さっぽろ地下鉄のなかでマルクスを呼吸する、世界を呼吸する

<   2010年 04月 ( 2 )   > この月の画像一覧

限界limit/Grenzeとしての資本主義capitalism /Kapitalismus(3)

企業の国境を越えた増殖のようすを確認してみましょう。

UNCTAD:World Investment Report 2008, table Ⅰ.2, p.6.

これによれば、10億ドル以上のクロスボーダーM&A(Mergers and Acquisitions)、国境を越えた企業の合併・買収は、1987年にはたった19件にすぎなかったのが、1997年は73件、2007七年は300件と大幅に増えています。資本の集中が世界規模で本格的に急激にすすんでいることがイメージできるかなと。

外国直接投資FDI(Foreign Direct Investment)でも企業世界の超国民的な深化と拡大をみてとれそうです。外国から企業が入ってきたり、外国に出て行ったりする国際化を確認しましょう。FDI(ストック)残高の国内総生産GDPに対する比をみると、世界全体では、国内流入inwardについては1990年に9.1%であったのが2007年には27.9%に、対外集出outwardについては、8.5%、28.9%に増大しています(Annex table B.3, pp.261-262.)。資本移動の国際化をこれまた十分うかがえるかなと。

ある資本がある国のなかでとる企業の姿において、ある資本の国民的定在において、労働搾取が激化すれば、その影響は国境を越えてさまざまのかたちで波及します。サプライ・チェーン、ディマンド・チェーンを国境を越えて企業社会の管理下におくことが企業にとっての死活問題ともなっています。このような時代、資本の無政府的な連関の全体において、日々激しい勢いで、個々の生産過程が全地球的な社会的生産過程の一要素へと転化しつづけています。

世界市場としてのこうした資本主義の成熟において遂行されているのは、富の世界的創出。この世界市場における富の創出こそは、諸個人が必要のための労働から解放されるためのなにより重要な前提条件であって、万人の発達が万人の自由な発達の条件となるような社会状態生成の大前提にほかなりません。

富は諸個人の産出した環境であり、富を生みだす諸個人の労働を支配しているのは、資本であり、その直接的形態は企業、すなわち、モノとしての労働組織です。企業の売上高ランキングを「フォーチュン」誌からみてみましょう。

http://money.cnn.com/magazines/fortune/global500/2009/

ロイヤル・ダッチ・シェルは売上高4584億ドルで、ウォルマート・ストアーズが4056億ドル。なんかとてつもないです。でかいです。世界のGDPを調べて比べてみます。

http://siteresources.worldbank.org/DATASTATISTICS/Resources/GDP_PPP.pdf

31位のスウェーデンが3447億ドル(2008年、購買力平価、国際ドル)。単純な比較ではあっても、1つの私企業という生産体が、先進福祉国家の国民経済における生産・産出を上回る規模で活動し、世界に生産の網の目を張りめぐらせている、ということがうかがえます。

グローバル企業の雇用をみると、トヨタの従業員が32万人とされていて、ウォルマートにいたっては210万人です。ウォルマートは民主的統治なき巨大都市であり、政治的共同体を欠いた巨大生産共同体ともいえましょう。民主的正当性から脱落して形成されている事実的な共同体ともいえましょう。

いまや、クニと称する共同体がその観念的・幻想的な性格を、具体性を喪失した抽象的・天上的な共同体であることをあかるみにさらされ、その局地的性格も容赦なく暴露されています。人々が生産し相互に交通し生活を支えあう現実的物質的な共同体は、グローバルな資本のモノの世界として、企業世界という非公認の共同体として形成されています。労働するあなたにも私にも主権は存在せず、私たちはモノとして売買されているそんな転倒した世界として、私たちの共同本質が実体として形成されている。

ここで、国家と私的所有者個人という単純商品生産社会のイメージはくつがえされてます。国家に対して企業が民だなどと称する資本主義の偽りの正義、資本主義の自己弁護論はまったく無意味かつ無効です。都合のいいときは国家に対して民のふりをしながら、別のときには企業の社会性を主張してはばからない嘘偽りの私企業の世界が資本主義のダイナミズムといえましょうか。国家ではなく、実質的な社会形成への寄与において企業が公共的であり、私企業の相互否定という無政府的経済法則・競争の全体に、諸共同体の共同体が、隠れながらも成り立っている、という反転が地球的再生産過程において生じています。

