さっぽろ地下鉄のなかでマルクスを呼吸する、世界を呼吸する

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共同本質の疎外態(2)

「どんな状態のもとでも、生活手段の生産に費やされる労働時間は、人間の関心事でなければならなかった、といっても、発展段階の相違によって一様ではないが」(全集版、MEW23,S.85-86)。『資本論』の例をそのまま用いると、孤島に一人たどりついたロビンソン・クルーソーであれば、同じ1つのロビンソンの労働力が、ロビンソンの目的によって、いろんな作業に振り向けられ、必要な生産手段も用意され、作業に対して労働時間が割り当てられます。この割当は、ロビンソンが生活を軌道に乗せるにつれ、平均化されてきます。ロビンソンのその日の体調や海や山の状態に変化があっても、平均的な時間は自明になってきます。イギリスからもってきた帳面に各有用労働において平均的に必要な労働時間が記録されます。ロビンソンの一人経済においてたまに魚を捕りすぎて腐らせたとしても需給は平均的に一致しており、各欲求に対する正常な量を提供する各有用労働において、支出される同一のロビンソンの労働力は、支出継続の平均時間が知られています。家父長制的農民家族であれば、メンバーの労働力ははじめから家族労働力の「器官」であって、織布、紡績、耕作等々の有用労働はそのまま家族の労働の一部です。中世封建制であれば、生産は人格的依存関係に直接おおわれてますから、同じく明快であって、たとえば農奴が行う労働力支出は、農民保有地での労働が週に3日と、領主直営地での賦役が週に3日、貢納のための生産物生産が週に1日、というぐあいに、掟という形でその時間が明示されていましょう。

全面的な商品流通ではどうでしょうか。労働する諸個人が土地に縛られ身分によって有用労働に配分される人間の不等性に依存した状態を抜け出て、発展した近代社会では労働力も社会的平均的なものとして作用してます。ロビンソンの同じ労働力が具体的活動に配分されるありようは、この商品生産にスライドさせると、人間労働力支出の平均時間が、生産条件・労働強度・労働熟練度が社会的平均的なばあいに要する時間が、人間の活動としてではなくその結果物において物象において物の属性として現れる、という形に変形されます。この変形は、自らの生産諸関係を転倒的に客体の性格として受け取る物神崇拝によって補われます。商品所持者の眼に現れる物象は、背後の媒介を消失させており、かれらの所持する物として認知されます。商品価値の形態である値札も、商品の使用価値としての実現と価値としての実現を充す流通手段としての貨幣も、値札や交換によって価値が生ずるというように逆さまに理解されてしまいます。商品たることは消え、お役立ち度や心理的満足度という社会的規定性を消失した物一般を人は崇拝してしまうわけです。ともあれ、ロビンソンの一人経済では異なる活動もすべて同じロビンソンの労働力の支出であることは明白であるのに対して(あまりに当り前ですね)、商品生産では、相異なる諸有用労働における同一の人間労働力の支出という側面は、相異なる諸生産物の同一性に反映され無自覚的に媒介されるとでもいえましょうか。

生産は相互に依存しあいながらも直接には社会的性格を排除する私的生産に分割されており、労働はそのままの姿では社会的労働としてみんなの労働として妥当してません。私的諸労働の社会的性格は私的諸主体に疎遠に物象的に媒介されます。相互に異なる具体的な有用な労働が相互に依存しあっていることは、諸商品の加工された自然という側面に、自然的な姿である使用価値に、さまざまの欲求の対象としての有用物になるという相異なる諸属性に表出され、それぞれの有用な労働に同じ人間労働力が一定量支出されるということが、異なる諸商品に含まれる一定量の価値という同質性に転換されて妥当し、各生産に要する人間労働力の支出(抽象的人間労働・同一の人間労働)の平均時間は、商品価値の大きさという別のものに屈折してあらわれます。各私的生産内部でひそかに行われる労働、その労働が合目的的活動として他の労働と異なる有用で具体的な活動であるという特殊性も、有用労働に振り分けられた人間労働力の支出という同一性・普遍性も、そのままで妥当するのではなく、私的主体に知られることなく、物の属性に転換することによって妥当します。各有用労働における労働力支出の平均時間は、商品の価値の大きさに反映され、直接にはわかりません。ロビンソンが同一の労働力の支出を、各作業それぞれにどれだけ平均して継続すべきか知っているのに対して、ここでは、同一の社会的労働力の支出をある生産物の生産に平均的にどれだけ要するかという社会的必要労働時間の大きさは価値量に、価値の大きさに転換され、商品の交換によって、私的諸労働は社会的労働力の社会的支出としてとして事後的に確証されることでふたたび起点になることができるというわけです。

