さっぽろ地下鉄のなかでマルクスを呼吸する、世界を呼吸する

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「・・・収奪される地球・・・」補足

仕事はまったく進まないのになぜか気分は快調です。原因不明の筋肉痛が治ったことと、かゆみ止めの薬を飲み終えたことがたぶん理由です。

一昨日から右足の筋肉に痛みがあって歩く量が減り気分もいまいちでした。布団をかけずに寝てるあいだに冷えたのか、歩きすぎて関節を痛めたのか、わかりませんが、今日はもう治りグッドです。

蒸暑いこの季節(といっても東京のそれとは比べるべくもないのですけど)、体の一部がかゆくなったりして、年に一度皮膚科に行くのですが、もらった抗ヒスタミン剤の効きがよいみたいで寝る前に飲んでも翌朝眠気が続くような感じなのですよ。抗ヒスタミン剤は眠剤ほどじゃないですけど、眠くなります。翌朝もだるく感じたのは気のせいで単に寝過ぎだったのかもしれませんけどね。で昨日で飲むのを止めました。かゆみもステ数回塗ってとれたので、問題なし。

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先週の記事に付け足しです。

今朝の『北海道新聞』をみたら、「論説委員室から 風」で地球環境問題が取りあげられてました(堀野収「温暖化懐疑論の『品格』」朝刊16版第5面)。堀野論説委員は、IPCC(地球温暖化に関する政府間パネル)の報告書をニュートンの晩年の錬金術と同一視することはできないと述べてます。「世界百三十カ国の四百五十人が執筆し、二千五百人の科学者が内容に目を通した」というのですから、科学者の国際的なコミュニティの総意に対して政治と経済のバイアスがかかるとしても、全くのウソ偽りでたらめがまったく淘汰されることもなく報告書を支配するとは考えにくい。

堀野氏は、地球環境問題の対象が「複雑系」であることを強調し、「現象の一部を切り取り、部分的な因果関係を頼りに全体を論じ、温暖化否定に結びつけるような論法」を批判してます。もしかして堀野氏も池内了の本を読んだのかなとも思ったのですが、それはともかく、「怪しげな温暖化対策がまかり通る」からといってそのことが温暖化対策そのものの不要性を証明するわけではないことは確か。

科学者からの警告を国際政治が主題とすることが孕む積極的意味こそが地球環境問題においてつかまれるべき基準でしょう。温暖化による影響の可能性が少ないと思われるようなことに対しても温暖化のせいだと大げさに嘆いてみせるそぶりが温暖化という問題そのものを拡散させる働きがあると思わざるを得ないことが私には多々あるのですけれど、そのことは問題の本質とは関係ない。誤解を恐れず付け足せば、自然という層において資本の自己増殖運動がその限界を露にし社会的生産過程の協同的制御という課題を具体化するということだけがこの問題の中心であり、これは温暖化という現れ方ではないべつの現れ方でもよいのです。
by kamiyam_y | 2008-07-21 22:14 | 成長主義と環境 | Comments(0)

濫費される労働力、収奪される地球、科学と技術の資本主義的な実在

ヤマダ電機に排除命令が出ましたね(北海道新聞7月1日)。

公正取引委員会の「排除命令書」(公正取引委員会:報道発表資料・平成20年http://www.jftc.go.jp/pressrelease/08.june/08063001.pdf)をみてみると、納入業者に、納入業者の従業員を派遣させ、かれらにヤマダ電機の業務をさせたもよう。商品の運び入れから、陳列、さらには接客までさせ、しかも、ヤマダ電機はなんらの対価も支払わず。ということのようです。

2005年11月から2007年5月までの間、ヤマダ電機の新店舗や改装店舗のオープン作業のために、250社16万6000人もの従業員等を不当に使用。

従業員等の側からみると、労働力を家電メーカーに売ったのに、ヤマダ電機によって、無償で消費されてしまった、ということ。

家電メーカーからみると、独立している企業のはずなのに、巨大商業資本の指令で動かされる、ということ。剰余価値の上納もそれにともなう。

企業内の計画生産から、企業間の連結が不断に生みだされているが、それは、働く諸個人の制御のもとにはない。働く人々の労働の社会化が、資本による違法な行動として現れる。

公取委の報道資料には、ほかに6月17日の株式会社ニトリに対する勧告についてなんて北海道企業のものもあります。

納豆菌で風呂のカビを防止するすごい商品も、公取の目にとまってしまいました。公正取引委員会:カビの防止等を標ぼうする商品の製造販売業者7社に対する排除命令について

ま、カビよりも、カビを除去する納豆菌の方がホラーではあります(笑)。

記号で書くと、商品W-貨幣Gと示される《売る》プロセスは、労働者が生んだ剰余価値を貨幣に変えて資本がふたたび還流してくるための飛躍点。飛躍のためのしょぼい火薬には、しょぼいウソも混ぜられている。