地球的再生産過程においては、グローバル経済が公共的であり、国家が逆にこれに従う私的組織の位置に落とされる。あるいは無政府的経済法則によって対立的世界に投げ込まれてしまう。この法則によって激しく翻弄される無力な局地的共同性に落とされてしまう。この反転する世界においては、政府の政策は大きく制限され、民主的諸政府を中心とする相互的国際協調の経験をすすめることなしには、実質的共同性を国民に区切られた政府がになうことは不可能になっていきます。

民主政府なき事実上の共同社会として超国民的な企業世界が産出されているのが現在です。超国民化した生産の世界こそが諸個人を支配する力です。いまや諸個人が民主主義によって共同に管理すべき対象は超国民的な企業世界にほかなりません。

富の創造は、さらに、個人のエンパワーメントを支える多様な社会的ルールの創造をともないます。ルールづくりが資本主義の延命条件に転換します。一例をあげれば、全世界の初等教育純就学率は1991年に83%、2005年に87%、うち開発途上国は91年に80%、05年に85%、後発開発途上国は47%から77%に高まっています(国連開発計画(UNDP)『人間開発報告書2007・2008」人間開発指標Table12、二宮昌人・秋月紘子監修、阪急コミュニケーションズ、308頁)。子供が資本によって直接搾取されることから解放されること、教育をうける権利に集約される子どもの人権が保障されることが、資本主義が富を創造していくうえでのそのより発展した環境・条件に客観的に転換するといえましょう。

こうして開発は人間の開発。資本主義は、労働の自己疎外的な発展を完成することによって、世界市場と社会的労働を展開し、社会的人間をつくりだしているのです。

このような世界的労働過程と世界史的人間の創出こそが資本主義が生みだす成果であるとすれば、資本主義が生みだすものこそ、資本主義の暴走を解消していくための土台にほかなりません。資本主義の最新の展開が、資本主義という転倒そのものを限界として指し示しています。資本主義はみずからの人類史上の役割を、みずからを不要とする地点にまでおしすすめ、人類の偉大な達成をその頂点にまでおしあげます。人間の世界史的存在様式が資本主義の真相というわけです。
by kamiyam_y | 2010-04-05 00:02 | 資本主義System(資本論) | Trackback

限界limit/Grenzeとしての資本主義capitalism /Kapitalismus(2)

先日NHKBS1「きょうの世界」で『グリーン・ゾーン』(Green Zone (film) - Wikipedia, the free encyclopedia)が紹介され、主演のマット・デイモンや、グリーングラス監督のインタビューが放映されてました(「米映画が描くイラク」)。

解説の市瀬卓氏も、イラク戦争について問うことができるようになった、という趣旨のことを述べてましたが、戦争が真にイラクのためのものだったのか問いかけるこの戦争を根本から批判する映画が作られていることは興味深い。戦争開始の正当化の主たる根拠とされた大量破壊兵器保持が事実でなかったことをはじめとして、戦争の大義名分は当初から揺らいでいましたし、戦争中も反対の声があげられていたのですが、いよいよ、アメリカ合衆国の大衆が戦争を冷静に本格的に振り返る時期に来たというべきなのですね。合衆国の市民社会がもつ自己批判の力というか、自己認識力を感じておきたい気がします。

----------------------------------

生産の発展は人間の自由な本質を実現する土台です。

とはいえ、このことを、労働する諸個人が既知のこととして知って労働を行ってきたわけではありません。

反対に、かれらにとってかれらがつくりだしてきた世界は、巨大な闇におおわれた不透明な、神秘的な威力なのでした。大地に原生した人間は、かれらの世界をかれら自身のものとしてではなく、原生的な群れを支配する権力として、大地の所有の力として、いいかえれば、封建領主に人格化される土地所有の力などとしてつくりだしてきました。労働がつくる世界は、人々を縛る世界として、かれらを飲み込む超えがたい力にみえます。

資本主義は、この疎遠な世界を、人による支配から切り離し、経済法則として純化して完成します。労働の疎外された力を、ゲマインシャフトの人格的依存から分離し、資本主義の無政府的経済法則に変えます。こうして、労働が生む世界が諸個人の対象として定立しており、このことを前提にして、労働という原点を諸個人がおもいだすのです。労働による世界形成が資本主義にまで発展の道を歩んではじめて、労働は、発見されるという仕方でもって自覚されるのだといってよいでしょう。