社会的労働の諸関係がこのように物象的に媒介されることは、この物象の運動を担う五感の持主としての意味を人間に与え、人間がこの物象を物として支配し、崇拝することで、個人の意識を脱した労働の社会的関係と、物を崇拝する主観とが補完しあうことになります。人が自分の関係にだまされている状態です。しかし、生産関係のこうした物象的媒介は、諸個人を孤立化することによって、かれらに、形の上で、法的に自由な人格性を与えます。諸個人は社会の起点として、人民主権の担い手としてあらわれ、人権を、身体的精神的経済的自由を有する市民として、権力を集中させる正当性の起点として立てられています。生産の共同体が解体され貨幣がそれを代行することによって浮かびあがったこの政治的に解放された市民、土地所有から解放されて自由な私的生産者になった市民のなかに社会の完成をみる欺瞞も生れてきます。「商品生産に人間の自由と個人の独立との頂点を見る小市民にとっては……。この俗物的ユートピアを描きあげたものがプルドンの社会主義なのであるが……」(全集版、MEW23,S.82)。諸個人の意識から脱して社会的労働の諸関係が物象的に媒介されることがさらに社会的労働を直接につくりだします。貨幣の力が、資本が労働の社会的組織を発展させるからです。物象的生産が現実に進むことは、法的人格性の自由の閉じた世界を自ら解体する社会的生産の展開です。社会的生産の力は環境破壊的な成長の力として、人権と対立する企業の力として現象し、労働する諸個人の自己形成が強制されます。

こうした物象的連関はいまや世界大です。物象が流通する運動は、個人を埋めていた共同体の連関を脱したグローバルな流れとしてはじまったのであり、共同体を共有しない他人どうしの生産を連結し、生産から分離している流通は生産の共同体を超えて生産の結果を結びつける弾力的な拡大運動をなしています。この拡大する流通において運動する資本は、内部に生産をかかえており、この生産は、私的生産内部に事実上形成された社会的生産にほかなりません。貨幣という物象が自己増殖する手段として、労働力という物象が結合され、生産手段が科学を適用した社会的生産手段が発展します。私的資本内部の社会的生産の力が原動力となって私的諸資本総体の制御されざる力が発動しており、この力に対して諸個人は制御することを問われるようになります。疎外から政治的趣をとりさって物象的にこれを完成させた貨幣たることが、封建的掟の体系という形の生産から、土地所有による人間支配から諸個人を解放したわけですが、「政治的解放」を主導したこの貨幣たることが、「人間的解放」を制約する客体に転じ、対立的に現象してきます。政治的に解放された諸個人に対して、今度はこの解放の基底にひそんでいた貨幣の力が対立して現象し、かれらの社会的個人としての主体性を鍛えていきます。貨幣は人をばらばらにするとともに、資本は人を結合します。貨幣の力がかれらの社会的生産を現実化しながら発展することによって、かれらに対して、この社会的生産を貨幣の力として対立させます。諸個人は自らの諸力の疎外態に対して対立し自己を社会づくりの主体として教育していくのです。資本主義は自らを、自ら産み出した社会の主役である自由な諸個人に対して露呈するという、自己批判的な姿で発展します。資本主義内部にとどまるのではなく社会一般をつかみ、社会にとどまるのではなく生命一般に遡るという労働にもとづく把握それ自身もまたこの教育プロセスの一部をなし、資本主義内部での資本主義の把握を遂行する知的解放(個人がシステムにだまされる関係の内部にとどまるのであればシステムは知りえない)もまた資本主義の自己批判の形態をなしています。

貨幣はモノの関係に擬装された人間の生産の関係であり、労働生産物が貨幣たることの基盤にあります。私的諸生産の社会的性格が貨幣であり、この貨幣が増殖する際に、人間は貨幣産出的物象として、労働力として、市場で取引の客体となり流通過程から生産過程に入り込みます。消費されることが価値を生むことになる特別な商品として労働力が、貨幣の生命の環に位置づけられます。貨幣はモノである、というわれわれの自明性は貨幣が生みだす見せかけにすぎません。貨幣は物象化された生産関係です。