しょぼいウソは、資本のなかの賃銀労働者の頭にも、命令といっしょに振りかけられてます。どんな困難も心の持ち方で解決するのだぞ、だから契約とってこい。

心を変えれば悲惨な現実も悲惨でなくなる、といった露骨な精神論を従業員に説くことは、公衆衛生、公衆安全の責任を負う近代的な経営にとっては大きなリスクです。

といっても後は野となれ山となれという剰余価値獲得競争にあっては、まじめな経営がばかをみる、ということは個別資本レベルでは廃棄できない。

しかし、資本の生命線である資本の生産力一般にとっては、労働者を迷信深く反論理的な存在へと退行させるのは、まずい。剰余価値生産とは、結局は、労働する諸個人による生産発展を本体としているのだから、それを否定することしかできないとしたら、成立しなくなってしまうからです。労働者の知的発展は資本の共同利益であり、そこに潜在する働く人々の共同利益です。

さらに、社会的には、個別資本に巣くう病的な精神論に対しては、労働法が当然優位しますから、前近代的な経営は批判される。

ちなみに、労働法は、資本の単純な正当化ではありません。単純な正当化は、流通に限定された個人の視点から発生します。商品の単純流通からすれば、価値を増やすには、流通をとめて貨幣を引き上げ蓄蔵する以外ないので、資本とは節約の産物です。単純流通からすれば、等価交換なので、労働力を売らないと生きていけない労働者が、資本と対等にみえたりします。これに対して、「工場法」は、労働者の実質的な不自由を認知してます。個々の取引ではなく、工場内の公共的空間を認めています。資本は個人の集合力の使用であり、社会的なものであるがゆえに、社会的管理を受ける、という関係が「工場法」以降発達しています。

社会的共同利害による制御から資本は自由ではなく、それゆえ、資本家や経営者が労働法に反するような精神論を垂れ流せば、それは、批判されます。労働現場における人間破壊を心の持ち方で解決できるとみなすことは、社会的には許されていないというべきでしょう。

消費者問題を規制する政治のしくみも同じ。資本と、生活手段の購買者としての働く人々とは、対等ではなく、個人の権利を実現するためには、資本を公共的なものとして制御しなければなりません。科学を装う謳い文句で商品を買わせる資本に対しては、いわゆる「消費者保護法」が公共的な力として介入します。個人を正確な知識から排除する資本の運動があるとともに、労働者の権利の展開、消費者としての権利の実現は不可避であり、偽科学によって儲けようとする資本は制御をうけます。

科学を装うことの危険性を考えるうえで最近出版された池内了『疑似科学入門』(岩波新書)は興味深いといえます。著者は宇宙物理学の研究者。この本では、「疑似科学」を3つに分類してます。霊・超能力系などを「第一種疑似科学」、ゲルマニウムといった科学の言葉を使いながら根拠のないものを「第二種疑似科学」、地球環境のような複雑系を対象とする誤認にかんするものを「第三種疑似科学」とよんで整理しています。

科学法則が否定された空想の世界で人をだますあくどい「霊感商法」資本もあれば、科学を偽装して太ろうとして公取委に見つかってしまう資本もある、というように、資本のなかには、その形態転化運動において疑似科学にすがろうとするものがあります。

「第一種」は、「現在当面する難問を解決したい、未来がどうなるか知りたい、そんな人間の心理(欲望)につけ込み、科学的根拠のない言説によって人に暗示を与えるもの」(ⅴ頁)、「人間の信じたいという心理を利用している」(11頁)もので、人間であるがゆえの人間的な欲求を悪用するものです。

霊感商法に利用される迷信はなぜ生れるのでしょうかね。人間が存在することは、飲み食い呼吸することを大前提としており、いいかえれば、生命であることに依存しています。生命であることは、物質なしで宙に浮いて存在しているわけではなく、これまた、非生命の物質であることに依存してます。生命は、環境の一部であり、かつ環境と物質代謝して化学反応を循環させて自律的となっています。逆にいえば、物質は生命において運動しており、生命は、人間において、人間的な姿で、媒介されたものとして運動しています。