資本主義は労働の自己疎外的な発展を完成するという人類史における独自の役割をもってます。この完成において以前の歴史の真理が明かされます。原生的ゲマインシャフトにおける集団幻想的神話を統合の契機とするような生産は没落します。部族Aは、リンゴを育て生きているので、リンゴの神を信奉してまとまっており、部族Bは、馬に乗って他の部族から貢ぎ物を得て暮らしているので馬具を崇めており、といった人類の分裂状態は、産業ロボットの時代には現実的基盤を失います。

資本主義が社会的労働の関係を経済法則化するのは、商品生産の全面化によってです。ここで諸個人はまさに原子としての諸個人として規定されます。この諸個人としての規定の大きな意義は、かれらが、ゲマインシャフトの共同幻想に埋没した存在ではなく、自覚して対象を知る主体になることです。

かれらに対して、かれらの労働の世界が、ゲマインシャフトから脱した経済法則の網の目となって、相互に孤立するかれらを、かれらの地面の下で相互に世界的に結びつけていきます。かれらの労働は大工業としてその普遍性を開花し、大工業を手段とする剰余価値生産の流れは、生産と消費を全地球的にものへと変えていきます。

労働がこうして資本の世界市場にまで展開することによって、資本主義が完成しています。ここに労働する諸個人の疎外は完成しています。自覚して対象を知る存在である諸個人と、かれらに疎遠に形成されたかれらの自身の普遍的環境とが対立する、というかたちでです。

この対立こそが、諸個人に、社会の基礎が労働であることを、かれらがその労働と社会の主人公であることを認識させます。大工業は、人間自身の偉大な変革力をまさに人間自身のものとして、天上界の創造物ではなく、人間の産物としてかれらに理解させます。世界市場は原生的ゲマインシャフトの局地的な実践的迷信を解体し、人間のグローバルな本性を理解させます。労働する諸個人が対立する世界の内部に見いだすのはかれら自身が形成した世界です。

ここで、資本主義は人類を1つの世界史にまとめあげ、諸個人を世界史的諸個人に転化させていきます。資本主義の完成という労働の全面的発展と全面的疎外、これが、世界の産出過程が労働による過程だったことを示します。労働する諸個人は、観念による歴史形成という神話から、労働による世界の産出に、知る根拠を転換します。産業の発展は、諸ゲマインシャフトの諸集団幻想・諸歴史神話の役割を消滅させ、掟の歴史、政治支配の歴史、などなどの歴史が記憶の恣意的結びつけにすぎなかったことを語ります。労働による世界の産出を諸個人が自覚できるようになります(直接には労働する個人において能動化している自然の自己産出が自覚的な人間的な形態を得るともいえましょうか)。

資本主義においても、社会の断片化された諸関係は、不透明なヴェールのなかで、法や政治、哲学、といった社会的諸関係それ自体の歴史を紡ぎだし、資本主義の弁護イデオロギーを分泌し、とりわけ経済的範疇(分配、所有など)をその主軸にしていく(「経済学批判」の対象)わけですが、資本主義はこのヴェールを脱ぎ捨てるということが重要です。

労働する諸個人が社会の主体として民主主義を獲得し、環境や労働などの地球的問題に対して、民主主義を徹底することによって解決しようと苦闘しているとき、かれらはかれらに対立する対象のうちに、かれら自身の産物を見いだし、それを再獲得しようとしています。たとえば民主主義と対立する企業権力に対峙するというかたちで資本主義に対峙するとき、諸個人は、世界的生産過程はだれのものか、問うているのであり、かれらの自由の土台を奪還しなければならないという客観的要請を示しているのです。

この苦悩する諸個人に対して、資本主義は大人しくさせるべき対象としてあらわれており、資本主義はその発展の最前線においてその対立性を諸個人の限界として示し、暴走する資本主義自身の持続可能性の限界を、暴走する資本主義がみずからを超え出ていくべきという要請を示しているといえます。
by kamiyam_y | 2010-04-01 23:05 | 資本主義System(資本論) | Trackback