労働生産物が商品に、商品が貨幣に、生産が私的生産に完成したのが資本主義。貨幣は、私的諸労働に労働が分解しているがゆえにその社会的な統一性を担う力として生れ、商品の価値表現の形態として直接的交換可能性として生れ、欲求する人の手に渡る使用価値としての実現と任意の商品と交換できる価値としての実現をともに充すものとして、五感をもった商品所持者の行為によって流通のなかに諸商品と並んであらわれ、流通の外で蓄蔵されるなど、価値そのものの、社会的労働そのものの独立した姿、あらゆる商品と交換可能なもの、物としてつかめる富の代表となり、この貨幣が起点となって、自己増殖する貨幣が生れ、労働力を商品として買い消費して増殖する、過程を進行する貨幣として、産業資本として実在します。産業資本は、二重の意味で自由な労働者を前提し、一方で形式的に自由な人格性を立てるとともに、他方で社会的生産を物象の関係において集中し発展させ、この人格性に対立させます。私的諸生産内部に科学の適用である大工業という社会的労働組織を実現することで資本は運動しますが、それは、社会的生産関係の物象化を物に擬装されたものから、物という外観を突破したものに発展させます。諸個人の社会性が商品としてではなく、実際の社会的結合労働の過程として実現させられます。この労働の過程を真に諸個人のものにして制御することが課題として明白になってきます。

貨幣の力は、成長主義の強制として、自然と社会を分断し、生産と消費を分断し、社会と人間を分断します。環境破壊や労働破壊などの形であらわれた貨幣の力の暴走は、しかしこの暴走によって貨幣の力への制御を要求することになります。諸資本の競争として資本の本性が相互に強制されているのが「市場」であり、貨幣の力は「市場」の威力として私たちに対して問題化しています。「市場」の力は私的に分解し隠蔽された生産からはじまりますが、その実現は、「市場」に対する制御と生産の公開に反転します。効率性追求がさらなる労働収奪に結果したり、環境破壊を進めたり、何のための効率性追求か問われる。効率性は何のためかというならば、それはヒマになるためです。自由時間の創造こそが生産力発展の隠された主題なのでした。労働基準法であれ、食品安全衛生であれなんであれ、社会的な制御の進展は、私的生産に公共的な網を被せ、公開させ、社会的でありながら社会的でない労働を真に社会的にする試みです。私的労働を前提しながら不断に社会的労働を立てる運動です。市場は生産を隠すことでなりたつにもかかわらず、生産の公開の進展なしには存続しえません。「市場」は、「市場」の力をわれわれのものに、と私たちに宣言させながら、みんなの労働を真にみんなの労働に、われわれの生産を真にわれわれの生産に、社会的労働を真にわれわれの社会的労働にという課題を私たちに提起しているといってもいいかもしれません。地球規模での問題群において、「市場」や「成長」の力としてあらわれる貨幣の力、私たちの社会的労働の力を吸収して資本として実現している貨幣の力を私たちが私たち自身の自由で豊かな発展の土台におさめ暴走させないようにするために智慧を集結することが求められていることの本体なのではないでしょうか。(了)
by kamiyam_y | 2009-06-08 22:41 | 資本主義System(資本論) | Trackback | Comments(0)

共同本質の疎外態(1)

▽ スニーカーの底のラバーを雨で濡らしたままエスカレーターの階段に乗って滑って背中を打ちました。身体が物理法則から逃れられないことを痛感。思い出してみると、ずるずるっと滑り出したら背中を打つまでのスローモーションのあいだ、転ぶのはいやだ、と心のなかで叫んでいた気がします。

▽ 頭痛の波にときおりおそわれた一日。とりあえず、外は寒いのに室内が蒸す雨のせいと、一昨日、ワード2007で一日作業したせいと原因を2つほど決めつけることにしました。ワードのファイルの編集も含めて作業は一太郎でしてるのですが、何を血迷ったのか、一昨日はワード2007を使ってしまいました。ネットをみると、2003より使い勝手がよくなったという声や宣伝文句もたくさんありますけど、逆の感想もたくさんあって、ついこないだまでワード2000を使っていた私にとってはドロップダウンメニューがない2007はストレスがたまります。リボンはめんどくさい。余計な疲労をため込む。インターフェイスをワード2003に戻す設定はないのか探したのですが、ないじゃないですか。2003をイ
ンストールすることにします。