この媒介された部分、高次の部分があるがゆえに、人は迷信という知的実践を行う。人間は、労働する生命であり、労働による対象形成によって、社会的なかたちで存在します。人間は、無自覚な生命と異なって、まさに人間たることを知っている生命、自分とその類を知っている存在です。とすると、物質一般に対する生命の特徴的な部分、生命一般に対する人間の高次の部分を、人間は何らかのかたちで知っていなければなりません。たぶん、信仰もこういう人間の自己知です。非人間的なものを表象して人間が讃えているのは、じつは、人間自身のこの高次の部分でしょう。物を拝み信仰することは、物を拝んでいるようにみえて、人間たることの普遍性を讃えています。ただし、無自覚に、人間ではないものとして。

人間は人間を弔い、誕生日を言祝ぐ。動物はそんなことはしませんね。社長は寝ていても、従業員が社長の名前の入った文書を作成し、社長の印を押します。人間は、動物にはない社会的振舞をします。こういう生命一般を越えた部分を一般的に讃えているというか。「人は物理的世界の制限から逃れたいという欲求を心中に持っている」(池内11頁)のも、こういうところに根拠があるのではないか。

商品Aは、商品Bにおいて自己の価値を表現する、そのさい、商品Bは、Aによって、等価物という形を与えられます。この形は、商品Bの物体的形状をいくらながめても見えない形であって、見えない社会関係をAが投げたからできた形です。超感覚的で、直接見たり舐めたりできない。

人間がその空想の産物をあたかもじっさいに存在するかのようにうけとる振舞も、素朴なものとはいえましょうが、そこに貨幣の増殖が入ってくると、牧歌的なものから反転してしまいます。

「それが物質世界の商売と化すと危険性が生じる」(v頁)。

池内は、「第二種疑似科学」についてはこう書きます。

「科学を援用・乱用・誤用・悪用したもので、科学的装いをしていながらその実体がないもの」(47頁)。

ゲルマニウムのようにありがたそうな言葉をつかってだましたり、統計の恣意的な処理でだます手口等、池内は豊富な例で説明してます。

「第二種疑似科学は、資本主義が胚胎する必然の産物である。……資本の論理と科学至上主義が結託すれば、科学の名を利用した偽装や詐欺が横行するのは当然であるからだ」(117頁)。

「我亡き後に洪水は来たれ」という言葉で、社会的利害に衝突する個別資本の行動を皮肉ったのはマルクスですが、まさに、より多くの貨幣の獲得のみを、私的利潤の確保のみを目的とする販売であれば、ウソ混じりの情報提供も美徳に転化しましょう。科学の言葉で貨幣所持者をおびき寄せ騙しては、商品―貨幣という「命懸けの飛躍」を果していく。

では科学はなぜ重視されるんでしょうか。前近代に自生していたクニやムラ、自然発生的な共同体が解体することによって、個人とその客体とが分離して起ち上がったのが、近代です。人が共同体の手足であり、共同体が付着している土地の一部分であり、同一の共同体の神話を信じ、狭い世界のなかに閉込められていた、こんな前近代に対して、近代は、人が土地から遊離し、共同体を喪失し、孤立した原子として相互に排除しあい、共通の言葉さえ失っている、そんな状態をいわば原始状態とします。

この個人に対して、世界は客体として現れている。客体に対してはこの個人は科学という振舞をとる以外にない。客体は、なによりも自然であり、自然の本質は人間に対して開示されます。科学という普遍的な知識の形で個人は知識を共有しあえるようになります。

原子として解放された個人にとって、確実なものはこの自己の主観そのものである、そうだとしたら、疎遠な客体はこの主観に包摂できるのだろうか、客体の知が成りたつのだろうか。こういうややこしい問を私たちは自覚しているわけではありませんが、科学的思考が人間の知の手続として確立する背景には、こういう近代的個人の確立があるわけです。無自覚に共同幻想のなかに埋もれている状態から脱却して、人間は、科学において知識を自覚的に共有するようになります。他方では、科学という対象知ではなく、人間どうしの社会的コミュニティーもつくっていくことになります。科学の発展の背後には近代的個人の登場があり、現代に生きる個人にとっては科学のもつ意味は捨て去ることはできないのです。

このような個人も科学もコミュニティーも、単純な言い方をすれば、資本の時代がもたらし、定着させる社会的な要素です。資本こそが科学を解放します。

資本において科学は、資本として対立的に運動する社会的労働がふくむ契機として発展します。

科学において人間は、対象との同一性を知っています。用語や式、言葉で把握される対象は人間と同じ本質をもっています。資本のもとで、人間は対象の法則として対象を知りますが、この知ることは、対象との同一性を知って変革するという労働の普遍的な性格の一部分なのです。

