さっぽろ地下鉄のなかでマルクスを呼吸する、世界を呼吸する

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焦燥2

私は建物の地下一階フロアの奥にあるバーのような店で、そこの休憩室に座っている。消灯していてほぼ闇である。

深夜をすぎビルは閉鎖の時間が迫っている。私は地下街に出て、階段を上る。登りきって地上に出るとビルの1階はつぶれた飲み屋が何件も続き、どこもドアに板が無造作に釘で打ち付けられ、板もまた風にさらされ裂けている。

登ってきた階段をふりかえると、下で人が手を振り、急いで戻ってくるように相図している。

バーのようなに戻ると、暗い店内では、ほのかな赤いライトの下で店長らしき人物がレジを締めながらか何かつぶやいている。

退出時間がすぎビルが閉鎖されてしまう。残っていた数人の客が動揺し慌ただしく扉から出ていき、私もついていく。

地下飲食店街はいつの間にか、大学の古びた学生会館の地下文化系部室になっている。文化系学生団体の連合会の代表か、自治会の役員のような学生が券のようなものを配っている。何かの証明書らしい。これを守衛に見せて裏口から出ねばならないようだ。3、4人の若者がとにかく外に出なければと動転しながら、この券を受け取っている。

しかし、すでにビルはすべてのドアにカギがかけられおり、守衛もやがていなくなる。チケットを配る学生もいない。私は地下室の暗闇のなかに今閉じ込められる。
by kamiyam_y | 2012-04-10 23:14

生産手段の非理性的形態/フクシマ以降を考えるための書籍(2)

高木仁三郎『原子力神話からの解放』(講談社プラスアルファ文庫、2011年。初版は光文社、2000年)
神話を解体する諸論点。高木仁三郎は本当に真摯な科学者だと思う。

小出裕章・西尾幹二・佐藤栄佐久・桜井勝延・恩田勝亘・星亮一・玄侑宗久『原子力村の大罪』(KKベストセラーズ、2011年)
山本義隆『福島の原発事故をめぐって』(みすず書房、2011年)
川村湊『福島原発人災記―安全神話を騙った人々』(現代書館、2011年)
日本弁護士連合会公害対策・環境保全委員会変『原発事故と私たちの権利』(明石書店、2011年)
小出裕章『隠される原子力核の真実―原子力の専門家が原発に反対するわけ』(創史社、2011年)
影浦峡『3.11後の放射能「安全」報道を読み解く―社会情報リテラシー実践講座』(現代企画室、2011年)
安冨歩『原発危機と「東大話法」―傍観者の論理・欺瞞の言語』(明石書店、2012年)

野口邦和『原発・放射能キーワード事典』(旬報社、2012年)
野口邦和監修・プロジェクトF『原発・放射能図解データ』(大月書店、2011年)
助かる資料集。

岩波新書からピックアップ。
石橋克彦編著『原発を終らせる』2011年
大島堅一『原発のコスト-エネルギー転換への視点』2011年
七沢潔『原発事故を問う―チェルノブイリから、もんじゅへ』1996年
高木仁三郎『原発事故はなぜくりかえすのか』2000年
武谷三男『原子力発電』1976年

武谷三男編『安全性の考え方』1967年
これも岩波新書だが古書。今こそ読まれるべき古典的名著。宇井純「水俣病」を読むと、有機水銀説を否定する御用学者の動員など、当時の構図が今回の原発事故でもそのまま再現しているのが分る。事故を起した加害諸企業と国家権力の混乱ぶり、大衆の分断と責任の曖昧化を図る欺瞞は、私的諸資本と公的権力の内部が徹底的に公開されるべきことを示している。「公開、自由の原則」の「重要」さは「公害」も「原発」も変わらない。

柴野徹夫『原発のある風景』上・下(未来社、1983年)
堀江邦夫『原発ジプシー 増補改訂版』(現代書館、2011年)
樋口健二『原発崩壊』(合同出版、2011年)
鎌田慧『原発列島を行く』(集英社、2001年)
いずれも読んでおきたい名ルポルタージュ。

小出裕章・後藤政志・石橋克彦・孫正義『意見陳述』(亜紀書房、2011年)
5/23の参議院行政監視委員会の会議録が出版された。私はネットでチェックしてたが。

NHK ETV特集取材班『ホットスポット』(講談社、2012年、1600円)
あの「ETV特集ネットワークでつくる放射能汚染地図―福島原発事故から2か月」(http://www.nhk-ondemand.jp/goods/G2011028150SC000/)が本にまとめられた。さすが七沢潔である。