▽ タクシーに乗って、マニュアル車でなく、オートマ車であることに気づきました。タクシーイコールマニュアルと思っていたので、「オートマですか?」と尋ねたら、運転手の表情が一瞬こわばったので、(批判してると思われてしまった)と「乗り心地がなめらかなので」と言葉を継ぎ足しました。人間って一瞬にしていろんな判断をしてるものです。運転手によると、運転手は年配の人が多く、クラッチ操作は膝に負担がかかるため、オートマが増えているそう。人間変なこだわりを捨て簡単なものを使うのが大事です。

共同本質の疎外態 生産の諸関係の物象化

農家出身の人から聞いた話を思い出しました。子どもの頃、海の方から魚をもってくる知らない人がいて、家ではその魚と農産物と交換したらしいです。他人との直接の交換ですねたぶん、詳しく聞かなかったんですけど。厳密さは犠牲にしてややくどい感じで話をひろげてみます。

購買手段として、海から来た人にとっては魚が、農家の人にとっては農産物が作用する、とここでいうことができます。

ここにみられるべきは、人間とその手の産物との原始的な転倒でしょう。魚は魚所持者のもとにあっても、他人のモノを獲得する手段であり、彼の精神の刻印された彼固有のオブジェとしての彼との絆を喪失しています。交換過程以前に魚の持ち手において、魚はすでに潜在的に魚ではなく、未来の農産物にほかなりません。彼の眼前に登場すべき農産物所持者もまた、人的器官を具備した動く農産物であり、農産物がその交換可能性を現実の交換とし、農産物を欲求する人的器官へと到達するための経路、媒介環です。

もちろんこの経路は農産物の交換相手につながらず、農産物を腐らせることもあるかもしれません。生きた人間ですもん。とはいえ、経路である人間において、形の上での自由と、自由な二人の認めあいという共同体がつくられることで、モノは自己を実現します。モノとして交換されねばならない労働が、交換により共同の労働へと格上げされます。与えることによって得、得ることによって与えるいっときの信頼は、相互の孤立と相互の手段化、相互の排除を前提にしており、等価物であり加工された自然であるモノが着ぐるみをかぶって運動している姿であり、裏側ではモノとしての相互に疎遠な労働の関係であり、労働がモノにおいて社会的労働として自らを実現しようとする際の器官です。

労働生産物は交換に先だついわば値札のようなものとしても機能しています。円を介さずに、交換割合が一定の水準に落ちついているとして、農産物麦からみて、麦これだけに対して、魚鰯これだけが交換可能、となっているなら、魚鰯一定量は農産物麦の交換的同一性をその表象された自然量で計る等価物であり、麦の鰯に対する関係において、農産物麦一定量の交換価値、値段、みたいなもんが成立しているといえましょう。

いや、すでに、価値尺度の素材となる物質金の一定の重量に対して「円」という呼称が法定化され、1円が単位となって交換価値の目安として機能し、1円の倍数として交換比率が示されているのですから、魚も農産物も、表象における上皿天秤で価値塊一定量に等置されてから交換される、という方がいいかもしれません。鰯これだけは10円で市で売れるからそれに運んだコストを足して12円、麦12円分は卸すときにこれくらいだからこれだけ交換、というぐあいに。観念的に存在する貨幣の一定量が交換比率の物差しとなります。

鰯と米の交換はまだ経済成長がおわっていない日本のいなかの話でした。つい最近までそういうこともあったんだという感慨まじりに思い出したのでメモしてみました。では、何が労働生産物を貨幣にしたのでしょうか、貨幣は何によって産みおとされたのでしょうか、さらに問を一般化してひろげてみました。異邦の民どうしの接触に貨幣の起源を象徴させてみることができます。宇宙の全歴史において貨幣が生れた瞬間の激動をたどってみましょう。こういう真に重要なドラマは往々にして平凡です。むかしむかしあるところに、海の民がおりまして、縄を編む、網を仕掛ける、魚を干す、屋根を葺く、など多くの活動が商品も貨幣もなく分業されており、潜っては海鼠を刺して採ってくるのは女の仕事。乙女は海鼠を採った帰りに海岸で、七色に光る貝を集めては家で装飾品をつくってました。