科学への信頼には、単に個人が前近代的世界から解放されただけではなく、現代において個人の社会的労働が資本として爆発的に発展したことに根拠があるといえそうですね。

資本における科学の発展は、同時に、資本が運動するさいの対立性の発現によって、科学に対する不信感も醸成します。

「科学がもたらした影の部分は大きい。・・・・・」(池内、91-92頁)。

労働の社会的生産力は、資本の生産力として対立的に現れ、科学は科学技術の資本主義的利用として破壊的にもまた用いられます。生産のための生産が人間のための生産に帰着することを見ないで、生産のための生産に反対する振舞は、資本の対立性から出てきてしまうものでしょう。労働が人間を不幸にし、科学が人間を不幸にする、という社会的労働発展の転倒的存立によって、資本の時代は、科学不信、労働嫌悪、人間不信の時代である、ともいえるかもしれません。

なお、池内は、「ポストモダニズム」の「相対主義」をも批判しています(117-118頁)。たしかに、科学も反科学も単なる共同的な観念として同列にしてしまう見方はとても頽廃的なものとして機能するはずです。

池内の「第三種」は、資本主義総体の現代的問題にかかわります。

単純な商品流通そのものが具体的な消費を目的にしているのに対して、資本としての貨幣の流通は、貨幣―商品―増大した貨幣であって、飽くなき剰余価値の追求です。貨幣がより多くの貨幣と交換されねばならない、という経済法則によって存立している社会は、人間社会というよりも人間社会以前の社会の形とでもいうべきです。経済法則の強制とは、人々が孤立しあうがゆえに、人々に対して、かれらの連関が外部の支配力としてあらわれるという非社会的な社会状態です。

資本の増殖をたえず更新しないと社会の要素が連結されないという脱社会的な状況は、地球環境問題においてあらわです。地球環境保全という具体的な共同的なものが、貨幣増殖と衝突していることと、この衝突が人間社会の形成という課題を提起していることを、私たちは地球環境問題にみることができます。

科学は、貨幣増殖目的の、制御できない生産の手段であるとともに、この制御できない生産に対して、理性的でグローバルな制御を求める声でもあります。悪徳商法を暴露して消費する個人としての権利を支えるのも、地球環境問題を警告するのも科学です。しかし、同時に制御できない生産という側も、科学の装いをとって対抗してきます。

池内の「第三種疑似科学」論が提起される場面もここにあります。

「第三種」論は、環境問題に疑似科学論を敷衍した大胆かつ真摯な問題提起。

ちなみに、香山リカが「『地球温暖化』が挨拶代わりになるとそれ以上、科学的に検証するのをやめてしまうクセが人間にはある」とこの本の書評で書いていました(「なんでも信じやすい人は、ぜひ」『朝日新聞』6月18日・日・12版・13面「読書」)。まあたしかに挨拶代わりにすることで問題は骨抜きになりましょうけど・・・。

池内が「第三種疑似科学」と名づけるのは、複雑系を対象として発生する「疑似科学と真正科学のグレーゾーン」(ⅵ頁)です。

複雑系というのは、生態系のように、要素を「単独で取り出すことが不可能」であり、「全体を総合的に見る観点が必要」となる系のことです(122頁)。これに対して、系が「単純な」ものは、「人工衛星」の軌道など、「物理学の法則をそのまま適用することができる」(122頁)。法則が単純に適用できる関係ですね。

単純な系のばあい、「要素」への「分解」によって把握が可能です。「要素還元主義」(123頁)で対応できます。これに対して、複雑系は、「要素が複雑に絡みあっていて解きほぐすことができなかったり、集団として新しい運動発生したりするため、各要素を理想状態として取りだすことが不可能」(122頁)です。

ですから、この複雑系に「要素還元主義」をあてはめるところから誤謬が生まれるんだよ、ということになります。

「第三種疑似科学は、これら複雑系に関わる問題で、それを要素還元主義の考え方で理解しようとすることからくる誤解・誤認・悪用・誤用などを指す」(123頁)。

複雑系を対象としているのに、要素を純粋に取り出して全体を理解できるかのようにみなす振舞が、科学の「誤用」「悪用」を生みだすということですね。この「誤用」「悪用」を「疑似科学」と呼んでます。要素還元主義そのものをさしているのではもちろんありません。複雑系を対象として、新たに不合理な態度が生まれるということですが、具体的には、「悪用」とは、単純化していえば、環境や食の安全の問題に対して、要素を単独で取りだして証明できないからと、まるごと問題そのものを否定してしまったり、軽くみせたりすることを、とくに指しています。