NHK「東海村臨界事故」取材班『朽ちていった命-被曝治療83日間の記録』(新潮文庫、2006年)
これもNHK。

『科学』編集部『原発と震災―この国に建てる場所はあるのか』(岩波書店、2011年)
『科学』からの論文集。

岩波ブックレット
鶴見他編著『原発への非服従』
とくに奥平康弘の「日本の憲法文化において闘う」にあらためて考えさせらた。
ミランダ・A.シュラーズ『ドイツは脱原発を選んだ』
脱原発を選択した理念は、技術の《倫理性》として具体化されている。

蓮池透『私が愛した東京電力-福島第1原発の保守管理者として』(かもがわ出版、2011年)
内部関係者による脱原発の声は説得力がある。

河野太郎『原発と日本はこうなる』(講談社、2011年)
赤旗編集局『原発の闇』(新日本出版社、2011年)
前者は「しんぶん赤旗」も引用したり囚われない姿勢が良心的(そんなんあたりまえといえばあたりまえのことだが。1つの課題で共闘できない狭量な輩は「小児病」とよばれてしかるべきである)。後者は原発導入の史的経緯も読みやすいが、とくに興味深いのは「九電やらせメール」事件。

吉岡斉『新版 原子力の社会史 その日本的展開』(朝日新聞社、2011年)
有馬哲夫『原発・正力・CIA-機密文書で読む昭和裏面史』(新潮新書、2008年)
史的研究。後者は「第5福竜丸」で高まった原水爆反対の日本の世論を押さえるために米国が讀賣グループを利用し原子力平和利用のキャンペーンを拡げた経緯など興味深い。

水口憲哉『これからどうなる海と大地―海の放射能に立ち向かう』(七つ森書館、2011年)
海洋汚染を知るうえで水口の本は必読。

以上は手元にある原発関連書籍の一部にすぎず、紹介したい本はほかにも多くある。私が買った本もまた書店にある原発本のごく一部でしかなく、不完全な文献案内にすぎないことを断っておく。

雑誌も『世界』『東洋経済』『ダイヤモンド』『SIGHT』などにいい記事・論文が多くあった。
『サンデー毎日緊急増刊』も参考になった(「メルトダウン 福島第1原発詳細ドキュメント」 2011年6月25日号)。
『週刊朝日増刊 朝日ジャーナル 原発と人間』(2011年6月)、『週刊朝日増刊 朝日ジャーナル 私たちと原発』(2012年3月)も。
日本科学者会議『日本の科学者』という雑誌も面白い論考が掲載されている。

一番みたのはネットだが、紹介は省略。最後に3つだけ記録しておく。

押川正毅(東京大学物性研究所)「福島原発事故の危険性について」2011年3月25日
http://bit.ly/hPeUyF

西尾正道(北海道がんセンター院長・放射線治療科)「福島原発事故における被ばく対策の問題-現況を憂う」(医療ガバナンス学会MRIC、Vol.195、6月20日、http://medg.jp)
http://medg.jp/mt/2011/06/vol19512.html

岡山博(仙台赤十字病院呼吸器科・東北大学臨床教授)「放射線被曝問題と発言の仕方―健全な議論を妨げる日本社会―」(『日本の科学者』第47巻第4号、2012年4月)
http://hirookay.blog.fc2.com/blog-entry-28.html
(了)
by kamiyam_y | 2012-04-09 20:47 | 民主主義と日本社会

北海道といえば

4月になったのにここ2日ほど雪が降ったりも。

ところで「北海道といえば」なんでしょう。

それじゃ範囲が広すぎ。食べ物にしましょう。たくさんあります。お菓子も除きます。

居酒屋のカウンターに座ると、板さんが言います。「春休みで最近、大学生グループもよく来るんですよ。男子より断然女子の方が多いですけど」

食いっ気は女子か。

話は最近の学生から北海道の観光資源に。

「本州の観光客も、最近はカニだけじゃないんですよ」。

では何が。

「観光の方はちゃんと調べてから来る人が多くて、八角とか、サメガレイがよく頼まれます。サメガレイなんて見た目がグロテスクなんですけど、人気ですね。油がよくのった縁側」

私はやっぱり鰊(ニシン)だな。光り物の刺身が好きなので。鰺(アジ)、吉備女子(キビナゴ)。寿司ネタなら小鰭(コハダ)の酢締め。北海道じゃないな。北海道的と思えるのは、大きなホッケ焼きとか、鮭ルイベとか。