そこから遠く離れた山には山の民もおりました。かれらも分業を行い、鹿みたいな動物を飼育することを覚えて、乳製品も生産するようになりました。歩くのが好きな冒険部隊を編成して、チーズをもって旅に出ます。かれらは、海の民と出会います。チーズを食べてみせると海の民も関心を示します。逆に、山の民は乙女の気を惹こうと装飾具について尋ねます。って言葉は通じないかもしません。異なる共同体の民ですから。海の民は貝を、山の民はチーズを並べ、言葉は通じなくても、交換の合意をします。出会った海の民と山の民とは、おたがいに生産物を示して、交換しました。やがて、二つの民は交換を繰り返すようになり、交換がうまくいったら得た生産物に2度ほど接吻をする習慣をつくり(『資本論』第1部註51)、交換がさかんになっていきました。

この交換は、家族のような同じメンバー内部の共同の産物の分かちあいや取り替えっこやプレゼントではありません。生産の共同組織を超えて規則的に行われる、脱共同体的な労働の依存関係です。共同体に縛られない生産物の交流が常態化すれば、共同体の諸個人も文明化されます。海の民は、チーズを最初はくさくて食えないと思うし、山の民は、貝殻なんて役に立たないと思っていたのに、やがてどちらの民もチーズと貝を楽しめるようになります。海の民の味覚は、山の民のチーズによって豊かにされ、山の民の美的鑑賞眼も鍛えられます。山の民はチーズを野の民の草花とも交換し、海の民は塩も交換に出すようになり、こうして社会的分業が複雑化し高度化していきました。民の内部もまた特定の交換物の生産がさかんになり、塩づくりはこの人が年にこれだけすればいいといった古い掟が壊れていきます。交換は欲求を具体化・特殊化・開発し、生産を分担しあう社会的分業を細かくし、共同体の編成を替えていき、社会を文明化していったのでした。われながらいいおとぎ話です。

労働に即して把握すれば、資本主義において不断に生産物が商品として生産され、貨幣の力が現実化されていることがわかります。労働は直接には商品を生み続ける労働であり、それは、交換において生産物という結果の形でしか相互に接触しあうことのない孤立しあい排除しあう諸労働です。個々の労働がはじめからそのまま社会的労働である共同体的生産とは異なって、この私的諸労働はその現物形態・自然形態がそのまま社会的な姿として妥当するのではなく、同一の人間労働力の支出一般という同一性において社会的であるにすぎません(私的諸労働の社会的な形態。『資本論 初版』MEGAⅡ/5, S.41)

さて、乳製品A量は、綿製品a量、皮b量、塩c量などなどの値札をつけることによって、その価値を示します。Aの価値を示すその現物の姿の量によって値札系列は、交換可能なものとしてこの関係において位置づけられています。「労働生産物は、それらの交換のなかで……使用対象性から分離された……価値対象性を受け取る」(『資本論』全集版、大月書店、MEW23, S.87)。この連関を前提して値札だけをみると、あたかもはじめから自然物が、交換力という社会的な力をもっているようにみえたりもする。黄金崇拝ですね。

しかしこれでは、それぞれの商品がすべて生産物の延々と続く交換可能なものの札の系列によってしかその価値の表現形態をもてず、直接に統一された尺度はない。札の側に立っていた諸商品もまた他の商品で自己の価値を表す能動的なものでもあり、価値表現は間接的に統一的であるとしても、直接にはばらばら、無限に細分化されています。この制約を超えるのが、諸商品世界が一つの統一された商品を排除し、共通の(社会的な)価値表現の素材とします。「リンネルに等しいものとして、どの商品の価値も、いまではその商品自身の使用価値から区別されるだけではなく、いっさいの使用価値から区別され、まさにそのことによって、その商品とすべての商品とに共通なものとして表現されたのである。それだからこそ、この形態がはじめて現実に諸商品を互いに価値として関係させるのであり、言いかえれば諸商品を互いに交換価値として現わさせるのである」(全集版、MEW23,S.80)。この統一された等価物の地位を占めるようになるのが金なのでした。