「要素に分解しても分らないことをもって『科学的根拠なし』と断定したり、要素がプラスにもマイナスにもはたらくことをもって『どちらとも言えない』と不可知論に持ち込む手口である。その結果として、環境問題や生態系の危機に関して何も問題がないと居直ったり、・・・・・・」(123頁)。

このような居直りの例としては、フロン規制のための「モントリオール議定書」に対して、日本の役人が「『科学的な証明がなされていない』という理由で直ちに批准する措置をとらなかったこと」(140-141頁)などがあげられています。「科学」という言葉が、官僚による責任回避に用いられているというわけです。

複雑系の問題として現れる食の安全や環境という資本の問題、社会問題に対して、社会的に制御していくさいの基準はでは何でしょうか。池内が「予防措置原則」を複雑系の問題群を論じるさいに強調するのも、この点から評価できます。

この言葉からは、地球サミット(1992年)の「リオ宣言」が思い出されます。たしか、そこで謳われたのも、「科学的根拠が不十分であることを理由に対策を先延ばししてはならない」という趣旨の予防原則でした。

池内はいいます。

「・・・・・・危険が予想される場合にはそれが顕在化しないよう予防的な手を打つべきなのである。それが複雑系の未来予測不定性に対する新しい原則で、『予防措置原則』と呼んでいる」(147頁)。

「不可知論」をもちだすことで対策をやめようとする対応は、、資本に対する制御の手をゆるめる逆行にもつながるはずです。制御のためのツールづくりは、「危険」予想が修正されるばあいでも転用可能でしょう。「たとえその予想が間違っていたとしても、人類にとってマイナス効果を及ぼさない」(147頁)。

科学者の警告として現れた共同利害に対して、対立に溺れる政治が限界となっているのは周知の通り。政治が限界となるというのは、政治にとって、経済が限界となっている、ということです。経済が限界になっているとは、人々の共同的制御によってではなく、経済法則によってしか社会的生産が編成されないという現システムの限界があらわになっているということです。「成長のための成長」に対する批判という形での批判を他方で生みだしながらも、それ以外の選択肢を許容しない現在の生産の対立的編成が、地球環境保全という公共的なものの実現にとって限界となっている、ということです。

地球規模で社会的生産過程を協同的、総合的に制御せよ、というのが、地球環境と資本蓄積との衝突が、私たちに対して語る課題です。潜在する別の選択肢を現実化できるのか。資本の時代がもたらした膨大な人類史的偉業を活かしながら、世界市場を制御することができるのか。

「資本主義的生産は、……一方では社会の歴史的動力を集積するが、他方では人間と土地とのあいだの物質代謝を攪乱する。すなわち、人間が食料や衣料の形で消費する土壌成分が土に帰ることを、つまり土地の豊饒性の持続の永久的自然条件を、攪乱する。しかし、同時にそれは、かの物質代謝の単に自然発生的に生じた状態を破壊することによって、再びそれを、社会的生産の規制的法則として、また人間の充分な発展に適合する形態で、体系的に確立することを強制する」(『資本論』第一部、大月書店版、S.528)。


資本に先行する状態では、人間は自然の付属物であって、無自覚にエコな状態であったわけですが、これを資本は破壊します。無自覚な調和を破壊することによって、自覚した調和への通路を開く。「人間の充分な発展に」というあたり、今日国連のいう「人間開発」を思いおこさせます。「リオ宣言」の「持続可能な開発」も、破壊が強制する社会的生産過程の制御を表現しています。
by kamiyam_y | 2008-07-16 00:35 | 資本主義System(資本論) | Comments(0)

反G8、反グローバリゼーション

札幌駅前には広島ナンバーの装甲車がとまってるし、地下通路には神奈川県警の人がパトロールしてるし、私が駅前でポケットからデジカメを出したら、「公安が写真撮ってる、広島から来たのか」とわけのわかんないこと言って通りすぎてく人いるし、そのあと通った人はその人にむかって「写真くらい撮ってもいいべさ、自由でしょ、何言ってんのさ」とやわらかな北海道っぽい口調でたしなめて、論点を街で写真を撮ること一般におきかえて私を擁護してくし、スーザン・ジョージは、入国の際に足止め食らったというし。

スーザンさんが、7月4日に午前中北海学園大学で講演するって、学生から聞きました。『オルター・グローバリゼーション宣言』(杉村昌昭・真田満訳、作品社、2004年)他の著作が出されてる人です。大通公園の国際市民連帯フォーラムでも講演するそう。

G8対抗国際フォーラム北海道というイベントも北海道大学にてあります。明日3日。http://www.counterg8forum.org/

市民サミット2008も。http://www.kitay-hokkaido.net
by kamiyam_y | 2008-07-02 17:33 | Comments(0)