、この否定性において私たちは資本主義が対立的にその内部に実体的に産出する人類・未来社会を透視することができる。

資本という分裂した自己において対立的に社会的生産過程が世界的交通において成立し、諸個人が社会的・世界的な諸個人として成長していくという巨大な進歩を、マルクスは資本主義のなかからつかみだして離しません。この壮大な発展・成長の歩みは、まさに資本主義をも自らの限界として突破していくような動的な産出にほかなりません。

現在のシステムである資本主義、これこそが唯一の理論的把握の対象であり、この把握こそが、未来社会をとらえる尺度となりえます。またこれが「現存社会主義」を把握する尺度でもあります。現存社会主義を社会主義と定義してそれに付随する「事実」を集め理論をつくりましょう、という話では断じてありえません。それは恣意的な観点が陥る非実践的な堂々巡りでしかない。

このシステムの運動は、人類史の疎外をまとめあげつつ完成した人類社会を産出するという、独自の強い意味での過渡的秩序をおりなしています。生きた矛盾のシステムの完成態であるがゆえに現在のシステムは、その内在的矛盾の止揚である未来社会の形態化を指し示します。新社会の産み落としという未来を明示します。現システムを超え出る新社会の出産を指示します。

未来社会の受胎、出産をマルクスが記述するのは、現代という矛盾のシステムに即してです。

彼のテキストにおいて、未来社会を表す用語は、社会主義、共産主義、社会的生産とかもありますけど、その多くが「アソシエーション」とそれに近い用語です。いろんな訳語があるために、同じ用語であることがわかりにくいのですが、「アソシエーション」です。自由な諸個人のアソシエーションです。えっ、生産手段の社会主義的所有じゃないの?社会主義国家の計画経済とか、共産主義の人民的所有とかじゃないの?これだけでも私たちの俗物的な常識は正しく転倒されてしまいましょう。

大谷禎之介『マルクスのアソシエーション論-未来社会は資本主義のなかに見えている-』(桜井書店、2011年)http://www.sakurai-shoten.com/content/books/074/bookdetail.shtml

本書はマルクスのテキスト群から、恣意的な抜き出しや訳語の当て方を避け、丁寧に彼が未来社会をどのように呼び、それがなぜなのかを論じています。

個人から分離した全体の力ではなく、あくまでも主体は個人。アソシエーションのふつうの用法にもそれはあります。会社や協会、連合とか。個人を飲み込む自然発生的共同性ではなく、個人の意識的・自覚的行動が生む共同性です。

資本主義の否定を成し遂げて社会的生産過程を自己のものとして制御するのは、自ら意識的に結びあう「アソーシエイトした」労働する諸個人。

諸個人が「アソーシエイト」して生産過程を制御することによって再建されるのが、「個人的所有」のもとに潜在していた個性の自由な発展。新社会が復興するのはまさに個人の発展です。

諸個人は私的労働を止揚して、生産関係を人格的・協同的に媒介し、個別的自己の力を1つの社会的力として意識的・自覚的に支出する。諸個人は賃労働を止揚し、労働の実現諸条件との分離を止揚して、それらを自己のものとします。自己から自立し他者化した自己の普遍性に包摂されるのではなく、諸個人がその普遍性の対象化を自己に包摂する。社会システムの真の根源的実体である自然=個人が生き生きとした主役となります。

「現存社会主義」なるものをみれば、いうまでもなくアソシエーションは実現していませんわな。そこでは、諸個人は疎外された労働を行い、諸個人から独立した力が「国有化」「計画」という名称のもとに、諸個人の疎外された労働を吸収し、それを覆いかくすシステムが成立していたというほかない。

資本主義的生産は、その歴史的任務である生産諸力の発展を世界市場の展開において遂行し、その文明化傾向を貫いて、諸個人を世界史的諸個人に転化し、労働する諸個人を社会的に鍛えあげます。資本の社会的生産の本体は諸個人の社会的生産であり、資本の生産力の本体は諸個人の社会的労働の生産力である。このことを資本のシステムは露出します。資本は、資本のものである社会的生産を、直接には他者においてある社会的生産を、われらの社会的生産と見抜くような意識を生みだす。資本の自己増殖そのものが、諸個人の社会的生産を阻害するもの、諸個人の発展を阻害するものとして現れており、資本のシステムは、自らの限界を露わにし諸個人にそれを自覚させるのです。対立を通して諸個人は自らの社会的諸力の奪還に向う覚醒した主体に転化するのです。(もう一回続く)
by kamiyam_y | 2012-06-20 00:40 | 資本主義System(資本論) | Trackback | Comments(0)