また、交換可能なものは単に可能なものにすぎず、乳製品はその消費者になるべき人の手へと個別的な関係において渡っていかねばなりません。あらゆる商品が、等しい価値のものとして他の商品と交換されその社会性を実証しなければならない、任意の商品と交換されて価値としての実証されねばならない、と同時に、あらゆる商品がそれを欲求する人間の手に渡らねばならない、使用価値として実証されねばならない、のですから、これが充せないかぎりあらゆる商品は崩壊せざるをえない。あらゆる商品が他の商品の値札になろうとするとあらゆる商品は値札をもてない。交換は不可能です。直接的交換のこの不可能性を解除するのが、共通の等価物、「第三の商品」を介することです。諸商品は第三の商品を自分に対立させ、この商品金の量によって共通の価値表現を得、この第三者の形を介することで、商品にない人間的諸器官を備えた所持者の社会的行為を介した運動、売りと買いの分離した流通を形成します。諸商品は貨幣を自分に対立させて形態化することによって実在できていきます。乳製品所持者は酒がほしいが、酒所持者は皮がほしい。まず乳製品所持者は乳製品を欲求する人がもつこの共通の等価物、第三の商品と、交換する。この売りのプロセスでは、乳製品が手放され、その使用価値としての実現が果たされ、乳製品所持者の手には乳製品の価値がこの等価物の印に替り値札であった価値を実現し、買いにおいて、この第三のものを自由に等しい価値のものと交換し価値としての実現をとげます。

こうして成立した貨幣は、まず第1に価値尺度という機能において諸商品の価値表現の素材として存在し、その現物の量によって商品価値を価格に転化し、第2に諸商品の価値としての実現と使用価値としての実現を媒介する、諸商品の流通の道具として流通手段として流通のなかに諸商品と並んで現れ、この機能において、素材としての性格を欠いた形だけのもの、価値標章・価値象徴によって代理され、第3に、貨幣としての貨幣として、物として個別化された価値の独立的姿態として、社会的労働の化身として、あらゆる商品と交換可能なものとして、あらゆる使用価値に変りうるものとして、富の代表として、流通から引き上げられて崇拝され(蓄蔵貨幣)、単なる価値の移転、流通の仕上げに支払手段として機能し、国内流通を脱ぎでた富そのもの(世界貨幣)として存在します。

貨幣は価値の独立化として流通から引き上げられたり、移転したりするわけですが、貨幣が自己増殖する貨幣、資本になることは、価値を生産する過程である生産過程を貨幣が自分の過程の手段にすること、流通の圏域を飛び出ることによってです。価値の増大は流通の圏域が想定する外部の生産過程においてなのですから。こうして貨幣は生きた貨幣である資本に転化し、資本はその抽象的な形態である貨幣から始まります。

貨幣は生きた貨幣として自己目的化し、貨幣(目的)―商品(手段)―増大した貨幣(実現された目的)という価値が自己を保持し形を変えつつ増大する運動になりますが、流通にとどまることはできません。商品と貨幣との、姿態変換は、同一価値の姿態転換にすぎず、価値がそこで発生するわけではないのですから。単なる交換では価値は価値として自立した運動をしていません。貨幣は、流通の圏域にとどまっては自己を目的として実現することはできず、かつ流通に戻らなければ、あらゆる商品と交換可能な富の代表ではなくなってしまい崩壊します。

貨幣(目的)―商品(手段)という過程も、それに続く商品(手段)―増大した貨幣(実現された目的)という過程も、価値を生産することはできません。同じ商品の転売は価値の奪いあいにすぎません。最初の商品と次の商品は別の商品であり、最初の商品は生産のために購入した生産で消費する物、次の商品が販売すべき別の生産物です。最初の商品が、生産過程でのその消費によって最初の貨幣額=最初の自身の商品価値を超える多くの価値を生産物に加えることができなければなりません。

そこで、価値を生むという独自の使用価値をもつ商品が、労働力という商品が登場するわけです。労働者は自分たちが消費するよりも多くの生産物を生産します。資本主義では、労働者自身が消費して労働力を再生産するための生産物である必須生活手段の価値=労働力価値を超える剰余価値として、この多くの生産物が実現します。労働力を買って生産においてそれを消費することで貨幣は価値増殖する貨幣、資本でありえています。

全面的に完成された商品貨幣生産が、自己を目的とする貨幣が生産を手段にして編成する社会、すなわち資本主義です。商品は、資本の原基形態で抽象的な範疇ですから、出現は資本の時代以前に遡ります。とはいえ資本が目的となった社会である資本主義以前では、商品流通は生産の基礎ではなく局所的器官にすぎません。「人間の商品生産者としての定在は……共同体がその崩壊段階にはいるつれて重要さを増してくる……。本来の商業民族は……古代世界のあいだの空所に存在するだけである」(『資本論』全集版、大月書店、MEW23, S.93)

