さっぽろ地下鉄のなかでマルクスを呼吸する、世界を呼吸する

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限界limit/Grenzeとしての資本主義capitalism /Kapitalismus(1)

東京新聞の社説を紹介しておきます。

東京新聞:長官銃撃時効 歴史的失態を猛省せよ:社説・コラム(TOKYO Web)

見苦しく一方的で卑怯な弁解という以上に、時効が成立し容疑者不詳の事件について、捜査機関が犯人を断定する発表をするとは、民主的法治国家の手続きを無視し、人権を蹂躙する許されない越権行為です。法治のルールを超える「公益」性の代表を武器を持った権力が自称するとはクーデターでしょうか。

東京新聞:ビラ配布無罪 言論封殺の捜査にクギ:社説・コラム(TOKYO Web)

社説がいうように「戦前の暗い風景を思い起こさせる」異常な取り締まりぶりです。「微罪」を隠れ蓑にした言論弾圧一般を批判する良心的な判決というべきでしょう。

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水族館でイワシの群を見ました。光の破片をふりまきながら群れ全体が1つの生き物のように右に、左に反転しながら泳ぎつづける様子をしばらく観察してました。

ちょっと検索。http://www.youtube.com/

イワシ@新江ノ島水族館 (sardines-at-enoshima-aquarium)

Epic journey of sardines - BBC wildlife

上の方が私の見たイメージに近いです。BBCのもきれいですけど。

人も集い、いっしょに腕を動かして、1つの生き物として動きます。腕のたくさんある巨大なムカデ、いや失礼、集合労働者になったりします。

イワシの群れがどんなに美しくても、それを美しいと批評するのは人間です。人間のばあいは、自覚して美を追究して集合労働者になることができます。パラパラとか、よさこいとか、噛むとフニャン(佐々木希のCM)とか。

ロッテ Fit's 新CM :: 佐々木希 佐藤健 噛むとフニャン♫

イワシ群も、集合労働者もどちらも自然が展開されたものですけど、人間のほうは意識的活動です。イワシが自然に埋もれているのに対して、人間においては、人間という自然と対象という自然に自然が自己分割しています。人間は対象を科学という形で知ることで、対象との同一性を観念的に獲得し、対象を生産手段へと変えることで現実的な統一をはたします。踊りのような遊びでも、イワシにはない偉大さがつらぬかれています。

そういえば人間も集団で泳ぎますね。シンクロで検索。

Synchronized Swimming(ImprovEverywhere)

タイトルはシンクロでもハイレベルな修業の成果ではないものですね。イワシよりも動きがばらばら。とはいえ、しかしイワシにはない自由さがある。といってもイワシとは比べられたくないか。

イワシらは、あつまって計画をたてることもなく、おれも参加すっか、と自由意思をもって参加することもなく、練習の成果だねと、喜びあったりすることもない。

魚群のきらめきという、環境と個別生命とのコラボレーションは、環境そのものの運動でしかない。対して、人間と環境のコラボレーションは、それ自体人間の対象です。

これが自由な自己意識としてふるまうことです。人間は目的によってコラボレーションを制御し、対象を手段・媒体にします。対象的な活動は自己意識の自由を実現する、人格性実現である、といってもよいでしょう。

1匹のイワシは、海や土を変革しません。海や土に、かれの人格性を刻印しません。また、イワシ個体は、相互に、個性的存在たることの相互承認もしません。人間の労働は個性の承認です。労働において人間は、個性を承認し、同時に、自分の労働が人類の一員としての労働であることを自覚しています(類的本質)。

しつこいですけど、イワシは、お互いの成長を讃えるなんてこともない。イワシの生きた活動がかれの自主的修業やかれら一族の学校教育制度のたまものであるなどいうこともない。

『資本論』の有名な蜜蜂の話です。ミツバチは「その密房の構造によって多くの建築士を赤面させる」(MEW.Bd.23, S.193)。

ミツバチの巣は精密です。

蜂の巣は食べると美味しいらしいです(野中健一『昆虫食先進国ニッポン』亜紀書房、2008年>Amazon)。

しかし、精密とか、美味しいとかは人間による評価です。

かれらの行動は本能的であり、そこに発展した人格性を見ることはできません。計画性もなければ、対象との対話による教養発展もない。個体差はあっても、行動の中心は、本能にインプットされたものを反復することでしょう。

ついでにいえば、プーさんはハチミツが好きですが、プーさんのモデルになった動物は、ハチを育ててミツをとるなんてしません。

イモを洗うサルが反論してきそうです。たしかに、人に近い生命なら、木の実を石でこすって皮をむくなんて芸当もできましょう。

といったところで、そういう動物文化があったとしても、それはしょせん群れで偶発的に受け継がれる孤立したものでしょう。すでに人間がいるんだから、今のサルが今から人間社会をつくることはできないです。

道具としての石は、自然物石一般からそれほどかけはなれた姿にはなっていません。対象変革の程度が低い。この道具を使う生命体の意識の水準も、この石という道具のレベルにみあったものにとどまっています。石という道具がこの生命の社会組織や、知的能力や感性、個性の水準を劃しているわけです。

労働する個人labouring individual/arbeitendes Individuumは自然総体を自己の対象とします。かれ自身が、自然の法則性を利用できる自然力として作用する自然です。かれによる対象変革の行為の連鎖には、かれと同じ他の個人も参加します。対象的自然に対する変革は、変革された自然(道具)を媒介として実現し、この対象に関わる諸個人の関係がまたこの変革を媒介します。諸個人の生産行為は、人格的自由の実現です。諸個人の人格的自由の実現は、変革された自然と、この変革をなかだちする他の人間との関係によって、劃されています。

ミツバチの生活が本能の反復のなかに固定されているのに対して、人間はその自由と個性において人間として生活しており、生産(自然と社会の生産)にもとづいて人間の生活は自由な人格性の確証にほかなりません。

自由な人格的存在という人間本質の実現を条件づける土台として生産の発展があるということです。

つけたし。この前のことですが、居酒屋で、グラスにささっている棒をストローだと思って口にしたら、吸えません。「ストローとまちがえていれたのかな」という顔をしてみたら、店員さんから「マドラーですよ、ストローじゃないですよ」と笑われました。まちがってたのはこっちでした。こちらも笑ってごまかしました。

ストローもマドラーも天然の自然には存在しません。素材はすべて自然界からとってくるわけですが(念じたって物質は生まれません)、ストローだ、マドラーだ、という道具は、それを造形した人間どうしの関係において道具として存在してます。ストローは唇の延長として、人間の自由を拡大する自然と人間とのコラボレーションの産物。中が空洞になったこの筒状の加工物は、これに対して、これがストローだとして関わる個人のふるまいにおいて、ストローです。このふるまいは諸個人に共通していて、これがストローだよという共同の理解が存在しています。この共同の知識を介して人間は自由な個性的活動を実現しています。イワシは、ストローとマドラーを区別できませんが、人間界では、その似た形状の物を取り違えると、滑稽と言われます。
by kamiyam_y | 2010-03-31 22:15 | 労働論(メタ資本論) | Trackback