酒はどうでしょう。日本酒は最近は高知の酔鯨とか奈良の春鹿とかあったら頼むくらいで、道内のものはあまり飲まない。焼酎は昆布や紫蘇など変わり種があり、鹿児島の芋焼酎の前に頼むことがあります。道内ワインは飲んだことがあまりなく、飲んだことのあるものは印象としては物足りなかった記憶。小樽ビールのヴァイスが独特のバナナの香りがするので麦酒に果物臭を発見して遊びたい方にはお薦め。本州の観光客にうけなくてもドイツやベルギーからの観光客には受けるんじゃないだろうか(適当な思いつき)。ニッカは美味しいと思います。

たいした紹介になってないです。
by kamiyam_y | 2012-04-03 23:54

生産手段の非理性的形態/フクシマ以降を考えるための書籍(1)

1 『毎日新聞』の記者が原発災害に「四大公害」と「同じ構図」を見いだしている(「記者の目」後藤逸郎執筆)。

http://mainichi.jp/select/opinion/eye/news/20120322ddm004070002000c.html

イタイイタイ病で国が「カドミウム原因説の撤回に動き、世界保健機関(WHO)に働きかける『暴挙』に出た」とある。カドミウムが流出しても「健康に影響はありません」というわけだ。人々の安全を守る責任を果すのとは逆の行為である。加害企業の防衛ではなく、海と大地と空気を汚染し、広範囲で多くの人の故郷を解体し、住む場所を破壊し、望まぬ被曝を強いつづけている深刻な環境汚染として対策を立てねばならない。

水俣だって同じ。あとで触れる宇井純「水俣病」によれば、細川さんをはじめとする医師や熊本大学の研究者の努力に対して、化学工業協会が有機水銀原因説を否定した。

「広域処理」ついて『北海道新聞』の編集委員が「政府が努力を怠った付け」として論じている(「異聞風聞」大西隆雄、2012年4月1日16版2面)。

「モニタリングなど放射能管理の長期間の展望」(共産・真下紀子)を欠いては場当たり的対応とよばれるのがふさわしい。ここで書かれているように「厳格な」「集中的」「管理」が必要である。放射能管理を無計画的に自治体に押しつけ、その結果放射性物質の無責任な拡散が進むことは避けねばならない。

記事では小出裕章が挙げる「仮に全国で処理する場合の条件」も紹介されている。

小出の2つの条件は『毎日』のこちらの記事でも。

http://mainichi.jp/select/science/news/20120324mog00m040021000c.html

『道新』の3週間前の夕刊(3月12日)で、3.11から1年たち独仏、米で行われた脱原発集会の記事があった(6版10面)。ドイツもフランスも数万人規模。11月にゴアレーベンに行った山本太郎のインタビューも掲載されていた(6面)。脱原発のために「事務所をやめ、交際していた女性とも別れ」「収入は以前の10分の1以下」となっても「悲壮感はない」。頑張って動き表現する個人のうちに人間の気高い精神が実在している。

2 萩尾望都を久々に読んだ。

『なのはな』(小学館、2012年、1200円)

原発を扱った作品集。

萩尾望都といえば、彼女の作品をその批評において取り上げていた吉本隆明が先日亡くなったのを思い出した。ここでは彼の脱原発批判について一言書いておく。彼は今回も脱原発を「科学」の「後戻り」と言っていた(日経2011/08/05)。技術進歩は「自然史的過程」で必然なのだというのであろう。科学を労働する諸個人の自由の本質的な契機と捉えるマルクスを一見すると踏まえた発言のようにみえなくもない。

しかしである。脱原発は科学発展一般の消滅などではありえない。単純なことではなかろうか。

問われているのは、原発という1技術、社会的に用いられている技術の1形態であり、これを新たな技術に変えるのが理性的という話。

まず、生産力とその資本主義的利用との区別を確認しておく。生産手段の普遍性と社会関係拘束性とよんでもいいかもしれない。ここでの批判対象として規定されているのは、技術の特定の歴史的形態、資本主義的生産関係において実現するありかた、資本主義的利用形態にほかならない。この批判は、技術の発展一般の否定ではない。成長主義的な、蓄積のための蓄積による安全度外視の技術を廃棄することは、歴史の逆行などでは断じてありえない。

同様に、技術発展一般を人間の永遠の原罪であるかのように思い込んで過去を美化するのも裏返しの誤りである。問題の大きな性格は、技術の資本主義的利用という限界によって劃されている。