自己を目的化した増大化する貨幣、過程を進行する貨幣が資本ですが、この資本はいつでもまずは貨幣の集積として登場します。「歴史的には、資本は、土地所有にたいして、どこでも最初はまず貨幣の形で、貨幣財産として、商人資本および高利資本として相対する。とはいえ貨幣を資本の最初の現象形態として認識するためには、資本の成立史を回顧する必要はない。同じ歴史は、毎日われわれの目の前で繰り広げられている。どの新たな資本も、最初に舞台に現われるのは、……相変わらずやはり貨幣としてであり、一定の過程を経て資本に転化するべき貨幣としてである」(全集版、MEW23,S.161)。貨幣は不断に資本に転化しているのです。現実に。資本主義は貨幣が不断に資本に転化していることで成立しているといっても過言ではありません。不断に労働力を買って消費する産業資本が現代社会の編成力です。商人資本も利子生み資本も歴史的には産業資本としての資本に先行しますが、現代の編成においては産業資本によって内容規定を与えられる派生的形式です。です。利子生み資本といういわば純粋な資本の形式は、貨幣が資本として商品として売買されることから発生して、物神崇拝を頂点に導く派生的形態です。銀行は遊休貨幣を集中配分する共同的資本です。

資本主義では、労働する諸個人が生産手段を共有しておらず、資本家の私的所有のもとに社会的なみんなの生産は分解されてます。生産は社会的でありながら、直接には社会的ではありません。モノを手放す私的所有者という形をとる私的諸生産に生産が断片化されていること、古い共同体的な結びつきを解除した私的諸生産として非社会的生産として社会的生産が起点となっていることが、生産物を商品にします。「互いに他人であるという関係は、自然発生的な共同体の成員にとっては存在しない」(全集版、MEW23,S.102)。「もし労働が直接に社会的な、すなわち共同の、労働であるとすれば、諸生産物はそれらの生産者たちにとっては共同生産物という直接に社会的な性格をとるであろうが、しかし相互にとっての商品という性格はとらないであろう」(「初版」MEGAⅡ/5.S.41.国民文庫岡崎次郎訳72頁。原文の強調は省略)。生産物はすべて他人の富として労働する諸個人に対立し、他人の富はその抽象的な未展開な姿において商品なのです。商品の大海が貨幣の支配を生みだしてリアルであり、貨幣の支配は前提である労働を捉えてリアルであり、資本主義の全体をその器官とします。商品経済を完成させるのが資本主義です。

最高度に発展した資本主義において、航空機の着水現場を撮ってカネを得る行為は類的生活の手段化でした。資本主義のもっとも単純な範疇である商品において、みんなの関係と排他的手段化との転換がいわば運動原理になっています。人間どうしの社会的労働の関係は、物象に個体化され、物象を目的とする関係になっており、物象と物象の関係に転換されてます。人間どうしの古い共同体的な結びつきである人格的依存関係が労働の生みだす生産の関係をみるようにするガラス板だったのに対して、この古い共同体的結びつきが断ち切られた労働においてはそれが生みだす生産の関係は、人格的諸関係から切断され物象の関係として不可視化され、孤立的諸主体は自らの関係を自らの関係と自覚することなく客体である物として崇拝することになります。崇拝を介して諸物象はまた関係しあい、人々によって制御されない全体の流れが形成されることになります。

労働する諸個人はその労働を社会的労働として立てて生活します。商品貨幣経済としての資本主義ではない生産の編成においては、個々の労働ははじめから社会的労働として成立しています。個々の労働は(多少平たくいえば)そのままみんなの生産活動の1部分をなしています。これに対して、資本主義では個々の労働は、直接にはみんなの労働として立てられておらず、私的生産に分解された孤立的労働です。「私的労働、と言っても、分業の自然発生的な体制の、独立化されているとはいえ特殊な諸分肢として、素材的に互いに依存し合っている私的労働」(『資本論 初版』MEGAⅡ/5.S.41.国民文庫岡崎次郎訳72頁。原文の強調は省略)。私的諸労働が直接には排除し対立的に展開する「社会的生産過程」としての性格は、私的に排他的利己的「原子的」にふるまう諸主体の「意識」の関係に対して、「制御」に対して、疎遠な物象の運動によって媒介されています。社会的生産を媒介する諸関係が物象的な姿態をとって人格的諸関係から分離しています(全集版、MEW23,S.108.「初版」)MEGAⅡ/5.S.59。人格的諸関係から脱落した物象の諸関係である商品の諸関係として、みんなの生産、社会的労働が実現します。(続く)
by kamiyam_y | 2009-06-08 22:39 | 資本主義System(資本論) | Trackback | Comments(0)

人権の実現と科学(補足)

菅家さん、釈放されましたね。よかったです。前の記事に補足。

17年半ぶりに解放された喜びがどれだけ大きなものか、人生の貴重な時間を奪われたことに対する怒りがどれだけ深いものか。国家権力を担う人たちによる犯人捏造が破壊したのは、もちろん菅家さんの人生だけではなく、菅谷さんの親兄弟友人たちの人生でもあります。

共同通信から。

http://www.47news.jp/CN/200906/CN2009060401000451.html

http://www.47news.jp/CN/200906/CN2009060601000662.html

髪を引っ張ったり蹴ったりする取り調べもこれからはしっかり録画しましょう。監視カメラは権力の内部に向けて張り巡らされねばなりません。裁判への国民参加は当然国民による警察記録へのアクセス権なしには成立しませんし、裁判への国民参加は取り調べ過程の国民監視へと拡張されるべきものです。人民主権は「人民による人民のための」権力監視にまで徹底すべきもの。もちろん裁判員制度とはかかわりなく、裁判員制度以前に、取り調べ過程の可視化は重要であり、代用監獄などの冤罪の温床を破壊すべきなのですけど。国民に責任を転嫁するのではない国民参加というのなら徹底せよ、ってことです。
by kamiyam_y | 2009-06-07 22:03 | 自由な個人の権利と国家 | Trackback | Comments(0)

人権の実現と科学

自白ではなく最新の科学こそが決め手でしょう。

http://www.47news.jp/CN/200906/CN2009060101000167.html

関連図書を1つ。

アメリカ合衆国における「取調べ誘発型の虚偽自白」を研究した、スティーヴン・A・ドリズィン/リチャード・A・レオ『なぜ無実の人が自白するのか―DNA鑑定は告発する』(伊藤和子訳、日本評論社、2008年、原題"THE PROBLEM OF FALSE CONFESSIONS IN THE POST-DNA WORLD")。→bk1紀伊國屋書店(アマゾンとかジュンク堂とかでももちろんネット購入できます)。

「訳者あとがき」によると、合衆国では、DNA鑑定によって、陪審員による死刑評決の誤りが判明し死刑台から生還した人がなんと200人を超えるといいます(201頁)。恐ろしいです。冤罪は権力による拉致・監禁・殺人ですから。科学の発展がなければ、犠牲者になっていた人たちです。

このあとがきにも紹介されてますが、昨年10月に公表された国連自由権規約委員会の勧告はやっぱり重要(外務省仮訳)。

自由権規約委員会第94回会期ジュネーブ2008年10月13日-31日「規約第40条に基づき締約国より提出された報告の審査 自由権規約委員会の最終見解 日本」(2008年10月30日)

「主な懸念事項及び勧告」の18では、「代用監獄」廃止と警察記録へのアクセス権保障が、19では、「取調べの全過程について体系的に録音・録画」することが勧告されてます。当然じゃないでしょうか。

以上書き終わってから、ネットをチェックしてみました。少しだけですけど。

福島みずほのどきどき日記 国連の人権規約委員会勧告書
福島みずほのどきどき日記 ポルノ単純所持の処罰は妥当か
福島みずほのどきどき日記 児童ポルノについて
「なぜ無実の人が自白するのか  DNA鑑定は告発する 」の衝撃的事実 - 情報流通促進計画 by ヤメ記者弁護士(ヤメ蚊)
村野瀬玲奈の秘書課広報室 | 国連・自由権規約委員会による第5回日本政府報告書審査 (碧猫さん、Stiffmuscleさん、非国民通信さんの記事から)
民主党:【参院法務委】取調べ可視化法案可決 冤罪を防ぎ裁判員制度の前提条件として必要 松浦議員が質問

魚住昭『国家とメディア』(ちくま文庫)を読んでいたら、神奈川県警による盗聴事件で東京地検が警察官の逮捕も起訴もしていないことが出てきました(253頁)。法の支配は基準が明快で公平でなければなりません。お上が市民を恣意的に拘束することができないように客観的で明確なルールによって国家権力を制御するのは近代民主社会のいわば原点です。
by kamiyam_y | 2009-06-02 22:35 | 自由な個人の権利と国家 | Trackback | Comments(0)