社会的理性の浸透を欠く技術が用いられていることは、人類普遍の技術一般の話ではない。生命の安定性を損う放射性物質で環境を汚染する技術、廃棄物を無毒化できない技術、被曝労働を常態化し労働者に犠牲を強いる技術、安全でもコスト安でも環境に優しくもない技術でありながら巨額のマネーがその反対の宣伝をすることで維持されてきた技術、スリーマイルからフクシマまで立て続けに事故を起し、過酷事故を起せばかつてない環境汚染をもたらすような非理性的な技術が用いられていること、その事故により故郷を、住み慣れた世界を、地域を、社会基盤を破壊し、生態系を損傷し続けるような欠陥製造物が用いられていることは、人類永遠普遍の無色透明な技術一般の話ではない。

問題圏の大枠は、生産発展の資本主義的な、利潤と蓄積のための発展というありかた(社会的限界)として規定されている。資本主義的な技術形態を批判することは、技術一般の発展を止めることではない。原発推進利権共同体の人格化が発する「脱原発は進歩の否定」という声も、本源的共同体という過去を美化し科学の発展そのものに反対する一部の主張も、皮相な短絡にすぎない。

深刻な事故を起したにもかかわらず資本主義(資本主義社会システム総体)の成熟において国際社会がうちだした「汚染者負担原則」も消費者の権利の実質化である「製造物責任」も無視する技術、資本主義が封建社会を解体して諸個人の社会的規定にした「人権」を蔑ろにする技術は「持続可能」ではない。

次に強調すべきは、ここでの直接の対象が、原発という特定の歴史の経過のなかで用いられた技術の1形態として絞り込まれていることである。この直接の対象は、資本主義的利用一般が消滅しないかぎりは永久不滅の必然的技術などではない。

歴史的偶然的諸要因に規定されて拡がった技術を廃棄することを、原始状態への回帰や停滞と同一視するのは、一種のデマというべき短絡である。社会的生産手段、共同的原動機は人類の発展に欠かせない社会的生産の客体的条件であり、むろん資本主義にも不可欠であるが、それの一部を現在原発が担っているのはいわば偶発的な事情、歴史的偶然的要因による。社会的生産手段の存在は不可欠だが、原発というその1姿態は不可欠ではない。発電はウランを用いて蒸気でタービンを回して行わなければならないという法則はない。エネルギー利用の社会的技術を原発に代えて開発することは、科学一般の発展に反対するのではなくまさにその逆である。脱原発の世論が物質の研究を止めろと言っているわけでもないことも明白。

技術の資本主義的利用の1つの歴史的形態である原発に対して行う取組みは、資本主義内部に生まれでる社会的な制度の運動であり、そのようなものとして蓄積し、資本主義において資本主義が生み出し資本主義を制約する人権を具体化し、資本を制御する民主主義を深化させる。非社会的・無政府的な社会的生産過程において、社会的生産過程の社会性・計画性・協同性を押し進める試みの一姿、一分肢として資本の矛盾した生命運動のなかでそれは生き客観的に意味をもつ。安全安心を求める生活する大衆の闘いと制度化は人間の巨大な発展の一部をなす。個人の生活、地域社会、安全を優先する社会づくり、生きた個人を原理とする協同が矛盾する躍動のなかで客観的に目的化されている。

ビッグバン以来の歴史の産物である全自然は制御しきれないが、数世紀といういわば一瞬の歴史しかない資本主義は制御可能であり、さらに歴史の短い原発は廃棄可能である。

3 全く不完全ではあるが、福島第一原発事故を考えるうえで役立つ本の紹介をしておく。

大島堅一・左巻健男監修、もんじゅ君『おしえて!もんじゅ君』(平凡社、2012年、1000円)
論点がすごく分りやすくまとめてある。藤波心のインタビューが面白かった。「ふだん仲よかった子が、こういう大事な問題についていっしょに考えていける友達なのかっていうと、かならずしもそうじゃないんだなってわかっちゃって」(122頁)。寂しいけれど成長。悲しいけれど新たな協同と自立の発見。

TwitNoNukes編著『デモいこ!-声をあげれば世界が変わる 街を歩けば社会が見える』(河出書房新社、2012年、700円)
去年の日本社会で注目すべき事件の1つは、デモである。デモに集う若者たちの声はとてもいいものだと思う。デモの意義と方法を簡潔に記したハンドブックとしても読める。

西尾漠『新版 原発を考える50話』(岩波ジュニア新書、2006年、840円)
これも読みやすい論点整理。大人でももちろん読める。(続く)
by kamiyam_y | 2012-04-02 23:43 | 民主主義と日本社会